1.夏の始まり(4)
「だれ……?」
吐息よりなお小さい声。
女は昭仁より若く見えた。床に座り、ベッドに上半身を預けた姿勢のまま、緩慢な動作でこちらを見上げる。だが、誰かと問いたいのはむしろこちらだ。
女、と言うより少女かも知れないが……は、ベッドに投げ出していた腕を戻し、座り込んだまま昭仁を改めて見た。「この家の人?」
「ああ」
頷くと彼女はしばらく昭仁を見つめ、やがて頭を下げた。「ごめんなさい、勝手に入って」
「いや、俺も勝手に入ってる口だから」
本当に? という目に昭仁はまた頷いた。
「でもあなたの家なんでしょう……?」
語尾が不安げに揺れたのは、ここが家と言うにはあまりにみすぼらしく、また昭仁が若すぎることに対しての疑問によるものだろう。
そんな必要はないとも思ったが、昭仁は自分を落ち着かせる意味も兼ね、この場所についてざっと説明した。
納得したということなのか、かすかに頷く様子を見せた彼女に昭仁は尋ねた。「ところで、あんたは何でここにいる」
「私は……」
彼女の顔は少し曇ったように見えたが、周りの暗さではっきり分からなかった。
「旅をしてきたの」
「旅?」
昭仁はあっけにとられた。別に特定の答えを予想していたわけではなかったが、それでも予想外だと思った。
「今、夏休みだから」
と、それだけしか彼女は言わなかった。
昭仁は思わずまじまじと彼女を見つめた。現実味というものが急速に遠ざかってゆくような気がした。
「それで、一人でこの町に来たのか」
彼女は目を伏せた。「人がいない所へ行きたくて。でたらめに電車を乗り継いで、ずっと歩いて来たの」
「高校生?」
「大学生」
二年、と付け加えられ、昭仁は目を見開いた。それでは同い年だ。
「……驚いた」
彼女の少し乱れた長い髪を見下ろしながら、昭仁は呟いた。
古い板の床に直に座る両膝が痛々しく見える。ベッドに座るよう勧めても良かったが、親切にする義理もないし、警戒されそうな気もした。
「ほんとにごめんなさい」
彼女の声はか細かった。「ここにいさせてほしいの。そんなに長くはいないから」
昭仁は即答しなかった。この弱そうな女に、自分に危害を加える様子はない。だが旅という単語の突飛さや、ここに至る経緯の尋常でなさはためらわせるのに充分だった。
(どうする?)
黙り込む昭仁を、彼女は硬直した表情で見上げている。息を吸い込み、昭仁は話の接ぎ穂を探すような気分で問いかけた。
「名前は?」
彼女の口元は震えたが、それでもどうにか答えた。「……沙綾。藤原沙綾」
それが昭仁と沙綾の出会いだった。