第六章 ❄︎王子と雪の夜❄︎
塔から戻ったとき、二重太陽の空はすでに薄暗くなりかけていた。
この世界では、太陽が二つあるぶん完全な夜は短い。
それでも──雪が降る"夜"は、たとえ一瞬でも特別だった。
街に戻る途中、王子がぽつりと言った。
「……雪の夜というのは、なかなか趣があるものだな」
「シュガー?」
「“趣”だよ……雰囲気がある、という意味だ」
「なーんだ。甘くて美味しそうって思ったのに」
「……何と勘違いしていたのかは聞かないでおこう」
歩くたび、靴の下で雪がふわっと軽い音をたてる。
この世界の王子にとっては息を呑む新体験だった。
「きれいだな……雪って」
「だよね!」
ルーナは鼻を高くする。
「魔界でもちょっと降ったんだよ! すぐ溶けちゃったけど」
「魔界とは……本当に、謎の多い場所だな……」
王子は、ほんの少しだけ羨ましそうに呟いた。
「こういう雪の夜を……私も小さいころ見たかったよ」
「わたし……こんな景色、見たことあるような気がする。雪合戦とか、雪だるまとか……」
「絵本で読んだんじゃない? ルーナ、お菓子の次に絵本大好きだったもの」
「わたしって文学少女?」
「本の角をカジカジしてたけどね」
(ボクの尻尾もよく狙われたなぁ)
「……ね、ねぇ王子って、小さいころ何してたの?」
「え? 突然だな」
「気になる!」
「うーん……そうだな……」
王子は歩きながら、少し昔を思い返すように目を細めた。
「私は“跡取り”として育てられたから、自由に遊んだ記憶はあまりない。訓練、礼儀作法、歴史、剣術……そればかりだ」
「へぇ……」
「街へ出て子どもたちと遊ぶことも許されなかった。本当は、友だちが欲しくて……」
王子の声が、わずかに震えた。
「……羨ましくて……」
そこまで言って、はっとした顔になる。
「ち、ちがう。これは愚痴ではなく……いや、愚痴か……?」
「うん。愚痴っぽい」
「うわ……」
王子は顔を手でおおった。
ミミが肩の上で苦笑する。
『いいじゃない。愚痴のひとつくらい。王子だって子どもだよ』
「……そう、かな」
『うん。むしろ今まで言わなさすぎ』
「……そう、かぁ……」
王子の声が、少しだけ軽くなった。
ルーナは雪をつまんで王子の前に差し出した。
「じゃあさ。今、遊べばいいじゃん」
「え?」
「わたしとミミが"王子のお友だち"してあげる! だから──遊ぼ?」
「遊ぶ……?」
『王子、逃げて。悪い予感しかしない』
「なんで!?」
ルーナは雪の玉を丸めて──
「ほい!」
「ちょっ――!」
ぽすっ。
王子の肩に、雪玉が見事に命中した。
真っ白な雪玉が、王子の青いマントの上で溶けていく。
「……いま、私に……投げた?」
「うん!」
「うん、じゃないッ!」
『さぁ王子、反撃して! 不名誉なやられ損になるよ!』
「そんなアドバイスをするな猫!!」
それでも──
王子は雪を拾い、ぎこちなく丸めて、ぎこちなくルーナに投げた。
ぽふっ。
「きゃっ」
ルーナの髪に雪がついた。
その瞬間──王子の顔に、初めて子どもらしい笑みが浮かんだ。
「……おもしろいな、これ」
「でしょ!」
『雪合戦っていう遊びだよ』
「合戦……?」
『まぁ大規模にやると、いろいろ壊れるけどね』
「おい猫」
ルーナは手の中で新しい雪玉を作った。
「じゃあつぎ、王子も本気で投げていいよ!」
「本気で……?」
「うん!」
王子は雪を握り直し、深く息を吸い──
「いくぞ!」
ひゅっ。
雪玉は綺麗な放物線を描き──
ミミの背中に命中した。
『みぎゃ!』
「なんでボク!?」
「す、すまない! 狙ったわけでは!」
『王子、投擲精度がゼロだよ!』
「うぅ……鍛錬していないから……!」
ルーナはひいひい笑いながら転げ回った。
雪は冷たいのに、胸のあたりはほわほわ温かい。
街の方から、かすかに歌声が聞こえてきた。
子どもたちの声だ。
「わっ。祝福祭の歌だ」
ルーナは足を止めた。
「王子、あれは?」
「子どもたちが練習しているんだ。“母さまの歌”といって、祝福祭では必ず歌われる。……だが、私は……」
「ん?」
「……実は、この歌を“心から好き”になったことがない」
王子は雪を踏む音を止めた。
「ずっと“歌わねばならないもの”だと思っていた。誰のための歌なのか、考えたこともなかった」
「へぇ……」
ルーナは少しだけ黙り──
雪を両手で抱え、ふわりと落とした。
「じゃあ、王子」
「?」
「"本当の祝福祭"になったら──変わるかな」
「変わる……?」
「うん」
ルーナは雪を見つめた。
「"本当の願いを歌う日"になったら、きっと違うよ。歌いたくなるよ」
王子は、雪空の下で少しだけ顔を上げた。
「……そうだな」
雪が王子の頬に落ちる。
「今なら、少しだけ……歌いたい気分だ」
「おー、成長!」
「な、なんだその上から目線は!」
『事実でしょ』
「猫まで……!」
その時。
ミミがぴく、と耳を動かした。
『……ルーナ。王子。雪の魔素、強くなってきてる』
「え?」
『“船”が本格的に起きようとしてる。このままだと世界酔いが加速するよ』
王子もすぐに顔を引き締めた。
「なら……急がねばならんな」
「うん!」
ルーナは雪を払って息を吸う。
「王子。一緒に“本当の祝福祭”作ろ!」
「……ああ。必ず、成功させる」
少年の瞳に、確かな決意が宿った。
その時だった。
ルーナの胸に──また、あの声がかすかに触れた。
【……かえして……】
雪の冷たさよりも、もっと冷たい気配。
けれど、どこか苦しげで、哀しげで──。
「……っ」
ルーナは思わず胸を押さえた。
「ルーナ!?」
『また声?』
「うん……“返して”って……」
ミミが王子を見る。
『王子。祝福祭を急ぐよ。みんなに“本当の願い”を見つけさせて。それが……あの影の“満たされなかった願い”を弔うことにもなる』
「わかった」
王子は深くうなずき──
城下へと駆け出していった。
雪が舞う夜の中、街の灯りがひとつ、またひとつ灯る。
「……本当の願い……」
ルーナは小さく呟いた。
「……わたしのは、なんだろ」
その言葉は、雪に吸い込まれて消えた。




