表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/11

 第三章 映画館では胸をもまれただけなの キスはしてないわ 信じてよ 

 あたしが家にもどるとママと義父が口論中だった。

「洋二! 話がちがうわ! 若菜島は常夏のリゾート地だって言ったじゃないよ! やしの葉影でラム酒のカクテルを片手にスチールドラムの演奏つきって言ったのは誰よ!」

「そんなバカな! おれがそんなこと言うはずないだろ!」

「嘘! たしかに言った! コバルトブルーの海が広がるトロピカルアイランドだって!」

 義父の洋二が顔をしかめて口を閉ざした。返す言葉が見あたらないらしい。ママはどうやら南海のリゾートアイランドを思いえがいていたようだ。青桐洋二は軽薄で大ボラ吹きだとあたしは思う。でも若菜島がトロピカルアイランドだとは言わなかった。ごみごみした東京を離れて自然あふれる島に行こうとママを誘っただけだ。

 いくらホラ吹きでも日本海に浮かぶトロピカルアイランドはない。この島がトロピカルアイランドだというのはママのひとり合点にすぎない。ママはそんな妄想を抱いてここにきたのか? そうあたしは愕然とした。ふだんのあたしはママの思いこみをチェックして訂正するのが常だ。だがさすがに日本海にトロピカルアイランドがあると思っているとは気づけなかった。大ボラ吹きの義父もまさかだったようだ。相手のかんちがいがすぎると言いわけすらできなくなる。まして言った言わないでは水掛け論にしかならない。

「おまけになによこの家? 新築の豪邸が聞いてあきれるわ! 新築は新築だけど仮設住宅に毛が生えた家じゃないよ! こんな狭い家だと聞いてなかったわ!」

 これもママのかんちがいだ。義父は新築とは言った。しかし豪邸とは言わなかった。町が過疎化を止めるために建設した安物の一戸建て住宅だ。Uターンした者には半年間の家賃がただになる。

 義父はふたたび反論できなかった。仮設住宅に毛が生えた家という表現が正しかったせいだ。家は二階建てだった。歩くたびに床がきしんだ。廊下は水平ではなかった。風呂もトイレも狭くて両手を広げることができない。あたしは二階のひと部屋をもらった。だが階下でママと義父がエッチする振動が二階まで大きく伝わって昨夜は寝つけなかった。

 あたしは顔をしかめた。しくじったと。あたしはきっとまずい場面に帰宅した。すでにあたしはただいまと声をかけたあとだった。いまさら帰宅しなかったふりをして外へ逃げるわけにはいかない。予想どおりと言うべきか。義父があたしに顔を向けた。

「こらイチズ! 高校生がこんな夜遅くまで遊んでるんじゃねえ! 夜遊びは不良のやることだ! 学校帰りにカバンも置かずおまえはどこで男と遊んでたんだ!」

 うわあっとあたしは首をすくめた。とばっちりがこっちにきたよ。やつあたりすんなよなオッサン。あたしは胸の内でぼやいて素早く二階の自室へ駆けあがった。ママまでがあたしを疑いの目で見ていた。そりゃそうだ。あたしは制服ではなくスミレちゃんのTシャツとスカートを借りたままだった。おまけに髪の毛は湯あがりのシャンプーの香りだ。男の家でエッチしてシャワーをあびて帰宅しました。そう思われても抗弁しようがないあたしの現状だった。リョースケの家で晩ご飯を食べたと言えば島の者なら確実にそんな推測をするだろう。そのためあえてあたしはリョースケの名前をださなかった。

 あたしが自分の部屋の戸をしめたときまたママのわめき声が聞こえてきた。ママはリゾートアイランドで遊び暮らせると踏んでいたらしい。そのため不満だらけのようだ。

 ママはあたしを十六歳で産んだ。あたしの父はママとおない歳の暴走族少年だったそうだ。あたしが三歳のときに事故を起こして少年は死んだ。そのせいであたしは父の顔を写真でしか知らない。でもあたしは確信している。きっとろくでなしな男だったはずだ。ママはもっとろくでなしかもしれない。あたしの父にあたる少年が生きているころから別の男と暮らしていたのだから。

 そのあとはおして知るべしだ。ママの楽しみは新しい男をあさる以外にない。新作のバッグに買い替えるのが趣味な女性のようにママは新しい男が好きだった。ママは今年で三十二歳だ。だがママはあたしより背が低くきゃしゃで童顔だった。よくあたしの制服を着て『女子高生に見える?』なんて鏡の前で踊っている。さすがに女子高生には見えない。でも二十二歳のキャバクラ嬢には見えた。実際に山井浩太郎はママを二十二歳だと信じていた。ママは最初あたしを妹だとふいていた。山井は素直にそれを信じた。あまりに気の毒だったのであたしが打ち明けた。山井はおどろいたがママの嘘を責めなかった。『よくもだましやがったな!』などとは言わなかった。ママのいつもの男なら嘘が露見したら必ずママかあたしを叩いたはずだ。あたしは黙って事実を受け入れた山井浩太郎に好意を抱いた。階下ではママと義父の口論がつづいていた。むつまじくエッチされるのも迷惑だが喧嘩はもっといやだ。しかもママのかんちがいが原因だから始末におえない。このぶんではママはカケエ病院にも迷惑をかけているのではないだろうか?

 翌日の学校はなんの波乱もなく昼休みをむかえた。休み時間ごとにスミレちゃんがリョースケにべったりついて離れなかった。そのせいであたしはリョースケと言葉をかわせなかった。すこし残念な気もした。でもリョースケと親しくすると女たちからにらまれる。玲ちんにすら嫉妬のまなざしを向けられる。なによりあたし自身がリョースケに甘い笑顔を作りそうだ。あたしはリョースケとそんな関係になりたくなかった。一対一でつき合うならいい。その他おおぜいの女のひとりなんてがまんできない。

 あたしと玲ちんはまた屋上で弁当を開いた。

 あたしはリョースケにからみつくスミレちゃんを見てカケエの言葉を思い出していた。

「ところでさ玲ちん。あたしふと気づいたの。カケエはこんなこと言ってたわ。リョースケは十二月生まれでスミレちゃんは四月生まれだってね」

「それが?」

「スミレちゃんは学年がひとつ下よね。つまりリョースケが十二月に生まれてその翌年の四月にスミレちゃんが生まれてる。いくらなんでも四ヶ月で赤ちゃんが生まれるはずないわ。リョースケとスミレちゃんって実の兄妹じゃないのね?」

「ああなるほど。そこなの。そうね。ちょっと複雑なのはたしかよ。リョースケくんの本当のお母さんはリョースケくんが幼稚園のときに死んだの。脳梗塞だったかしらね? いまのお母さんの文代さんはお父さんの後妻でさ。リョースケくんのお父さんは敦史さんっていって顔はリョースケくんに似たいい男だったわ。リョースケくんが小学一年生のときにその敦史さんが再婚したわけよ。そのときスミレちゃんは幼稚園児だったわ」

「じゃスミレちゃんは文代さんの連れ子?」

「そうよ。でも敦史さんが浮気して文代さんに生ませた子がスミレちゃんなの」

「あら? するとリョースケとスミレちゃんは異母兄妹?」

「はい。それを知ったリョースケくんは当時荒れてさ。エロ度に拍車がかかったのもそのころよ。無理もないけどね。お母さんが生きてるころにお父さんが浮気してよその女に子どもを産ませてたんですもの。お母さんが死んですぐその浮気相手と不倫の子が妹として家に来たわけでしょ? 荒れるわよねえ」

「でもいまリョースケと文代さん母娘はすごく仲がいいわよ? それはなんで?」

「さあ? 一年生の終わりにはリョースケくんの荒れるのが収まってたわ。わたしたちずっとあとでだけどリョースケくんが文代さんとやっちゃったんじゃないかって噂してた」

「ええーっ! それ本当?」

「こらイチズ。声が大きい。噂よ噂。わたしはやってないと思う。文代さんが小学一年生とする女とは思えないわ。でもどうしてリョースケくんと文代さんたちが和解したのかは謎のままよ。リョースケくん一時は口もきかなかったの。文代さんともスミレちゃんともね。文代さんの人柄かもしれないわ。文代さんっていつもおだやかでおっとりしてるから」

 あたしは文代さんを思い起こした。

「そうね。怒ってる顔が想像できない人ね。ふうん。リョースケとスミレちゃんは異母兄妹かあ。あのさ。リョースケとスミレちゃんが肉体関係ってことはないわよね?」

 あたしはスミレちゃんを見ているとその疑いを完全に否定できなかった。

 玲ちんも疑惑は抱いているらしい。眉をひそめたまま口にした。

「それもきっとないわ」

「どうして? なんでそう言い切れるの?」

「だってさ。学校であのベタベタ度よ? もしスミレちゃんがリョースケくんとその関係なら家でもくっついて離れないと思う。そうなればリョースケくんがわたしたちの相手をしてる時間がないはずよ。そもそもリョースケくんが頭のあがらない女はふたりなの」

「ふたり?」

「ええ。文代さんとスミレちゃんよ。もしスミレちゃんとリョースケくんが関係してたならさ。スミレちゃんはリョースケくんにすべての女と関係を絶たせるはずだわ。スミレちゃんは独占欲が強そうだもの」

「それもそうか。でもさ。カムフラージュってのは考えられない? リョースケとスミレちゃんは血がつながってるんでしょ? 近親相姦よね? だからそれを隠すためにスミレちゃんはわざと学校でべたべたしてリョースケの女関係を黙認してる。一方でリョースケはスミレちゃんとの関係を疑わせないためにたくさんの女の子と関係を持ってる。そうすればまさかスミレちゃんとなんて誰も思わない」

「あはは。それはかんぐりすぎよ。リョースケくんはそんなに器用じゃないわ。それにリョースケくんはバカ正直でね。誰と関係したか訊いてごらんなさい。初体験から克明に説明してくれるわよ。初体験は当時近所に住んでた女子高生のお姉さんだったってさ」

 あたしはそこでまたひとつ不審な点に気づいた。

「あのさ玲ちん。どうして玲ちんはリョースケとスミレちゃんが異母兄妹だって知ってるの? リョースケのお父さんが浮気して作った子なんてリョースケのお父さんと文代さんしか知らないことじゃないの? リョースケのお父さんがそんなの宣伝するわけないわよ? まして文代さんが言いふらすなんて考えられないわ?」

「それはそうよ。最初は噂だったの。わたしの母ちゃんと敦史さんはね。小学校中学校での同級生なの。だから男と女なのに友だちづきあいをしてたのよ。母ちゃんは噂を聞いて敦史さんに問いただしたの。噂は本当かってね。すると」

「敦史さんが肯定した?」

「ええ。うちの母ちゃんが怒ったのなんの。以来敦史さんと絶交しちゃったわ。いまでもリョースケくんの家には近づかないの。敦史さんの葬式にも行かなかったわよ。わたしがリョースケくんとそんな関係だって知ったらわたしきっとぶん殴られる」

「そ? そんなに過激なお母さんなの?」

「はい。うちの母ちゃんは過激よ。拳銃を持ってたらしょっちゅう発砲してるに決まってるわ。だからイチズも母ちゃんの前でリョースケくんの話はしないでね」

「わ。わかった。するとさ。リョースケのあのエロさは父親ゆずりってわけ?」

「ううん。たぶんちがう。リョースケくんのお父さんの敦史さんってさ。しぶい海の男だったわ。浮気なんか絶対しそうにないって感じ? イチズにも会わせてあげたかったわよ。わたしリョースケくんも好きだけど敦史さんもよかったの。理想のお父さんってああいう人だと思う。エロさはかけらもなかったわ。もし敦史さんがエロかったらリョースケくん以上の女性関係があったはずだもの」

「でも浮気したんでしょう?」

「そうなのよねえ。浮気しそうになく見えたんだけどなあ。男ってみんなそうなのかなあ。カケエくんのお母さんの典江さんは『あんなふしだらな男の息子と遊ぶんじゃありません』ってカケエくんを叱ってたわよ。カケエくんは無視したみたいだけどね」

「あんがいカケエって骨がある?」

「でもないんじゃないかなあ。カケエくんを遊んでくれるのってリョースケくんだけだったからね。典江さんがうるさいからみんなカケエくんを敬遠してたの。リョースケくんだけが院長夫人に平気でため口を叩いてたわ」

「なるほど。いまでもそうだものね」

「そうなのよ。典江さんにさからえるのってリョースケくんくらいなの。ここだけの話だけどね。カケエくんのお父さんは典江さんの裸を見たことないそうよ」

「ええーっ? じゃどうやってカケエを作ったわけ?」

「声が大きいっての。部屋をまっ暗にしてするそうよ。やることはやってるみたい。でもエロ度はかなり低いって話ね」

「あのさ。それどこから仕入れた話? ただの噂?」

「ううん。カケエくんのお父さんが酔ってぼやいたの。わたしの父ちゃんとカケエくんのお父さんの守秀院長はやはり小学校と中学校がいっしょでさ。父ちゃんがこの島の中学に赴任したあとふたりで碁を打つようになったわ。いまもひまがあれば父ちゃんが病院にでかけて碁盤を囲んでる。負けると雪辱戦をいどみに守秀院長がうちにくるの」

「ふうん。みんなかつての同級生とか昔なじみばかりなのね」

「ええ。こんな狭い島ですもの。歳の近い者はたいていそうよ。うちの父ちゃんと守秀院長は中学のときラブホテルをのぞきに行った仲ですって」

「ラブホテルをのぞきに?」

「そう。当時この島にはラブホがあってね。そこの娘とも同級生だったってさ。ラブホテルにはカメラが売りの部屋があったそうよ。自分たちの姿を撮って楽しむんだってさ。その映像をホテルの管理室でも見えるように細工してあったらしいの。ラブホ流出とかってタイトルのビデオとして売るためにね」

「じゃその映像を見せてもらった?」

「はい。まさに一部始終をリアルタイムで見たってさ。女ひとりと男ふたりが狭い密室でエッチの瞬間をのぞき見たわけでしょ? とっても妖しい空気になったそうよ。うちの父ちゃんの初キスはその時そのラブホの子とだったんだってさ。その子はついでに守秀院長ともキスしちゃったらしいわ。初体験とまでは行かなかったけどちょっとだけエッチなこともしたそうよ。男の子ふたりを女の子ひとりで満足させたってさ。ラブホの子だけに早熟だったみたいね。うちの父ちゃんの初体験はそのラブホの娘でさ。高校二年の夏に結ばれたって聞いてるわ。守秀院長もその子に気があったみたい。いまでもその子はふたことめには口にするのよ。どうして守秀院長と結婚しなかったんだろってね。そうしたら院長夫人だったのにってさ。ちなみにそのラブホの娘がわたしの母ちゃんね」

「ええーっ! じゃ玲ちんのお母さんとカケエのお父さんも同級生じゃない?」

「そうよ。リョースケくんのお父さんともね。ついでに言うとわたしとリョースケくんは誕生日も同じなの。生まれた病院も円城寺病院よ。リョースケくんと誕生日が同じってのがわたしの唯一のじまんなの」

 あたしは思った。きっと仁木板や七瀬とも親友になればこの手の話がぽろぽろ出てくるんだろうなあと。いまはえらそうな顔をしている大人たちでも赤裸々な子ども時代があったはずだ。それを島の同年代の大人たちがそれぞれの子どもに暴露しているのだろう。エッチに理解のないカケエのお母さんだって子ども時代は誰かとお医者さんごっこをしたかもしれない。

     ☆

 下校途中だった。玲ちんとならんで歩いていたあたしはカケエの母ちゃんに呼びとめられた。カケエと遊ぶなと釘を刺されるのかと思った。でもちがった。

「イチズさん。あなたのお母さまによく言っておいてくださいね。うちの先生たちに色目をつかうのはおよしになってと。わたくしが注意してもあなたのお母さまは聞きませんでしたのよ。あの方はなまじ若く見えるだけに妻帯者までがふらついてますの。イチズさんとちがってお母さまは色気があまってますものね。ああ。それからお義父さまにもひとこと言っておいてくださいね。初日から遅刻するなんてなってませんわと。以上ですのよ。ではごめんあそばせ」

 言うだけ言うと院長夫人の典江さんは背を向けた。あたしはぼうぜんと立ちつくした。

 あたしはママの保護者かい? そう思った。しかしあたし以外にママの面倒を見る者がいない以上あたしがママの保護者と言えた。でもママはまあいい。血がつながっているからだ。でも義父の保護者はいやだ。どうしてあんな男の面倒まであたしが見なくてはならない? それは理不尽だ。

 あたしは頬をふくらませたまま玲ちんに『どこへ遊びに行く?』と持ちかけた。すると玲ちんのスマホが鳴った。玲ちんが『リョースケくんからよ!』と喜色満面で電話にでた。

 すぐに玲ちんがうんざり顔に変わってあたしにスマホをまわした。

「誰? またリョースケ?」

「ううん。きょうはカケエくん。なんでわたしのスマホにイチズへの連絡がくるのよ! イチズ! あんたリョースケくんとカケエくんにちゃんとスマホの番号を教えときなさい!」

 玲ちんに叱られてあたしは顔をしかめた。カケエには教えてもいいと思う。だがリョースケはいやだ。そんなことをすればあたしはきっとリョースケからの電話を待つ。いつ来るかいつ来るかと一日中スマホを見つめてすごすだろう。そんなバカ女になりたくはない。そしてそのぶんリョースケへの思いをつのらせたくもなかった。

「はい。代わりました。なにか用カケエ?」

「これから悲恋岬に行くんだ。イチズも行かない?」

「悲恋岬? あそこには近寄るなって長者林船長が釘を刺してなかった?」

「悲恋岬の海に行くんじゃないよ。墓まいりに行くんだ」

「墓まいり? 誰か自殺したの?」

「ううん。自殺じゃない。リョースケのお父さんの墓まいりさ。町営の墓地は悲恋岬のすぐ横にあるんだ。敦史さんはきょうが命日なんだよ」

「なんであたし? お邪魔じゃないの?」

「文代さんが今朝うちの病院に入院してしばらく家に帰れないそうなんだ。ひとりでも女の子が多いほうが眠る敦史さんもよろこぶと思って」

 おいおいとあたしは思った。エロ息子の親はやっばりエロ親父かいと。

「じゃ玲ちんもいっしょしていい?」

「いいよ。でも友崎さんのお母さんは敦史さんと絶交してるはずだよ? 友崎さんが墓まいりしていいの?」

 なるほどとあたしは玲ちんを見た。玲ちんは行く行くとうなずいた。

「大丈夫だってさ」

「じゃ町の出口で待ってる」

 通話が切れるとあたしは玲ちんに訊いてみた。

「リョースケのお父さんってなにが原因で死んだの? 病気?」

「たしか大動脈瘤破裂だったはずよ。気がつくのがおくれて助からなかったの。定期的に検査してれば早期に手術して助かったって話ね。敦史さんは健康そのものに見えてたからまさか自分がって思ってたみたい」

「ふうん。そうなの。ところでさ。花は買って行かなくていいのかしら?」

「あ。それは大丈夫よ。町営の墓地は入口の管理事務所で花やおそなえを売ってるからね。手ぶらで行ってもさしさわりはないわ。それより文代さんが入院したのが心配ねえ。最近入院する回数が増えてるわ。病状が悪化してるんじゃないかしら?」

「リョースケとスミレちゃんも心配してるでしょうね」

「きっとね。リョースケくんは文代さん思いだから」

 着替えて町の出口に着くとすでにリョースケたちが三台の自転車で待っていた。

 若菜島はほぼ円形の島だ。道路は海岸に沿って島を一周している。空港は島の南に突き出た半島に作られていた。フェリーの発着場はその半島に抱かれた内海だ。町はフェリーの発着場を中心に発展していた。島の南部を占める若菜町以外の外周は切り立った断崖つづきで人家はない。島のまん中は山だ。山は全域が海の神を祭る海神神社の神域だった。

 若菜島は一周が約五十キロの島だ。悲恋岬は島の西の端だった。海に沈む夕陽を見る最適地として観光案内にも載っていた。悲恋岬のある西海岸は強い潮流に洗われるためとても危険だ。しかし東海岸は潮裏だから波もおだやかだった。夏は海で遊ぶために観光客が押し寄せる。トロピカルにはほど遠いがリゾート島として若菜島は本土では知られていた。

 玲ちんがカケエの荷台に乗ることになった。あたしはしぶしぶリョースケの自転車にまたがった。無骨な男物の自転車だった。あたしとしては玲ちんとリョースケをくっつけたかった。でもカケエの体力がないためあたしより軽い玲ちんをカケエが運ぶと決まったわけだ。あたしがリョースケのうしろに乗るとスミレちゃんが頬をふくらませた。こんなことなら自分の自転車で来なきゃよかったという顔だった。あたしはスミレちゃんに代わってあげようかと言いださなかった。玲ちんにも悪いと思った。でもリョースケの背中に頬をつけてみたかった。

 五月の陽射しは明るかった。風は涼しくさわやかだった。リョースケの背中に密着してあたしはやすらいだ。広い大きな背中だった。あたしは父の記憶を持たない。お父さんとふたり乗りするってこんなかなあと自転車にゆられた。

 道はゆるやかなのぼり坂とくだり坂をくり返した。海に近づいたり遠ざかったりだ。海の青さと夏草の緑が交互にあたしの目を楽しませた。

 しばらく進むと標識に『町営墓地』と『悲恋岬』が並列して書かれていた。

 墓地の入口が管理事務所だった。おばさんがひとり手持ちぶさたにすわっていた。花とおそなえの草餅とビールをひと缶買って墓地に踏みこんだ。

 御影石の墓石がずらりとならぶ奥に大日向家の墓がすえられていた。あたしも玲ちんも神妙な顔で線香に火をつけた。墓の前だからかスミレちゃんもあたしたちをにらむのを一時休止した。いつもにやついているリョースケもさすがにしんみりとしていた。玲ちんはリョースケのそのうれい顔がたまらないようだ。いますぐリョースケを抱きしめたい。そんなよだれを垂らしそうな口もとをしていた。

「親父。おふくろは具合が悪くてきょうはだめだ。よくなったら来るってさ」

 文代さんが来られない事情をリョースケが説明してあたしたちは墓地をでた。

 カケエがあたしの顔を見た。

「悲恋岬に行ってみようか?」

「だってあそこは」

「まあまあ。海に近づかないかぎり危険はないんだ」

 あたしは玲ちんに顔を向けた。玲ちんもうなずいてみせた。この若菜島の観光名所はひとつしかない。悲恋岬だ。島の人間で悲恋岬を知らない者はないみたいだった。崖ぎわに立たないなら大丈夫ではないだろうか?

 自殺の名所という不名誉な事実は岬に来ないとわからないようだ。最初あたしはどこにでもある海に出る道だと思った。自殺の名所だとあたしに知らせたのは岬にいたる道に突き刺さっている立て札だった。『思い直せ! 身を投げたら二度ともどれないぞ!』『あなたの悩みを親身に聞きます。電話は若菜島町役場の福祉課まで』などと書かれていた。

 狭いでこぼこ道に自転車を押しながらカケエがあたしに語りかけた。

「悲恋岬には厄介な点がひとつあるんだ」

「なに?」

「遺体があがらないことだよ。そのため靴や遺書などの遺留品がないと自殺した事実が判明しないのさ。だから年間にどのくらいの人が自殺してるかつかめないんだ。民宿から出される客の捜索届けが自殺者を推定させるていどでさ。フェリーで来てその足で自殺した者は自殺者と認定できないわけ」

「なるほどねえ。それはたしかに困ったことねえ」

「そうなんだよ。町役場ではここに監視カメラをつけて自殺を防止してるんだ。定期的に悲恋岬を職員が見回ってもいる。幸いというか。自殺者はたいてい暗い目をしててさ。島の玄関はフェリーと空港だけだろ? たいていの自殺志願者は役所の職員に発見されるんだ。それでも年間に三足ほどの靴と遺書が遺されてるよ」

 あたしは眉を寄せた。これってひょっとして肝試し? あたしをおどしてきゃーって悲鳴をあげさせようって魂胆なの?

 悲恋岬は傾斜地だった。なだらかなくだり坂が突端へとゆるやかにつづいていた。丈の低い草が緑のじゅうたんのように空へ伸びて行くように見えた。なだらかに傾斜したスキーのジャンプ台といった感じだろうか。あたしは気分よく歩いていると足がとまらなくなった。リョースケに右腕をつかみとめられてやっとあたしはとまった。停止したときあたしの右足はすでに宙をかきまわしていた。おそるおそるのぞきこむと靴の下は断崖絶壁だった。垂直に二十メートルはあった。切り立った岩壁はオーバーハングでズドンと海に落ちこんでいた。足を踏みはずせば途中の岩をつかむどころではない。どこにあたることもなくまっ逆さまに海だ。あたしは思わず膀胱の括約筋がゆるみかけた。

「ふえーん! 怖いよぉ!」

 気がついたときあたしはリョースケにしがみついていた。あたしは玲ちんとスミレちゃんに呪い殺されそうな目でにらまれた。あたしはリョースケの腕の中から海をふり返った。海に漁船の姿はなかった。海岸に人もいない。海面は海流がヘビみたいにのたうっていた。まるで断末魔の大蛇だ。ママがこのヘビを見ればいますぐ東京に帰ろうと言い出すのはうけあいだった。ママはヘビが大嫌いだ。

 漁船の上から見た悲恋岬はただの断崖だった。でも実際に立ってみると吸いこまれそうな不気味さがあった。自殺の名所という先入観がなくても怖い場所にちがいない。

 リョースケがふるえるあたしをお姫さまだっこして崖から引き離してくれた。玲ちんとスミレちゃんはぷくっと頬をふくらませた。わたしたちも抱っこしてってふくれっつらだった。カケエは目をそらせてあたしとリョースケを見なかった。

 あたしの呼吸が落ち着いてリョースケがあたしを草の上に立たせた。

 カケエがやっとあたしに顔を向けた。

「海に沈む夕陽を見るかいイチズ?」

 西に目をやると太陽が水平線から十センチほど上に浮いていた。あと三十分もしないうちに陽は完全に落ちるだろう。ここで帰るのはもったいない気がした。

 あたしたちは立ったままゆっくり落ちる太陽を見た。水平線に近づくにつれて太陽の下の端がユラユラとゆらいだ。波立つように太陽が海水に溶けた。白っぽかった陽光がどんどん夏ミカン色にくすんだ。あたしは夕陽に気を取られているスミレちゃんの目を盗んで玲ちんの手をリョースケの手を押しつけた。玲ちんは素知らぬ顔でリョースケの手をにぎりしめた。玲ちんは左手であたしにありがとうとばかりあたしの手をぎゅっとつかんだ。どういたしましてとあたしもつかみ返した。

 カケエの目はそのあたしたちの手を見ていた。カケエの手が誰かの手を求めるようにためらうのをあたしは見た。カケエは誰の手をにぎりたいんだろう? そうあたしはいぶかった。あたしが手をすこし動かすとカケエの手があたしの手をつかみ取った。魚が眼前にきたエサをパクッとひと飲みにするような素早さだった。あたしはあれと首をかしげた。カケエはあたしの手がにぎりたかったの?

 あたしたち五人はオレンジ色した残照につつまれて太陽が海に食べられるせつなを見届けた。昼が夜に変わる瞬間をあたしは知った。悲恋岬は崖にさえ近寄らなければ若菜島で一番きれいな場所だと思う。海に沈む太陽を見たのは初めてだ。美しいとあたしは素直に感動した。好きな男の子とふたりきりならもっといい。そう思った。そのときのあたしの目は笑顔のリョースケの横顔に貼りついていた。気づかないふりをしたかったがあたしはきっとリョースケが好きだ。でもカケエもきらいではなかった。あたしって気の多い女なのかな?

 太陽がいなくなって夕闇があたりを包み始めてもあたしたちはその場を動かなかった。いつまでもここで潮風に頬をなでられてたい心境だった。ついでに言うと好きな男の子と見つめあってくちづけを交わすとさらにいい。そのあとで彼の部屋に誘われるとあたしはきっとこばめない。そう思った。女の子が初めてをなくすのはこういう時なんだなと。

 あたしはカケエの横顔をうかがった。カケエにそういう邪念はないようだ。もしいまカケエに部屋へ誘われたらあたしはどうするだろう? ふらふらとついて行くだろうか? あたしにはわからなかった。ひとつだけ確信を持って言えることはあった。リョースケに肩を抱かれたらなにをされてもこばめない。そうあたしは知っていた。こんなところへ連れてくるやつが悪い。あとでそんなふうにあたしは自分に言いわけしただろう。

 あたしは期待していた。しかしカケエもリョースケもあたしをものにする気はまるでないようだ。なんだか女として否定された気がした。かといって言い寄られたらあたしはこばんだと思う。まだ早いわと。もうすこしつき合ってからじゃないとだめ。そう言ったはずだ。本当はいつ抱かれてもいいと思っていた。そのときが来るのがちょっとだけ怖かっただけだ。玲ちんみたいにお医者さんごっこをして身体中をさわられたあとなら抵抗はしないだろう。まだ最後の地点に踏みこむ決断があたしにはできなかった。男を知るのはたいしたことではない。そう十六歳のあたしは思っていた。近いうちにそうなるだろうと。そしてその相手はリョースケかカケエではないかと感じていた。

 かすかに星がまたたき始めたころリョースケが海に背中を向けた。

「帰ろうか」

 あたしたちは来た道を引き返した。そのときだ。あっとカケエが夜空を指さした。薄闇の空に青い星が光のすじを引きながら飛んでいた。

「流れ星だ。消える前にねがいごとをしなきゃ。勉強しないで医学部に合格しますように」

 なんて虫のいいねがいだとあたしはあきれた。あたしもひとつねがいごとを口にした。

「買わない宝くじが当たりますように」

 リョースケがあたしの顔を見た。

「なんだそりゃ?」

「だって宝くじを買うおカネがないんだもの。だから買わない宝くじ」

 リョースケが首をかしげた。

「おいイチズ。買わない宝くじが当たったところで当選金はもらえないぞ?」

 あたしも思い当たった。

「そういやそうかも。じゃ三枚だけ買った宝くじが一等とその前後賞に当選しますように」

 あたしは早口で言い終えた。そのとたん流れ星は空の端に消えた。玲ちんとスミレちゃんは無言で祈っていた。声にださなくてもなにをねがったかあたしには推測がついた。リョースケをひとりじめさせてとねがったにちがいない。もしくはリョースケと結婚させてだろう。あたしはこぶしをにぎり固めた。

「やった! あした宝くじを買いに行こう!」

 するとリョースケがニヤリと笑った。よからぬことを思いついたような笑みだった。

「一回じゃだめだぞイチズ。流れ星が消える前に百回ねがいごとをたのまないと」

 あたしはリョースケを下からねめあげた。

「はあ? 百回? そんなむちゃな。んなのできるわけなーい」

「むずかしいからねがいがかなうんだ。一回でかなうなら世界中の人間のねがいがかなうはずさ」

 そう指摘されるとそうだ。宝くじの一等を当てるためにそんな簡単な試練でいいわけがない。世の中の人間のすべてが一等を当てたいとねがっているはずだ。

「じゃあね。流れ星を見るたびに同じねがいをするってのはどう? 百回ねがいをかければちょっとは神さまも努力を認めてくれるんじゃない?」

 リョースケが小首をかしげた。

「いいかもしんねえな。しかし生涯に百回も流れ星に出会えるのかねえ?」

「むずかしいから達成したときねがいがかなうんでしょ? 簡単な試練ならねがいはかなわない。そう言ったのはあんただ」

「そりゃそうだ。イチズにかぎっては流れ星を見るたびに一等が当たるよう祈れば? 宝くじが当たるのが先か百回ねがう前に死ぬのが先かはわかんねえけどよ。けひひひひ」

「な! なんてやなやつ! あんたが先に死ね! バカ! 色魔! エロ大魔王!」

 リョースケをののしるあたしに左右から腕が一本ずつ伸びてきた。玲ちんとスミレちゃんの手だった。あたしはふたりに左右から両頬をつねられた。とっても痛い。あんたたちねえ。暗いと思って好きほうだいなことするんじゃないわよ。

 カケエは最後まであたしをワッとおどかさなかった。カケエの狙いは肝試しではなかったらしい。

     ☆

 翌日あたしは文代さんを見舞いに行った。文代さんはすでに起きて動きまわっていた。

「寝てなくていいの文代さん?」

「ええ。円城寺院長がおおげさなのよ。きのうだってどうしても入院しろって聞かないの。おかげで敦史さんの墓まいりに行けなかったわ」

 あたしは玲ちんの話を思い出した。スミレちゃんは文代さんと敦史さんの不倫の子だと。あたしには文代さんが誠実そのものの女性に見えた。とても浮気をする女だと思えない。しかしあたしは目に自信がなくなっていた。玲ちんはあたしより幼く見える。だがその玲ちんですらすでに大人の仲間入りをはたしていた。きっと文代さんにもさまざまな事情があったにちがいない。あたしはお見舞いにと買ってきたりんごをむいた。文代さんがあたしの手元をじっと見た。

「慣れてるみたいねイチズちゃんは」

 あたしはぎこちなく笑った。料理はしかたなくやっているだけだった。あたしのママは弁当など作ってくれない。あたしは自分で弁当を作る以外になかった。あたしはうさぎが好きだ。そのせいでたいてい弁当にうさぎの形に切ったりんごをいれる。おかげでりんごの皮は目をつぶってもむけるほどになった。ママが世間なみの主婦ならあたしはりんごの皮のむけない女子高生だったろう。

 リョースケが顔を見せたのであたしは病院をあとにした。あたしはリョースケと向きあいたくなかった。リョースケといると自分がなにを言い出すかわからなかった。喧嘩をふっかけるかまたは好きよと言い出すかだと思えた。

 スミレちゃんは生物の補習授業で学校に居残りらしい。高校では中間テストが近づいていた。あたしも頭のいいほうではない。特に数学と英語が弱かった。

 リョースケは授業中は昼寝ばかりだ。しかし頭は悪くないようだ。やる気がないだけだった。高校のパソコン室で気象データや潮流をしらべては古ぼけたノートとにらめっこしていた。そのノートが父の日誌なのだろう。スミレちゃんもリョースケの肩ごしにノートをのぞきこんでいたが理解できない顔だった。文代さんはその翌日には家にもどった。

 中間テストの前日にはあたしもすこし島での暮らしになれていた。

 教室の中は妙にしずかだった。リョースケはスミレちゃんに独占されていた。八割の女たちはスミレちゃんとあたしに敵意のこもった目を向けつづけた。だがみんな知らん顔をして表面はおだやかな笑みを浮かべていた。見せかけの平和といったしらじらしい空気だった。海野ゴーキのまわりではほとんどの男子生徒がゴーキのきげんを取っていた。しかしゴーキは男の取り巻きでは不満がつのるようだ。チラチラとリョースケを見てはやっかみの目でにらんでいた。どうしてリョースケだけがもてるんだ。おれも女が欲しい。そう叫んでいる目に見えた。特にゴーキがスミレちゃんにそそぐ視線が気持ち悪かった。ねっとりとまとわりつくような視線だった。

 あたしはリョースケに近づくのをさけた。リョースケに近づくとリョースケにふれたくなるからだ。またはリョースケにふれられたくなる。ただでさえあたしは仁木板と七瀬ににらまれていた。これ以上ややこしい事態を招くのは得策ではないはずだ。

 リョースケは学校の中ではスミレちゃんに独占されていた。でも学校が終わるとスミレちゃんをふり切るようだ。仁木板や七瀬がリョースケを誘うと気まぐれに相手をするらしい。桜子は週に一度か二度リムジンでやってきてリョースケをリムジンにつんで走り去るのが恒例になった。ボディガードに邪魔者のスミレちゃんをおさえさせてだ。桜子のおじいさんは政治家で島に後援会事務所を持っていた。その事務所を人払いしてリョースケと楽しむらしかった。

 あたしは仁木板や七瀬の浮き沈みがはげしいことに気づいた。玲ちんもブスッとしている日があるかと思えば一日中笑いのとまらない日もあった。笑いがあふれてとめられない日はリョースケと関係を持った翌日らしかった。どういうローテーションで回っているのかはわからない。だがリョースケはまんべんなく女の子たちの相手をしているようだった。

 そんな中でカンパチを釣りに行く日だけはリョースケが強引にあたしを船に乗せた。あたしは自分に言い聞かせて船に乗った。リョースケのためではない。身体の弱い文代さんのためなのよ。カンパチを釣るのがおもしろいだけなのよと。

 二回目の釣行であたしは精一杯がんばって五匹のカンパチをあげた。だがリョースケも五匹でまたしても引き分けだった。スミレちゃんが三匹でカケエは一匹だった。カケエは一匹しか釣れなかったとしょげた。でも合計では前回より一匹多かった。しばらく不漁だったそうで値段は一匹六千円で引き取られた。今度は刺身がなしだった。一匹でも多く欲しいと買い手が言い張ったせいだ。おかげであたしはただ働きだった。

 カケエがあたしを気の毒がって勉強を教えてくれると言い出した。カケエは高校一の成績だった。大学は医学部をめざすそうだ。すでに外科医として傷を縫う訓練もこっそりと積んでいた。カケエのお父さんの守秀院長は内科医だそうだ。優秀な外科医がいま円城寺病院にはいないらしい。院長が内科で自分は外科を分担したいとカケエは将来を語った。

 あたしとリョースケがふたりっきりで会うことはなかった。いつもカケエとスミレちゃんがいっしょだった。場所はドーナツ店だったり町立図書館だったりした。といってもテスト前なので勉強ばかりだった。あたしの成績は遊んでいられるほどではなかった。リョースケもあたしたちにつき合ってもうしわけていどに教科書を開いていた。ときおり三十分ほどリョースケが場をはずした。もどってきたリョースケは席をはずす前と変わらない顔だった。あたしもスミレちゃんもカケエもなにも言わなかった。でもそのあいだにリョースケは誰かと関係を持ったはずだ。男ってこんなに表に出さないのかとあたしは感心した。黙って勉強をつづけるスミレちゃんにもびっくりした。学校での様子からすればリョースケを責めるとあたしには思われた。しかしスミレちゃんはひとことも問わなかった。カケエもリョースケの女性関係をからかわなかった。あたしひとりがやきもきしていただけだ。スミレちゃんとカケエが口をださないのであたしもリョースケにからめなかった。本当はリョースケに喧嘩をふっかけて関係してきた女のことを問いただしたかった。でもそんなことをすれば深みにはまるだけだ。見て見ぬふりをするのが最善かもしれない。

 玲ちんはどんなに誘っても来なかった。表立ってリョースケと遊ぶと仁木板や七瀬にいやがらせをされるかもというおそれがあるらしかった。なによりリョースケといっしょにいると胸が苦しいようだ。リョースケがほかの女に笑顔を見せるといてもたってもいられないらしい。嫉妬に焼かれる胸に耐えられないようだ。

 中間テストの数学と英語が終わるとあたしはがくぜんとした。こんな田舎島の高校だからレベルは低いだろう。そう楽観していた。しかし東京の進学校なみのむずかしい問題だった。あとで聞くとこの県は教育に特に力をいれているそうだ。

 あたしは数学と英語で落第点を取りそうだった。あたしはとなりの席の玲ちんを指でつついた。どうしようと泣きつくと玲ちんが笑った。

「ああ。それ。数学はみんな悪いからいいのよ。ドリルを買わされてそれを提出したら合格点をくれるの。でも英語はねえ。英語で落第点を取る人はあまりいないわ。担任の世良先生が英語だからよけいね」

「英語で落第点を取ったらどうなるの?」

「補習は確実ね。午後から居残りだわ。夏休みもなしになっちゃうわよ。最終的には学年末に追試だわね」

「追試に落ちれば?」

「もう一度二年生をやることになるでしょうね」

「温情はなし?」

「一年生や二年生で温情を期待しちゃだめね。三年生は就職が決まってたらゲタをはかせて卒業させるみたいだけどさ。一年生や二年生にはきびしいわよ」

「玲ちんはどうなの? 英語は自信ある?」

「ううん。あまりない。でも赤点ってほどでもないわ。ぎりぎり大丈夫ってとこ?」

「いいなあ。あたしはだめみたい」

「カケエくんに指導してもらえばいいじゃない。カケエくんは医学部合格確実って言われてるもの」

「気楽に言ってくれるわね。そのカケエに教えてもらってだめだったのよ?」

「だってしかたないじゃないよ。わたしたち高校生だもの。あるていどの勉強はできないと卒業させてもらえないわよ。それともなに? 東京の高校はぜんぜん勉強しないで卒業できるの?」

 あたしは言葉に詰まった。あたしのかよっていた高校はそんな感じだった。女子高生は化粧とアルバイトと遊びしかしていなかった。勉強している生徒はいなかった。先生がテストの前に問題と答えを教えてくれた。高校は勉強するところではなく友だちを作って化粧の方法を学ぶ場所だった。あたしはそれが当たり前だと思っていた。

 しばらくして答案が返ってきた。数学は完全な赤点だった。英語はかろうじてセーフだ。クラスの女子の半分が数学で赤点を取っていた。玲ちんも数学は赤点だった。玲ちんの言葉どおりドリルを提出すれば合格とみなすと先生が説明した。

 次にあたしを世良先生が呼びとめた。

「おい青桐。あとで英語準備室まで来い」

 あたしは四階にある英会話リスニング室のとなりの準備室に足をいれた。

 いつもにこやかな世良先生がきびしい顔で切りだした。

「青桐。おまえクラスで最低点だったぞ。次の期末テストでもこの調子なら危ないな。いまより十点成績をあげろ。でないとおまえは夏休みがなくなるぞ。わかったか?」

 あたしは肩をちぢめた。

「はあ。がんばってみます」

「そうしてくれ。ぶっちゃけて言うとだな。おれは夏休みまで登校するのはいやなんだ。どうして暑いさなかに出来の悪い女子高生に和文英訳を叩きこまねばならない? おれはビールでも飲んで涼んでいたいんだ。だから青桐おまえは精一杯がんばるように」

 世良先生がニコッと白い歯をのぞかせた。好感の持てるさわやかな笑顔だった。あたしもつられてにっこりと笑った。期末テストは六月の終わりだ。あとひと月はある。それまでにがんばろう。そうあたしはこぶしを固めた。とはいうもののだ。あたしに危機感はまるでなかった。中間テストが終わったことで解放された気分だった。そのあたしを誘惑するように玲ちんやカケエがあたしを遊びに誘ってくれた。あたしの頭から期末テストは消えてなくなった。たったひと月後にくるというのにだ。

 そんなある夕方だった。文代さんから電話があった。電話の声はせっぱ詰まっていた。

「イチズちゃん。すぐ来てちょうだい。おねがい。助けて欲しいの」

 あたしは文代さんの具合が悪くなったのだと思った。あたしは家で翌日の弁当の仕込みをしていた。家にはママも義父もいなかった。ママは病院の先生たちと合コンだ。義父はパチスロに行っていた。ここしばらくママと義父は冷戦状態をつづけていた。ママはこの島のあらゆることに不満のようだ。田舎暮らしにうんざりらしい。義父は慣れた田舎暮らしを楽しんでいるようだ。役場の職員として手を抜きまくっていた。

 あたしは急いでリョースケの家に走った。リョースケの家に着く前だった。路地から手がでてあたしを路地に引きずりこんだ。手の主は文代さんだった。

「文代さん! 身体は大丈夫なんですか?」

 あらと文代さんが笑った。

「心配させちゃったの? ごめんなさい。そんなつもりはなかったのよ」

 じゃどんなつもりなのかとあたしはいぶかった。見たところ文代さんは健康そのものだ。文代さんの背後にはリョースケが立っていた。あたしはどういう用で呼びだされたのか見当がつかなかった。文代さんが割烹着のポケットから映画の券を二枚取り出した。

「実はねえ。こないだ新聞屋さんからこの券をもらったの。でも入院さわぎですっかり忘れてたのよ。気づいて引っぱりだしたらあーらたいへん」

「なにがたいへんなんです?」

「この券きょうまでなの。だからイチズちゃん映画に行って」

「はあ? あたしが映画? 文代さんとヤクザ映画に?」

「いいえ。わたしじゃなくリョースケとよ。わたしこれから町内会の集まりがあるの。リョースケ。イチズちゃんをおねがいね」

 文代さんが券とリョースケをあたしに押しつけて去った。

 取り残されたあたしはリョースケと顔を見合わせた。

「なんでまたあたしがあんたとヤクザ映画を見に行くわけ?」

「しかたねえだろ。その券はきょうまでなんだからよ。おふくろにたのまれたからおれがおまえの面倒を見てやる。さあ行こうぜ」

「あたしヤクザ映画なんか見たくない。あんたはカケエと行ったら?」

「カケエはきょう本土で正徳院の親父さんと夕食会だ。本土に病院を建ててそこの院長にカケエをすえる。そんな計画を正徳院パパは抱いてるらしいぜ」

「じゃ院長夫人は桜子? あんたそれでいいの?」

「いいも悪いもないさ。桜子はカケエの婚約者だ。おれが口をはさむ問題じゃねえ」

「ふうん。そうなんだ。でもあたしあんたとヤクザ映画になんか行かない。スミレちゃんと行きなさいよ」

「スミレとは校内だけでじゅうぶんだ。がたがた言うんじゃねえよイチズ。さあ行こうぜ」

 あたしは強引に腕を引かれた。映画館に着くとすでにヤクザ映画ではなかった。中間テストのあいだに恋愛映画にかわっていた。看板には男と女がキスをするその直前の絵が大々的に描かれていた。うっとリョースケが一歩足を引いた。リョースケは恋愛映画が苦手らしい。あたしはニヤッと笑った。

「ほらほらどうしたリョースケ? あたしと映画を見るんでしょう? さあはいるわよ」

 さっきと反対にあたしがリョースケの腕を強引に引いて館内に踏みこんだ。館内はガラガラだった。ここは漁師の島だけにヤクザ映画のほうが人気があるようだ。恋愛映画を見るカップルはあまりいないらしい。中学生らしいカップルが四組いただけだった。彼らの手にしている半券はあたしの手にあるものと同じだった。新聞屋がくれた券だろう。うんざり顔でリョースケが前の席に足をかけた。恋愛映画なんか見たくもねえぜという態度だった。館内が暗くなってスクリーンに光がはいった。最初の十分でつまらない映画だとわかった。それでもあたしは見つづけた。途中からおもしろくなるかもしれないからだ。

 けどリョースケはあくびをしながらあたしに手をのばしてきた。リョースケがさわったのはあたしの胸だった。ソフトにあたしの胸をリョースケはもんだ。

「あん! こら! なにすんのよ!」

 あたしはリョースケの手をつかんだ。リョースケは抵抗せずに手をとめた。

「退屈なんだからしょうがねえだろ」

「あのねえ。退屈だからってあたしの胸をもむことはないでしょ。せめて最初はキスとかさ。あ。いえ。いまのはなしね。なんでいきなりオッパイよ?」

「いや。映画館は乳もむところだろ?」

 あたしはじっとりとした目つきでリョースケをにらみつけた。

「あんたねえ。いったいどんな教育をされたわけ?」

 リョースケが頭をかいた。

「自己流だ」

「ああそうなの。よくわかったわ。映画館は男の手の甲をつねるところよ」

 あたしは力まかせにリョースケの手をつねった。

「いてて。痛いぞイチズ」

「とうぜんよ。おいたをすればそうなるの。いきなり胸をもむなんて失格ね」

「キスならいいのか?」

「映画館じゃいや」

「どこならいいんだ?」

 あたしはちょっと考えた。

「どこでもだめ」

「そうかい。でも胸はもめば大きくなるぞ。おまえ胸を大きくしたいんじゃないのか?」

「ええ。そうよ。大きくなるとちょっとはうれしい。えっ? だめよだめ。だめだめ」

「なんでだめなんだよ?」

「それはね。新しいブラを買わなきゃならなくなるからよ。いまおカネがないの。ブラジャーを買うカネがあればドーナツを食べたい」

「色気より食い気かよ?」

「ほっといてよ。胸なんて男ができれば勝手にふくらむわ」

「ドーナツだって男ができればおごってくれるぞ?」

「彼氏の前で大口あけてドーナツにかじりつけない。あっ! あたし気づいちゃったわ」

「なにをだ?」

「あんた大嘘つきね。なにが胸をもめば大きくなるよ? それ嘘じゃない」

「はあ? なんでおれが嘘つきだと?」

「だって玲ちんの胸はあたしより小さい。あんた玲ちんの胸を中学生からもんでるわけでしょ? なのに玲ちんの胸は大きくなってないじゃない。どう? なにか反論がある?」

 リョースケが思案をめぐらせた。

「そうだ。たしかに友崎の胸は大きくならなかった。でも仁木板や七瀬は大きくなったぞ」

「それは成長期がきただけじゃないの? あんたがもむのと関係ないと思う」

「そ? そうか?」

「そうよきっと。仁木板さんや七瀬さんとも中学生からの関係なんでしょ?」

「ちがう。ふたりとも小学生からだ」

 あたしはあきれて怒る力もうせた。

「それじゃよけい因果関係がはっきりしないわよ。小学生のオッパイは高校生になれば大きくなって当然じゃない。もまなくても大きくなるわ。ほらほら。もういたずらはやめてちゃんと映画を見なさいよリョースケ」

「だってこの映画つまんねえんだもん。せめて手をにぎってくれよイチズ」

 おいおいとあたしはあきれた。あんたは六十人もの女と関係を持ちつづけるエロ魔王でしょう? いまさら女の手をにぎるていどで満足しちゃうわけと。

「まあそのくらいなら」

 あたしはそっとリョースケと手をあわせた。リョースケがやわらかくあたしの手を包みこんだ。あたしはつながっている手が気になってスクリーンに集中できなかった。いつリョースケがあたしの手をふりほどいてあたしの下半身に指をのばしてくるかと身がまえた。でもリョースケはあたしに手をにぎられたまま寝息をかき始めた。あたしは安心すると同時にがっかりした。ちゃんと手順を踏んでならリョースケにさわらせてもいいとあたしは感じていた。いや。さわって欲しい。そう渇望していた。あたしはリョースケとエッチな遊びをしてみたかった。最後の一線をこえるつもりはない。でもいちゃいちゃはしたかった。キスをしてお互いの身体にふれあって『好き』と告白したかった。あたしは眠るリョースケの頭をなでた。犬のロクの頭をなでるみたいに可愛い可愛いと。あたしはリョースケの頭をなでながら映画を見た。リョースケは気持ちよさそうに眠りつづけた。

 映画は盛りあがりもなくラストシーンをむかえた。お互いに気にかかっている男女がそれぞれ別の人間の手を取って去った。告白もベッドシーンもキスもなしだった。

「看板にあったキスを予告する絵はインチキかい! なーにが燃えあがる恋だあ! カネ返せえ!」

 それが映画館を出たあたしの第一声だった。外はすっかり暮れていた。映画館がガラ空きだったのは単に映画がつまらないせいらしい。リョースケがはははと笑った。

「おまえカネは払ってないじゃねえか。よく言うよ。ほらこれをやるぜイチズ」

 リョースケがポケットから鎖のようなものを出してあたしの手に乗せた。

「なにこれ? ブレスレット?」

「ああ。おふくろを見舞ってくれてありがとうな。おまえこないだ誕生日だったんだろ? 十七歳おめでとう。おれもカネがねえんでそんなものしかやれねえ」

 あたしは妙なブレスレットをしげしげとながめた。細い金具がいくつもつながって腕輪を構成していた。金具と金具のあいだにはキラキラと七色に光る玉がとおっていた。金具と七色の玉で作られた数珠のようだ。金具はひとつひとつがクルクルと縦軸に沿って回転した。玉は暗がりで青白い光をはなった。

「きゃあ! 光ってる! リョースケこれなんで光るの?」

「玉の内部に夜光塗料が塗られてるんだ」

 ステンレスに見える金属と七色に光る玉が交互についたブレスレットだ。あたしはそんなブレスレットを見たのは初めてだった。とてもきれいだなと思った。

「これってさ。どこで売ってるの?」

 リョースケが笑った。いたずらを仕掛けた直後の小学生みたいな笑顔だった。

「ないしょだ」

「あーん。教えなさいよぉ」

「自分で捜すんだな」

 そのとき夜空を流れ星が横切った。あたしはリョースケに背中を向けてねがいごとを口の中でつぶやいた。

「あたしがリョースケと結婚してリョースケがすべての女と手を切りますようにリョースケがあたし以外の女と浮気しませんようにスミレちゃんと玲ちんがあたしを恨みませんようについでに仁木板さんと七瀬さんからもねたまれませんように。ああーん。長すぎるぅ。とても言い切れなーい。ねえ神さま『好き』だけで許してよぉ。思いはじゅうぶん伝わるでしょ? 好き好き好き好き好き大すきぃ! はあはあ。好きを六回言えたわ。あと九十四回ね。よし。がんばろうっと。百回言えたらあたしのねがいをかなえてね神さま。あたしリョースケと結婚したいの。ちゃんと憶えといてよ」

 リョースケがあたしの背中をツンツンとつついた。

「なにをブツブツ言ってんだイチズ?」

 あたしはリョースケに向き直った。

「こっちの話よ。あんたには関係ないわ。ところでさ。あんたはなにかねがいごとをした?」

 リョースケがまじめな顔になった。

「おれの親父は漁師だった。おれもそうなりたい。夫婦ふたりで小さな漁船に乗るんだ。朝から晩まで釣りをして一生を終える。おれはそんな人生がいいな。親父とおふくろもそうやって生きてた。おふくろつっても文代さんじゃねえぞ」

 なるほどとあたしはうなずいた。あたしとリョースケが夜空を見あげているとカケエとスミレちゃんが走ってきた。リョースケに寄りそうあたしをスミレちゃんが引き離した。カケエとスミレちゃんは同時にあたしとリョースケに釘をさした。

「抜け駆け禁止よイチズ」

「抜け駆けは禁止だぞリョースケ」

 あたしはリョースケにもらったブレスレットをさっと背中に隠した。スミレちゃんは装身具のたぐいはなにひとつ身につけてなかった。玲ちんや七瀬もだ。ひょっとするとあたしにだけブレスレットをくれたのかもしれない。あたしは自分につごうよくそう思った。あたしの虫のいい願望だった。カケエの顔を見てあたしは疑問をひとつ感じた。

「あのさカケエ。今夜は桜子のお父さんと夕食じゃなかったの?」

 カケエが狼狽した。

「あ。いや。スミレちゃんからメールをもらってあわてて帰ってきたんだ」

「どんなメール?」

 カケエが口ごもった。言いづらそうだ。カケエの代わりにスミレちゃんが答えた。

「イチズがお兄ちゃんとデートに行ったってメールよ」

「ええ? デートじゃないわよぉ。文代さんがきょうで期限が切れる映画の券をくれたから仕方なく来ただけなの。ぎりぎりセーフで最終上映に間に合ったのよ。それだけなの」

 スミレちゃんがあたしをにらみつけた。スミレちゃんの顔には嘘だと書いてあった。それをデートって言うのよ。しらばっくれるなと。

 スミレちゃんがリョースケを引っぱって帰った。あたしはカケエに家まで送ってもらった。家にはいるとママはまだもどってなかった。義父がひとりでカップ麺をすすっていた。

「ただいまお義父さん」

「おう。あんまり夜遊びするんじゃねえぞイチズ」

 あたしは部屋で着替えて風呂に行くため階段をおりた。そのあたしに義父が声をかけた。

「おれと風呂にはいるかイチズ? 背中を流してやるぞ」

 あたしはふり返った。いつの間に飲んだのか義父は顔が赤かった。

「冗談でしょ?」

 義父がげっぷを吐きながらあたしにくだを巻いた。

「娘は父親と風呂にはいるものだ。娘らしくおれの背中を流してくれよ」

「バカ言わないでよ。あんたとあたしは他人よ他人。あたしのお風呂をのぞかないでね」

 あたしはぴしゃりと言うと風呂に逃げこんだ。わが家の風呂はカギがなかった。本当に義父がくるのではとあたしはしばらく服のまま風呂で息を殺した。でも義父はテレビを見始めた。野球中継が聞こえてきた。『そこだ! 打て!』とか義父はテレビに話しかけていた。あたしは安心して裸になって身体を洗った。

     ☆

 翌朝だった。机につくなり玲ちんがあたしのセーラー服を引っ張った。

「イチズ。リョースケくんとデートしたんですって?」

 あたしは小首をかしげた。あれってデートなのかなと。

「え。いや。デートと言えばデートなんだけどさ」

 玲ちんが悲しげな目であたしを見た。強力なライバルが出現したと悔やむ顔だった。それでも口調は精一杯たのしげにたもっていた。無理をしているのがみえみえだった。

「イチズもこれで大人の仲間入りね。映画館で胸をもまれて下着をおろされて最後まで行っちゃったんでしょう? 終わったリョースケくんは満足して寝ちゃったって聞いてるわ。イチズはリョースケくんの頭をなでつづけたそうね。ふたりとも幸せいっぱいに見えたって? 上映中の映画よりよっほどよくできたラブストーリーだったって聞いたわ。映画を見るよりふたりを見てるほうが萌えた。うちの弟はそう胸を押さえてたわよ? 映画館でやっちゃうなんてさすが高校生だって中学校で話題になってるってさ」

 あたしはううむとうなった。ところどころ正しいぞ? でも肝心の部分は誤解だ。こういう場合はどう訂正すればいいんだろう? 目撃者はあの四組の中学生カップルか。あいつら映画を見ないでこっそりあたしたちをうかがっていたわけだな? ろくな中学生じゃねえ。あの中に玲ちんの弟もいたわけか。あたしは声をひそめた。あたしの右手首にはリョースケからもらったブレスレットが光っていた。

「あのね玲ちん。たしかに胸はもまれたわ。でも下着はぬがされてないしキスもしてないの。つまらない映画でリョースケが寝ちゃったのも本当。あたしが頭をなでたのも真実よ。けどそれだけなの。それ以外はなしよ。信じて」

 玲ちんがリョースケをちらっと見た。リョースケは窓の外に顔を向けていた。あたしをちらりとも見なかった。とたんに玲ちんの顔がほころんだ。

「信じるわイチズ。あなたまだ処女なのね」

 あたしは首をかしげた。

「どうして信じられるの? 相手はあのリョースケよ?」

 玲ちんがあたしの手をぎゅっとにぎった。

「だってリョースケくんって開通させた翌日は女の子の身体に異常がないかを気にしてくれるもの。リョースケくんイチズの心配をしてないじゃない。まだ開通してない証拠よ」

「なるほど。そんな証明方法があるわけ」

 そこへ七瀬があたしの前に立った。今回は最初から泣いていた。濃い化粧が涙でくずれて頬に紫のすじが垂れていた。

「よそもの! 映画館でエッチするなんて反則よ! わたしでもしてもらってないのになんであんたが! わたしのリョースケと公衆の面前でいやらしいことしないでよ!」

 バシッとあたしの左頬が音を立てた。七瀬のつけ爪があたしの机の上にパラリと落ちた。七瀬があたしに平手打ちをくらわせたらしい。一瞬の出来事でよける間もなかった。なにが起きたかすらすぐには理解できなかった。あたしの頬がズキズキし始めたとき七瀬は教室から飛びだした。わーんと泣きながら廊下を駆けていく足音が聞こえた。教室の八割の女子があたしに腹を立てていいのか七瀬に腹を立てるべきかを決めかねていた。七瀬が『わたしのリョースケ』と口にしたせいだ。当のリョースケはぼうぜんとあたしの顔を見ていた。リョースケはあたしが叩かれた瞬間を見てないらしい。あたしの頬が鳴って七瀬が走り去るうしろ姿を見ただけなのだろう。おれはどうすればいい? そんな顔をあたしに向けていた。あたしがリョースケに答える前に仁木板がやってきた。

「女難の相の予言は当たったかしら? 映画館でエッチをするなんて予言は聞いてなかったけどね。このぶんでは若菜島に厄災をもたらすからさっさと追い出せって予言も正しそうだわ。どう? 自分から出ていく気はない? うちのおばあちゃんの予言は当たるのよ」

 あたしはムカッときた。

「じゃあね。あなたはリョースケと結婚するって予言されてるの? あなたのおばあちゃんの予言は当たるんでしょ? あなた誰と結婚する予定?」

 あたしは痛い点をついたらしい。うっと仁木板が言葉につまった。仁木板の顔が見る見るゆがんだ。涙が仁木板のアクセサリーだらけの服にポタポタと落ちた。そのあいだにあたしは仁木板の手首を観察した。どちらの手にもブレスレットはなかった。この教室の女でブレスレットをはめている女はあたしだけだった。あたしは安心しつつ狼狽した。自分から喧嘩をふっかけてきて泣くなよぉと。仁木板はわんわん泣いた。嘘泣きか本気泣きかはわからない。でも効果はてきめんだった。教室の八割の女子が泣き始めた。つられてリョースケと関係してないと思える女たちまでもらい泣いた。玲ちんまで涙ぐんだ。

 おいおい。あたしひとりが悪者かい?

 そこに担任の世良先生が英語の教科書を手にはいってきた。

「なんだ? どうしてみんな泣いてるんだ?」

 世良先生の問いに女子がいっせいに指さした。あたしをだ。

 世良先生があたしをにらみつけた。

「青桐。授業が終わったら英語準備室までくるように」

 あたしは次の休み時間に世良先生の前に立っていた。

「あたしはなにもしてないんです先生。信じて」

「でもな青桐。みんながおまえのせいだと言ったぞ。気づかないうちにみんなに迷惑をかけてるってこともある。協調性がないと集団行動はできないぞ。意地っ張りなのもいいかげんにしないとな。まあ転校してきたばかりで勝手がちがうのもあるだろう。おれの生徒たちをいじめるのはやめてくれな」

「あたしはいじめてません! あたしがいじめられてるんです! 現に七瀬さんに頬をはたかれました!」

「嘘だろ? あの七瀬が青桐を叩いたって? 七瀬はつけ爪が取れるのがいやだってんでペットボトルのふたすらあけない女だぞ? そんなバカな?」

「でも本当なんです! あたしの左頬を見てくださいよ! 赤くなってるはずです!」

 世良先生があたしの顔に顔を近づけた。

「どれどれ? ふむ。たしかにちょっと赤いな。すると本当に七瀬に叩かれたのか。でもな青桐。なら原因はなんだ? おまえなにをした?」

 あたしは迷った。でも迷った末に口にした。

「ええと。大日向くんと映画に行きました」

 ポカンと世良先生が大口をあけた。すぐに笑いはじめた。

「あはははは。そりゃおまえが悪いぞ青桐。大日向はあいつらのアイドルだ。それを横からかっさらえばみんな泣くだろう。なるほどなるほど。そんなことか。ああ。もう行っていいぞ青桐。なんだ。そんなことだったのか」

 世良先生があたしの頭をなでて準備室から追い出した。『なんだ。そんなこと』ではないと思うのはあたしだけか? しかしと教室にもどりながらあたしは考えた。あたしは教室中の女から恨まれている。親友の玲ちんすら例外ではない。あたしが悪いと言えばあたしが悪いのだろう。でもだ。リョースケを好きになってどこが悪い? あたしがリョースケに近づかなければ解決か? そうは思えない。そもそもあたしは仁木板や七瀬とうまが合いそうにない。リョースケ問題がなくてもこうなっていたのではないだろうか? 女の世界は陰湿だ。きっとあたしがリョースケに近づかなくても対立は解消されないだろう。

 そんなことを考えながら教室にもどった。スミレちゃんがリョースケの腕にからみついていた。八割の女子が今度はスミレちゃんを指さして泣いていた。あたしがいてもいなくても状況は変わらないようだ。泣きながら教室を飛びだした七瀬も机にもどっていた。トイレで化粧を直したらしい。七瀬はあたしを見ると顔をそらせた。仁木板はブスッとしたふくれっつらであたしをにらんだ。海野ゴーキは細いブタのような目をゆがめてスミレちゃんのスカートを舐めまわすようにながめていた。

 あたしが家に帰るとめずらしくママがいた。きょうは遊びに行かないのかとあたしはママの顔を見た。するとママがニカッと笑った。

「あんたねえリョースケとつき合ってるんだって? リョースケはやめてよぉ。あんな誰とでも寝る男とあんたがつき合ってるとわたしまで尻軽女に見られるじゃないさ」

 あたしはくちびるをかんだ。いや。それ逆だろと。あたしはこないだ院長夫人の典江さんにされた注意をママに伝えた。ママは肩をすくめただけだった。典江さんはしつこくあたしに注意をした。あたしもそのたびにママを諭した。しかしママは聞く耳を持たなかった。ママは怒っていた。話がちがいすぎると腹を立てていた。話がちがったわけではない。自分がかんちがいをしただけだ。なのに妄想がやぶれたのを義父とこの島のせいにした。自分が男と遊ぶのはとうぜんの代償だとママは思っていた。

 この島の男たちもまたいけなかった。ママは人妻だ。三十二歳だぞ。なのに女子高生のように男たちはあつかった。男たちは若い女に飢えていた。院長夫人の典江さんがエッチに理解がないせいだ。島の風俗店はパチスロをのぞくとスナックと小料理店だけだった。そのすべてで男の店長が営業していた。女の子のいる店は認められてない。いくらなんでもそりゃまずいだろとあたしは思う。でもそれがこの島の方針だった。女性のいる店を認めると喧嘩ざたが絶えないというのも理由のひとつだった。

 そういうわけでママは毎晩あそび歩いた。男たちがおごってくれるので気楽に飲んでいた。ママは東京ではキャバクラ嬢もやっていた。貞操観念もとぼしい。男たちにとっては楽しい女だと思う。ママもちやほやしてもらってまんざらでもないみたいだ。本当にこの島がいやならとっくに東京に帰っていただろう。

 ママはあたしにそれだけ言うとさっさと化粧をはじめた。遊びに行かないのではなくこれからお出かけらしい。ママといれちがいに義父が帰ってきた。

 あたしは義父にからまれるのがいやで外に飛びだした。夕暮れが島をおおい始めていた。あたしは悲恋岬に落ちる夕陽を見たかった。でもひとりで悲恋岬に立つのは怖かった。あたしはあしたの弁当を考えながら商店街をぼんやりと歩いた。商店街にスーパーマーケットはなかった。昔ながらの小売店が軒をつらねていた。

 八百屋でタマネギとジャガイモを買っていると割烹着姿の文代さんが現われた。

「あら。イチズちゃんも買い物?」

 あたしは文代さんをにらみつけた。元はといえば文代さんが悪い。あたしに映画の券とリョースケを押しつけるからあたしの噂が広まった。なにが映画館で初エッチよ? あたしはそんな軽い女じゃなーい! 心の中で叫んであたしは文代さんに詰め寄った。

「文代さん。はかったでしょ?」

「あら? なんのこと?」

「なにが『イチズちゃん。すぐ来てちょうだい。おねがい。助けて欲しいの』ですか? もらった映画の券がふいになりそうだってだけであの言い方はないでしょう?」

「うふふ。ごめんなさい。でもリョースケと映画にって誘ってもはいと返事しなかったわよね? イチズちゃん意地っ張りだから」

 あたしは顔をしかめた。

「うー。たしかにそうですよ」

「映画は楽しくなかった?」

 あたしは言いきった。

「映画は楽しくありませんでした!」

「でも映画館は楽しかったのよね? ちゃんと聞いてるわよ。ラブラブだったって」

 あたしは目をそらせてしぶしぶ答えた。

「はい。楽しかったです」

「いい子ねえ。リョースケはわたしとスミレのせいでちょっとゆがんじゃったの。でもリョースケも根はいい子なのよ。リョースケをたのむわねイチズちゃん」

「ええっ? たのまれてもねえ?」

 あたしには六十人以上の女と関係をつづける男をどうあつかっていいかわからなかった。一対一で健全な男女交際ならなんとかなるだろう。リョースケのゆがみはちょっとどころではないと思う。あれをまともな男にもどすのはあたしには荷が勝ちすぎる。

 文代さんがあたしの右手首に目をとめた。リョースケにもらったブレスレットがステンレス光をはなっていた。

「うふふ。若いっていいわねえ。今夜もうちでご飯を食べるイチズちゃん?」

 あたしは一瞬だけ考えた。

「いえ。お義父さんが待ってますから」

 文代さんと別れてあたしは肉屋に足を向けた。気は進まないが義父に料理でも作ってやろうと。いつもいつもカップ麺ではかわいそうだ。あたしはママからもらった弁当代で牛肉を買った。肉じゃがでも作ろうと。その夜あたしは義父と無言で肉じゃがを食べた。

 ママは日付がかわってやっと帰ってきた。義父はすでに酔っぱらって眠っていた。ママは風呂にもはいらず寝た。義父とママは喧嘩にもエッチにもならなかった。あたしはホッとして宿題を終えた。期末テストは二週間後に迫っていた。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ