2.妖精の隠れ家(3)
名前で呼んでくれて構わない、と言うので、昭仁は沙綾を苗字でなく名前で呼ぶことにした。名を呼ぶ機会などあるとは思えなかったが。
昭仁の経験から言って初対面で自分を下の名前で呼べと言い出す女と関わると後々面倒なことになるのだが、もうある意味既に面倒な事態になっている。
沙綾の印象は、数日経っても定まらなかった。あの生気のない弱々しい様子と、身一つで知らない場所に飛び出す力強さが結びつかない。
だが詮索する気のない昭仁は、自分も名前で呼んでくれと告げるだけに留めた。向こうがそう言うならそう返すのが礼儀かと思ったのだ。
買い物役を買って出たものの、頻繁に何でも買ってくるわけにはいかない。しかし、なるべく沙綾を人目に触れさせないのが、現時点では最良の策だろう。
沙綾自身も出歩いたり、他人と交流する気はないらしい。それは昭仁にとっても都合が良かった。
その数日後、孝太から連絡があった。試験が終わったのだろう。
会うなり孝太が差し出してきたのはCDだった。「この五曲目の、演りたいんだけどさ」
「持って帰っていいのか」
「ああ、帰って聴いて」
昭仁はそのバンドのことをよく知らなかったが、とにかくそれをリュックにしまった。孝太はいつもの調子で喋り続けている。
「やっぱかっこいいよな、こいつら。俺もいつかあんなでかいハコで演ってみたいよ」
無邪気だな、と昭仁はそれを見ていた。転校当初、好奇心丸出しで近づいてきた孝太は初め、疎ましい存在だった。今でもそのきらいはあるが。
孝太の邪気のなさは時に無神経でもあったが、裏表がないのは確かだった。
昭仁のどこが気に入ったのか、あるいは正義感なのか、孝太は昭仁が誰かに絡まれていると必ず割って入った。
そのために皆から遠巻きにされた時期もあったが、孝太は意に介していなかった、ように少なくとも昭仁には見えた。
(俺さ、ここ生まれのここ育ちで他の町って知らないんだ。お前、東京から来たんだろ? どんなとこなのか教えてくれよ)
正直鬱陶しかったが、他の奴らのようにひそひそ陰口を言うことも帰り道でいきなり殴りかかってくることもないのだからましだろう。と少しずつ話すようになり、今に至る。
孝太が昭仁と話しているのを見て、それまで様子を伺っていた同級生たちとも少しは交流が持てたのだ。
人付き合いが良いとは言いがたい昭仁も、学校で全く誰とも口をきけないのではやりにくい。そういう意味では孝太に感謝すべきだと、昭仁は思っていた。
高校に入って孝太がバンドをやりたいと言い出した時、なり手のなかったベーシストを引き受けたのはそれもあったからだ。
卒業後ドラムとボーカルが抜け、現在は昭仁と孝太だけなのでバンドとは言えない状態になった。ライヴの予定もない。練習しても無意味なのだが、孝太はやりたがる。
昭仁が律儀にそれに付き合っているのは、叔母宅にいなくてすむ、というのが大きかった。孝太の家のガレージは広く、そこをスタジオ代わりにしていたのだ。
「今さ、また新しい曲作ってるから、できたら聴いてくれよ」
肩を叩いてくる孝太におざなりに返事をして、昭仁は原付に鍵を差し込んだ。