実山椒、香る
もう10歳になるのだから、お料理くらいはできないと駄目よ。
ここ数日、母が口を酸っぱくしていう言葉を思い出し、香苗は口を尖らせる。
まだ10歳ではない。正確にはあと6時間、香苗は9歳である。
日が長くなってきたとはいえ、6時を過ぎればどことなく空気が暗い。
香苗は人形で遊ぶ手を止めて台所の椅子を引き出す。その上に乗って電気紐を引っ張れば、低い音とともに電灯が灯った。
光に照らされた台所は簡素なものだ。冷蔵庫に貼られた運動会のお知らせだけが、すきま風に揺れている。
台所の真ん中に置かれた机の上には、香苗の好きなお菓子がいくつか。
机に敷かれたビニール製のテーブルクロスはきちんと拭かれているものの、触れるとぺたぺた手にくっついてそれが香苗は嫌いだった。
そのクロスに触れないよう、そうっと腕を伸ばして香苗はお菓子を取る。一口食べると、妙に寂しくなる。香苗はまたそうっと、元の場所に戻した。
「かーなえちゃん」
「あ、おばさん」
電気が付いたことに気付いたのか、台所の勝手口が叩かれる。慌てて戸を開ければ、つん。と何かが鼻に香った。
「香苗ちゃん、お母さんは?」
「まだ病院」
「あらそう。香苗ちゃんはお留守番偉いわねえ」
「明日は学校だもん」
立っていたのは隣人だ。太った体を勝手口に滑り込ませ、香苗の手に大きなザルを載せる。
「これ、うちの庭で採れた実山椒。もう枝から取ってあるからね」
……苦い夏が香った。
鼻の奥に広がったのは、強烈な香りである。酸味と、からみと、どこか遠くに土の香り。
ザルの上には、山のように実山椒が載せられていた。
「お母さんが好きだったでしょ。だから今年もお裾分け。これはお湯で10分くらい湯がいてね、そのあと水に浸けておくの。冷凍すれば1年は保つからね」
戸締まりはちゃんとするのよ。まるで母親のように口うるさく言う隣人を見送り、香苗はザルを台所の机の上に広げてみた。
嫌いなテーブルクロスも、こうすれば不思議とお洒落だ。
電灯の白々とした光の下で、実山椒の青が目にも眩しい。
収穫したての実山椒は、ころころとした青い粒にしか見えない。おたまじゃくしのように、尻尾に小枝が付いているのもかわいらしい。
しかし直接嗅げば強烈な洗礼を受けることを香苗は知っていた。口になんてすれば、悲鳴が上がる。
「くさーい」
何とも例えようの無い香りである。鼻を貫き、体に広がる。青い苦みと言うほかない。
そうだこれを煮込んでやろう。と、香苗は思う。
部屋いっぱいを臭い匂いで充満させてやろう。そうすれば、帰ってきた家族は皆、嫌な思いをするはずだ。
息を止めて、広げた実山椒をザルに戻す。指の先まで青い色だ。
「料理くらいしなさい、っていったもんね」
大きな鍋はコンロにかかっている。椅子を引き出してよじのぼり、蛇口を捻って水を出す。夏の水は総じて生ぬるいが、梅雨も終わらない今の季節はひやりと冷たい。
その冷たい水を小さなコップで受け止めて、大きな鍋にゆっくりと入れていく。
何分かかっただろうか。鍋が一杯になる頃、台所の曇りガラスは真っ暗になっていた。
梅雨の夜は、冷える。大鍋が沸くと白い煙が充満した。精一杯腕を伸ばして窓を開けると、湿気と土の香りが風とともに滑り込んだ。
窓の向こうは小さな庭である。昨日まで降り続いていた雨のせいで、土の吸った湿気が窓から滑りこむ。
山椒の香りと混じり合い、香苗は眉を寄せた。
「山椒を、入れて」
振り返ると、この家は台所しか電気が灯っていない。玄関も、二階も、トイレも、お風呂もどこも真っ暗だ。
今更そんなことに気付いた香苗は恐怖を紛らわすべく、煮立った鍋の中に一気に実山椒を落とす。
熱湯が跳ね、香苗は小さく悲鳴を上げた。小さな滴だが、人差し指に触れたそれは、驚くほど熱い。
「……10分」
火から目を離せば家が燃えてしまうのではないか。そんな恐怖に香苗は鍋から目が離せない。
鍋一杯に流し込んだ実山椒は、あついあついと悲鳴を上げて弾け上下に動く。そのうち、酸味と苦みに似た香りが、部屋一杯に広がる。
それは生の時よりもずっと濃い香りで、香苗は一生懸命口で息をする。
香りに味がつくものか。そう思っても、空気には苦い味が漂っているのである。
「……10分」
古びた時計がちょうど、19時を指している。
香苗は慌てて火を止め、ザルをを慎重に鍋に滑り込まる。
まるで金魚すくいのようだ。真剣に、ザルで実山椒をすくう。生の時よりも、それは縮んでしわくちゃになっていた。
水を張ったボウルに実山椒を全て入れ終わる頃、20時近くになっている。
「……全部入りましたよ。と」
洗い場の中に置かれた大きなボウルの中に、実山椒が沈んでいた。
体を伸ばし、ボウルを覗き込む。透明の水の中、青とも緑とも言えない、実が泳いでいた。
茹でることで余分な重さが消えてしまったのか、山椒はぷかりぷかりと水に浮かぶのだ。
水には覗きこむ香苗の顔も映っている。二つ結びの髪はほとんど解けていた。朝、自分で結んだのだ。どうしたって母親よりはへたくそで、短い髪の毛が自由に飛び出していた。
丸い顔に、小さな鼻。その鼻のあたりに実山椒が浮かび上がり、なんとも嫌な感じである。
それを突いて沈め、香苗は指を嗅いでみた。
「……まだ、くさーい」
窓の外はもう真っ暗で、台所の光が庭に延びている。コンロの火が止まった今、台所は妙に静かだ。冷蔵庫の立てる、ぶぶぶ。と低い音だけが響くのが寂しさに拍車をかける。
しっかりと止めたはずの水道から、水が数滴漏れて音を立てた。
妙に悲しい夜だ。鼻の奥がつんと痛み、香苗の口がへの字に曲がる。鼻と喉が変に酸っぱいのは、実山椒のせいに違い無い。
「……香苗」
「お母さん!」
涙が溢れるその直前、玄関から懐かしい声が聞こえる。
それは母の声だった。優しい声に、香苗はハッと顔を上げつまずき転びながら玄関へと駆け出して行く。
薄暗い玄関に、母親の姿。
外は雨が降り始めたのだろう。母親の肩や裾には小さな滴が散っている。
いつもならそんな雨の滴など、気にせず飛びついて抱きしめる香苗だ。しかし今日、香苗ははたと動きを止める。
母の腕の中、小さな寝息が聞こえたのだ。
「ほら、恥ずかしがらずに」
柔らかい産着にくるまれているのは、まだ生まれて間も無い妹である。
数日前、病院で見たときはまだ小猿のようだった。真っ赤でしわくちゃで、可愛いなど口が裂けても言えなかった。
自分のほうがずっと可愛い。など、香苗は胸を張って思ったものだ。
しかし。
「お姉ちゃんよ」
母が優しく妹の手を掴む。それはきゅっと握られた小さな小さな拳。それを香苗にそっと向けた。
「はじめまして」
触れた掌は潰れそうに柔らかい。香苗と触れた瞬間、確かに赤ん坊は小さく微笑んだ。
「……はじめまして」
それだけで香苗は、ここ数日の悲しさも寂しさも怒りもなにもかも忘れてしまうのである。
「あ。駄目、そっち入っちゃ駄目」
気がつけば、母親が台所へ向かおうとしているところだ。香苗は台所の惨状を思い出し、慌てて彼女の服を掴む。
しかしそれよりも早く、母親はにこりと笑顔を浮かべた。
「あら、良い香り」
台所はやはり実山椒の香りで溢れている。降り始めてきた雨のせいで、酸味が一段と強まった。
その香りを胸一杯吸い込んで、母はやせこけた頬でにこりと笑う。
「夏の香りね。実山椒を下ごしらえしてくれたの?」
ありがとうと言う母と、その腕の中で泣く小さな妹。
香苗も真似をして深呼吸。鼻に飛び込んできた刺激的な香りに、彼女は小さく咽せ混む。
……大人は変だ。夏の香りで充満する台所の真ん中で、香苗は一人顔をしかめた。