第六章 夏祭りの夜はパンティをぬがされる
玲ちんがあたしのひじをツンツンと突いた。英語の補習の休憩時間だった。
「ねえねえイチズ。リョースケくんとやっちゃったの?」
あたしは玲ちんの顔を見た。どうしていきなりそんな問いをするのかわからなかった。
「ううん。まだよ。キスしただけ」
「でもさ。イチズがリョースケくんと両手をにぎり合って夢中で腰を使ってた。そんな映像があるそうよ。リョースケくんと熱烈なくちづけを交わしながらね」
あちゃあとあたしは目を閉じた。そうだった。あたしはリョースケにさわられまいとリョースケの両手をつかみながらキスしたんだった。たしかにあのときリョースケの上に乗っていた。あたしはスカートだった。すでに太陽は沈んだあとだ。光のとぼしい映像でスカートに隠れた部分が結合しているかは判別不能だろう。期待して見ている人にはそうとしか見えないに決まっていた。最後まで行かなかったせいであたしは監視カメラがあることを忘れていた。結局あたしは若菜島役場の流出映像に出演する羽目になったようだ。
あたしはあの手この手で玲ちんを説得した。リョースケとエッチをしたらかならず報告するからと。玲ちんは不審顔ながらあたしとリョースケがキスだけだと受けいれた。
補習が終わってあたしは玲ちんと英会話リスニング室をでた。英会話リスニング室は四階だった。四階にはパソコン室などの専門の教室があるだけだ。一年生は一階。二年生は二階。三年生は三階。そういう構造になっていた。校舎は中央に階段を持っていた。
階段をおりかけたときだ。あたしは尿意を覚えた。
「玲ちん。あたしトイレに行ってくる。先に行ってて」
あたしは玲ちんの返事を聞かずトイレに走った。あたしが洗面台で手を洗っている時だ。
「きゃーっ!」
玲ちんの悲鳴が聞こえた。あたしは階段に走った。階段に玲ちんの姿はない。あたしは三階まで駆けおりた。三階と二階のあいだの踊り場で玲ちんが倒れていた。あたしは玲ちんまで駆けくだった。
「玲ちん! 玲ちん! 大丈夫!」
あたしは玲ちんを呼んだ。だが玲ちんは目をあけなかった。玲ちんはいびきをかいていた。眠っているとは思えない。様子が変だった。玲ちんは階段を転げ落ちたようだ。一階から三階の各教室で補習をしていた先生たちや生徒も集まってきた。あたしたちに補習をしていた世良先生も上からおりてきた。あたしはスマホをカケエにつないだ。
「カケエ! 玲ちんが大変なの!」
『イチズ。落ち着いてよ。友崎さんがどうしたのさ?』
「階段から落ちて意識がないの! いびきをかいてるわ!」
一瞬カケエが考えた。
『脳内出血を起こしてるかもしれないな。わかった。ドクターヘリを要請してもらうよ。友崎さんにふれないように待っててね。この県のヘリコプターは時速二百五十キロだから救急車なみに速いよ』
通話を切って三分でまずカケエが到着した。カケエは玲ちんのまぶたを裏返して玲ちんを調べた。玲ちんのいびきはとまらない。血はどこからも出てなかった。先生たちも生徒たちも遠巻きに見守るだけだった。カケエがあたしに顔を向けた。
「まずいみたいだね」
「まずい? 玲ちん死んじゃうの?」
「いや。そうは言えない。でも処置が遅れると脳に障害が残るかも」
そんな話をしているとリョースケがやってきた。リョースケの左腕にはスミレちゃんがくっついていた。スミレちゃんのベタベタ度が増したようにあたしには思えた。あたしがスミレちゃんとリョースケを引き離そうとしたときだ。校庭にヘリが着陸した。すぐにタンカを持った救急隊員と白衣のおじさんが階段を駆けあがってきた。カケエが白衣のおじさんに声をかけた。
「頭を打ったみたいです。脳に出血があるかもしれません。県立医大に脳外科の専門家がいるはずです。県立医大に搬送してくださいませんか」
「きみは?」
「この島の円城寺病院の息子です」
「ああ。聞いてるよ。円城寺先生のじまんの息子だってね」
救急隊員がそっと玲ちんをタンカに横たえた。白衣のおじさんが玲ちんの脈を調べながらヘリまで走った。ヘリは玲ちんを積むとあっと言う間に飛び立った。あとに残されたあたしたちは肩から力がドッと抜けた。集まっていた先生と生徒たちが帰りじたくを始めた。
残ったのはあたしとカケエとリョースケとスミレちゃんだった。カケエがあたしを見た。
「ところでイチズ。友崎さんになにがあったんだい?」
あたしは首を横にふった。
「あたしにもわからないの。あたしがトイレにいるとき玲ちんの叫びが聞こえたのよ。走って行くと玲ちんが階段の踊り場で倒れてたの。足を踏みはずして階段を落ちたんじゃないかしら?」
リョースケが首をかしげてあたしを見た。
「友崎は慎重な女だぞ? おまえとふざけてたのなら別だがひとりでいて足を踏みはずすかねえ?」
「でも玲ちんはひとりだったと思うわよ? 玲ちんは三階と二階のあいだで倒れてたわ。つまり三階からの階段で足を踏みはずしたはずよ。三年生の補習組に知り合いがいるなんて聞いてないわ」
四階で補習をやっているのはあたしと玲ちんのふたりだけだった。二階の二年生には知り合いがいた。一階にはスミレちゃんがいた。だから二階や一階なら知り合いとふざけたかもしれない。しかし三階でそれはない。スミレちゃんが補習をさぼったとあたしは知らなかった。
あたしとカケエとリョースケとスミレちゃんは腑に落ちない顔でドーナツ店にはいった。そのまままっすぐ家に帰る気分ではなかった。いらいらしながら無言でドーナツを食べ終わった。店をでようかどうしようか迷っているとカケエのスマホに連絡がきた。
「はいぼくです。ああお父さん。友崎さんはやっぱり脳内出血だったって? 手術はぶじに終了? 全治一週間? でも退院は一ヶ月先? なんなのそれ? えっ? 足の骨が折れてる? そちらの治療をこれからするって? なるほど。でも命に別状はないわけね?」
カケエはそのあとすこし会話をして通話を切った。カケエは沈んだ顔に変わっていた。
「玲ちんはどうなったの? なにか問題でも?」
カケエが力なく首を横にふった。
「友崎さんは意識がもどったってさ。後遺症もなさそうだって」
「じゃなんでカケエは暗い顔なの?」
「友崎さんはこう言ってるそうだ。『誰かに背中を押された』って」
あたしはびっくりした。
「ええーっ! なにそれ!」
「父さんの話ではね。警察に届けをだすって友崎さんの家族が話してるってさ。警察が動けばこの件は傷害事件か殺人未遂事件になるだろうね」
「殺人未遂!」
あたしはまさかと思った。玲ちんを殺したいやつがいるなんてとだ。あたしは仁木板や七瀬の顔を思い浮かべた。それからリョースケを見た。玲ちんが狙われるとすれば動機はリョースケ以外に考えられなかった。リョースケの女の誰かが玲ちんに恨みを持ったのではないだろうか?
その日の夜だ。源馬刑事と木之元署長があたしをたずねてきた。玲ちんの落ちたときの事情を聞きたい。そう源馬刑事が切りだした。
「青桐。友崎が落ちた時おまえはトイレにいたんだろ? それを証明する証拠はあるか?」
源馬刑事の口調であたしは悟った。源馬刑事はあたしが玲ちんを突き落としたと疑っていると。
「証拠があるわけないでしょ? トイレにも校舎内にも監視カメラはなかったんだから」
「残念だな青桐。カメラがなくて」
あたしには『玲ちんを突き落とした瞬間をカメラがとらえなくて残念だ』と聞こえた。『あたしがトイレにいたのをカメラで証明できないのが残念だ』とは聞こえなかった。
源馬刑事がつぶやくように口にした。
「友崎とおまえはリョースケを奪いあうライバルだったそうだな? おまえが悲恋岬でリョースケと関係を持ったビデオを見たぞ。前回の更衣室盗難事件では証拠がなかった。今回も証拠がなければおまえは安泰だな」
そんな捨てゼリフを残して源馬刑事が去った。木之元署長は薄くなりかけの頭をハンカチでぬぐっていただけだった。木之元署長は警察官としては無能のようだ。
あたしは胸にずっしりと重い塊を押しこまれた気がした。源馬刑事は玲ちんを突き落としたのも更衣室の泥棒もあたしだと信じているようだ。証拠がなければ警察はあたしを逮捕できない。でもだ。証拠がないとあたしが無実だとも証明できない。これから先もあたしは源馬刑事につきまとわれるのではないか? 泥棒と殺人未遂の容疑者として?
そう考えてあたしは思い出した。更衣室事件のときに消えたあたしの水着だ。あたしの水着は家にもなかった。どうやら学校に持って行ったのはまちがいないようだ。誰かがあたしたちの教室に侵入してあたしの水着だけを盗んだらしい。化学教室へ移動のさい財布は各自が身につけていた。だから教室を空にしたときに財布は盗まれなかったのではないか?
しかしなぜだろう? あたしの水着だけが盗まれたのは? あたしの水着一枚を売ってもはしたガネにしかならないはずだ。ひとクラスの女子全員の水着を売れば多少はまとまったカネがはいるのではないか? 化学教室へ移動したとき全員が水着袋を教室に残していたはずだ。それともあたしの水着を盗んだ時点でチャイムが鳴ったのだろうか? あたしにはあたしの水着だけを盗んだ理由がわからなかった。犯人はそのあとで現金を盗っている。おカネが欲しいのはまちがいない。それとも水着泥棒と財布泥棒は別人なのだろうか?
玲ちんが落ちた翌日だった。あたしは玲ちんのお見舞いに行った。源馬刑事はあたしが玲ちんの背中を押したと踏んでいた。クラスの女たちもそう思っているらしかった。あたしを横目で見てのひそひそ話は輪をかけて活発になっていた。しかし玲ちんもその家族もあたしが犯人だと思ってないようだ。あたしが見舞いに行きたいと言うと玲ちんのお母さんはぜひにと喜んだ。
玲ちんの入院した病院は遠かった。玲ちんは頭に包帯を巻いていた。左足はベッドの上から吊られていた。
「やーん。イチズがきてくれたあ。うれしいよぉ」
あたしの手を握る玲ちんは元気いっぱいだった。とてもきのう死にかけたとは思えない。
「玲ちん。その頭」
「ああ。これ? たいしたことはないの。ちいさい穴をあけられちゃっただけよ。ハゲにもならないってさ。でもね。お祭りに行けなくなっちゃった。あしただったのにね」
そういやそうだとあたしはうなずいた。
「まあね。また来年があるわよ。ところでさ。背中を押したやつに心当たりはないの?」
玲ちんが顔を曇らせた。
「ええ。警察にも聞かれたんだけどさ。ぜんぜん見えなかったの。足音も聞こえなかったしね。わたしちょうど三階から二階へおりるところだったの。耳をすましてイチズが追いつくのを待ってたわ。気づかないふりをして突然ふり向いてワッとおどしてやろうって」
「ふうん。そんなことをたくらんでの」
「そうなのよ。だって誰かさんたらわたしのリョースケくんに馬乗りになって犯すみたいにキスをするんですもの。好きじゃないって言ってたのにねえ。エッチまでは時間の問題よね」
あたしはうろたえた。また図星だ。
「そ。それはさておいてよ。犯人に心当たりはないわけね?」
「まるでないわね。わたしが恨まれる心当たりはリョースケくんだけよ。でもわたしを突き落とす前に仁木板さんと七瀬さんを突き落とすべきだわ。わたしがいなくなってもリョースケくんは手にはいらないもの」
「そ。そんなことはないわよ」
玲ちんがあたしをにらみつけた。
「いーえ。そんなことはあります。いま一番狙われそうなのはイチズよ。リョースケくん関係で目の上のたんこぶはあんたなの。例のビデオがDVDにされて出回ってるって話よ」
あちゃあとあたしはおでこを押さえた。でも気を取り直して訊いた。
「じゃ玲ちんはあたしとまちがえられて階段から?」
「まさか。それはないわね。わたしとイチズじゃ身長がちがいすぎるもの。わたしクラス一のチビで小柄よ。わたしと誰かをまちがえるってのはありえない」
「そうか。うしろ姿でもまちがえようがないわねえ。でもよ玲ちん。どうして背中を押した犯人があたしじゃないと? 犯人を見てないんでしょ? あたしかもしれないわよ?」
玲ちんがあははと笑った。
「ううん。イチズじゃないの。それはたしかよ。イチズあんた気づいてないのね? あんたの右手のブレスレットよ。それがチャリンチャリンってけっこうな音を立ててるの。だからイチズが近づけばわかるのよ。ねーえイチズ。その妙な見たことのないブレスレットはだーれにもらったのかなあ?」
玲ちんの目が針の先にも似た三日月型にほそまった。
「いやみな訊き方をしないでよ。知ってるくせに」
「知ってるからいやみなのよねえ。リョースケくんにプレゼントをもらった女の子っていないのよ。イチズだけ特別あつかいでいいなあ」
「いえ。これは文代さんのお見舞いを買って行ったお返しなのよ」
「あーら。わたしたちが文代さんのお見舞いに手ぶらで行ったとでも? 仁木板さんも七瀬さんも誰ひとりリョースケくんにお返しなんかもらわなかったわ」
「それはきっと。そうねえ。そうだわ。あなたたちが喧嘩になるからひかえたのよ」
「イチズにあげたほうが喧嘩になるわね確実に」
「あーん。玲ちんがいじめるぅ」
「あーすっきりした。リョースケくんに馬乗りでキスをして浮かれる女が親友だなんてわたしもつらいのよね。そんなによかった? リョースケくんを犯したいと思った?」
「ノ。ノーコメントでひとつお収めくださいませ玲ちんさま」
そのとき玲ちんのお母さんがはいってきた。気の強そうなお母さんだった。あたしはそそくさと退散した。玲ちんのお母さんにリョースケの話は厳禁だからだ。
☆
翌日は夏祭りだった。夏祭りだというのに高校は休みではなかった。補習もだ。四階で補習をうけるのはあたしひとりになった。
島の中は朝からみこしが走りまわっていた。みこしは島中を行き来して午後九時に海神神社にもどるらしい。そのときが祭りのクライマックスで花火が打ちあげられるそうだ。海神神社の境内には露店がならんで夕方から営業を始めると聞いた。
あたしは玲ちんと祭りに行く予定だった。その玲ちんが入院した。カケエが気をつかってあたしを誘ってくれた。あたしは上の空で返事をした。リョースケはあたしを誘ってくれなかった。スマホにメールすら来ない。落ちる夕陽を見ながら悲恋岬でキスをしたのは六日前だ。あたしはとうぜんリョースケが祭りに誘ってくれると信じていた。なのに今週にはいってリョースケはあたしをさけていた。あたしはきらわれるようなことをしたのだろうか? みっともない泣き顔を見せたせいか? それとも自分から積極的に舌をからめたのがまずかった? はたまた監視カメラの映像が出回ったせい? 馬乗りになったのがまずかったのかなあ? あたしは祭りに行くしたくをしながら悩みつづけた。
ママは病院の先生たちと今夜も飲みに行くそうだ。祭りだというのにあたしにゆかたも用意してくれなかった。義父はひとりでパチスロにでも行くはずだ。
カケエと約束した午後五時がきた。あたしはTシャツにスカートで海神神社の参道に立った。なかなかの人ごみだった。鳥居の柱の前にカケエが見えた。リョースケとスミレちゃんもいた。スミレちゃんはリョースケの左腕に腕をからめてぴったり密着していた。
あたしはスミレちゃんの前に足を進めてイラッときた。ひとつはスミレちゃんの口もとだ。勝ちほこったとしか思えない笑みが浮いていた。もうひとつはゆかただった。黒髪美人のスミレちゃんに藍の大輪の花が咲くゆかたは似合いすぎた。赤い鼻緒の下駄はかれんそのものだった。あたしはと言えばよれよれのTシャツにすすけたスニーカーだ。どちらの女の子を連れて歩きたいかは一目瞭然だった。カケエがあたしに声をかけた。
「イチズはなにをしたい? 金気すくい? ヨーヨー釣り? 輪投げや射的もあるよ。それとも食べ物がいい? リンゴ飴? パインスティック? 綿菓子?」
あたしは精一杯の笑顔を作ってカケエに向けた。リョースケなんか無視だ無視。
「金魚すくいがいいかな。焼きそばってのもいいかも」
あたしは晩ご飯を食べてなかった。家に帰っても自分で作らなければならない。
リョースケがスミレちゃんをくっつけたまま口をだした。
「じゃ焼きそばとお好み焼きでも食おうぜ」
スミレちゃんがリョースケのシャツをツンツンと引っ張った。
「お兄ちゃん。わたしゆかたよ」
リョースケがけげんな顔をした。
「はあ? おまえがゆかたなのは見りゃわかる。それがどうした?」
あたしは見かねてリョースケの胸をつついた。
「ゆかたにソースがこぼれると困るって言ってるの。染みになったら悲しいでしょ?」
リョースケがああとうなずいた。
「じゃスミレは置いて行こう」
スミレちゃんがリョースケにからむ腕に力をこめた。
「ええーっ! そんなのないよぉ!」
あたしはそのリョースケとスミレちゃんから顔をそむけた。リョースケとスミレちゃんの関係が先週とちがっているように感じた。より接近したみたいに見えた。
海神神社の境内は大混雑と言ってよかった。若者だけではなく屋台を目的としない大人たちもいっぱいいた。カケエがあたしにその理由を説明してくれた。
「六時から神社の祭壇で巫女が舞いを披露するんだよ。今年の主役は仁木板蓮夢さんなんだ。漁師は巫女の投げるモチを拾うとその年は豊漁まちがいなしなんだってさ」
「節分の豆まきみたいなものね」
あたしたちはやきそばを食べたあとその舞台をながめた。
仁木板蓮夢は頭にクジャクの羽根を十枚つけて踊っていた。いつもより数倍派手だった。
モチまきが始まる前にあたしたちは舞台の前を離れた。参拝者がモチを拾おうと必死になって危ないそうだ。押されてケガをしては屋台で遊べなくなる。
人波に巻かれそうになったあたしの手をカケエがつかんだ。あたしはカケエに手を引かれて歩いた。リョースケはスミレちゃんの手を離さない。あたしは嫉妬の目でスミレちゃんをにらみつづけた。カケエがあたしを引っ張って行ったのは金魚すくいの露店だった。水槽に大小さまざまな金魚がおよいでいた。赤や黒やまだらの金魚がスイスイと涼しげだった。その中でひときわ目を引く巨大な金魚が三匹いた。色は白と黒と茶のぶち模様だった。まるで三毛猫のような金魚だった。あたしは思わず声をあげた。
「きゃー! でっかいデメキン!」
「きげんが直ったみたいだねイチズ」
カケエが店のおじさんに千円をわたした。おじさんがあたしに金魚をすくう輪っかと金属のお腕のペアをさし出した。スミレちゃんがあたしに敵意のこもった目を向けた。
「勝負よイチズ! 釣りでは一度も勝てなかったけど金魚すくいはわたしが勝つわ! お兄ちゃんとカケエも参加するのよ!」
カケエとリョースケが肩をすくめた。あたしは金魚すくいの勝負なんかしたくなかった。あの巨大なデメキンをすくってみたかっただけだ。勝負をしているとデメキンはすくえない。それでもスミレちゃんにつき合うしかなかった。あたしたち四人はよーいドンで金魚すくいに挑戦した。
あたしはスミレちゃんを横目で見ながら着実に金魚をすくった。スミレちゃんと数が同じになるとあたしはデメキンに挑戦した。デメキンは三匹だ。それぞれが大きいくせに動きは敏捷だった。そのあとあたしはスミレちゃんにつかず離れずでスミレちゃんを追った。スミレちゃんは金魚すくいが得意みたいだ。あたしはデメキンを追うひまがなくなった。最初はよゆうがあったが最後はスミレちゃんに離されないようにするのが精一杯だった。
金魚すくいに時間制限はない。紙がやぶれてすくえなくなった時点で終わりだ。カケエが一番先に脱落した。次がリョースケだった。あたしは輪っかのすみに残った切れっぱしで極小の金魚をすくいつづけた。スミレちゃんもわずかな紙で金魚をすくった。
はじめあたしはスミレちゃんに勝ちをゆずろうとたくらんでいた。金魚すくいに勝ったところで金魚がもらえるだけだ。大日向家の家計のたしにはならない。でもやっているうちに意地になってきた。スミレちゃんがリョースケの腕にしがみつきっぱなしというのにも腹が立った。最後の一匹という時にはすっかり頭に血がのぼっていた。
「スミレちゃん! この一匹が勝負よ! これをすくえたほうが勝ちね! 負けないわ!」
スミレちゃんが答えた。
「ええ! 今度こそわたしが勝つわ! イチズなんかに負けない!」
いまお椀の金魚は同数だった。輪っかには紙の破片がしがみついているだけだ。これだけの紙で金魚がすくえるかは疑問だった。しかしあたしはたとえ金属のわくだけになってもすくう気でいた。『イチズなんかに負けない』と言ったスミレちゃんの言葉が金魚ではなくリョースケをさしているように思えたせいだ。あたしは必死で金魚を追った。一番ちいさい金魚に狙いをつけた。金魚が輪っかの紙に乗った。その瞬間だった。紙が水とともに外わくからはずれた。金魚は紙の破片を道連れに水槽にもどった。スミレちゃんはそのとき最後の金魚を紙の残りといっしょにお椀に落としこんでいた。
「やったあっ! ついにイチズに勝ったわっ!」
あたしはがっくりと肩を落とした。泣きそうになった。たかが金魚すくいではなかった。初めての恋にやぶれた気になった。あたしは浮かない顔でお椀の金魚を水槽にもどした。金魚たちは広い場所に帰れたのがうれしいのか元気に泳ぎはじめた。スミレちゃんは金魚をくれるというのを辞退した。これから遊ぶというのに金魚をぶらさげていては足手まといにちがいない。あたしはゆうゆうと水槽を泳ぐ三匹のデメキンを脱力状態でながめた。
カケエがあたしの肩を叩いた。
「次はどこに行くイチズ?」
あたしはデメキンをながめながら答えた。
「あたしもう一回金魚をすくう。カケエたちは別のところで遊んできなさいよ」
あたしは半分すねていた。半分は本気でデメキンをすくう腹だった。
あたしはデメキンを追いまわし始めた。
「うー。なんであいつあんなに速いのよ?」
するとリョースケがあたしの肩にあごを乗せてデメキンを見た。
「大きいやつは客寄せにいれてあるのさ。だから簡単にすくえねえよう特別元気なのを選んでるんだ。あんなのをすくおうとすれば紙がすぐやぶれちまうぜ。やめとけやめとけ」
リョースケの忠告どおりだった。あたしはデメキンを紙に乗せた。でもデメキンの重さで紙ごとデメキンは水槽に落ちた。お椀に落とすことはできなかった。
あたしは意地になって金魚屋のおじさんにおかわりをした。でも二回目も同じだった。あたしは三回目に挑戦した。あたしは金魚すくい屋の策謀にまんまと引っかかったわけだ。スミレちゃんは最初あきれ顔であたしを見ていた。でもあたしが三回目に失敗するとスミレちゃんの目が輝いた。
「わたしもやる! イチズにすくえないデメキンをわたしがすくってあ・げ・る!」
親切心からではないとあたしにはわかった。スミレちゃんはあたしに勝ちたいわけだ。あたしにすくえないデメキンをゲットしてあたしの鼻を明かしたい。そういう意図だろう。スミレちゃんが挑戦するとリョースケとカケエも参加した。三人がかりで三匹のデメキンを追いまわした。でもお椀にデメキンを収めることはできなかった。あたしはその三人の失敗を肩ごしにながめて笑い転げた。三人とも意地になってくり返したがやはりすくえなかった。結局だれもデメキンをすくえなかった。デメキンはいまもゆうゆうと水槽の中だ。
あたしたちは金魚すくいを離れて露店を見てまわった。巫女の舞いを見ていた人たちが屋台に流れてきたのか人波はふえる一方だった。ゆだんをするとそのまま押し流されてとまれなくなる。あたしはリンゴ飴を買おうと思った。でも人波に押されてリンゴ飴売りの前でとまれなかった。
人いきれでかなり暑くなった。そのせいかかき氷屋の前で人波が停滞していた。あたしたちはかき氷屋の手前で足踏みをしていた。なかなか列が進まなかった。
かき氷屋の前をすぎた。とつぜん流れが速くなった。あたしは人の流れに押された。あたしの手をつかんだのはリョースケだった。
「大丈夫かイチズ?」
「ええ。なんとか」
あたしはあれっと気づいた。
「リョースケ。スミレちゃんは?」
リョースケの左腕にしがみついていたはずのスミレちゃんがいない。
「えっ? そういやいねえな。いまので流されたか?」
カケエが前とうしろにキョロキョロと目を走らせた。
「近くにいないみたいだよ? どうする? 迷子の呼び出しをする?」
「おいおいカケエ。そんなことしたらスミレの頭にツノが生えるぞ。節分じゃねえんだ。鬼には用がねえ。取りあえずおれたちだけで捜そうぜ」
あたしたちは人波に押されながらスミレちゃんをさがし始めた。
☆
人波に押されてリョースケたちからはぐれたスミレの前にゴーキが立ちはだかった。
スミレはひるんだ。生物教室の一件以来スミレはゴーキを徹底的にさけていた。補習も休んでいた。スミレはゴーキの顔を見るなり駆けだした。人波をかきわけて逃げた。ゴーキもまたスミレを追って走った。ふたりとも多くの人間が邪魔で思うように走れない。
海神神社は山の中腹にあった。境内からは山を取り巻くようにわき道がのびていた。スミレは人のいない細い道に逃げこんだ。スミレは足に自信があった。相手は肥満体のゴーキだ。ゴーキは長距離走が苦手と聞いていた。しかしスミレには誤算がひとつあった。スミレはゆかただ。足はスニーカーではなかった。下駄だった。
スミレは下駄の歯を木の根に引っかけた。ガクンと身体が前につんのめった。スミレは足を見た。右の下駄の鼻緒が切れていた。そこにゴーキが追いついた。
「はあはあ! もう逃げられねえぜスミレ!」
スミレは顔をしかめた。鼻緒の切れた下駄では走れない。しかもみずから人けのない山中に逃げた。ここでゴーキに関係をせまられても助けてくれる人はいない。
ゴーキはうすら笑いを浮かべてスミレににじりよった。
「おいスミレ。どうしておれの呼び出しに応えねえんだよ? おれはおまえのいやらしい写真を持ってるんだぞ? 学校や島中に貼りだしてもいいのか? おまえはこの島にいられなくなるぞ? おまえがおとなしくおれの言うことを聞けばおまえの一家を優遇してやるぜ。カネだってくれてやる。おれのものになれよスミレ」
スミレは必死で考えた。ゴーキはいますぐ力ずくでとは考えてないらしい。ここには誰も来そうにない。しかし誰かが来ることもあるはずだ。祭りの最中の山中だった。気まぐれなカップルがくるかもしれない。ゴーキは表沙汰になるのを望んでない。なぜなら表沙汰になればわたしをもてあそべなくなるせいだ。わたしのいやらしい写真をみんなが見ればもうゴーキはわたしをおどして言いなりにできない。秘密はおおやけになれば秘密ではなくなる。せっかくお兄ちゃんと結ばれたのにここで屈服してはこのくそゴーキに一生もてあそばれる。スミレは恐怖にふるえる手をかたくにぎってふるえをとめた。ここは立ち向かうべきだ。勇気をふるい起こすのよわたしと。
「いいわ。わたしの写真を貼りだしなさいよ。わたしそんなの気にしない」
「バカ! そんなことすりゃ嫁に行けなくなるぞ! この島にもいられねえぜ!」
「いいもん。わたしお兄ちゃんと結婚するから」
ゴーキが眉を寄せた。
「お兄ちゃんと? なにを言ってるんだスミレ? リョースケと結婚できるはずねえだろ? 兄妹なんだから」
「ううん。ちがう。わたしとお兄ちゃんに血はつながってないの。わたし小学生からずっとお兄ちゃんの女なのよ」
「嘘だ! おまえの初めての男はおれだぞ! こないだおまえは出血してたじゃねえか!」
「ざーんねんでした。あれはね。膜がやぶれたんじゃないの。女がその気になってないとケガをしちゃうのよ。切れてケガをしたらとうぜん血がでるわ。おかげでわたしあのあとしばらくお兄ちゃんとできなかったじゃない。あんたはわたしの初めての男じゃないわ。二番目の男よ。しかもあんな一瞬で終わっちゃう最低の男ね。お兄ちゃんなんかひと晩中わたしを可愛がってくれるのよ」
スミレは言っているうちにそれが真実だと思えた。リョースケと関係を持って一週間にも満たない。なのに昼夜をとおしての交わりは幼稚園のときからずっと関係をつづけているような錯覚をスミレにもたらした。
ゴーキは目を白黒させた。スミレの言葉が本当か嘘か判断がつかなかった。スミレとリョースケに血がつながっているというのは噂にすぎなかった。リョースケの父が浮気してできた子がスミレだと。しかしゴーキもリョースケの父の敦史を知っていた。男の中の男。そんな言葉がぴったりの男だった。敦史が浮気をしたと聞いたときゴーキは疑った。それは嘘じゃないかと。いまスミレの言葉を聞いて納得した。やはり敦史さんは浮気をしてなかったと。だがそうするとスミレがリョースケと結婚するというのはありうる。
ゴーキがとまどっているあいだにスミレは駆けだした。鼻緒の切れた下駄を手にだ。
☆
あたしたちが境内を一周して元の場所にもどったときだ。スミレちゃんが息を切らせて現われた。スミレちゃんは裸足だった。下駄は両手に持っていた。
リョースケが心配げに声をかけた。
「どこに行ってたんだスミレ?」
スミレちゃんがリョースケに鼻緒の切れた下駄を突きだした。
「下駄の鼻緒が切れちゃったの」
「ああ。それではぐれたわけか。どれ貸してみな」
リョースケがポケットから白いハンカチを引っぱりだした。ハンカチをさこうとしたが思いのほか強かった。引きさけない。リョースケの顔がカケエに向いた。
「ハサミを持ってないかカケエ?」
リョースケの問いにカケエがペン入れに似た皮ケースをポケットからだした。
「メスならあるよリョースケ」
カケエがほらとメス入りのケースをリョースケにわたした。リョースケはケースからメスをだすとハンカチを細く裂いた。リョースケがメスをケースにしまってポケットにいれた。裂いたハンカチをクルクルとよって下駄の鼻緒をすげかえた。
「できたぜスミレ」
「ありがとうお兄ちゃん!」
スミレちゃんがリョースケに抱きついた。あたしはそのままキスをするのではないかと思った。それくらい甘い笑顔をスミレちゃんは浮かべていた。
「お兄ちゃん。わたしのどが乾いた。メロンソーダが飲みたい。買ってきてよ。カケエはイチズにコーラを買ってあげてね。わたしとイチズは三重の塔の石段で休んでるから」
リョースケとカケエが首をすくめてソーダ屋に向かった。
三重の塔の石段に腰をおろすとスミレちゃんが真剣な顔をあたしに向けた。
「ねえイチズ。お兄ちゃんを取らないで」
「なに? いきなりどうしたのスミレちゃん?」
「イチズがお兄ちゃんを好きなのはわかってるわ。でもわたしもついにお兄ちゃんと結ばれたの。十年ごしの思いがやっとかなったのよ」
あたしはがくぜんとした。以前に七瀬から告白された時に覚えなかった衝撃を受けた。
「でもスミレちゃんとリョースケは兄妹じゃ?」
「ううん。ちがう。それは嘘。お父さんがわたしのためについた嘘だったの」
「嘘なの? 嘘だったわけ?」
「ええ。お父さんはわたしが肩身の狭い思いをしないようにってそんな嘘を広めたの。わたしも最近までお兄ちゃんを血のつながった兄だと信じてたわ。でもDNA鑑定の会社に鑑定を依頼したのよ。お兄ちゃんとわたしの唾液を綿棒で採取してね」
「そしたら兄妹じゃなかった?」
「そう。わたしこの十年思いつづけてきたわ。もうお兄ちゃんなしでは生きていけない。ねえイチズ。あなたがお兄ちゃんを好きだってのはわかってる。でもわたしも大好きなの。わたしお兄ちゃんの子どもを産みたい。いま避妊しないでしてるわ。わたしからお兄ちゃんを盗らないでイチズ。おねがいよ」
スミレちゃんの目から涙がこぼれ始めた。あたしはがっくりと落ちこんだ。スミレちゃんはリョースケの実の妹だと信じていた。リョースケの最も近くにいるのはスミレちゃんだ。でもスミレちゃんは妹だった。リョースケと肉体関係は持てない。あたしはそう安心していた。でもその前提がガラガラとくずれた。リョースケがこのところあたしをさけていたのはそんな事情だったのか。そう悟った。リョースケには抱けない女がいた。リョースケはその女をずっと思っていたようだ。よく考えればリョースケが抱けない女はたったひとりだった。妹のスミレちゃんだ。リョースケの本命はスミレちゃんだったのか。
泣き始めたスミレちゃんをあたしは他人事のような目で見つづけた。なにもかもがどうでもよくなった。スミレちゃんに子どもができたらリョースケはスミレちゃんと結婚するだろう。スミレちゃんは戸籍上文代さんの連れ子だ。リョースケと結婚するのに支障はない。リョースケが妊娠したスミレちゃんを捨てるはずがなかった。リョースケが命を賭けてでも守ろうとする女はスミレちゃんと文代さんだけだろう。あたしも泣きたくなった。
リョースケとカケエが飲み物を手にやってきた。あたしは石段から立ちあがった。
「あたし帰る!」
カケエがあたしの顔を見た。
「えっ? これからが祭りの本番だよ? 花火を見ないのイチズ?」
あたしは答えず走りだした。リョースケがあたしのうしろ姿に声をかけた。
「イチズ! デメキンがすくえなかったからすねたのかよぉ! おれがすくってやっからもどってこーい!」
あたしの目からドッと涙があふれた。
そんなんじゃないやい! あんたが愛してくれないからすねたんだい! デメキンなんか知るもんか! どうせあたしはTシャツにスニーカーのさえない女の子ですよーだ!
あたしは心の中でリョースケをののしりながら海神神社の石段を駆け降りた。
☆
あたしは涙ぐんで家に帰った。時計の針は午後八時半をさしていた。祭りのみこしが海神神社にもどるのは午後九時だと聞いていた。花火も九時だ。あたしは祭りのクライマックスの前に逃げだしたわけだった。あたしの家はUターン者用に町が建てた一戸建てだ。しかしUターンした者はいまのところ義父だけだった。そのせいで十軒ならんでいる町営住宅だがうちの周囲はすべて空き家だった。おかげで昼も夜もしずかだ。
鼻をすすりあげて家のカギをあけたときだ。あたしは違和感を感じた。カギを回した感覚が変だった。いつもスムーズに回るカギがぎこちなく回ったような気がした。でもわずかな違和感だった。あたしは深く考えることなく家にはいった。家にはいると違和感が濃くなった。玄関に置かれた物の配置がちがっている気がした。靴が微妙にずれていた。
あたしは首をかしげながら居間をとおりすぎた。とおりすぎてハッと気づいた。サイドテーブルや戸棚の引き出しがすべて引っぱり出されていた。引き出しの中のこまごまとしたものが床に投げだされている。ママと喧嘩をした男がおカネを捜して有りガネ残らず持ち去った時みたいだった。あたしはひたいに指をあてた。義父がおカネを捜した? それともママ? あたしにはわからなかった。あたしは普通の育ち方をして来なかった。そのため泥棒がはいったと思わなかった。玄関のカギがかかっていたせいもあった。
あたしがひたいに指をあてて思案していると義父が帰宅した。義父は酔っていた。あたしの肩ごしに居間をのぞいて声をあげた。
「なんだこりゃあ? ちくしょう! 月乃のやつ出て行きやがったな!」
あたしはその義父の言葉に真相を悟った。義父がやってないならママでもない。
「ちがうわお義父さん。きっと泥棒よ」
義父があたしの顔を見た。
「そんなわけあるか! こんな盗るものがない家に泥棒がはいるかよ! イチズおまえ月乃とグルだろ! おまえがおれを足止めしてるあいだに月乃がこの島をでるつもりだな! たったいま月乃はフェリーに乗ってるんだろう!」
「ちがうってお義父さん! ママにそんな計画を立てる頭はないわ!」
「うるせえ! そもそもおまえら母娘はおれをバカにしてやがる! 母親はおれという亭主がいるのに毎夜男と遊びほうける! 娘は父親の背中も流さないで男に股を開きまくる! なんて母娘だ! ちったあ亭主と父親をうやまえ!」
あたしは肩をすくめた。あたしに関する部分はあたってない。でもママに関する部分はそのとおりだ。ご飯は作らない。掃除も洗濯もしない。男と遊びあるいて真夜中にしか帰ってこない。さらにだ。しばらく義父とエッチもしていない。口論ばかりだ。
「でもお義父さん。これは泥棒だってば。警察を呼びましょうよ」
あたしのその言葉が義父をとことんまでキレさせたようだ。
「バカ野郎! 警察までかつぎ出しておれを笑い者にする気か! 警察を呼んで時間をかせいでるあいだに月乃がぶじに逃げ切るんだろ! おれは島中の笑い者だ! はいってもない泥棒を騒ぎ立ててだぞ! そのあいだに妻に逃げられたマヌケ男がおれだ! イチズ! てめえは男に股を開いてりゃさぞかし気持ちいいだろうよ! 月乃だって誰と浮気してるかわかりゃしねえ! おまえらは都合が悪くなりゃ東京に帰るんだろさ! おれはこの島で生きてかなきゃならねえんだ! 笑い者になったままとどまるつらさがおまえらにわかってたまるか! ちくしょう! おれをバカにしやがって! おまえらがその気ならおれにも考えがあるぜ! 月乃の不始末は娘に払ってもらおう!」
義父の洋二があたしの肩をつかんだ。そのままあたしを抱きすくめた。あたしは身をよじってあらがった。
「やめてよ! お義父さん!」
「お義父さん? おまえなんか娘じゃねえ! 高校生のくせにやりまくってる淫売だ! 月乃は十六歳でおまえを産んだんだぞ! おまえも十七歳だ! もう孕んでるんだろ!」
洋二があたしのTシャツを首から下へと引き裂いた。
「へへっ! こんな小さな胸で男を誘惑かよ! 女ってやつは罪深い生き物だな!」
洋二があたしのスカートをまくりあげた。ウサギ柄の下着がかいま見えた。あたしはじたばたと抵抗した。腕をふった。足で洋二を蹴った。
「ひひひ! そうこなくちゃな! だまって股を開く女じゃおもしろくねえ! いやーっやめてえって叫んでみろよ! 誰か助けてくれるかもしれねえぜ!」
あたしの弱々しい攻撃は火に油をそそいだだけだった。うちの近所には誰も住んでない。ましていまは祭りの最中だ。表を通りかかる人もいまい。あたしがどんなに大声をあげても誰もこないだろう。あたしは無言で洋二にこぶしを突きだした。あたしは格闘技をやったことがない。あたしのこぶしはあっさり洋二につかみとめられた。洋二があたしの腕をねじりあげた。
「痛いっ! 痛い痛いっ! 放してっ!」
「よくもおれさまを殴りやがったな! この淫売娘が!」
洋二があたしの頬を往復でビンタした。あたしは声もだせなかった。恐怖にあたしはすくみあがった。頬が痛い。涙があふれた。あたしはがっくりと床にひざをついた。洋二があたしの胸をドンと突いた。あたしは居間の中へ倒れこんだ。洋二があおむけに倒れたあたしのスカートの下に手を突っこんだ。あたしの下着はいともあっさりあたしの足首を離れた。洋二があたしの両足首をつかんだ。あたしの足を左右に引き裂いた。洋二があたしのスカートの奥をのぞきこんだ。股間をかくすひまもなく洋二にその部分を見られた。
「くはは! たまらねえ! きれいな色してやがる! 女子高生とやるのは初めてだぜ!」
洋二がズボンとトランクスを床に落とした。
「ほれほれ! いま天国に連れてってやるからな! リョースケみてえなガキじゃねえぞ! 大人の味をその肉体にきざみこんでやるぜ! たっぷり味わいな!」
そのときようやくあたしの口が動くようになった。あたしは声をふりしぼった。
「いやーっ! いやいやいやーっ! やめてーっ!」
「ふっふっふっ! いい声だ! ビンビンきやがるぜ! さあ楽しい保健体育の授業だぞ! 気持ちよくしてやるからおまえも尻をふるんだな! 淫売らしくあえぐんだぜ!」
洋二があたしの股をこれでもかと広げた。あたしは必死で足を閉じようと抵抗した。でも男の力にはかなわなかった。力まかせにあたしの下肢は開かれた。洋二があたしにのしかかった。男のものがあたしの入口を求めてあたしの下腹部を往復した。あたしは泣きながらくちびるをかんだ。血がでるほどかみしめた。そのあいだに洋二があたしの女をさぐりあてた。洋二が腰を引いた。一気に突きこむ前ぶれだった。あたしの息が一瞬とまった。目の前の世界からいっさいの色が消えた。絶望にあたしは目をとじた。女の無力さがあたしの小さな胸を緊めつけた。
そのときだった。誰かが玄関方面から足音も荒く走ってきた。靴下の足が安物の廊下を踏む音だった。えっとあたしは目をあけた。洋二も玄関方向を見た。リョースケだった。リョースケがあたしたち目がけて突進してきた。リョースケは血相を変えていた。
「てめえ! イチズになにしてんだよ! 離れろ!」
リョースケが力まかせにあたしから洋二を引き離した。洋二をつかんだリョースケの手は右手だった。あたしは見た。リョースケの左手に輝くメスがにぎられているのを。
あたしはとめる間もなかった。リョースケは左手のメスをふりかざして洋二におおいかぶさった。床に尻もちをついた洋二はリョースケのメスをふせげなかった。リョースケのメスは洋二の首に突き立った。血が居間の床にビシュッと飛んだ。まるでホースで水をまくように血が噴きだした。洋二の顔が怒りの形相からにこやかなほほえみ顔へと変化した。どうしてあんなおだやかな顔になったのかあたしにはわからなかった。噴きだす血はだんだん弱くなった。最後には首からしたたるだけに変わった。
リョースケはメスを洋二の首に刺したままグリグリと力をこめつづけた。メスの先が頸骨に当たってそれ以上進まなかったようだ。リョースケの左手から力がぬけた。そのとたんだった。洋二がガクンとあおむけに全身を投げだした。糸の切れたあやつり人形のような動きだった。ピクピクと洋二の手の先が床でけいれんを始めたのをあたしは見た。
そこへ玄関から声がかかった。カケエの声だった。
「ごめんくださーい。イチズいますかぁ」
あたしとリョースケは顔を見合わせた。居間の入口には下半身丸出しの洋二が血の海であおむけに眠っていた。あたしは下着をつけない股を大きく開いていた。あたしのウサギ柄の下着は居間に落ちた血を吸ってまっ赤に染まっていた。あたしは無言で股を閉じた。腹までまくれあがったスカートを手早くととのえた。幸いリョースケは洋二ばかり見ていた。たぶんリョースケはあたしのその部分を見てないはずだ。あたしは次にやぶれたTシャツの胸をかき合わせた。かろうじてブラジャーを隠せた。返事がないからかカケエが靴をぬいであがってきた。リョースケが飛びこんできたとき玄関をあけっぱなしにしたようだ。カケエの手にはデメキンをいれたポリ袋がさがっていた。
「イチズ。きみの欲しがってたデメキンをすくってきたよ。えっ! こっ! これっ!」
居間の手前でカケエがあたしたちと洋二に気づいた。カケエが立ちすくんだ。血の海に下半身裸の男が横たわっているわけだ。とうぜんの反応だろう。カケエがきびしい顔であたしとリョースケと洋二を交互に見た。Tシャツの胸がやぶれたあたしと下半身裸の洋二にカケエは事情を飲みこんだらしい。無言でカケエが洋二に寄った。血を踏まないように用心をしてだ。カケエが洋二の首のメスに顔を近づけた。
「頸動脈を切断してる。すでに死んでるな」
返り血をあびて血まみれのリョースケが抗議の声をあげた。
「そ! そんなバカな! たったひと刺しだぞ!」
カケエがリョースケをふり向いた。
「ひと刺しだって死ぬときは死ぬ。これだけの血が流れ出れば人間は死ぬんだリョースケ。ぼくのメスを人殺しの道具に使わないでくれないか。さてとこれをどうしようかねえ?」
あたしとリョースケは動揺していた。カケエひとりが冷静だった。カケエは居間に散らばる小間物に気づいたようだ。
「ところでさイチズ。どうしてこの部屋こんなにちらかってるの? 引き出しは全部あきっぱなしだしさ」
あたしは思い出した。
「そうよ! 泥棒がはいったの! 泥棒が居間を荒らしたのよ。玄関の靴もいじったみたい」
カケエが首をかしげた。
「泥棒。泥棒ねえ? ふーむ。使えるかも」
リョースケがカケエの顔を見た。
「なにが使えるんだカケエ?」
「泥棒さ」
「はあ?」
「洋二さんは明らかに殺されてる。こんな自殺はありえない。すると犯人が必要だ。しかも左ききの犯人がね。洋二さんの首に刺さったメスは右ききの人間にとっては逆手になる。左ききの人間なら自然な刺し傷だろうね。リョースケきみ自首するかい?」
リョースケがすこし思案をした。
「仕方ねえ。そうするか」
あたしは口を添えた。
「正当防衛だわ。自首すればリョースケは無実よ。そうしましょうカケエ」
カケエが首を横にふった。
「だめだめ。正当防衛じゃないよ」
「なんで? あたしこいつに強姦されかけたのよ? 殺されても文句の言えない男だわ」
「ねえイチズ。きみが洋二さんを殺したなら正当防衛かもしれないよ。でも殺したのはリョースケだ。洋二さんがリョースケを殺そうとしたのかい? ぼくにはそう見えないけどね。洋二さんには格闘の痕跡がどこにもない。メスをふせごうとした傷さえないんだ。イチズが襲われてるのを見て逆上したリョースケが一方的に刺し殺した。そうじゃないの?」
あたしはうなずいた。
「たしかにそのとおりよ。義父は不意を突かれたわ」
「その場合は正当防衛じゃないよ。過剰防衛でもない。ただの人殺しだ。傷害致死は主張できるかもしれないけどね。どちらにせよリョースケはただではすまない」
「じゃリョースケはどうなるの?」
「少年院に送られるんじゃないかな? でももっとまずいかもしれない」
「もっとまずい? どうして?」
「警察がこの現場を見るよね? 明らかに居間を荒らした痕がある。そして男が殺されてる。リョースケが泥棒にはいったのを洋二さんが見つけたとしたらどう?」
「そ! そんなのありえなーい!」
「たしかにぼくらはそう思う。でも警察がリョースケを信用してくれるかな? リョースケは女遊びばかりの不良だとこの島では思われてる。空き巣にはいってもおかしくない。そう思われないかな? もしねイチズ。リョースケが泥棒でだね。家に帰ってきた洋二さんを殺したのならだよ。それは強盗殺人になるんだ。強盗殺人は死刑か無期懲役さ」
「死刑か無期懲役? でもリョースケは未成年よ?」
「最近は少年犯罪が凶悪化してるからねえ。未成年にも死刑を求める時代だよ。特にリョースケは不純異性交遊がねえ。ぼくらはリョースケを知ってるからいいよ。でもマスコミに取りあげられたらゆがみにゆがむんじゃないかな?」
「ううむ。それはたしかにそうかもね。六十人の女子高生と関係を持ってる男ですもの。人ひとり殺したって平気。そんな取りあげ方をされるかも」
「だよね。それにさ。リョースケが自首するとイチズと洋二さんの出来事を警察に知らせなきゃならなくなるよ? それいいの?」
あたしは下半身を丸出しにしている義父の遺体を見た。あたしのTシャツはやぶられてブラジャーが露出中だ。おまけにスカートの下にはなにもはいてない。
「つまりあたしが義父にやられちゃった?」
「そう。未遂だって言っても世間はイチズを傷ものと見るよきっと」
あたしは眉を寄せた。うれしい話ではなかった。リョースケが口をはさんだ。
「カケエ。おれはいい。でもイチズを無関係にしてやってくれよ」
カケエがうなずいた。
「わかった。とにかく警察に知らせよう」
あたしはリョースケが死刑や無期懲役になってほしくなかった。それならあたしが噂のまとにされたほうがましだ。
「でもカケエ。さっきリョースケを自首させないみたいなこと言ってなかった? リョースケが自首したらあたしが犯されかけた事情を説明しなきゃならなくなるからって」
カケエがあたしに顔を向けた。自信満々という顔だった。
「そう。自首はしない。洋二さんを殺したのはリョースケじゃなくていいんだ」
「はい? リョースケが殺したんじゃない? リョースケが殺したのに?」
「うん。つまりね。この家には泥棒がはいったんだ。泥棒が物色中に洋二さんが帰ってきた。洋二さんは泥棒をとがめる。泥棒はつかまりたくない。だから洋二さんの首を刺して殺す。泥棒が洋二さんを殺して逃げたあとでイチズが帰宅した。そういうのはどうだい? その場合の殺人犯はこの家にきた泥棒だよ」
「おおっと! そうね。それならリョースケは逮捕されないってわけね?」
「そのとおり。イチズが洋二さんに犯されかけたってのも隠せる。ところでさイチズ。居間に血ぞめの下着が落ちてるけど? イチズひょっとしてノーパン?」
「ええっ? いやーねえ。ちゃんとはいてるわよ」
「そうかい。それならいい。そうじゃないならこの血ぞめの下着は始末しなきゃいけないところだった」
「どういうことそれ?」
「だってさ。女性の使用済み下着はかならず多少の染みがつくんだよ。それが居間に落ちてたら警察は不審に思う。下着にイチズの体液がついてたらDNA鑑定で持ち主がイチズだとわかる。どうしてイチズの使用済み下着が一枚だけ殺害現場にあったのか? そう警察は疑問に思うだろうからね」
「そ。それはきっと泥棒さんがあたしの使用済み下着を盗もうと思ったのよ。だけどお義父さんと格闘して落としたの。きっとそう」
「だめだめ。泥棒と洋二さんは格闘をしなかった。左ききの泥棒は洋二さんの不意をついて一気に刺し殺したんだ。下着を落とすとは考えられない。イチズきみいまノーパンなんだろう? 認めちゃいなよ」
あたしは下を向いた。
「は。はい。たしかにあたしはいてません」
「じゃこの下着は回収しなきゃ」
「でもさカケエ。洗濯済みのなら回収しなくていいの?」
「たぶんいいと思う。引っぱり出された引き出しのどこかに洗濯済みの下着が一枚はいってた。そんな解釈に落ち着くだろうからね」
「なるほど。汚れた下着を引き出しにしまう者はいない。そういうわけね?」
「うん。じゃ警察を呼ぶ準備をしよう。イチズ。ポリ袋を用意してくれないか? ゴミ袋でいい。泥棒が洋二さんを殺したと見せかけるために不必要なものを集めて捨てるんだ」
「わかった」
あたしは台所から町指定のゴミ袋を取ってきた。カケエが手術用の極薄手袋をはめて一番にあたしの下着を血の海から拾いあげた。ゴミ袋にほうりこむカケエにリョースケが声をかけた。
「おれも手伝おうか?」
「いいや。リョースケは手出しをするな。黙ってじっとすわっててくれ。血だらけのリョースケが動くと血をふき取るのが厄介だ」
リョースケが口をつぐんだ。カケエがゴミ袋にはいったあたしの下着をながめた。あたしはそんなにまじまじとあたしの下着を見つめてほしくなかった。
「ねえカケエ。その下着どうするの?」
「ぼくが持って帰って捨てる。なにか問題があるの?」
「それあたしの使用済み下着よ? あのうカケエ。そういう行為に使わないでね」
カケエが虚を突かれた表情に変わった。
「あのねイチズ。ぼくは男の血にまみれたものでできるほど剛胆じゃないよ。ぼくとしてはあらためておねがいするつもりさ。この一件をぶじに収められたらきみの脱ぎたての使用済み下着を生でちょうだいって」
「バカ! 知らない! カケエのエッチ!」
カケエが居間を見回した。そして洋二のトランクスとズボンを元どおりにはかせた。泥棒に刺し殺された男が下半身裸では不審すぎる。
「あとはリョースケの指紋をふき取るだけだな。リョースケこの家のどこにさわった?」
リョースケが思案した。
「いや。さわってないと思う」
「玄関の外にデメキンがはいった袋が落ちてたよ。あれリョースケだろ? 玄関の戸はあいてたのかい?」
「たしかにデメキンはおれだ。イチズにやろうと持ってきたんだ。この家の外にきたときイチズの悲鳴が聞こえたから玄関の戸をあけて飛びこんだ。そう思うな」
「すると玄関のドアノブにリョースケの指紋がついてるな。イチズぼくらが帰るとき玄関の外がわのドアノブをつかんでくれないか?」
「なんで?」
「だってさ。洋二さんが殺されたのをイチズは知らないで帰宅するって設定なんだ。つまりこの家に最後にはいったのはイチズだよ。だから玄関の外がわのドアノブにイチズの指紋が必要なんだ。もし玄関の外がわのドアノブでリョースケの指紋が検出されたらだよ。警察は最後にこの家にきたのがリョースケだと確信する」
「なーるほど。カケエってあったまいい」
「いやあ。それほどでも。けど冗談じゃなく細心の注意を払わないとね」
あたしは源馬刑事を思い浮かべた。すでにあたしは泥棒と殺人未遂の容疑者だ。そこに今度は本物の殺人だった。源馬刑事にどんな追求をされるかいまから気が重かった。ふと気づいたのかカケエが洋二のズボンのポケットをさぐった。財布がでてきた。財布には十枚の一万円がはいっていた。カケエがその十万円を自分のポケットにいれた。あたしは不審に思った。
「カケエ。泥棒するの?」
カケエがうなずいた。
「うん」
あたしは腹が立った。
「なんでそんなことすんのよ! 死者からおカネを取るなんて! カケエあんたを見そこなったわ!」
カケエがふふふと笑った。
「ねえイチズ。考えてごらんよ。この家には泥棒がはいったんだぜ。泥棒が財布に現金を残しとくのはおかしいと思わないかい?」
「ありゃ? そりゃそうかも」
「現金を抜かれた財布が死体のそばに落ちてたら警察はどう思うかな? 泥棒が盗んだ。そう解釈するとおもうよ。もし十万円がはいった財布がそのままポケットにあれば警察は不思議がるかもしれない。だからこの十万円はしばらくぼくがあずかっとく。もし警察が家宅捜索してきみの机から十万円が発見されたら厄介だからね。あとでかならずイチズに返すよ。でもねイチズ。この十万円を派手につかっちゃだめだよ」
「なんで?」
「警察はきみを窃盗犯人だと疑ってる。例の更衣室の八万円さ。おカネの出どころをさぐりにかかるはずだよ。だからつかわないほうがのぞましい。そんな理由なのでこの十万円をきみのお母さんにわたしてもだめだ。きみのお母さんは言っちゃ悪いけど考えなしな人だから」
それはあたしも賛成だった。ママに十万円を持たせたらその夜のうちにつかうに決まっていた。あたしはカケエを見直した。
「さっきはごめんカケエ。見そこなったなんて怒鳴って」
「いいんだ。ぼくイチズに怒鳴られるのも好きかも」
「カケエって変態? むっつりだけじゃないのね」
カケエが口をとがらせた。
「むっつりってなんだよむっつりって」
そんなこんなでカケエがあたしの家を強盗殺人現場に仕立て直した。あたしのやぶれたTシャツもゴミ袋に回収された。あたしは普段着に着替えた。もちろん下着もはいた。カケエはリョースケの身体の血をすべてオキシドールでふき取った。そのあとあたしの両手もオキシドールでふいた。
「ねえカケエ。このオキシドールはどういう意味? あたしケガしてないわよ?」
「警察はさ。ルミノール試薬っていう人血に反応する薬をつかうんだ。オキシドールも血液に反応して酸素をだす。微量の血液がオキシドールに反応すると次にルミノール試薬をかけても反応しなくなるんだよ。まあ万が一の用心だと思ってよね」
最後にカケエは洋二の首からメスを抜いた。メスにもオキシドールをかけた。カケエはそのメスを皮のケースにいれてゴミ袋に落とした。
カケエとリョースケを見送ったあとあたしは警察に電話をかけた。ここからあたしの一世一代の演技が始まるわけだ。しかもあたしひとりで切りぬけなければならない。時刻は午後九時をすぎていた。花火の音がさっきから響いていた。祭りは最後の詰めにかかっているはずだ。あたしは死者となった義父を見おろしながら警察のオペレーターに精一杯の涙声をふり絞った。
☆
若菜島の警察署には五人の警官しかいない。しかも祭りのまっ最中だ。祭りの警備に四人が出はらって署には留守番がひとりいるだけだった。そのため本土の県警本部から殺人課の刑事がヘリコプターで飛んできた。うちに顔を出したのは六人だった。五人が私服でひとりだけ白衣だった。いずれも男で先頭の男は三十歳ていどに見えた。
「あなたが発見者の青桐一千鶴さんですね? 遺体はどこに?」
あたしは男たちを招きいれた。三人の男が玄関のドアノブなどに指紋採取用の粉をふり始めた。あたしはカケエに感謝した。玄関のノブはきれいにふいてあたしがにぎっておいた。あたしの指紋しか出ないはずだ。あたしは居間に二人の刑事と白衣のおじさんを案内した。先頭の男があたしに名刺をわたした。
「私は県警捜査一課の警部補で猫森九郎です。殺されているのはあなたの義父の青桐洋二さんでまちがいないですね?」
「はい。まちがいありません」
最初に白衣のおじさんが居間に踏みこんだ。おじさんは洋二の身体をさわった。そのあいだに猫森と刑事が手袋をして荒らされた居間を調べた。白衣のおじさんが時計を見た。
「死後一時間以内だな。通報が午後九時十分と言ったね猫森くん? いまが九時半だから死亡時刻は八時半くらいだよ」
おじさんの言葉を受けて猫森があたしを見た。
「イチズさん。あなた死体にさわってませんね?」
あたしは首をかしげた。
「さあ? さわってないと思います。でもどうだったかよく憶えてません」
あたしはカケエにこう指示されていた。はっきりしたことは言うなと。
「ふむ。ではあなたの指紋を取らせていただけますか? この家の人の指紋を取っておかないとどれが犯人のものかわからなくなるんですよ」
あたしはうなずいた。これも予定どおりだ。あたしは両手にべったりと黒インキを塗られた。紙に指が押しつけられた。そのあと猫森があたしの両手にスプレーをかけて紙ナプキンを手わたした。
「害のある薬品じゃありません。黒インキを落とす洗浄剤です」
あたしは疑いもせず手をナプキンでふいた。スプレーの薬品は無色透明だった。
そこに玄関から源馬刑事が飛びこんできた。あたしのママを連れていた。ママは血の海でたおれている洋二を見て『きゃーっ!』と悲鳴をあげた。
あたしは猫森が居間と遺体をくわしく見ているあいだに源馬刑事に質問をされた。
そうこうしているうちに祭りが終わったようだった。赤色灯をつけたパトカーが家の前にきて立ち入り禁止のテープを木之元署長みずから張り始めた。それを見た祭り帰りの人たちがわが家の前に人山を作った。そのあと島のあちこちから空き巣の報告があたしの家にもたらされた。さながらあたしの家が捜査本部化したようだった。わが家にはいった空き巣は祭りの空白をついて島中を荒らしたらしい。源馬刑事が通報のたびに飛んで行った。
猫森警部補があたしとママを解放したのは日付が変わるころだった。あたしとママは警察の用意した民宿に泊まることに決まった。あたしたちが解放される前にちょっとした波乱が持ちあがった。波乱の原因は源馬刑事だった。猫森たち県警本部組の五人はひたいを寄せ合って相談していた。そこに源馬刑事がわりこんだ。
「猫森主任! この窃盗事件の犯人は平岡染也にまちがいありません!」
猫森が源馬刑事に顔を向けた。
「根拠は?」
「平岡はピッキングの達人でカギのかかった玄関をあけるのが得意です。そしてかならず玄関の靴箱の靴をチェックします。仕事のあとは玄関にカギをかけて逃げるのが平岡の手口です」
「ふむ。するとこの強盗殺人の犯人は平岡染也という男だと?」
「いえ。主任。それはちがいます。平岡は血を見ると卒倒する男です。それに平岡は右ききです。ですから平岡は殺人を犯してません。殺人犯はきっとあの娘です」
源馬刑事があたしをふり向いた。あたしはドキンとした。でも猫森が笑い始めた。
「ふふふ。彼女は犯人ではないよ」
「どうしてです? あの娘は先週にも更衣室で財布を盗んでます。今週には同級生を階段から突き落としてるんですよ? きょう義父を殺したっておかしかありません」
猫森のひたいに血管が浮きあがった。猫森がそれまでの口調をがらりと変えた。
「おいきさま。きさまは私がそこまで無能だと考えてるわけだな? きさまは盗犯係だ。いわば殺人事件は素人だ。私は殺人のプロだぞ。被害者の身近な者から疑えってのは捜査の初歩だ。私が青桐洋二の家族を疑わなかったと思ってるのか? 私は最初からあの娘を観察してた。あの子はな。右ききだ。洋二は左ききの人間に刺し殺されてる。そしてこれだけの血がでたわけだ。犯人はかならず返り血をあびてる。私はあの子にルミノール試薬をスプレーしたさ。彼女の手や腕からルミノール反応はでなかった。つまり彼女は犯人ではない。わかったか大バカ者! 盗犯係が出る幕じゃねえ! すっこんでろ左遷刑事!」
源馬刑事がムッとした顔でうつむいた。あたしは思った。こんなあつかいをされたらひと月に一度発砲したくなっても無理はないなと。つづいてもうひとつ気づいた。指紋採取のときのスプレーがルミノール試薬だったのかと。あたしに洋二の血は飛んでなかったらしい。またはカケエのオキシドールが効いたか。あたしは再度カケエに感謝した。
あたしはアリバイが成立しなかった。殺人時はこの家にいたのだからあたりまえだが。
関係者の中でママだけがたしかなアリバイを持っていた。円城寺病院の先生たちとスナックでずっと飲んでいたそうだ。むろん先生たちは男ばかりだ。もしママにアリバイがなければママが最有力容疑者だったはずだ。ママも左ききだった。ママは梅雨のあいだ義父とは口論ばかりだった。義父の職場の役所で殴りあいの喧嘩をしたこともあった。『尻軽女!』『能なし男!』などというののしり合いもした。
あたしはカケエのおかげで窮地を脱した。猫森は窃盗犯の平岡染也を強盗殺人容疑で指名手配した。わが家から平岡の指紋が見つかったせいだ。平岡は前科五犯の窃盗犯だった。あたしは胸をなでおろした。ただひとつだけ心配が残った。あたしひょっとしてカケエに脱ぎたての使用済み下着をあげなきゃならない?
☆
翌日もあたしは学校に行った。忌引きは公欠になるという話は聞いていた。でも殺人事件の場合は遺体を県立医大で司法解剖するそうだ。通夜も葬式も遺体がもどるまでおこなわれない。いま忌引きを取れば遺体が帰宅して葬式をするときに忌引きができない。
それであたしは泣く泣く登校した。もっとも本当に泣いたわけではない。洋二はあたしを強姦しようとした男だ。死んで悲しいとは感じなかった。むしろ天罰だとあたしは思った。そもそも初めから好きになれなかった男だ。ママも同じ感想らしい。ママは表向き泣き真似をしていた。でも夜は円城寺病院の先生たちと遊び歩いた。洋二の身内が誰もいなくて幸いだった。でないとあたしたち母娘は殺されていただろう。
あたしにとって心配なのはリョースケだった。あたしは教室でカケエに訊いた。お祭りの夜あたしが帰ったあとのカケエとリョースケの行動をだ。あたしはリョースケにふれたくなかった。リョースケが殺人者だから怖かったのではない。スミレちゃんとの関係を逆上しながら問いただしそうなのが怖かったわけだ。
「あのあとのぼくら? イチズがすねて帰っちゃっただろ? スミレちゃんもふくれっつらでお母さんに会いたいって言いだしたんだ。それでぼくとリョースケでスミレちゃんを病室まで送った。ぼくはいったん自分の部屋に帰ったんだけどさ。イチズがすねたのが気になって金魚すくい屋に行ったんだ」
「それでデメキンをすくって持ってきてくれたの?」
カケエが言いづらそうに口にした。
「うっ。うん。まあそう」
リョースケが足音もなくやってきて口をはさんだ。
「嘘だぞイチズ。カケエはすくったんじゃねえ。カネで買ったんだ。あのデメキンはあの紙じゃすくえねえのさ」
あたしはあれれとリョースケを見た。
「じゃリョースケはどうやってすくったのよ?」
「おれも同じさ。何度挑戦してもすくえなかった。だがよ。金魚屋の水槽には二匹のデメキンしか残ってなかったんだ。だからおやじに訊いたのさ。そしたら『おぼっちゃんふうの男が買ってった』とよ。それでおれも買ったのさ」
「なるほど。でもリョースケが先にきたのはなぜ?」
「そりゃ決まってるさ。おれの足がカケエより速かっただけだ。カケエの先をこそうとがんばって走ったからな」
あたしは泣きそうになった。そのおかげであたしは犯されずにすんだ。リョースケが歩いていればあたしは踏みにじられていたはずだ。でもあたしはリョースケに涙を見せたくなかった。スミレちゃんの件がなければ教室であろうが抱きついてキスをしていたのはまちがいない。あたしはつとめてそっけなく答えた。
「ふうん。そう。どうもありがとう」
カケエがあたしとリョースケを見くらべた。なにかぎこちないなあという目だった。
「そのあとは持って帰った荷物を始末してさ。ぼくの部屋でリョースケとゲームをしてたんだ。警察に聞かれたらリョースケとぼくはずっとゲームをしてたってアリバイを主張するつもりでね。スミレちゃんは文代さんの病室に泊まったってさ。朝になってスミレちゃんを誘って三人で学校にきたわけ」
そこへすこし遅れた世良先生がはいってきた。リョースケとあたしはあわてて自分の机にもどった。玲ちんの机がポツンと空席なのが悲しかった。
あたしたちはできるかぎり普段どおりにふるまった。リョースケは殺人者だ。あたしとカケエは共犯と言っていい。本当ならあたしとリョースケが接触するべきではないのだろう。しかしきのうまで親しくしていたあたしたちがとつぜん会わなくなれば不審に思われる。あたしはリョースケに合わす顔がなかった。でもリョースケと離れて源馬刑事に疑念を抱かせるわけにはいかなかった。
あたしとカケエとリョースケとスミレちゃんはドーナツ店でドーナツを食べた。きのうまでそうだったようにだ。スミレちゃんがあたしに耳打ちをしてきた。
「ねえイチズ。わたしきのうお兄ちゃんを取らないでって釘をささなかったかしら?」
「えっ? ええ。そうね。そうだったわ」
「じゃなんでイチズがわたしたちといっしょにいるの? イチズは身を引いてくれるんじゃなかったの? もうお兄ちゃんがイチズとくっつくことはありえないのよ?」
あたしは答えにこまった。スミレちゃんはリョースケがあたしの義父を殺したと知らない。どう説明すれば納得してくれるのだろう? リョースケに疑惑を向けさせないためにあたしがリョースケと離れるわけにはいかないと。
「そのとおりね。でもあたしスミレちゃんからリョースケを取らないって約束はしなかったわ」
「ええーっ? そんなのないよぉ。じゃ約束してよ。たったいま」
あたしはさらに窮地におちいった。あたしは必死でリョースケから離れない言いわけを考えた。
「あのさ。義父のお葬式が終わるまで待ってくれる?」
「なんでまた?」
「あたしいま義父が死んで頭が混乱中なの。だからとーってもリョースケに抱きつきたい心境なのよ。そんな状態でスミレちゃんと約束はできないわ」
「それってお兄ちゃんに抱きつくってこと?」
「ううん。スミレちゃんがリョースケをあきらめろってあたしを責めたらあたしリョースケに泣きつくと思う。スミレちゃんがいじめるぅってね。リョースケはきっとあたしを抱いてくれるわ。リョースケが女に節操がないのはスミレちゃんもよく知ってるわよね?」
「そ。それはそうね」
「というわけであたしの気持ちが整理できるまで待ってよ。絶対にスミレちゃんからリョースケを取らないからさ」
「わかった。でもそれってさ。洋二さんの葬式が終わるまではお兄ちゃんと関係をつづけるって宣言?」
あたしは首をかしげた。
「そうかな? そうなるのかしら?」
スミレちゃんがあたしをにらみつけた。
「そうよ。きっとそう。でもしょうがないわね。お兄ちゃんにも女を整理する時間をやるって約束したしさ。イチズにもお兄ちゃんと別れる時間をあげるわ。だけどきっぱり別れてよ。あとあとまで不倫しちゃいやだからね」
「はいはい。きっぱり別れます」
そんなわけでなぜかあたしはスミレちゃんのお墨付きをもらった。そもそもキスだけの関係だ。きっぱりどころかすでに別れたも同然だった。最初から関係ないとも言えた。
腹が立つからあたしはリョースケを悲恋岬に誘った。夕陽の悲恋岬は絶好のデートスポットだった。なのにカップルは誰ひとりいない。あたしはそれを不審に思うべきだった。監視カメラのせいでここでデートをする地元のカップルがいないのだと。
今回はデートではなかった。源馬刑事に疑惑を抱かせないためにリョースケと来ただけだ。キスもエッチもするつもりはなかった。しかしだ。リョースケの顔を見ているととまらなくなった。あたしはついリョースケに口をつけた。リョースケも応えてくれた。
長い長いくちづけが終わってあたしはリョースケの目を見た。あれと思った。リョースケの目は前回と同じであたしの向こうを見ていた。リョースケはスミレちゃんとエッチをした。つまり本当に好きな女と関係が持てたはずではないのか? なのにリョースケの目にまだ苦悩があった。リョースケが求めている女はスミレちゃんではない?
あたしはリョースケを抱きしめた。
「ねえリョースケ。あんた好きな人には好きって言いなさいよ」
リョースケがあたしの顔をまじまじと見た。
「おいおい。おれはおまえなんか好きじゃないぞ。だからおまえに好きとは言わねえぜ」
リョースケはかんちがいをしたらしい。あたしがリョースケに好きと告白してもらいたがってそんなことを言い出したとだ。
「わかってるわ。あんたあたしたちより好きな女がいるでしょ? あたしよりスミレちゃんより仁木板より七瀬より桜子よりよ。あたしがそれくらい気づかないと思ってるの?」
リョースケが黙りこんだ。宵闇があたしとリョースケを包みこんだ。時間だけがゆっくり通りすぎた。リョースケがポツンとつぶやいた。
「おれはおまえが好きじゃねえ」
あたしはリョースケの顔を両手ではさんだ。
「わかってる。でもあたしはあんたが好きよ。大好きだわ」
あたしはリョースケにキスをした。ソフトにハードに。甘く優しく。情熱的に激しく。官能的に淫らに。最後にそっとリョースケのくちびるを舐めた。静かに別れのくちづけを。