イリバーシビリティ
「イリバーシビリティ」とは、物理・化学用語で「不可逆性」(二度と元には戻らない)という意味です。
俺は、慌ててベッドから起き上がると、部屋のドアに鍵を掛けた。
ベッドに戻って、封筒から現金を取り出し、震える手で数えてみると、総額は12万8千円だった。
(・・・・「少女」が簡単に手にできる額じゃない。まっとうな手段では、な・・・・)
俺は自分の脇がじんわりと汗ばんでくるのを感じていた。
2015年に国民共通番号制度、いわゆるユニークナンバー制が導入された後、既に普及しつつあった電子マネーとの組み合わせ利用が急速に進んだ。銀行振り込みの際にも、相手の口座番号ではなく、口座種別とユニークナンバーを指定するケースが一般的となっている。
不動産売買などでの超高額決済は銀行振込、高級時計の購入などでの高額決済とネット販売での決済はクレジットカード、百貨店・コンビニなどの店頭購入での少額決済は電子マネー、というように、大半の決済は、もはや現金を使わなくなっている。
ただ、一部の取引は、依然として現金決済が中心のままだった。
現金は、現状唯一の「匿名性のある決済手段」なのだ。
つまり、決済を行う者が、「何らかの形にせよ、自分がその取引に関与したエビデンスが保存され、行政によって捕捉されたり、あるいは、販売者によって自分の個人情報が入手される可能性を持つこと」を忌避したい取引については、現金決済がベストな手段なのだ。
それは、例えば、キャバクラ、風俗店、パチンコ店などを客として利用する場合の代金や、場合によっては、これら店舗で働く従業員の報酬なども含まれることがある。
また、売買取引の存在そのものを隠蔽したいケース、例えば、販売者が売上を過少計上して消費税を脱税するケース、あるいは、法律によって売買が禁止されている物品、つまり、銃器、違法薬物などの取引も、大半が現金取引だと言われている。
多額の現金を所持していること自体が、こうしたアンダーグラウンドの取引、つまり「地下経済」と何らかの接点を持っている可能性が高いことを意味する。
(・・・・そして、理紗が事故に遭った場所は、池袋北部の「繁華街」だった・・・・)
「少女」、「繁華街」、「多額の現金」、というキーワードが揃えば、あまり筋の良くない「三題噺」を、誰でもすぐに脳裏に思い浮かべることができるだろう。
しばらく俺は現金を凝視していたが、こんな場面を両親に目撃されれば、ただちに「絶体絶命の窮地」に叩き込まれることは確実なので、千円札5枚だけを手元に残して、そそくそと現金を封筒に戻し、そして、ぬいぐるみの中へと封筒を戻した。
(理紗がどんな危ない橋を渡っていたのか知らないが、俺は、このアングラマネーと思われる現金を借用させてもらわないことには、理紗とのコンタクトを取る方法が無い)
俺は、理紗の「暗部」に土足で踏み込んでしまった、その気持ちの悪さと、思いのほか早く自分の自由になる資金を得られた安堵感が、ないまぜになった複雑な感情のまま、ベッドから離れると、椅子に腰かけた。
(理紗、お前、一体、何やってたんだ?)
机の上の小さな鏡に映る整った顔を見つめながら、俺は、ふっ、と吐息を漏らした。
(理紗のプライバシーには、これ以上踏み込まない方が、お互いにとって安全らしいな・・・。取り敢えず、今は、理紗とコンタクトを取ることだけに集中しよう)
俺は椅子から立ち上がると、クローゼットを開けて、退院時に来ていた服を取り出した。
できれば別の服が良かったのだろうが、今の俺の能力では「少女の私服」をコーディネートできない以上、手っ取り早い外出着は退院時の服装しかありえなかったのだ。
着替え終わると、ひとつ深呼吸してから、部屋のドアを解錠し、俺は階下のダイニングへと向かった。
「お母さん、ちょっと近くを散歩してきたいんだけど・・・・」
ダイニングで寛いでテレビを見ていた母親は、少し驚いたようだった。
「どうしたの? 別に散歩しても良いけど、一人で大丈夫? 迷わない?」
「一人でこの辺を歩いてみたら、何か思い出すかなぁ、って・・・・」
「そうね、何か思い出すかもしれないわね。わかったわ、言ってらっしゃい! 迷ったら、電話するのよ。自宅の電話番号は覚えてるわね?」
娘の積極的な行動に当惑しつつも、少し嬉しそうな表情に変わった母親を見て、俺は、また心が痛んだ。
(こういう表情見るの、辛いんだよなぁ。結局、なんだかんだ自己弁護しても、この人を騙してることには変わりないんだから・・・)
「うん、スマホに登録した。じゃ、少し近くを歩いてみる。遅くとも30分くらい経ったら、戻るね」
「くれぐれも自動車には気をつけるのよ!」
事故のことを思い出したらしく、母親は僅かに顔を曇らせたが、それでも玄関までついてきて、俺を送りだしてくれた。
俺は、家の門から出たあと、母親がついてきていないか、何度も後ろを振り返って確認したが、その兆候は見られなかった。
病院から帰宅したときに通った道順を逆に移動して、俺は、井ノ頭通りに出た。道路脇の自販機を慎重に眺めながら歩いて行くと、電子マネーと現金の両方で決済できる飲料の自販機を見つけることができた。
(・・・・これは、理紗が自分の身体と引き換えにして得たものかもしれない・・・・)
自販機に千円札を入れるとき、俺は、一瞬、躊躇して、手が止まった。
(すまん、理紗。あとで何倍にもして返すから、許してくれ)
俺は紙幣を投入口に挿入すると、ペットボトル入りの茶飲料のボタンを押した。
ドタン、という鈍い音とともに、チャリン、チャリン、チャリン、という、久方ぶりに聴く硬貨の音が響いた。
ペットボトルと硬貨を回収すると、俺はただちに公衆電話を探した。
スマホ全盛の現在でも、スマホが使えない高齢者向けとして、また災害時の優先通話手段として、公衆電話は一定割合で残されている。ただ、数が大幅に減っているため、探すのはなかなか骨が折れる。俺自身、公衆電話を使うのは5年振りくらいだ。
ようやく見つけた電話ボックスに入り、俺は、硬貨を電話機の投入口に入れようとしたが、焦っているせいか、硬貨がなかなか入らず、激しく苛立った。
じっとりと汗ばんだ指で、使い慣れた自宅の番号をプッシュし、受話器を耳に押し当てながら、念のため、ボックスの外側に視線を走らせる。
(よし、母親も妹もいない!)
「お掛けになった電話番号は、現在、使われておりません。番号をお確かめになって、改めてお掛け直しください」
(え、あぁ、焦ってボタンを押し間違えたな。こういうときこそ、冷静にならないと・・・・)
俺は、自分の失態に少しだけ不機嫌になりながら、再び電話機のボタンをプッシュした。
「お掛けになった電話番号は、現在、使われておりません。番号をお確かめになって、改めてお掛け直しください」
(今回は、間違ってないよな。いや、また間違えたんだろう。途中から、ボタンを早押ししたから、隣のボタンを押してしまったのかもしれないし・・・・)
しかし、何度掛け直してみても、自宅に電話が掛ることはなかった。
俺は、汗の玉を額に浮かべ、指先は氷のように冷たくなりながら、電話ボックスの中で、受話器を掴んだまま立ち尽くしていた。
(・・・・電話が解約されている・・・・妻が官舎から引っ越したのか? 「俺」の「容態」が思わしくないため、実家に連れ帰って転地療養させているのかもしれない。いや、官舎がかなり古くなってたから、改修工事が始まって、他の官舎に転居させられたのかもしない)
俺は、「理紗が職場で大きなトラブルを引き起こして退職させられた」という最悪のシナリオを、意図的に外しながら、いろいろな可能性を考え始めた。
そのとき、ボックスのドアをドンドンと強く叩かれて、俺は我に返った。
外で待っている次の利用者が、少し怖い顔で俺を睨んでいた。
やむなく、俺はボックスから出ると、自宅へと向かった、あまりに長い時間、「散歩」していると、また母親にいろいろと勘繰られて、厄介なことになりそうな気がする。
ただ、どう考えても、理紗は、現在、あまり良いコンディションにいるわけではなさそうだった。
(自宅経由でコンタクトを取ることが不可能とわかった以上、別の選択肢を考えないといけない。職場に電話して、「俺」の知人を装って「俺」と連絡を取りたい、と言ってみるか・・・・月曜は初登校だから、絶対に母親が学校まで付き添ってくるはずだ・・・・火曜日にでもトライしてみるか)
自宅に戻ると、あまりに俺の顔色が悪かったらしく、母親から非常に心配された。取り敢えず、「歩いて疲れた」と言い訳しているうちに、父親がダイニングに入ってきて、また改めて説明しなければならなくなったりして、俺は自室に引き揚げるタイミングを逸した。
正午少し前に差し掛かっていたこともあり、そのまま両親と食事する流れとなった。依然として気分は全く晴れないものの、俺の好きなペペロンチーノであることもあってか、食欲はまったく落ちておらず、むしろ旺盛なままであり、俺は少しばかり自分の無神経さに腹が立った。
テレビをつけて食事を摂り始め、正午になると、ニュースが始まった。
「ゴールデンウィークもいよいよ終盤。Uターンラッシュが始まる」、「スコットランドが独立。オーストラリアなどと同様に、イギリス国王をスコットランド国王とする形でイギリス連邦に加入」といったニュースのあと、スタジオが南関東州エリアに切り替えられ、アナウンサーがローカルニュースを読み上げ始めた。
「都心水害テロを阻止しようとして犯人グループに殺害された経済財政産業省の官僚・平澤洋一さんを偲んで、その命日から2か月となる今日、日比谷公園で政府主催の追悼集会が開催されました」
俺は、フォークを取り落して、テレビの画面を食い入るように見つめた。チャリーンと響く音に驚いて、両親が俺の横顔を、声も無く、ただ見つめている。
職場で永年勤続表彰を受けたときの、俺の破顔一笑の写真が黒い縁に囲まれ、たくさんの花で飾られた祭壇の中央に安置されている。
その左脇に設置された来賓席には、よく見慣れた大臣や局長が、少し俯き加減で腰かけている。
次の場面では、喪服を着た妻がハンカチで涙を拭いながら、マイクに向かっていた。
「多くの国民の皆さんの生命を守って、その身代わりとして亡くなった夫を、私は心から誇りに思っています。私は、この人と出会えて、本当に良かったと思います」
俺は、視界が真っ暗になって、椅子から崩れ落ちた。