第七章 淫らに尻をふるおれのメスイヌになれイチズ
翌日だった。リョースケは文代の病室をおとずれた。
「なあおふくろ。いや。文代さん」
文代はにっこりと笑った。来るべきときが来た。そんな覚悟を極上の笑みにこめた。
「なあに?」
「おれさ。あんたが好きだ」
「わたしの答えはもう知ってるんでしょリョースケ?」
リョースケはうなずいた。
「ああ」
「それでも聞きたい?」
「聞きたいよ。おれは初めてあんたがスミレを連れてきた夜からあんたが気になってしょうがなかった。大きくなったら絶対あんたと結婚するんだ。そう思ったんだぜ」
「思っただけじゃないでしょ? ちゃんとプロポーズしてくれたわよ。わたしこんな幸せがあっていいものかと思ったわ」
「なんでだよ?」
「だって父子から同時に結婚を申しこまれたんですもの。どっちと結婚すればいいのか迷ったわよ」
「嘘つけ。親父と結婚したくせに」
「だーかーらー。迷ったの。ホントよ。あのときあなたがいまの歳ならどうしたかしらね?」
「おれがいま結婚を申しこめば結婚してくれるのかい?」
「だめ。それはできない」
「どうして?」
「リョースケとは母子になったからよ。いっしょに暮らした十年をわたしは忘れることはできないわ。あなたはいい息子だったの」
「おれがいい息子じゃなかったら?」
「お尻をぶってるわ」
「おいおい」
「ふふ。わたしはあなたのお父さんに惚れたの。ひと目惚れでもあったけど暮らしてるうちにもっと好きになった。いまのわたしには敦史さんしか考えられないの。あなたと夫婦として十年暮らせばわたしはあなたの妻になり切れた。でももうそれはできないわ。ごめんなさいねリョースケ」
「ちっ。しくじったぜ。あのときあんたをやっちまえばよかったんだ」
「そうね。そうすべきだったわよ。そうすればリョースケの女だったのにね」
「こらこら。あんたおれをからかってないか?」
「もちろんからかってるわよ。でもだめね。女としてあなたをからかえなくなってるわ。どうしても母としてからかっちゃう。ごめんなさいリョースケ。わたしは女としてあなたに応えられない」
「いや。いいんだ。答えは知ってた。せめてあんたに産んでもらってりゃなあ」
「それはだめよ。わたしが産んだらスミレみたいな子になっちゃう。あなたいまスミレに悩まされてるでしょ? スミレを気にかけなくてもいいのよリョースケ。あなたはあなたの恋をがんばりなさい」
「文代さん。それはねえだろ。おれの恋はたったいま玉砕したばかりだぜ」
「うふふ。ふられたばかりの人がそんなにすっきりした顔してますか。ひとつの思いに区切りがついただけよ。あなたの中ではもう新しい恋が育ってる。スミレとあなたは兄妹よ。血はつながってないけどいまさら恋人にも夫婦にもなれないわ。スミレは強い子なの。あなたなしでも前を向いて進めるわ。あなたはあなたの思いを羅針盤に生きてねリョースケ」
リョースケはため息をついた。この十年かくしつづけた思いだった。吐きだすことはないと信じていた。それがたったひとりの女のせいでついに言っちまった。口からだしてしまえばスッと溶けた。胸の奥で十年かたまりつづけた頑固な恋が嘘みたいに消えていた。おれはなにを悩んでたんだろう? リョースケはそう思った。思いきり笑い飛ばしたい気分だった。
「おふくろ。なにかして欲しいことはないかい?」
文代は手をのばした。
「眠いわ。リョースケ手をにぎってて」
リョースケはそっと文代の手をつかんだ。十年の苦労がしみこんだ手だった。十年前はもっと柔らかだった。十年前はもっとしなやかだった。十年の歳月をリョースケは文代の手に読み取った。雨の日もあった。風の日もあった。スミレと喧嘩して親父に殴られた。おふくろはただ笑っていた。怒ろうには怒れなかったのかもしれない。幸せすぎて。
リョースケは眠りに落ちた文代の顔を見つづけた。リョースケは思った。おれがプロポーズしたときと同じ顔してやがると。それとも親父が結婚しようと言い切ったときと同じだろうか? リョースケは文代の寝顔を見つづけた。
文代はそのまま意識がもどらず二日後しずかに息を引き取った。おだやかな最期だった。
☆
あたしは知らなかった。あたしの言葉がリョースケを動かしたとは。
文代さんが死ぬ前日に義父の遺体がもどされた。文代さんの死をあたしが知ったのはお通夜の客がみんな引きあげたときだった。カケエから電話があった。非常識な時刻だった。あたしはリョースケが逮捕されたのかと思って電話にでた。知らせを聞いた。だが本当とは思えなかった。つい三日前にお見舞いに行ったときには元気そうに見えた。容態が悪化したとも聞いてなかった。寝耳に水だった。
文代さんが亡くなって二日目に葬式をだした。義父の洋二と文代さんとを合同でおこなった。ふたりとも身寄りがすくなかった。若菜島は夏休みのかき入れどきを間近にひかえていた。二回の葬式に参列するより一回ですまそうとなったわけだ。あたしとしてもありがたかった。たてつづけに二回も葬式をこなすより一度にすませてもらったほうが悲しみが小さい。あたしは義父の葬式でどうやって泣こうかと苦慮していた。それは杞憂に終わった。あたしの目からは涙がとまらなくなっていた。あたしはスミレちゃんと抱きあって泣きつづけた。リョースケも顔を上向けてくちびるをかみしめていた。
火葬が終わったあとだ。カケエの父の守秀院長がリョースケとスミレちゃんを招いた。
「リョースケくん。いまこんなことは言いたくないのだがね。きみたちの家は借家だった。大家は高校生ふたりに家を貸すわけにはいかないと言ってる。きみたちふたりは身寄りがない。役場が処理すればきみたちは施設に送られることになる。犬のロクは引き取り手がなければ殺処分にされる」
「おじさん。おれが高校を辞めて働く。スミレとロクはおれが面倒を見るよ。スミレを卒業させるくらいはかせげるさ」
「まあそう結論を急ぐなよ。先に私の話を聞いてくれないか。いまうちの病院の寮はあきがある。きみたちふたりはそこで暮らしちゃどうだい? 私の世話になりたくないと言うなら寮費は高校卒業後に返してくれればいい。きみとは産まれたときからのつき合いだ。息子の親友でもある」
「でもおれおばさんにはきらわれてるぜ」
「私も好かれてるほうじゃない。中学生のときに同級生の女の子とエッチなことをしたといまでも責められてる。気にしないことだ。典江はあんな女だからな。私はきみを実の息子だと思ってるよ。敦史の子だものな。スミレちゃんも敦史の不倫の子だから同じだ」
「おいおいおじさん。スミレは親父の子じゃねえっておれを諭したのはあんただろ?」
「そうだよ。それが大人というものだ。本音と建前がある。実のところはだ。ただ甘い話をしたいわけではないんだ。うちの病院はいま看護師がたりない。そこできみたち兄妹に看護師になって欲しいんだよ。高校を卒業して看護師学校にはいれば看護師になれる。看護師としてうちの病院に就職するなら町役場は学費の全額を負担すると言ってる」
「だがだよおじさん。学費の全額を受け取って看護師にならなかったら?」
「そのときは全額を返せと請求されるだけさ。分割払いでいいとなってる。うちの病院の看護師になるなら寮費も役所がだしてくれる。高校にかよってるあいだの奨学金もでるそうだ。もっとも奨学金は将来返さなきゃいけないがね」
「なるほど。取りあえず生活には困らない。そういうわけかい?」
「そのとおりだ。でもきみたちのふたりともが看護師になる必要はない。どちらかひとりでけっこうだ。リョースケくんきみが高校を辞めて働く気があるならここはひとつ看護師を目ざしてはどうかね? 私も助かる。きみも助かる。スミレちゃんも高校を卒業できる」
そこでスミレちゃんが口をはさんだ。
「だめよお兄ちゃん! わたしが看護師になるわ! わたしずっとナースさんになりたかったの!」
リョースケがスミレちゃんを見た。
「嘘つけ。一度だってそんなこと言わなかったじゃねえか」
「ううん。嘘じゃない。わたし漁師より看護婦さんがいい。魚釣りはへただから」
リョースケが首をかしげた。どうして漁師と看護師をくらべるのかという顔だった。リョースケにはわからないがスミレちゃんは知っていた。リョースケの望む妻がいっしょに舟に乗って魚を釣る妻だと。
「わかったスミレ。おじさん。取りあえずしばらくやっかいになるよ」
「よかった。そうしてくれると私も息子に恨まれずにすむ」
「けど奥さんには恨まれるぜ」
「そうだな。でもきみがうらやましいと思ってるだけで恨まれてるよ。心の中で女を脱がす者は姦淫したのと同じだそうだ。男だってだけで恨まれる。どうしようもない」
「おじさん。やっかいな女を奥さんにしたねえ」
「やっかいじゃない女なんかいない。そうではないかね?」
リョースケがかたわらのスミレちゃんとあたしに目を走らせた。
「まったくだ」
☆
そんなわけでリョースケとスミレちゃんと犬のロクは円城寺病院の寮に移った。ついでにあたしとママも寮の一室を貸してもらった。そもそもママは円城寺病院の一員だ。最初から寮にはいってもよかった。青桐洋二が半年間家賃が無料だというのであの家に住んだだけだった。殺人現場となった町営住宅はまだ立ち入り禁止だ。警察の許可なしにははいれない。あたしとママは警察の許可した荷物だけ持ち出しを許された。
もっとも寮とはいうがただの安アパートだ。円城寺病院からすこし離れて建つ一般のアパートだった。病院関係者が入居した部屋だけ病院が家賃を大家に払う仕組みだった。だから病院に関係のない一般世帯も住んでいた。
あたしは補習に精を出した。がんばって七月の終わりに世良先生がしてくれるテストに合格しなければ八月も補習だ。せっかくの夏休みが補習づけで終わる。
その日あたしはかすかな違和感を覚えた。最初は違和感の原因がわからなかった。英会話リスニング室を見回してやっとわかった。廊下がわのカーテンがすべて引かれていた。廊下がわの窓はすりガラスだった。外から中は見えないし中からも外が見えない。勉強に集中するためこの学校の廊下がわの窓はすべてすりガラスになっていた。
あたしは引かれたカーテンをエアコンの効きをよくするためかなと思った。カーテンには断熱効果があると聞いていた。カーテンのせいか英会話リスニング室はいつもより涼しかった。あたしは机で前かがみになって問題を解いていた。いつものように世良先生が肩ごしにあたしのノートをのぞきこんだ。玲ちんの入院以来マンツーマンだ。世良先生はあたしのそばでつきっきりの指導をするようになっていた。
「ああ。ちがうちがう。青桐。そこは現在形じゃない。過去形をつかうんだ」
世良先生があたしの肩に手を置いてあたしの耳に声を吹きこんだ。
「先生?」
あたしはふり向いた。いつもとちがう先生の顔が間近にあった。先生の目はギラギラと血走っていた。あたしは思わず先生から身を遠ざけた。あたしは机から床へとお尻を落とした。先生がイスを越えてあたしを追ってきた。先生があたしの上におおいかぶさった。
「青桐! おれはおまえが好きなんだ! おれのものになってくれ青桐!」
あたしは世良の下から逃げだした。戸に走った。あたしは戸をあけようとした。しかし戸は右も左にもずれなかった。ハッとしてロックを見た。戸にはロックがおりていた。あたしが気づかないうちに世良がおろしたらしい。すりガラスのカーテンも廊下からうかがわれないようにする万が一の用心だったようだ。
あたしが戸と格闘をしているあいだに世良があたしの背後にすり寄った。あたしは背中から抱きすくめられた。はあはあという情欲にたぎった臭い息があたしのうなじにかかった。
「おれの女になれ青桐。おまえの悲恋岬でのビデオを見たぞ。おまえ泣きながら尻をふってたじゃないか。おれもリョースケに負けないくらいよがらせてやるぜ」
世良がうしろからあたしの胸もとに手をいれてきた。ブラジャーの下に指がはいった。あたしの乳首を世良がつまみあげた。
「痛いっ!」
「ひひひ。可愛い胸だな青桐。リョースケにもこうやってかわいがられたんだろう? もう濡れてるんじゃないのか青桐?」
「バカね! そんなことあるわけないでしょ!」
「ふふふ。おまえの母親は尻軽女だ。おまえもそうに決まってるさ。すぐその気になるぜ。さあおれに身をまかせろ」
世良の口があたしに迫った。あたしは必死で身をよじって逃げた。戸を離れたもののほかに出口はない。あたしは英会話リスニング室のすみに追いつめられた。
「おい青桐。おれにさからえば学校にいられなくなるぞ。二年生をもう一回やりたいのか? それとも退学がいいか? おまえさえその気になればおれが卒業させてやるぜ。なあにリョースケといつもやってることをするだけだ。おまえも楽しませてやるさ。こづかいもやるぞ。気持ちいいことをしてカネももらえる。おまえに損のない話だぜ。さあ青桐。下着をぬいで股を開け。たっぷりかわいがってやるぞ」
「いやよ! 誰があんたになんか股を開くものですか!」
「聞き分けのない女だな。まあいい。おれがおまえをほぐしてやろう」
言うなり世良が飛びかかってきた。世良があたしを床に押したおした。あたしはもがいた。でも世良にがっしりと押さえこまれて逃げられなかった。世良があたしのスカートをまくりあげた。あたしの下着があらわになった。あたしは用心がたりなかった。洋二との一件があったあとだ。スカートの下にスパッツをはくとかスクール水着をつけておくとかすべきだった。だがあたしは相変わらずウサギ柄の木綿下着一枚だった。学習能力がないと言うか不用心と言うか。まさか白昼の高校で教師に襲われるとは思ってなかった。階下には補習の生徒たちがいるというのにだ。世良があたしの下着をスルスルと引きずりおろした。世良の手は慣れていた。これまでにも女子高生にこんな真似をした経験があるのだろう。あたしの下着はあたしの足を離れた。世良がズボンをおろした。あたしの両足がこれでもかと広げられた。あたしのなにもかもを世良に見られた。
あたしは声をふり絞った。
「だっ! 誰かぁっ! 助けてぇっ!」
「むだだ青桐。四階にいるのはおれとおまえだけだ。誰にも聞こえるものか。ぐひひ。さあ楽しませてやるぞ! ヒイヒイあえがせて身も心もおれのものにしてやる!」
世良があたしにいどんだ。あたしは泣いた。リョースケが殺人を犯してまで守ってくれた純潔をこんなやつに奪われるのかと。
そのときだった。廊下に面したすりガラスがガチャンと割れた。カーテンをつたってガラスの破片が床に落ちた。世良がビクンとあたしの上で飛びあがった。
あたしはそのすきをのがさなかった。立ちあがって下着とカバンを手に戸に走った。今度は手順がはっきりしていた。あたしの指はロックを跳ねあげた。
廊下にでたあたしの背中を世良の声が追いかけてきた。
「考えておけよ青桐! 決心がついたらおれに連絡をくれ! おれがおまえの飼い主になってやるぞ! 淫らに尻をふるおれのメスイヌになるんだ青桐! そうすりゃおまえはぶじ卒業だからな! おれにさからえば退学だぞ! 親を悲しませるなよ!」
あたしは泣きながら廊下を走った。なぜ廊下がわのすりガラスが割れたのかを考える余裕などなかった。世良があんな男だとは思ってもみなかった。
あたしはアパートの部屋にもどっても泣きつづけた。どうすればいいのかわからなかった。世良があたしを退学にできるのはまちがいない。あたしはママに迷惑をかけたくなかった。ただでさえリョースケとの関係を噂されていた。高校を退学にされた娘を島の人がどう噂するか聞こえるようだった。しかもだ。あたしは源馬刑事に目をつけられていた。あたしの不用意な言動でリョースケの殺人が露見するとリョースケは逮捕される。
あたしは泣きながらスマホを見つめた。補習の連絡のため世良の番号も登録してあった。あたしが世良に股を開けばなにごともなく歳月は流れ去る。あたしひとりが歯を食いしばればいい。あたしはぶじに卒業するだろう。リョースケの罪も発覚しない。
涙があとからあとからこぼれつづけた。あたしの脳裏に世良の飼い犬として世良の股間にひざまずかされているあたしが見えた。全裸の四つん這いを強制されて淫らにお尻からいどまれているあたしもいた。涙がスマホの液晶画面に落ちては畳を濡らした。
あたしが泣いているとアパートの戸を誰かが叩いた。あたしは世良ではとビクッとした。でもすぐにリョースケの声が聞こえた。
「おいイチズ。おまえのスマホをちょっくら貸してくれ。おれのは壊れたらしい」
あたしは涙をぬぐってスマホもタオルでふいた。玄関の戸をあけるとリョースケの笑顔が見えた。あたしもむりやりニコッと口の端を引きつらせた。
「はいスマホ」
「おお。サンキュー」
用はそれだけだったらしい。リョースケはすぐに背を向けた。あたしはその広い背中にすがりつきたかった。だがそんなことをすればリョースケに事情を話す羽目になるだろう。リョースケが世良を殴ったりするとたいへんだ。源馬刑事とリョースケの接触はさけなければならない。リョースケはいわば解除装置のこわれた時限爆弾だ。いつ殺人という罪が破裂するかわからない危険物だった。
☆
リョースケは部屋にはいるなり机で勉強をしていたスミレに声をかけた。
「スミレ。きょう網元の弁護士から連絡があったぞ。例の件を五十万円で示談にしてくれとよ。五十万円以上ほしければ裁判に訴えろだとさ。どうだスミレ? 裁判を起こすか? 桜子の話だと裁判に勝てば百万円はふんだくれるって言ってたぜ?」
スミレがリョースケをふり向いた。
「だめよそんなの! 裁判だけは絶対にだめ! そんなことしたら島中にわたしがゴーキにやられたってバレちゃう」
リョースケはあごに手をあてた。
「ふーん。やっぱりゴーキか」
ハッとスミレは悟った。
「お兄ちゃん! ハメたわね!」
「怒るなよスミレ。それよかちょっとスマホを貸してくれ。おれのはこわれたみたいなんだ」
スミレはリョースケの言葉をうたがわなかった。
「しょうがないお兄ちゃんねえ。乱暴にあつかってすぐつぶすんだからさ。でもホントに裁判はいやよ。ゴーキの件はもう蒸し返さないでね。わたし慰謝料なんていらないから」
はいとスミレはスマホをさしだした。
☆
あたしは虚脱していた。リョースケにスマホを渡したあとどれくらいたったのかわからない。戸を叩く音がした。あたしは飛んで行った。リョースケだと思った。しかし戸の前にいたのはリョースケではなかった。源馬刑事だった。
「青桐。リョースケがどこにいるか知らねえか?」
あたしは首をかしげた。
「さあ? 部屋にいないんですか?」
「いたら聞かねえよ」
「それもそうですね」
源馬刑事がニヤッと笑った。
「ここだけの話として聞いてくれな青桐。泥棒の常習者には特徴のある犯行をする者が多いんだ。平岡染也はピッキングの達人でな。カギのかかった玄関をあけるのがうまい。平岡の特徴はだ。帰るときはピッキングで玄関のカギをかけるんだよ」
「カギをかける?」
「そうさ。泥棒は仕事が終わると一刻も早く現場を離れたがる。盗んだ品や現金を手に持ってるんだ。犯行現場の近所で見つかれば一巻の終わりだからな。盗みが終わったらとにかく逃げたがる。それがほとんどの泥棒さ。だが平岡はちがうんだ。玄関のカギを施錠する」
「なんで? きちょうめんだから?」
「いいや。玄関にカギがかかってたら帰宅した家人がけげんに感じねえせいだ。通報が遅れれば自分が逃走する時間が一分でも多くかせげる。そういうわけさ」
「なるほど」
「次に平岡の変わってる点はだ。靴箱の靴をチェックするんだ。以前に靴箱の靴に札束を隠してた家があってな。それでそんなくせがついたんだ。最後にな青桐。平岡は血を見ると卒倒しちまうんだよ。平岡は血の恐怖症なんだ。それがなにを意味するかわかるか?」
「血が怖い? ということは?」
「そうだ。平岡は人殺しはしねえ。もしするとしても刃物は使わねえはずさ。紐や手で首を絞めればいいんだからな。もうひとつ決定的なのがある」
「もうひとつ決定的?」
「そうだ。平岡染也にはアリバイがあった」
「アリバイ?」
「ああ。おまえの義父の洋二が殺されたのは午後八時半から九時だ。その時刻すでに平岡は本土にいた。本土でまた空き巣をやってやがったんだ。平岡の指紋が検出されてな。平岡の犯行にまちがいねえんだよ」
「でもフェリーに乗った人の中にその平岡染也はいなかったって?」
「そう。フェリーには乗ってねえ。島を出る最終フェリーは午後九時発だ。その一便前は午後四時。どちらにも平岡は乗ってなかった。平岡は漁船にカネを払ってこの島から本土にもどったんだ。船長の話では午後七時に乗せて八時に本土に着いたそうだ」
「あっ!」
あたしは長者林船長を思い出した。一万円で本土まで送ってくれる。そう言ったはずだ。
「平岡はまだ捕まってねえ。だが平岡が洋二を殺したってのはありえねえんだよ。洋二を殺した犯人は平岡以外の誰かだ。その誰ががおまえじゃねえのも確からしい。じゃ犯人は誰だろうねえ?」
いやらしい目で源馬刑事があたしを見た。淫らないやらしさではなかった。獲物を狙う猟犬みたいな目だった。あたしが黙ると源馬刑事がたたみかけた。
「犯人はリョースケだ。そうだろう青桐?」
あたしの全身がビクンと跳ねあがった。あたしは答えを口にしなかった。でもあたしの身体の反応で源馬刑事は確信をえたはずだ。リョースケが殺人犯だと。
「なあ青桐。リョースケに会ったら伝えてくれ。逃げたら撃つと。たのんだぞ」
源馬刑事はニヤッと笑うとあたしに背を向けた。その時のあたしには源馬刑事がなにをしたかったのかわからなかった。そこでカケエに電話した。カケエが深刻な声をだした。
『源馬刑事はカマをかけたんだよイチズ。殺人現場にリョースケを示す証拠はなにひとつない。源馬刑事は洋二さんの周囲にいる左ききの者の名を関係者に試しただけだよ』
「それってつまりあたしに素知らぬ顔ができればリョースケは殺人犯だとバレなかった?」
『たぶんそうだね。リョースケは多くの容疑者のひとりとしてまぎれこんだはずだ』
「あたしがリョースケを『殺人犯です』と名ざししたの? リョースケが逮捕されたらあたしのせい?」
『いいやイチズ。きみのせいじゃない。動揺しちゃだめだ。証拠はないんだよ。まだ容疑にすぎない。源馬刑事は証拠をつかんでないはずさ。知らぬ存ぜぬで突っぱねれば警察はリョースケを逮捕できない。きみがゆれちゃだめなんだ。源馬刑事はきみを糸口に逮捕の決め手をえようとするはずさ。きみさえ源馬刑事の罠に落ちなけりゃ大丈夫だよ。それからリョースケに事件を起こさせるのもまずい。別件で引っ張ってえんえんと取り調べるのが警察の手口だからね。わかったかいイチズ。冷静でいることが大事だよ』
あたしは冷静になろうとつとめた。でも心臓がドキドキしておさえられなかった。
☆
夜がきた。英会話リスニング室の戸が静かにあいた。はいってきたのは海野ゴーキだ。
「スミレ。どこにいるんだ? 愛しのゴーキさまがやってきたぜ。キスしてくれよ」
気配を殺したリョースケはゴーキの手をつかんだ。室内にゴーキを引きずりこんだ。ゴーキの首がチクリと痛んだ。するどいなにかが首にあてられていた。
「声をだせば殺すぞゴーキ」
ゴーキは口を閉ざした。つづいてまた誰かが英会話リスニング室にはいってきた。
「青桐。決心がついたようだな。まあ悪いようにはせんさ。おまえしだいでは結婚だって考えてやるぞ。さあ下着をぬいで出ておいで」
世良だった。世良の前に立ちはだかったのはリョースケだ。世良が目を見開いた。
「な? なんだおまえ? リョースケじゃないか? こんなところでなにをしてる?」
「ごあいさつだな先生よ。あんたこそこんなところでなにをしてるんだい? こんな夜中に補習かな? 教育熱心だねえ」
「ふっ! ふざけるなっ!」
「ふざけてなんかいねえがね。まあいいさ。ちょっくらおれの話を聞けや。発端はイチズの水着だ。世良おまえはまずイチズの水着を盗んだ。現金ですら盗難を警戒してない学校だ。水着を盗むなんて簡単だった。おれたち同級生に盗む時間はなかった。でもおまえは教師だ。化学の時間に教室にしのびこんで盗むのはちょちょいのちょいさ。誰かに見つかっても担任が自分の教室にいたわけだ。いくらでもごまかしはきくよな?」
「おいリョースケ。なんでおれがそんなことをする必要がある?」
「イチズの水着が欲しかった。まあそいつは冗談だがな。イチズは水着がなくなってるのに気づかず更衣室に行く。更衣室で初めて水着がないと気づく。イチズは転校生だ。知り合いもすくない。誰かに水着を借りて授業にでるとは考えにくい。きっとイチズは見学をえらぶだろう。女には便利な口実があるからな。そのとおりイチズは制服のまま見学を選んだ。おまえはそのあいだに更衣室にしのびこんだ」
「おれはそんなことはしてないぞ。おまえらとちがっておれは社会人だ。はしたガネを盗むなんてバカな真似はせんよ。みすみす教師の職を棒にふるだけじゃないか」
「おまえはカネが欲しかったんじゃねえよ。イチズに財布泥棒の罪を着せて追い詰めたかったんだ。次に階段から友崎を突き落としてイチズを孤立させた。イチズが心細くなったところで強姦する。そういうたくらみだ。イチズを手に入れたら全裸の写真でも撮っておどす腹だったのさ」
「嘘だ! みんなおまえの作り話だ!」
「いいや。友崎の答案に細工したのもおまえだ。いや。友崎の答案に細工できたのはおまえしかいねえ。そう言いかえるべきかな? おまえ以外に友崎の答案に手をくわえられるやつはいねえだろさ。友崎はな。空欄を残すような抜けた女じゃねえんだ。あれで案外したたかな女なんだよ。友崎の答案に細工したのはイチズひとりを補習に残すとイチズが警戒するからだ。友崎といっしょならイチズは警戒しねえ」
「おいリョースケ。おれが友崎の答案をかいざんしたって証拠はあるのか?」
リョースケはふふふと笑った。
「そんなものあるわけねえさ。こないだから妙なことがつづくと思ってただけだ。イチズに泥棒のぬれぎぬを着せたのと友崎を突き落としたのはふたつの目的があった」
「ふたつ?」
「ああ。ふたつだ。ひとつはイチズをゆさぶるためだ。イチズが不安定になれば警戒心がうせる。落ちこんでる女は犯しやすいからな。もうひとつはおまえがイチズをやっちまったあとだ。イチズに盗癖があって恋愛のもつれで親友を階段から突き落とす女だとどうなる? そんな危ない女が警察に訴える。おまえに強姦されたとな。素直に信じる警官がいると思うか? 島民の誰がイチズを信じる? おまえは表向き善人を演じてきた。イチズはよそものでぬすっとで殺人未遂犯だ。イチズの言葉を信じる者はいないだろうさ。イチズがどんなにおまえに犯されたと声を大にしても証拠がなけりゃ相手にされねえ。ふつうはそんな噂が立てば教師として致命的だ。おまえはそれをおそれた。イチズがなにを言ったところで誰にも相手にされない状況を作ったわけだ。追いつめられたイチズにみずから股を開かせようともしたしな。どうだ? どこかまちがってるか?」
「おまえ! 聞いてたのか!」
「あたりまえだろ? あんなにいいタイミングですりガラスが割れるかよバーカ。英語の答案がおかしいって友崎がおれに打ち明けたときから引っかかってたんだ。友崎はな。おれの女だよ。不用になったからってよくも階段から突き落としやがったな。おまえは友崎がいればイチズを強姦できねえから友崎を突き落としたんだ。最初は友崎を利用してイチズの警戒心を解いた。次にイチズを強姦するのに邪魔だから無情にも階段から突き落としやがった。教育者が聞いてあきれるぜ」
「ははは。いまの推理を警察に言ってみろよ。おれと不良のおまえのどちらを警察が信じるかな? 青桐もそうだ。青桐の言葉を信じる者はいないさ。あはははは。証拠はどこにもないんだ。おまえの負けだ大日向。おまえら不良がなにを言ったところで誰にも相手にされんさ。おれは教師だ。聖職者なんだよ。世間が信じるのはおまえじゃなくおれだ。残念だったな。嘘だと思えば警察にでも教育委員会にでも駆けこめばいい。相手にされなくて歯ぎしりするのはおまえだ」
「なるほど。そういう読みをしてたわけか」
ニヤリとリョースケが笑った。世良がひるんだ。
「な? なんだ? まだなにかあるのか?」
「ああ。おれがどうしておまえたちをここに呼びだしたと思ってるんだ? イチズやスミレにスマホを借りてまでよ? 警察に届ける? おれは不良だぜ? そんなまどろっこしいことをするかよ。これは言いたくねえんだがな。恥ずかしいからよ。おれはさ。まだ十六歳なんだ。いやあ恥ずかしいねえ。イチズはもう十七歳になったんだがね」
「はあ? 十六歳がどうした?」
「十六歳の少年がおまえを殺せばどうなるね? 死刑になると思うかい?」
「ま? まさか?」
「いやあ残念だ。もっと話してたかったんだがね。そろそろ終わりにしようぜ先生よ。聖職者らしい刻印をおまえにきざんでやるぜ。おれの女を殺しかけた野郎にかける情けなんか持ちあわせちゃいねえからな」
リョースケが世良に飛びかかった。リョースケの左手には一本の釘がにぎられていた。こないだはメスだったから青桐洋二を殺した。きょうは殺す気がなかった。釘で人は殺せない。しかし傷つけるにはじゅうぶんな凶器だった。さっきゴーキの首にあてたのもこの釘だ。
「うぎゃーっ!」
世良の悲鳴が夜の英会話リスニング室にこだました。リョースケは世良の顔のまん中に釘でX字の傷を描いた。鼻の上で交差して両目を避けた傷だった。釘できざまれた傷はたまらない。引っかくようにえぐりこまれた傷はキザキザだ。治りもおそいし縫い痕も醜い。そんな傷を顔のまん中にきざまれたら一生消えない。さわやかな笑顔だけが取り柄の男にそんな勲章がつけば残るものはなにもない。
リョースケは血のついた釘をふって血のしずくを払った。次に足をゴーキに向けた。
「く! くるな! こっちに来ないでくれえ!」
ゴーキが尻を床につけた。そのまま尻であとずさった。
リョースケは口の端にニヤニヤ笑いを浮かべたまますり足でゴーキに近寄った。
「なあゴーキ。おれはおまえに敵意も悪意も抱いてねえ。だがな。スミレに手をだしたなら別だ。悪いがその命取らせてもらうぜ」
ゴーキの顔がさっと青ざめた。ゴーキの股間からシャーッと音がした。床に水たまりが広がりはじめた。ゴーキは小便を洩らしていた。
「おれは嘘つきがきらいだぞゴーキ。あそこで床をのた打ちまわってる男が見えるよな? ああなりたくなかったら真実を答えろ。スミレを強姦したのはおまえだよな?」
うんうんとゴーキが口をヒクヒクさせながらうなずいた。口が思うように動かなくて声がだせないらしい。世良は顔を押さえたまま床で七転八倒中だ。
「スミレはおれの女だが妹でもある。おまえを殺すのは簡単だ。だがな。一発ハメただけで殺すのもかわいそうだ。スミレは処女でもなかったしな。まあスミレを傷つけたのはたしかだ。おれもおまえのどこかをきざんでやろうか? スミレの女の部分をおまえは傷つけた。おまえをきざむには男の部分がいいかな?」
ゴーキがいやいやをした。必死で首を横にふった。声はまだ出ないようだ。
「おまえのことだ。スミレの写真を撮っただろ? それはどこにある?」
ガクガクふるえるゴーキが目でズボンのポケットを示した。
「そうか。スマホにはいってるわけだな。なあゴーキ。次にスミレに近づいたらどうなるかわかるよな? おれはどこにいてももどってきておまえの心臓にこの釘を突き立てるぞ。おれの目をよく憶えとけよ。おれは本気だからな。おまえが死んでもいいほどスミレが好きなら花でも贈って根気よく口説けよ。そこまで根性がないならスミレにゃ近づくんじゃねえ。わかったか?」
リョースケは舌を長くのばしてレロレロとふった。どう見ても正気の人間には見えなかった。血に飢えた殺人鬼だった。ふうっとゴーキの全身から力が抜けた。ゴーキの首ががっくりと折れた。
「おや?」
リョースケはゴーキに寄った。ゴーキのまぶたを指でこじあけた。黒目がどこかに行っていた。気絶したらしい。
「ちっ。根性なしめ」
リョースケは世良に目を向けた。世良も小便を洩らして床にのびていた。こちらも痛みで気を失なったようだ。世良の顔の下は血だまりができていた。あんがい大量の血だった。
「また出血多量で死なれちゃ厄介だな。しょうがねえ。救急車でも呼んでやるか」
リョースケは自分のスマホをだして消防署につないだ。ゴーキのポケットからはゴーキのスマホを失敬した。近づく救急車のサイレンを背中で聞きながらリョースケは学校を離れた。
☆
あたしがしつこく泣いているとまた戸を叩く音がした。ママは今夜も飲み会だ。戸をあけると今度こそリョースケだった。犬のロクを連れていた。リョースケがスマホをさしだした。あたしのスマホだった。あたしはスマホを受け取ってロクの頭をなでた。
「こんな夜中にロクの散歩なの?」
「まあな」
「あっ! そうそう! 源馬刑事があんたを捜してたわ! 疑ってるの。どうしよう?」
リョースケがニッコリと笑った。
「おまえの心配することじゃねえよ。大丈夫だ。安心しろイチズ」
あたしはぜんぜん安心できなかった。
「逃げたら撃つって言ってたわよ。あいつ本当に撃つわ。源馬刑事を見ても逃げないでね」
「ああ。わかった。おとなしくなりゆきにまかせるとしよう」
リョースケがあたしに背を向けた。あたしはその背中にすがりたかった。あたしはきっとあした世良のものになる。今夜リョースケにあげないとあたしはあたしではなくなる。でもリョースケに世良の件は話せない。いまリョースケと世良がいざこざを起こしたらリョースケは源馬刑事に追いつめられるに決まっていた。リョースケが逮捕されるよりあたしが世良の犬になればいい。あたしは歯をかみしめてリョースケの背中を見つめた。
するとふいにリョースケがふり返った。泣きそうな顔のあたしにリョースケの顔が近づいた。リョースケがあたしの口を求めた。あたしは狂おしい熱さでリョースケの舌に応えた。あたしの思いが伝わった。そう思った。あしたからあたしは世良の牝犬になる。きょうだけリョースケのものでいさせてと。リョースケからキスをされるのは初めてだった。のぼせあがったあたしはそのキスの意味に気づかなかった。そしてリョースケの目がもうあたしのうしろを見つめていないのにもだ。
リョースケの口があたしを離れた。あたしは泣いていた。でもリョースケを引きとめはしなかった。泣くだけがあたしにしてあげられる最後の贈り物だった。リョースケはすでにスミレちゃんのものだ。スミレちゃんはリョースケがあたしを抱くのを禁止しているはずだった。
リョースケが去りぎわに口にした。
「イチズ。おまえはちゃんと高校を卒業しろ。おれがぜんぶ持ってってやる。おまえの涙はおれが残らず持ち去ってやるさ」
あたしにはその言葉の意味がわからなかった。まさかすでにリョースケが世良を傷つけていたとは思わなかった。知っていればあたしはリョースケを放さなかった。リョースケをひと晩中抱きしめてあたしのすべてをリョースケにあげただろう。愛してるとリョースケにささやきつづけたにちがいない。夜が明けるまで。
あたしに背を向けたリョースケの手にはカバンがさがっていた。ロクのフンを始末する道具だろう。そう思ってあたしは気にとめなかった。
その夜の若菜島は大騒ぎになった。ゴーキの父の網元が漁師たちをかき集めて島中を捜させた。リョースケをつかまえて叩き殺せとだ。世良とゴーキは円城寺病院に運びこまれた。世良は顔を三十針縫うケガだった。大ケガと言うべきなのかはわからない。命に別状はなかった。だが一生残る傷なのはまちがいない。ゴーキに外傷はひとつもなかった。しかし精神的に巨大なショックを受けたようだ。ゴーキはうわごとを言うだけで精神の焦点が合わなくなっていた。重症という点ではゴーキだったかもしれない。
世良は警察に説明した。自分で発作的に傷をつけたと。顔のまん中に釘でXの字をきざむのは通常の喧嘩ではない。よほどの恨みだ。リョースケにやられたと警察に言えば警察はかならず追求する。どういう理由でリョースケともめたのかと。リョースケより世良に痛む腹が多かった。あたしの水着や更衣室の八万円だけで教職を追放されるには充分な理由だろう。玲ちんを突き落としたことが発覚すると殺人未遂だ。先生が教え子を暴行する目的で別の教え子を突き落とした。それでは抗弁のしようもあるまい。世良としてはリョースケが口をつぐむのに賭けるしかなかったのだろう。
リョースケのしわざとわかったのはゴーキがうわごとで『リョースケが来る』と言いつづけたせいだ。そのため網元がリョースケ狩りをはじめた。あたしは心配で眠れなかった。リョースケがいまにも捕まって殺されるのではとだ。源馬刑事もリョースケを追っていた。殺人容疑はまだ推測でしかない。だが世良の件は明らかに傷害事件だ。いますぐ逮捕できる。別件で逮捕して殺人をゲロさせれば一課をだしぬく大手柄だ。本土復帰も夢ではない。
しかしリョースケは誰にもつかまらなかった。すでに島にいなかったせいだ。リョースケと犬のロクは島から消えていた。泳いで本土にわたったわけだ。
円城寺病院の寮はもともと看護婦寮だった。そのせいで入居者に看護婦が多い。あたしはロクが好きだ。しかし犬が怖い看護婦もいた。守秀院長にロクをよそにやってくれという声が寄せられていたらしい。それでリョースケはロクを連れて島を出たようだ。
リョースケがつかまらないまま夏休みにはいった。世良は先生を辞めて学校を去った。
ゴーキは夜に眠れなくなった。リョースケが殺しにくると錯乱状態でわめきちらした。ゴーキは精神科の医院に入院した。退院したあと全寮制の監獄もどきの男子校に転校した。そこならリョースケが来ない唯一の高校だ。そう踏んだのだろう。
島に流れた噂では『リョースケの女に手をだしたからふたりはしめられた』となっていた。リョースケは女がらみでしか暴力事件を起こさなかったせいだ。
あたしは世良については納得していた。リョースケが最後にあたしに言ったのは世良をしめたから安心しろという意味だと。しかしゴーキが誰に手をだしたのかはわからなかった。まさかスミレちゃんをレイプしていたとは夢にも思わなかった。あたしはてっきり玲ちんを突き落としたのがゴーキだと思った。ゴーキがなにかの腹いせで玲ちんの背中を突いたとだ。まさか世良があたしをレイプするため邪魔になる玲ちんを突き落としたとは思いもしなかった。
あたしはいまでも夢に見る。夜の海を泳ぐロクとリョースケだ。暗い波間から出た頭ふたつがあたしの脳裏にこびりついて離れない。夢の中であたしはロクに声をかける。
ねえロク。暗くて冷たい海を四十キロも泳ぐリョースケをあなたが支えてあげてよ。ちいさな身体でたいへんだと思うけどさ。
ロクはワンと吠えてあたしに顔を向ける。まかせとけとばかりにだ。あたしはロクの頭をなでたくてなでたくてもどかしさに目が覚める。目が覚めたあたしの前にリョースケはいない。ロクもまたいなかった。あたしはいつもベッドに身を起こしてリョースケの名を呼ぶ。涙をこぼしながら『リョースケ! リョースケッ! リョースケェ!』と。