記憶との邂逅
結局、妹は、お茶の時間にも、そして夕食にも「体調が良くないので寝ている」という理由で、部屋から出てこなかった。
さすがに「夕食に来たくない」という返事を聞かされたときには、父親は何か物を言いたげな表情のまま黙ってしまったし、母親は露骨に不機嫌そうだった。
俺は、これまでの妹の態度から考えて、こういう展開になることは予想の範囲内だったので、さして驚きもしなかったが、妹がここまで理紗を嫌う理由が非常に気になった。ただ、今、この話題を持ち出すのは、あまりにタイミングが悪すぎると思い、黙っておくことにした。
自分の部屋に戻ってきたあと、俺は理紗のパソコンを立ち上げてみることにしたが、最初から大きく出鼻を挫かれることになった。
理紗の設定したパスワードがわからないのだ。
仕方なく、俺は新しいアカウントを設定してパソコンにアクセスすることができたが、理紗のデータには一切触れることはできなかった。
(まあ、いずれは、俺と理紗の、こういう不自然な状態は正常化されるだろうし、正常化されないと困る。とにかく、理紗のプライバシーに踏み込むのは、できるだけ控えるようにしておこう)
ただ、これで「外界」の情報と自由に接触できる環境は得られたので、とりあえず安心した。過去の新聞記事情報などを見て、理紗が事故に遭ってから俺が覚醒するまでの1か月間に何があったのか、これから追々、キャッチアップしていこう。
今日のところは、とにかく新しい環境のせいで気疲れがひどいので、動画サイトでも見て、とっとと寝てしまおうと思ったが、母親が「お風呂、湧いたわよ。早く入っちゃって」と知らせに来たので、俺は浴室に向かうことにした。
浴室は比較的広い方で、とくに浴槽では足を伸ばすことができた。官舎の浴室は、「浴室」という名称で呼ぶのが恥ずかしくなるような「風呂場」であり、まるで弥生時代の甕棺のような狭い風呂に膝を曲げて入らねばならなかったから、この新しい環境は歓迎すべきものだった。
誰にも気兼ねなく、手足を伸ばして、身体の隅々まで洗えるというのは、やはり爽快だ。
この機会に、身体のあちこちを見てやろうか、とも一瞬考えたが、さすがに理紗に申し訳ない気がしたので、やめた。この身体は、あくまで理紗からの「借り物」なのだ。
ただ、身体を洗う都合上、どうしても胸だけは、はっきりと見えてしまった。
(・・・・まあまあ、だな・・・・ふふっ・・・・)
自分の身体でもないのに、なんとなく、嬉しくなってしまった。いくら「借り物」とはいえ、やはり、見栄えがする方が良い、というものだ。
髪を洗うのには難渋した。髪のボリュームというものは馬鹿にできない、と俺はつくづく思い知らされた。
そのうえ、あっと言う間に、抜け毛で排水口が詰まった。本数は少ないのだが、一本あたりが長いので、トータルとしての分量が多くなるのだ。
自分由来のものであるにもかかわらず、排水口に詰まった髪の毛を取り除くのは、あまり気持ちの良いものではなかった。
ようやく身体と髪を洗い終えて、浴槽で首まで湯に浸かり、自分の両手を眺めてみる。
手の甲は白く、手のひらはピンク、指は小さく細い。
生命線は手首に至るまで、長くはっきりと伸びているが、途中で一回だけ断ち切られ、その箇所のすぐ脇から、挿し木のように新しい線が伸びている。
こういう生命線の形を、俺は以前に見たことがあった。
子供の頃、母の実家で祖母と一緒に入浴したとき、祖母の手のひらに同じような形状の生命線があった。祖母に尋ねたところ、「人生の中で、死に瀕するような重大な事故や災害に遭うが、なんとか一命を取り留める」という意味なのだそうだ。
祖母に「お祖母ちゃんは、これまでにそういう大変な目に遭ったの?」と尋ねると、祖母は、一瞬、遠くを眺めるような視線になり、「ああ、大阪の京橋の駅で空襲にあったからねぇ」とだけ答えた。
それきり黙ってしまった祖母に、いつもとは違う何かを感じて、俺はそれ以上聞かなかった。のちに大阪大空襲の話を知ったとき、祖母が幼い孫に話したがらなかった理由に察しがついた。
昭和20年8月14日の空襲は、大阪城内の砲兵工廠を狙って行われ、近くの京橋駅の構内にも1トン爆弾が着弾・爆発し、多数の死傷者が出たという。おそらく、祖母はその現場に居合わせたのだ。
(俺たちの世代は、実際に戦争を経験した人たちから話を聴いているけど、理紗たちは、そういうことは無いんだよなぁ・・・この子たちにとって、戦後復興なんて、お話の中の世界であって、いくら聞いても、全然、リアリティ無いだろうしなぁ・・・)
俺は、小さな子供がするように、鼻のすぐ下まで湯につけて、口から小さく、ぶくぶくぶく、と泡を立ててみた。
(ま、それをどうこう言っても始まらない。俺たちだって、明治維新のことを聞いても、実感湧かないし、それと一緒だな・・・・「最近の若い者はなってない」なんて言葉で片付けるのは、明らかに間違ってる。なんせ、メソポタミアで出土した粘土板にも、同じ言葉が書かれているくらいだからな。本当に「なってない」なら、とっくの昔に人類の文明は滅びてるはずだ)
風呂は一種の閉鎖空間だ。いろいろ考え事をするには最適な場所の一つではあるが、気をつけないと、思考ループにはまり込んでしまって、物事をネガティブな方向に考えがちになる。とくに、俺は、風呂に入ると、過去の嫌な出来事を思い出すことがある。
今日のように疲れている日は、なおさら、そういう傾向が強く出るはずなのだ。自分でも、そこがわかっているから、そろそろ風呂を切り上げることにした。
俺は、浴槽の湯で、ざぶざぶっ、と顔を軽く洗うと、浴室から出た。
脱衣所で、バスタオルで身体と髪を拭いた後、いつものように違和感を感じながら下着を着用し、肩から背中に自分のタオルを引っ掛けて、ふらり、と浴室から出たところで、ばったりと父親と出くわした。
俺は、自宅では風呂上がりにパンツ一丁でしばらく涼むのが習慣になっていたし、妻も見て見ぬふりをしていたが、この家の娘たちは、そういうことをしないらしく、父親は俺の姿を見て、明らかに凝固していた。
(風呂に入って、ちょっと気が緩んだか。まずったな)
「えへ、ちょっとオジサンの真似してみた! 満更でもないでしょ?」
苦し紛れに言い繕ったが、父親はどのように返答してよいのかわからないらしく、何度か口を開いたり閉じたりさせたあとで、ようやく「馬鹿なことしてると、風邪引くぞ!」と言って、踵を返した。
(腰に手を当てて、グビグビ牛乳でも飲んでやったら、どんな顔したかな?)
俺は、そんな不遜な光景を想像しつつ、かつ、妹と絶対に会わないことを祈りながら、そのまま自分の部屋に戻った。
(今度から、入浴時には、替えのパジャマを持参しよう)
「少女」の生活習慣は、俺のそれとは大きく異なることを、俺はまたひとつ思い知らされたような気がした。
その晩は、やはりかなり疲れていたらしく、早々にベッドに入るなり、コテンと寝てしまったようだ。
ただ、明け方近くに、部屋のドアが開いて、誰かがベッドの近くまで入って来て、俺の顔をじっと覗き込んでいる、そんなぼんやりとした記憶があった。
それが誰なのか、そもそも本当にそんなことがあったのか、それは俺にもわからなかった。
申し訳ありません。昨晩は夏風邪でダウン、今日は帰宅が遅れたので、本日アップ分はやや短いです。
次話で大きな展開が待っています。どうぞご期待ください!