1.夏の始まり(3)
試験は問題なく終わった。課題を進めるためには度々大学へ行く必要がありそうだったが、苦になるほどではない。
バイトをもう一つ増やそうかと昭仁は考えていた。短期なら、今のバイトの合間に入れる。
焦るつもりはなかった。時を待つしかないのは分かっているのだ。ただ、二年前から漠然とした不安を昭仁は感じていた。
同い年の哲が高校卒業と同時に地元の工場に就職し、家の中で学生は昭仁だけになっている。
哲とは昔から何の交流もない。だが、自分が良く思われていないのを昭仁は承知していた。
哲が機械油まみれの作業服で帰宅する時、大学から戻った昭仁を一瞬だが凄みのある目つきで見ることがあった。その暗さ、深さを昭仁は忘れていない。小学生の頃から何度も目にしている。
成績のことで叔父に叱られ、時には殴られる合間に睨んできたあの目と同じだ。
今まではそれでもなんとかやって来れたが、これからもそうとは限らない。今の昭仁にできるのは貯金と、あまり家にいないことだろう。消極的な方法だがそれくらいしかない。
今年の夏は基地の居心地をもっと良くしようと昭仁は思いついた。
以前から考えていた、電池式の小型冷蔵庫や扇風機が魅力的だ。何しろプレハブでトタン屋根の基地はこの時期、酷く暑くなる。
夏休みが始まって間もない七月の終わりの夜、昭仁は基地に向かった。
人通りはないが、念のため原付は道路から見えない場所に駐める。十歩も行けば基地はすぐそこにある。
昼の熱気は夜になってもなかなか抜けないので、夏の間は戸を開け、網を蚊帳のようにぶらさげてある。電気は無論通っておらず、電池式ランプを三つ置いてあった。昭仁は網をめくった。
その時、奥でかすかに音がした。
昭仁は身を固くした。今までも基地に虫や小動物が入り込んでいたことはあったが、そういう単純で無心な音とは違って聞こえたのだ。
人が立てる音だ。……暗闇で、何かを手探りするような。
手を伸ばして入り口脇のランプを取り、スイッチを押す。乏しい明かりではごく狭い範囲しか見えない。ゆっくり奥に進む。
ベッドの端で何かが動いた。ランプを近づけ、昭仁は声を上げそうになる。長い髪に見え隠れする華奢な首筋……女だ。