プロローグ:世界のどこかにて、リンドヴルムの後悔。
アイツの事を、思う。
冷たく凍てついた氷の柱に眠る、もう何百年も前に死んだ女。
名前は、何と言っただろうか。
どんな声だっただろうか。
もう霞がかった記憶を漁っても、思い出す事ができない。
髪の色は黒だった。
けどそれは、氷の柱に眠るアイツが黒髪だから、そう分かるだけだ。
あの柱がなければ、もう覚えてないだろう。
瞳の色は青だった。
けどそれは、氷の柱をアイツが自分で作ったから、そう分かるだけ。
氷属性の魔法を使う者は、皆青い瞳をしているからだ。
・・・あの柱がなければ、やっぱりこれも忘れていたんだろうか。
俺はそれだけ、長く生きたのだろう。
アイツは、また巡ると言った。
人でもエルフでも獣人でも、また生まれ変わったら自分は俺を捜すと。
言葉の細かいニュアンスも、どんな状況だったのかも、もう覚えてない。
記憶のバックアップを捜さなければ、というこの思いとて長くは持たないのだろう。
もう、それだけの月日を生きた。
数えるのが億劫になるほどに。
アイツはきっと、俺から忘れられたくなかったんだ。
だから最期に、生きながら自分を氷に封じた。
時の流れから離れて、俺がアイツを覚えていられるように。
けど、俺はもうアイツの事をほとんど覚えていない。
水晶に封じた記憶を見ても、いずれ自分の事だとわからなくなる日が来る。
「ごめんな、―――」
沈黙の中、名前を呼んだつもりになって。
その沈黙が痛くて。
小さな意地を張らずに、ちゃんと名前で呼んでやれば。
そしたら俺は、今でもアイツの名前を覚えていたんじゃないか?
そんな後悔も、もう遅すぎて。
氷に映る俺は、泣いていた。
涙の熱を、久々に感じた。
呼びかける名がない事が、悲しかった。
俺はアイツの眠る部屋を出て、思いきり吠えた。
時に遺された竜の咆哮が、聞く者のない平原に響いた。




