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ダブル・スタンダード  作者: 仁科三斗
第二章 「英霊」の帰還
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戦慄

 父親が玄関のドアを開けても、案の定、妹は姿を現さなかった。


 そんなことを気にも留めない様子で、両親は俺の少ない荷物を家の中に運び込んでいく。俺も、理紗のお気に入りだったという、小さな布製の手提げを持って、玄関を上がった。


 玄関の上がり口には2階に続く階段があり、その脇を走る廊下が奥の扉まで続いている。廊下には、4つのドアがあり、母親がいちいちドアを開けて、浴室、トイレ、収納、夫婦の寝室、と教えてくれた。


 母親は俺の方を振り向くときには笑顔を浮かべていたが、そうでない時には、微かに憂いを含んだ眼差しのまま廊下を歩いていた。自分の娘に自宅の構造をいちから説明しなければならない、というあまりに異様な情景に、さすがに心のひだを隠しきれなかったようだった。


 廊下の一番奥の部屋がキッチンとリビング・ダイニングだった。広くて使いやすそうなキッチン、大きな冷蔵庫と併設された停電用バッテリー、そして、キッチンとダイニングを隔てる、木目調の低いカウンターの脇には、これまた広いテーブルが置かれていた。

 4人家族ということを割り引いても、この部屋はそれなりにスペースが広く、官舎の古くて狭い台所で妻と差し向かいで食事を食べていた頃を思い出し、俺は思わず溜息をついた。


 (官舎のリニューアル、もう10年もストップしてるからなぁ・・・)


 俺は、角が欠けたコンクリートの階段や、ひび割れの入った外壁、そして、あちこちアスファルトが割れて茶色の土が剥き出しになっている駐車場を思い出し、今更ながら公務員への風当たりの強さをしみじみ実感した。


 「少し時間がかかったから、疲れちゃったよね? 片付け終わったら、お茶にしようか」


 俺の溜息に母親が敏感に反応する。


 (これは迂闊に溜息も洩らせないなぁ。取り敢えず、早々に部屋に退散させてもらうとしようか)

 

 「私の部屋を見たいんだけど・・・・」


 俺は、内心、どっと疲れているのをおくびにも出さず、母親に向かって微笑んだ。


 母親の案内で階段を上がり、2階に入ると、扉が3つあった。廊下の右側に2部屋、左側に1部屋、それぞれ配置されている。


 「はい、ここよ。向かい側は綾乃の部屋」


 母親は、階段に最も近いドアを指し示したあと、次いで廊下の最も奥寄りのドアに視線を移した。


 (あの扉の中に妹がいるわけか。当然、俺たちの帰宅には気付いているのに、今頃、部屋の中でこちらの気配を窺っているんだろうな)


 「私の部屋の隣は、何の部屋?」


 「そこはね、私たちの部屋になる予定だったの。お祖母ばあちゃんが下の部屋、今の私たちの部屋ね、そこに入って、私たちは2階の部屋に入るつもりだったんだけど、うちが出来上がる前にお祖母ぱあちゃんが亡くなって、それからは納戸なんど代わりに使ってるの。ええと、納戸って、わかる?」


 「うん、わかる。物入れのことでしょ? それくらいはわかるよ」


 母親が俺のことを気にしてくれているのは、非常によくわかる。しかし、このように幼い子供の知識を試すような言われ方をされると、さすがにあまり気持ちの良いものではない。


 俺がほんの少しだけ苛立った感情を声音に滲ませただけで、母親はすぐに気付いたようで、俺の顔を少しだけ見つめたあと、そそくさと階段の方に顔を向けた。


 「それじゃ、お茶の支度ができたら呼ぶからね。少しのんびりしてて頂戴」


 「うん、わかった。いろいろ、ごめん。気を使わせちゃって・・・・」


 大人げない態度を取ってしまった自分にやや自己嫌悪を感じながら、俺は母親に詫びたが、母親は「気を使わせて」という言葉を聞くと、少し嫌そうな顔をした。 


 「家族なんだから、当たり前でしょ? そんな他人行儀な言い方しないで」


 感情をほとばしらせて思わず口に出してしまってから、母親にすぐに我に返ったらしく、少し悲しそうな表情のまま、黙って階段を下りていった。


 その後ろ姿を眺めながら、俺も気まずい思いを抱えて、自分の部屋のドアノブをゆっくりと回した。


 (これからは、もっと気をつけないとなぁ。ほんとに気が抜けないな・・・・)


 初めて見る理紗の部屋には、率直に言って圧倒された。姉妹がおらず、また、学生の頃に女性の部屋に入った経験も無い俺には、「少女の部屋」というものに全く免疫が無かった。


 まず目が留まったのは、テディベアの多さだ。何ゆえ、大きさは異なるものの、ほぼ同じ容姿のぬいぐるみが3体もあるのだろうか? そのうえ、ぬいぐるみの猫がベッドの枕の脇に鎮座している。

 ぬいぐるみは一体あれば十分だと思うが、まあ、理紗ひとの趣味なので、取り敢えず文句は言わないでおこう。

 

 机の上には小さな書棚とパソコンがあり、書棚には教科書とお菓子の教本が入れられている。何気なく、パソコンのマウスに触れた時、その小ささに思わずハッとした。俺が自宅で使っていたマウスより、確実に一回りは小さい。俺は、自分の手のひらを見つめた。


 (・・・・「俺」の手より、小さい・・・・)


 その事実は、俺が、今、「少女」であることを、重く再認識させた。


 椅子には、花柄のプリントされたクッション。これもちょっと小さい。自分の現在の「サイズ」から勘案すれば妥当な大きさであるはずなのに、俺の「意識」では小さく感じてしまう。俺は、自分の身体が年相応に縮んだことを実感した。


 (身体感覚と身体サイズに乖離が生じているらしい。気をつけないと、怪我をしかねないな)


 例えば、道に穴が開いているとして、大人の「俺」では余裕で跨いで通れるのに、少女の「理紗」は足が届かない、といったケースも起こりうるのだ。


 (大型車から軽自動車に乗り換えるのは小回りが利いて楽になるけど、人の身体はなかなかそういうわけにもいかないなぁ・・・)


 椅子に座ったまま、くるりと椅子を回転させて、室内を俯瞰してみる。埋め込み式の大きなクローゼットと押入れがひとつずつ、衣装箪笥がひとつ。俺の部屋にあったような大きな書棚は、ここには無い。

 母親の話からすると、少女マンガやラノベは基本的にすべて電子書籍らしいから、大方、このパソコンのハードに入っているのだろう。お菓子の教本だけは、「実用性」を考慮して、ペーパーベースのものを購入した、というところか。


 俺は、椅子からゆっくりと立ち上がると、クローゼットを開けてみた。


 (うわ、なんだこれ!、女の子って、こんなに服持ってるのか? ありえねぇ・・・)


 クローゼットに所狭しと吊り下げられた服の数々に、俺は言葉を失って立ち尽くした。よくみると、一体、いつ、どのような場面で着るのか、すぐには想像できないような、レースやフリルのふんだんにあしらわれた服もある。


 (・・・・これが世に言う「ロリータ・ファッション」って奴か。おとなしいとか言われながらも、理紗の奴、こんな趣味も持ってたのか・・・・)


 俺は、自分がこれを着用した光景を想像すると、たちまち顔が赤くなるのを感じた。俺にこれを着ろというのは、罰ゲーム以外の何物でもない。


 学校の制服もハンガーに掛っていたが、セーラータイプとブレザータイプの2種類が揃えられていた。


 (あ、そうか。理紗は転校したんだったな。そういえば、引っ越しもしていないのに、どうして転校なんてしたんだろう? )


 母親の話では、理紗は港区の魚藍坂ぎょらんざかにある中高一貫校に通っていたが、高校に進学する際に転校することになり、2月の編入試験に合格し、4月からは千駄ヶ谷にある別の中高一貫校に通うことになっていたようだ。


 (一貫校から一貫校への転校なんて、あまり聞いたことないな。一体、何が原因なんだろう?)


 実は、以前にもこの話を母親に尋ねたことがあったのだが、露骨に「その話には触れてほしくない」という態度を示されてしまい、それ以上、深く聞くことができなかった。

 理紗の性格からすると、友達から「この子、大丈夫かしら」と心配されることはあっても、いじめに遭うようなタイプではないし、そもそも私立女子校でいじめなんかあった場合には、加害者はたちまち退学させられかねない。

 

 おそらく、理紗が自発的に転校を望むような「何か」があったのだろう。この年頃の「少女」が、わざわざ友達と別れてまで転校するというのは、よほどの仔細があったに違いない。


 家族がナーバスになっている話なので、これは追々、少しずつ知ればよいことだろうし、それ以前に、こんなあまりにも個人的な事情やっかいごとに深く首を突っ込んでしまう前に、なんとか理紗とコンタクトを取って、一刻も早く「魂の正常化」を実現させたい。


 クローゼットの扉を閉めると、俺は小さな衣装箪笥の前に立った。何気なく引き出しを開けてみると、丁寧に畳まれた小さな下着がたくさん詰められているのが見えた。

 自分が着用するはずのものなのに、いざ、こうしてマジマジと眺めると、やはり強烈に恥ずかしい。この感覚は、入院していた頃から、あまり変わっていない。いまだに下着を替えたりするときには、緊張して胸の鼓動が高まるし、ある種の「背徳感」を強く感じる。


 他の引き出しには、予想通りブラや普段着などが入っていた。一番上の二つ並んだ少し小さな引き出しのひとつめには、猫の絵柄がプリントされた絆創膏やお裁縫セットが入っていた。いかにも女の子らしくて、よろしい。


 隣の引き出しを開けた時、俺は、一瞬、軽い立ちくらみを起こしそうになった。


 (・・・・生理用品、だ・・・・)


 理紗は高校一年生である。生理用品こういうものがあって当たり前である。むしろ、無い方が心配されるべきだろう。


 しかし、俺は、こういうものを見たのは、はっきり言って初めてである。自宅では母親が、そして、結婚後は妻が、こういうものは俺の目に触れなさそうなところに巧妙に仕舞っていたらしく、俺は実家でも自宅でも一度も見たことがない。


 どういう用途で、身体のどこに使うのか、取り敢えずわかっている以上、見ているだけで顔が赤くなる。


 (ああ、とりあえず、やめやめ!)


 俺は慌てて引き出しを閉めようとしたが、ビクッと身体を堅くして、すぐに手を止めた。


 (・・・・俺、これの使い方、知らないよ・・・・目が覚めてから、まだ生理が来ていないけど、一体、どうしたら良いんだ? っていうか、生理って、突然、来るものなのか? 大地震の前震みたいな、何か予兆は無いのか? 電車の中とかでいきなり始まったら、どうなるんだ? そもそも、こんなので、出てくる物質を漏れなく押しとどめることができるものなのか? 万一、洩れちゃったら、どうなるんだ? そういうリスクもきちんと勘案されたうえで、この製品は設計されているのか?)


 茫然と立ち竦む俺の頭の中で、いろいろ疑問が渦を巻いて勢いよく巡っていた。こんなパニック状態は、局長説明で難しい質問をされた時でも、およそ今まで感じたことがない。


 最も容易な解決策は母親に正直に相談することだった。しかし、まず確実に恒例の「不憫な子!」モードに入られてしまい、泣かれるのは必至である。


 かといって、妹に相談すれば、視線で瞬殺されるだろう。


 父親に尋ねるのは、自滅行為以外の何物でもない。


 (とにかく、予兆把握が困難な可能性がある、という最悪の前提に立って考えると、なるべく早く、母親の精神状態が比較的安定しているときに、この件を相談するしかない)


 しかし、どううまく言い繕っても、母親が相応のショックを受けることは確実であり、俺は、今から気が滅入ってきた。とは言うものの、明後日に学校に初登校するまでには、この試練を乗り越えねばならない。


 (・・・・まったく、何の因果で・・・・やれやれ・・・・)


 俺は、カーペットの上に女の子座りでペタンと座った。


 そして、再び戦慄した。


 (仕草が自然に「少女化」してる! このままでは、俺の自我アイデンティティーが持たなくなる! 早く理紗と接触しないと、まずい!)


 そのとき、階段を上ってくる足音が聞こえた。

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