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 第二章 女子高生六十人と肉体関係をつづけるってそれなに? どんなドスケベよ?

 翌日あたしは高校に初登校した。担任の世良せら先生に連れられて教室にはいった。そのとたんあたしの新生活の夢はガラガラと音を立てて崩れた。

 予想どおりと言うべきか。教室の一番前にカケエが座っていた。一番うしろにはリョースケだ。あたしの読みどおりリョースケもカケエもおない歳だったわけだ。

 あたしは肩を落とした。そもそもが五月なかばの転入生だ。あまい期待は抱いてなかった。それにしてもこのクラス分けはないだろ。そんなことを思った。

 先生があたしの席を指定する前にリョースケが手をあげた。

「おいイチズ。おまえの席はここだ。おれのとなりだぜ」

 空席は教室の一番うしろに三つあるだけだった。リョースケは窓ぎわの端っこだ。

 英語教師の世良先生もリョースケに賛同するかのようにうなずいた。世良先生は若かった。テニス部の顧問だそうだ。短髪で白い歯がさわやかな青年教師だ。女の子に人気があると思われた。

 あたしは教室の一番うしろまで歩いた。でもリョースケのとなりはさけた。リョースケからふたつへだてた席にカバンを置いた。右どなりはニキビ面でデブのむさくるしい男だった。秋葉原で会ったらオタクだと思うのが自然な男だ。通常の女子高生ならそんな男には近寄らないだろう。でもあたしはこわいもの知らずというか博愛主義というか。オタクにだっていい人はいると思うタイプの女だった。なんの警戒もなしにあたしはデブのとなりに腰をおろした。そのとたんデブの小さな目がギラリと光った。

「おまえ美人じゃないけど可愛いな。おれの女にしてやってもいいぞ。きょうからおまえはおれの女だ」

 えっとあたしは目を見張った。聞きまちがいかといぶかった。

 でも聞きまちがいではなかったらしい。リョースケがすっと立ちあがった。音も立てずにあたしに近寄るとあたしを肩にかつぎあげた。

「こいつはおれのだ。ゴキブリが手をだしていい女じゃねえ」

 リョースケがデブにタンカを切った。デブは顔をまっ赤に染めて席を立った。

「そいつはおれが先に目をつけたんだ。横取りするなんてひどいぞ大日向」

 リョースケとデブがにらみ合った。あたしはリョースケの肩の上で足をじたばたさせた。とても怖かった。男ふたりのにらみ合いがではない。リョースケの肩の上という高さがだ。床がとっても遠い。天井がやたら近くに見えた。このまま頭から落ちたら痛いだろうなあ。そんな恐怖にあたしはふるえた。リョースケの身長は百八十センチ近くあった。あたしは百六十センチにたりない。そういった高さに持ちあげられたのは初めてだ。

 だけどあたしの恐怖なんてリョースケには関係ないらしい。

「おいおいゴキブリ。おれはきのうからこいつに目をつけてたんだ。おまえがあとだぜ」

「んなバカな。証拠があるのか大日向」

「証拠? ちゃんとあるさ。おれはこいつの名前を知ってる。まだ紹介もされてないのにだ。おまえはこの女の名前を知ってるかよゴキブリ野郎?」

 デブが目玉をおよがせた。知らないようだ。

 デブが黙りこんだのでリョースケがあたしを床におろした。あたしはホッと息を吐いた。

 その瞬間だった。デブがリョースケに飛びかかった。意外に敏捷な身のこなしだった。

 デブのこぶしがリョースケのあごに飛んだ。リョースケが間一髪でデブの右手首をつかんだ。そのまま床に倒れて取っ組み合いに移行した。教室が騒然となった。

 担任の世良先生がバンと出席簿で教卓をたたいた。

「やめろ! 大日向と海野うんの! 騒動を起こすのはたいがいにしろ!」

 先生の怒声で教室はシンとなった。でもリョースケとデブはとまらなかった。女の子が三人泣き始めた。最初はしくしくとだ。次に声をあげて泣いた。その泣き声にリョースケもデブも手を放した。頭にのぼった血が引いたらしい。

 世良先生が苦りきった顔で教室のまん中にすわる男の子三人に声をかけた。

惣領そうりょう手塚てづか館野たての。おまえら悪いが大日向と海野のあいだに移ってくれ。青桐おまえは惣領の席だ」

 世良先生の指示にあたしはホッとした。リョースケのとなりもデブのとなりもいやだ。先生の指定した席の周囲は女の子ばかりだった。先生に名ざしされた男の子三人はいやーな顔でリョースケとデブのあいだに移動した。あたしが席につくと先生が生徒全員に自己紹介を強制した。あたしの右どなりは七瀬夏美ななせなつみという女の子だった。ちなみにデブは海野剛毅うんのごうきという名前だった。

 自己紹介がすむと世良先生の英語の授業がはじまった。

 あたしの教科書はまだ届いていなかった。あたしはとなりの七瀬さんに声をかけた。

「教科書を見せてくれない?」

 七瀬夏美はツンと顔をそっぽへ向けた。あたしはあぜんと口をあけた。なにその対応は?

 七瀬は派手な化粧を念入りにほどこした女だった。つけまつげはまばたきのたびにパチパチと音がしそうなほど長かった。手には三センチもあるつけ爪をつけていた。アイライナーはピンクだ。まぶたは薄紫のグラデーションに彩色されていた。瞳の虹彩が青いのはカラーコンタクトを入れているせいだろう。素顔の痕跡がどこにも見えない女子高生だった。こんな派手な化粧で学校にきていいの? あたしはそんな感想を抱いた。

 あたしがぼうぜんとしていると左の端にいる女の子が自分の机を鉛筆でコンコンと叩いた。あたしが顔を向けると女の子はこちらに来いと指で招いた。その子は七瀬と対照的にすっぴんの地味な顔をさらしていた。田舎の女子高生といったあどけない女の子だった。あたしは釈然としないまま左へふたつ机を移動した。

 あたしに教科書を見せてくれた女の子は中学生なみの身長しかない小柄な子だった。顔はウサギのチンチラ種に似ていた。たしか友崎玲子ともさきれいこと自己紹介したはずだ。英語の授業を聞きながらあたしは心の中で彼女にあだ名をつけた。『玲ちん』とだ。

 あたしはウサギが好きだ。あたしのいた小学校ではウサギを飼っていた。最初はおそるおそるだった。だが世話をしているうちに大好きになった。下着のプリントにウサギの絵を選ぶのもそのせいだ。家でも飼いたいと思うがママがゆるしてくれなかった。もっともうちのママは移り気だ。ひとりの男と長つづきしない。離婚と結婚をくり返して引っ越しにつぐ引っ越しだ。そんな生活では生き物を飼うなんて無理だろう。

 休み時間になった。

 あたしの机にアクセサリーをじゃらじゃらとつけた危なそうな女がやってきた。おふだにしか見えない墨書の紙を身体のあちこちに貼っている。自己紹介では仁木板蓮夢にきいたはすむと名乗っていた。インディアンの酋長のような羽根飾りが頭頂でゆれた。

「聞いてるわよあなた。下半身に毛がないくせに心臓に毛が生えたずぶとい女でしょ? リョースケをぶん殴って気絶させた空手八段の猛者だそうね?」

 あたしは仰天した。

「なーによそれ? あたしそんな女じゃなーい!」

 仁木板が眉をしかめた。話がちがうって表情だ。

「あら? きのう円城寺病院に行ったうちのおばあちゃんがそう言ってたわよ? おばあちゃんは予言もしたわ。『あしたとんでもない女がおまえの高校に転校してくるじゃろう。その女は若菜島に厄災をもたらす。さっさと追い出すべきじゃ』ってね。あなた自己紹介もしないうちにリョースケとゴーキを喧嘩させたじゃない。うちのおばあちゃんの予言ははずれないのよ」

 あたしは皮肉っぽく口の端を吊りあげた。

「あーら。それはようござんした。予言が当たって万々歳ですわね。じゃあたしは明日どんな災難に見舞われるのかしら?」

 仁木板が間髪を入れずに返してきた。

「女難ね」

「女難?」

 あたしは仁木板をおちょくったつもりだった。でも仁木板はその手のやりとりに慣れているみたいだ。答えによどみがなかった。

「そう。女難。もっともあしたからじゃないわ。きょう。いまこの時からよ」

 あたしは首をかしげた。仁木板の言葉の意味がわからない。あたしのとまどった顔に仁木板は満足したらしい。ホホホと笑いながら自分の席にもどった。あたしには仁木板がなにをしに来たのかわからなかった。ふと気づくとそのあたしのとまどい顔を七瀬夏美がにらみつけていた。七瀬は仁木板にも同じ憎しみ色の目を向けていた。

 女難ねえ? あたしは七瀬から恨まれる憶えがさらさらなかった。七瀬夏美とは初対面だった。きのう病院で会ったのはリョースケとカケエとスミレちゃんだけだ。スミレちゃんはおない歳だが学年はひとつ下だと言っていた。だからこの教室にはいない。しかしきのうの病院での騒動はかなり広まっているらしい。あたしに関する根も葉もない噂が先行しているのかも?

 リョースケが席を立った。あたしに近づく気配がした。あたしは左どなりの玲ちんの手をつかんだ。

「友崎さん。トイレはどこ?」

 あたしは玲ちんの返事も聞かずに玲ちんを教室から連れだした。そのあたしと玲ちんをカケエが追ってきた。カケエは委員長だった。世良先生からあたしに校内を案内してやれと指示されていた。リョースケもあたしたちを追おうとした。そこにスミレちゃんが駆けこんできた。スミレちゃんがリョースケに腕をからめた。とろけるような笑顔でだ。

「お兄ちゃん!」

 そのとき教室のあちこちでいっせいにチッという舌打ちがあがった。あたしは目を流して観察した。教室にいる約八割の女の子が顔をしかめていた。最も恨みを目にこめたのは仁木板と七瀬だった。なんなのよとあたしは首をかしげた。スミレちゃんに腕をとられたリョースケは足をとめた。リョースケは教室に釘づけらしい。

 あたしは背後にきたカケエに向き直った。

「校内案内はあとにしてね。先に女の子タイムよ」

 カケエがうんとうなずいた。カケエが残念そうな顔に見えたのは気のせいか。

 玲ちんがあたしをトイレに案内してくれた。あたしに尿意はなかった。でもせっかくだからと用を足した。手を洗いながらあたしは玲ちんに声をかけた。

「あのさ友崎さん。『玲ちん』って呼んでもいい?」

 玲ちんはなにを求められたかわからなかったらしい。瞬間ほうけた顔を見せた。でもすぐに理解したようだ。消え入りそうな小さな声で答えた。

「ええ。いいわよ。わたしもイチズって呼んでいい?」

「うん。そう呼んで」

 あたしはイチズと呼ばれるほうがうれしかった。青桐という姓に慣れてないこともある。だが母の夫である青桐洋二あおぎりようじという男が好きになれなかった。

 あたしはママが嫌いだ。移り気で約束を守らない。楽しいだけが人生のすべてだと思っている。ママはがまんができない人だ。ママの辞書にはしんぼうという単語がなかった。ママにはヒトの気持ちがわからない。自分だけよければ世界はつつがなくまわって行くと思っている。あたしは気をつかうタチだ。約束をやぶるのが大っきらいだった。めんどうでもやらなきゃいけないことは早めにすませる。ママは夏休みの宿題をやらない人だ。あたしだって宿題はいやだ。でもしかたがないと思っている。

 そんなわけであたしはママの好きになる男もたいてい気に入らない。でもひとりだけこの人ならと思った男がいた。山井浩太郎やまいこうたろうという名前だった。メガネをかけたまじめそのものの青年だ。気の弱いお人よしな男だった。だがママはそんな人畜無害の男は歯がゆいみたいだ。いつもイライラしていた。強引で大言壮語する破天荒な男がママのストライクらしい。山井のような優しくて世話好きな男に男を感じないようだ。

 あたしの義父にあたる青桐洋二は調子のいいことしか言わない軽薄男だった。島の有力者の息子だとさかんにふいていた。東京のごみごみした雰囲気がいやになったからおれと島に来いとママを口説いた。ママはあっさり青桐の言葉に乗った。あたしは青桐が東京で借金して返せなくなり夜逃げしたと見ていた。そのためあたしは自分が青桐と呼ばれるのが釈然としなかった。

 玲ちんがあたしの手をにぎった。ちまちました柔らかな指だった。玲ちんの脈動をあたしは指先で感じた。あたしは予感した。ああこれで親友ができると。

     ☆

 休み時間になるたびあたしはリョースケをさけた。スミレちゃんは毎回あたしたちの教室にやってきた。そのたびに女たちの舌打ちの音は大きくなった。仁木板と七瀬の恨みの色も濃くなった。スミレちゃんがリョースケを足止めしているあいだにあたしはカケエに校内を案内してもらった。若菜高校は平凡な公立高校ですぐに全貌がのみこめた。

 あたしは休み時間のたびにひそかな観察をこころみた。女の子はみんな連れ立ってトイレに行く。それぞれ仲のいい者同士で誘いあうのが通常だ。その群れを見れば教室内の派閥が把握できる。最大派閥の持ち主は仁木板蓮夢だった。女子の半数が仁木板の取り巻きと見てまちがいない。あたしは首をかしげた。ひと目で危なそうとわかる女にどうしてみんなついて行くのかと。

 次に支持を集めていたのが七瀬夏美だ。女子の三割ほどが七瀬派だった。こちらはまあ納得だ。化粧の派手なファッションリーダーだもの。お金持ちにも見えるし。

 残った女子は二割だ。それぞれふたりずつつるんでいた。その二割はスミレちゃんに舌打ちをしない者たちだった。つまりスミレちゃんに舌打ちをした八割は仁木板派か七瀬派ということになる。

 あたしは玲ちんに目をやった。玲ちんはひとりだけ孤立しているように見えた。

「ねえ玲ちん。あたしといるから誰も玲ちんを誘いに来ないの?」

 玲ちんが恥ずかしそうにうつむいた。

「ううん。ちがう。わたし地味だから友だちがいないの。無趣味で口べただし」

 ふうむとあたしは玲ちんの頭から靴までを観察した。たしかにあかぬけない。体型は中学生か小学生だ。胸のふくらみもあたしよりちいさい。

 あたしはリョースケに目を流した。リョースケは休み時間ごとにスミレちゃんに捕まっていた。授業中のリョースケは昼寝ばかりだ。教室にはもうひとつ不思議な点があった。リョースケと喧嘩したデブの海野剛毅だ。海野は引きこもりのオタク野郎にしか見えない。なのに海野の周囲には男子生徒がたかっていた。

「ねえ玲ちん。どうして海野くんは人気者なの? なにかのスペシャリストなわけ?」

 あたしはこう推測していた。オタクでもフィギュア作りの名人とかプロデビューを飾った漫画家だろうかと。玲ちんがとってもいやそうな顔をあたしに向けた。

「イチズ。ゴキブリに興味があるの? まさかあんなのが好み?」

 あたしは両手をふって否定した。全面否定だ。

「ちがうちがう。気持ち悪いこと言わないでよ」

「よかった。ゴキブリの彼女とは友だちづきあいなんてできないもの」

「海野くんって『ゴキブリ』ってあだ名なの?」

「ええ。名前が剛毅でしょ。ゴーキだからゴキブリ。幼稚園の時にリョースケくんがつけたの。『ゴキブリゴーキ』って」

 あたしは笑いながら同情を寄せた。心からの同情ではなかった。形ばかりの同情だ。

「ひっどーい。それであのふたりは仲がわるいの?」

「ううん。そんなことない。いつもはふたりとも顔をそむけるだけよ。喧嘩したのは初めてじゃないかしら? そもそもリョースケくんは喧嘩が強いの。誰もリョースケくんにかかって行こうとしないわ」

 玲ちんがあたしの顔をじっとながめた。

「それってあたしのせい?」

「かもしれないなと思って。ゴーキもリョースケくんもイチズが気に入ったみたいね。ゴーキには気をつけたほうがいいわよ」

「どう気をつけろと?」

「無理やり恋人にされないように」

「あはは。なにそれ? あたしが海野くんの恋人? ありえなーい」

 玲ちんが顔を曇らせた。

「それがねえ。ありえないことじゃないのよ。ゴーキは網元の息子なの」

「はい? 網元の息子?」

「そう。網元ってのは江戸時代の話だけどね。この島は漁業の島なの。島民の七割は漁業関係者よ。ゴーキの家は代々つづく網元でいまは漁協の組合長だわ。つまりゴーキの親にはさからえないの。ゴーキのごきげんを取ってる男の子たちはみんな漁師の子なのよ」

「なるほど。海野くんが人気者ってわけじゃないのね」

「ええ。ゴーキのきげんをそこねると一家離散になりかねないわ。この島で一番の実力者はゴーキの親なの。その威光をかさにきて無理やり女の子を恋人にするってのもあるかも」

「ううむ。なんて卑劣な。でもあたしのママは病院勤務よ。漁業関係者じゃないわ」

「じゃお父さんは?」

「役場に就職するって言ってたわね」

「ゴーキの親が手をまわせばその就職もふいになるわよ」

 あたしはちょっと考えた。

「かまわないわ。そもそもいいかげんな男なの。まじめに働くかどうかすら疑問符な男よ」

「あら? イチズはお父さんとうまくいってないの?」

「ううん。ちがう。あたしの実父じゃないの。ママと再婚したばかりなのよ」

「なーんだ。そうなの。じゃイチズに弱みはないわけね。でもゴーキには気をつけたほうがいいわ。ゴーキのきげんを取ろうとする大人たちも多いから」

「うーん。島の七割が敵にまわる? たしかに身を守るのは簡単じゃないかも。でもさ玲ちん。ゴーキくんにそんな力があるのにまわりにいるのは男ばかりよ? どうして女の子をはべらせてないの? ゴーキくんって女好きそうに見えるけど?」

「ああそれ。理由は簡単よ。網元以上に力のある存在がいるせいなの」

「網元以上の力? ゴーキくんの家は島民の七割を味方にしてるんでしょ? それ以上の力って変じゃない?」

「でもないわ。漁業って昔はお告げにたよってたの。きょうは吉日だから漁にでたら大漁になるとかってね。島の中心に海神神社わだつみじんじゃがあってさ。そこの巫女が漁の行く末を占うわけよ。巫女は女ばかりで江戸時代は駆けこみ寺にもなってたの。漁師たちは不吉な予言をされるといやだから巫女にはさからわないわ。いまでも漁師たちはげんをかつぐの。巫女に手をだすと呪われるって信じられてるわ。だから網元も巫女の一族には手がだせないのよ」

「なるほど。それで網元より力があるってわけね」

「そう。その巫女の孫娘が仁木板蓮夢さんよ」

 あたしは納得した。あぶなそうな女はあぶないがゆえに女たちの支持を集めていたのか。

「ゴーキになにかされそうになれば仁木板さんをたよればいい?」

「ええ。そうよ。海神神社に逃げこめば男は手がだせないわ」

「でもあたしは仁木板さんにきらわれてそうなんだけど?」

「それはしかたないでしょ」

「しかたないわけ? なんでよ? あたし仁木板さんに恨まれることしてないわ。それとも予言のせい?」

「予言ねえ。それもあるかもしれない。だけど予言がなくてもきらわれたと思う」

「どういうこと玲ちん? あたしってひと目見ていじめられっ子なの? 七瀬さんみたいに派手な化粧をしなくちゃだめ?」

 玲ちんが苦笑をもらした。

「いいえ。七瀬さんみたいにすると今度は七瀬派からにらまれるわよ」

 あたしは眉を寄せた。

「すでに七瀬さんにはにらまれたんだけど?」

「ああ。そりゃそうでしょ。にらまれないのが不思議ね。絞め殺されなかっただけでもよかったと思って」

「なにそれ? どうしてあたしが七瀬さんに?」

「そこのところは説明したくないわねえ。七瀬さんのお父さんってさ。この島の商工会議所の会頭なのよ。つまり網元につぐ実力者ね。島民の二割が七瀬派だと見てまちがいないわ。七瀬さんにさからうとコンビニで商品を売ってもらえなくなるわよ」

「ええっ? そうなの?」

「はいそうなの。この島の有力者は四つの家よ。漁業者をたばねる海野家。商工会をにぎる七瀬家。予言をつかさどる仁木板家。それから病院を運営する円城寺家」

 あたしは青くなった。

「あたしその四つのすべてを敵にまわしたの?」

「カケエくんの円城寺家はまだじゃない? まあ三つは確実に敵みたいだけどね。それともゴーキの恋人になって海野家にすり寄る?」

「いやよ。それだけはごめんして。でもさ玲ちん。するとリョースケはどこに位置するの?」

「リョースケくん? リョースケくんはいま母子家庭でね。お母さんと妹とロクって名前の犬一匹と暮らしてるわ。死んだお父さんは漁師だったんだけどさ。お父さんが死んでお母さんは小学校にパートで就職したの。給食のおばさんとしてね。だからリョースケくんはどこの派閥とも関係ないわ。カケエくんと親友だからあえて言うなら円城寺病院派よ」

 あたしはまたさっきの疑問を思い出した。

「あたしさ。どう考えても仁木板さんや七瀬さんににらまれる覚えがないんだけど? 玲ちんは理由を知ってるんでしょ? 教えてよ」

「ええーっ? 言いたくないなあ。でもすぐにわかっちゃうだろうからなあ」

 玲ちんが迷っているあいだにチャイムが鳴った。次の授業は現代国語だった。

     ☆

 昼休みになった。あたしはリョースケの目を盗んで弁当を手に玲ちんと教室を抜けだした。リョースケは弁当を届けにきたスミレちゃんにつかまった。カケエは顔をきょろきょろさせて誰かを捜しているみたいに見えた。あるいはあたしを捜していたのかもしれない。だがあたしはこっそりと玲ちんの手を引いて教室をぬけだした。

 屋上であたしと玲ちんは弁当をひろげた。屋上には数組のカップルが寄り添って弁当を食べていた。どうやら屋上はカップルの場所という暗黙の了解があるらしい。

 あたしたちは屋上のすみで隠れるように弁当をつついた。

 食べながら玲ちんがあたしに質問をぶつけた。

「でもさイチズ。どうしていきなりリョースケくんを殴ったの? リョースケくんがお兄さんの仇だって聞いたけどさ。そんなふうには見えなかったわ」

 あたしはゴホッとご飯粒をふきだした。

「なにそれ? そんな話になってるの?」

「ええ。リョースケくんがイチズのお兄さんを試合で殺したんだってさ。イチズのお兄さんは空手家でリョースケくんが道場やぶりをしたの。正式な手合わせだったんだけど打ち所が悪くてイチズのお兄さんは死んだそうよ。その逆恨みでイチズ母娘が復讐にきたんだってさ。リョースケくんを見つけたイチズは問答無用で殴り飛ばしたって聞いてるわ。そこへ源馬刑事と木之元署長がとめにはいってリョースケくんは一命を取りとめたそうよ。源馬刑事が発砲しなければリョースケくんは殺されてたって」

 あたしはあきれた。

「どんな話よそれ。たしかにあたしはリョースケを張り飛ばしたわよ。でもそれはリョースケがあたしのスカートをめくったせいだわ」

 玲ちんが驚愕顔で箸からタコさんウインナを取り落とした。

「ええーっ? スカートをめくったぁ? リョースケくんがそんな真似をしたの?」

 あたしはここぞとばかりに同意を求めた。

「そうなのよ。ひどいでしょう? おまえは小学生かつーの。でもそんなに驚くところ? あいついつもそんなことしてるんじゃないの?」

「ううん。リョースケくんがスカートをめくったなんて聞くのは初めてよ」

「嘘? あいつスケベそうじゃない? エッチないたずらはしないの?」

 玲ちんが眉を曇らせた。

「ええっとねえ。説明がむずかしいんだけどさ。スカートめくりはしないの」

「スカートめくりはしない? じゃなにをするわけ?」

 玲ちんが言いよどんだ。

「それはそのう。まずね。胸をもむの。次は下着をおろすわけ。そのあとは最終行為になっちゃうのよ」

 あたしはちょっと考えた。

「そ。それってさ。スカートめくりなんて初歩的なことはしない。そういう意味?」

「そう。リョースケくんは幼稚園のころにお医者さんごっこをしてたわ。小学校一年のときは授業中にとなりの席の女の子の下着に指を入れてもてあそんでたの。初体験は小学四年生だって」

 あたしはあいた口がふさがらなかった。

「よ? 幼稚園でお医者さんごっこぉ?」

「ええ。だからスカートをめくられた女の子はいないのよ。下着をぬがされた女の子はいっぱいいるけどね。そのリョースケくんがいまさらスカートをめくるなんてねえ?」

「ちょっと玲ちん。あたしが嘘をついてると?」

「ううん。そんな嘘ついてもしかたないわ。相手がリョースケくんだと最後までいくのが普通だもの。イチズはスカートをめくられただけなんでしょ?」

「そうよ。いえ。そのあと抱きすくめられたかな。でもそこまでよ。キスもなければ胸もさわられなかったわ」

「ふうん。いつものリョースケくんじゃないわねえ。どういうことかなあ?」

「あいつそんなに手が早いの?」

「早いって言うか自然って言うか。気がつけばそうなってるの。リョースケくんが相手だと警戒心がなくなるのよね。わたしどう見える? 処女だと思う?」

「ええ。処女なんでしょ? えっ? でもそんなこと訊くってことは処女じゃないの?」

 あたしには玲ちんが男を知っていると思えなかった。どこから見ても幼い感じだ。これで非処女ならあたしはもう自分の目が信じられない。だが玲ちんはあっさりと口にした。

「うん。初体験は中学一年よ。小学一年生の時わたしのとなりはリョースケくんだったの」

 あたしはポカンと口をあけた。

「じゃ下着に指を入れられた女の子って?」

「そう。わたしもそのひとり。幼稚園のときお医者さんごっこした女の子にも入ってるわ。いまでも二週間に一回くらい相手をしてもらってる」

 あたしは身を乗り出した。

「ちょっと。いいのそれ? あいつ玲ちんだけじゃなくほかの女とも関係を持ってるわけでしょ?」

「だってしょうがないもの。わたしはリョースケくんを好きよ。でもリョースケくんはわたしが好きじゃないの。それにわたし仁木板さんや七瀬さんを相手に争奪戦はできない」

 あたしはアッと声をあげた。

「それで仁木板さんと七瀬さんがあたしを絞め殺すのね? リョースケを叩いたから」

「ううん。叩いたからじゃない。リョースケくんがイチズを『おれのものだ』って宣言したからよ。リョースケくんがおれの女だって言ったことはないの。わたしたちリョースケくんが怒るから高校でリョースケくんには近づかないわ。リョースケくんも高校で女の子には近寄らない。高校でリョースケくんに近づけるのは妹のスミレちゃんだけよ」

「ああなるほど。女たちの舌打ちはそこね。仁木板さんと七瀬さんがスミレちゃんを恨みがましい目で見るのもそれ?」

「ええ。スミレちゃんがうらやましいの。わたしもスミレちゃんみたいにリョースケくんを独占したいわ。でもそんな真似をすれば仁木板さんと七瀬さんに殺される。わたしはこっそりリョースケくんと会えるだけでがまんしてるの。本当は毎日毎時間くっついていたいわ。だけど仁木板さんや七瀬さんもがまんしてるからわたしだけってわけにはいかないの」

 あたしは信じられなかった。あたしはそんな関係はいやだ。ふたまたどころではない。そんな節操のない男とつき合う女の気がしれない。

 あたしの目の色に気づいた玲ちんがあたしにほほえんだ。

「好きになってくれない男と関係をつづけても不毛。そう思ってるんでしょう? でもわたしはいまの関係で満足なの。わたしは地味で目立たないでしょ? どんな男を好きになったってまともに相手をしてもらえるとは思えないわ。でもリョースケくんはわたしを粗末にあつかわないの。自分の女だってあつかいはしてくれない。恋人あつかいもしない。だけど優しくあつかってくれるの。恋人以上にわたしをいとおしんでくれる。リョースケくんの腕の中でわたしは幸せなの。恋人同士になればもっと幸せだと思う。でもつまらない男に泣かされるよりずっと幸せなのよ。彼氏がいないいまよりもね。リョースケくんの都合のいい女にされてるんじゃないの。わたしがリョースケくんを恋人代わりにしてるのよ。わたしに結婚を考える人が見つかればあっさりリョースケくんを捨てると思う。わたしとリョースケくんの関係はそんなものなの。だからわたしのほうがずるいと思うわ」

「リョースケとのエッチってそんなにいいの?」

 玲ちんがポッと頬をあからめた。うぶな少女の顔がしたたかな女の貌に変化した。とろとろに溶けそうな笑みだった。

「ええ。そりゃもう。大好きな男の子だもの。テレビのアイドルに抱いてもらってる心地よ。現実とはちょっとちがうのよね。女の子の夢って感じかな? 結婚は現実だけどリョースケくんとは仮想現実なの。あこがれの中で夢を見せてくれるのよね」

 あたしは玲ちんに別種の生き物を感じた。男を知らないあたしは玲ちんと共感ができない。玲ちんはあたしよりはるかに先を行っていた。

「あこがれの中で夢をねえ。なんとなくわかるけどさ。あたしはそんな関係って無理ね」

 玲ちんが大人びた笑いをあたしに寄越した。

「イチズはリョースケくんとすごした時間がみじかいからよ。わたしたちはリョースケくんと幼稚園からの関係だもの。お医者さんごっこして身体中をさわらせた間柄なのよ。秘密なんてどこにもないわ。エッチはその延長だっただけね。わたし初体験のとき恥ずかしいって思いはなかったもの。むしろリョースケくんと初体験したいって願ってた。リョースケくん以上の男の子がいればそんな関係にはならなかったと思うわ。こんなちいさな島にいるせいかもね。リョースケくん以上の男の子を見たことないもの」

「ううむ。そこんとこは賛成できないわね。顔だけ見れば東京だってリョースケ以上の男はいないわよ。リョースケといっしょに育ったからそんな関係になったんじゃないの? 海野が相手ならそんな関係にはなってないでしょ?」

「きゃはは。それはそうよ。ゴキブリゴーキが相手なら握手すらいや。リョースケくんだから下着の中に指を入れられても陶酔したの。わたし小学一年生のとき授業が待ち遠しくてならなかった。リョースケくんの指がのびてくるのをドキドキしながら待ってたわ。あの感覚はいつ思い起こしても好きよ。初恋の男の子にいたずらされるってたまらないの。いまでもゾクゾクしちゃうわ」

 なるほどとあたしはうなずいた。恋というより恋の練習をしているのだろう。夫となる男が現われるまでの恋愛遊戯だ。その相手がまれにみるいい男だと言うことなし。そんなところか。

「あれ? ちょっと待って玲ちん。それってさ。リョースケが来る者こばまずってこと?」

「うん。そうよ。中学生のころは人妻の相手もしてたわ。でも旦那さんに浮気がばれてさ。リョースケくんと旦那さんが大喧嘩したの。当時リョースケくんはお父さんが死んだばかりでね。リョースケくんはお父さんと漁に行く海の男だったの。力も強かったわ。だから大人相手でも勝っちゃったの。相手の肋骨を折って入院させちゃった。以来リョースケくんは年上の女を相手にするのはやめたわ。年下は最初から相手にしなかったからいまは同年代だけを相手にしてるわよ。この島の同年代の女の子は八割がたリョースケくんと関係を持ったんじゃないかしら?」

 あたしは驚いた。

「ええーっ? それって何人よ?」

「六十人くらいじゃない? この島ってラブホテルがないからリョースケくんとしたくてもできない女の子もいるわ」

「どういうこと?」

「リョースケくんの家は心臓の悪いお母さんと妹の三人暮らしでしょ? リョースケくんの家でエッチはできないの。この島にラブホテルはないわけよ。すると?」

「女の子の家で?」

「そう。家族が昼間いない女の子しかリョースケくんの相手はできないの。わざわざカーフェリーに乗って本土のラブホテルでなんてリョースケくんはしないからね。リョースケくんはエロ男子だけど女に飢えてはないもの」

 もはやあたしにはあきれる以外に手がなかった。そういえばスミレちゃんが初対面のとき『お兄ちゃんは女に不自由してないでしょ』と言っていた。あれはそんな意味か。

「そりゃ六十人も相手がいりゃ女に飢えはしないでしょうよ。でもさ。そんなエロ男子がなんでまたあたしのスカートを?」

「さあ? それはわたしにも謎よ。見憶えのない子だったから興味が湧いたんじゃない?」

「いつも食べてるものに飽きたからたまにはゲテモノをって?」

「うーん。でもねえ。イチズを食べる気なら最後まで完食すると思う。リョースケくんってそういう歯止めはきかないのよ。相手にその気がなければ近寄りもしないしね。スカートをめくるってパターンは初めてよ。わたしは降参ね。リョースケくん本人に聞いてよ」

 あたしはリョースケに訊く気はなかった。きのうの一件だけでリョースケをスケベ男だと断定していた。玲ちんの話を聞いてますますムカついた。同年代の八割と関係を持つなんてエロすぎる。教室の八割の女の子がスミレちゃんに舌打ちをしていた。あれはつまりリョースケが手をつけた女たちだったわけか。玲ちんみたいなおとなしそうな子まで毒牙にかかっているようでは被害がどこまでおよんでいるかしれなかった。

「病原菌みたいな男だわね」

「かもしれないわね。でもきっとわたしたちが悪いと思うわ」

「どうして?」

「だってわたしたちがそんな関係を望んだんだもの。本当にリョースケくんが欲しいなら誰かひとりにしてって迫るべきよ。わたしはリョースケくんに捨てられるのが怖い。だからひとりに絞ってって言えないの。仁木板さんも七瀬さんもその他の女の子たちもきっと同じよ。自分が選ばれないのがわかってるからひとりの恋人に絞らせたくないの。ゆいいつ別格はスミレちゃんね。妹は一生妹だから」

「けど妹になると肉体関係は持てない?」

「そこがジレンマなのよねえ。リョースケくんに捨てられないけど恋人でもない。わたしたちきっとおそれてるのよ」

「なにが怖いの?」

「いまの関係が終わるのがよ。リョースケくんがたったひとりの女の子を好きになればいまの関係は終わるわ。わたしたちは全員失恋ね」

 あたしはどう言葉を継いでいいかわからなかった。玲ちんはどれだけひいき目に見ても仁木板や七瀬に勝てると思えない。リョースケにひとりを選ばせるとそのひとりは玲ちんではないだろう。

「そういやさ。カケエはどうして人気がないの? リョースケはワイルド系だけどカケエは王子様系でしょ? なのにカケエに熱をあげてる女の子はいないみたいよ? あたしはリョースケよりカケエ派だけどなあ」

 玲ちんが肩をすくめた。

「カケエくんが王子様? たしかにそうねえ。リョースケくんはさしずめエロ王子?」

「あはは。そのとおり。リョースケはエロ大王だわ。カケエは真面目ひとすじって感じ?」

「あまーい。イチズあんたは男がわかってない。ひと目処女だものね。カケエくんもリョースケくんと同じくらいエロいわよ。わたしたちがお医者さんごっこしてるのをうらやましそうに見てたもの。わたし一度カケエくんにさわらせてあげたこともあるのよ。すっごくうれしそうだったわ。イチズは男に幻想を抱かないほうがいいわね。男はみんなエッチな生き物よ」

 ううっとあたしはうなった。あたしより未発達にしか見えない玲ちんに諭されるとは。

「でもさ。そのエロカケエにどうして恋人のひとりもいないのよ? 変じゃない?」

「ううん。それにはふたつ理由があるの」

「ふたつ?」

「ええ。ひとつはカケエくんのお母さんよ。典江のりえさんっていって円城寺病院の院長夫人ね。本土にある旧家のお嬢さんで箱入り娘だったそうなの。典江さんはエッチに理解がないわけよ。昔はこの島にもラブホテルがあったんだってさ。でも典江さんがとついできてすぐ廃止させたの。そんな淫らな施設は必要ありませんってね。典江さんは結婚までは清らかな交際をって本気で言ってるわ。カケエくんはキスもできないんじゃないかしら? カケエくんは二度目にわたしがさわらせてあげようとしたらママに叱られるって泣きだしたわよ。それ以来カケエくんのエロ人生は足踏みしてるんじゃないかしらね?」

 さもありなんとあたしは納得した。カケエの母ちゃんがカケエがもてない原因か。たしかにあの母の目を盗んで交際はできそうにない。東京ならいざしらずこの島は狭いものな。

「じゃもうひとつの理由って?」

 あの母以外にどんな理由があるのか? 玲ちんをさわってよろこぶってことはカケエは同性愛者ではないはずだ。そのとき昼休み終了のチャイムが鳴った。玲ちんが弁当箱をハンカチで包んで立ちあがった。

「もうひとつの理由はね。放課後になればわかるわ。きっとね」

「はあ? 放課後?」

 玲ちんはうふふと笑っただけで階段を降りはじめた。あたしは首をかしげたまま玲ちんのあとを追った。

     ☆

 その放課後がきた。あたしと玲ちんは帰りじたくをしていた。あたしは見た。教室のうしろにいるリョースケがあたしに目をとめたのをだ。あたしはリョースケの目をさけるように玲ちんの手を取った。足早に階段をおりるあたしたちを七瀬夏美が追ってきた。

「待ちなさいよ。よそもの」

 あたしはしかたなしに足をとめた。七瀬が目で玲ちんに場をはずせと命令した。

 玲ちんが階段をおりきるとあたしを威嚇するように七瀬が叩きつけた。

「わたしリョースケと寝たわよ」

 意を決しての告白だったようだ。でもあたしは驚かなかった。すでに玲ちんの話で衝撃を受けたあとだ。いまさらカミングアウトされてもねえ。

 あたしは七瀬にかける言葉がなかった。『それはよかったわねえ』では変だと思った。『あなたがリョースケと寝たからってあたしには関係ないわ』だったろうか?

 とにかくあたしはなにも言えなかった。そもそも七瀬の意図がわからない。あたしにリョースケとの関係を告白してなにがしたいのよあなた?

 あたしは七瀬の期待を裏切ったらしい。七瀬の濃い化粧がくしゃくしゃにゆがんだ。無言で七瀬が涙をこぼし始めた。

「あ。いや。泣かないでよ七瀬さん」

「知らないっ! あんたなんかだーいっきらいっ!」

 あたしがおろおろとうろたえているあいだに七瀬はあたしに背を向けた。階段に涙をポタポタと落としながら駆けあがって行った。あとに残されたあたしはぼうぜんと立ちつくした。階段の下から足音を殺した玲ちんがのぼってきた。

「いまのってさ。驚いてあげるべきだったわよイチズ」

 あたしは玲ちんの顔をうかがった。場を離れたふりをして見ていたらしい。幼い顔をしているが意外としたたかな面を持っているようだ。あたしはすこし冷静になった。

「リョースケって不潔。そんな男だと思わなかったわ。リョースケなんて大っきらい。そんなふうに?」

「きっとそう。平気な顔してちゃまずいと思うわ。なにか言ってあげなきゃ。あれじゃ七瀬さんの空振りだもの。反撃させてあげなきゃ」

「七瀬がかわいそう?」

「ううん。ちがう。イチズがずぶとい女だって誤解が深まるだけよ。あしたからもっと妙な噂が飛びかうわねきっと」

 あっとあたしは口をあけた。あたしはただでさえ心臓に毛が生えた女だと思われている。その上さらに追い打ちかい? しかしだ。いまから七瀬を追いかけて『さっきの告白にはびっくりしたわ』なんて言えるわけがない。あまりに取ってつけたマヌケさだ。

 あたしは肩をすくめて階段をおり始めた。そのときふと気づいて玲ちんに声をかけた。

「玲ちんは?」

 玲ちんがふり返った。

「わたし? わたしがなに?」

「玲ちんはどこの派閥なの? 仁木板さんでも七瀬さんでもないんでしょ?」

「ああ。わたしは派閥なしよ。父ちゃんは中学の先生なの。だから親のしがらみって関係ないわ。でもそのせいでどこにも入れてもらえないの」

「なるほど。派閥がないと仲間もないってわけか。よしあしねえ」

「まあそうよ。プラスとマイナスは表裏一体みたいね」

 あたしたちが校舎から出て校門に向かったときだ。黒塗りのリムジンが長い車体を校門に横づけした。降りてきたのはお嬢さまだ。短髪のオカッパがサラサラと風にそよぐのが見えた。手入れの行き届いた黒髪は羽毛のように軽そうだ。着ている服はビロードのロングドレスだった。鮮やかな紫の絹が五月の陽光を反射した。首には大粒の黒真珠をつらねたネックレスが巻かれていた。真珠が本物なら一千万円はくだるまい。顔は黒真珠に負けない美少女だった。玲ちんがあたしのセーラー服のすそをツンツンと引っ張った。

「あれがカケエくんのもてない理由の第二よ」

 あたしには意味がわからなかった。

「えっ? どういうこと?」

「あの子は正徳院桜子しょうとくいんさくらこ。カケエくんの婚約者よ」

「こ? 婚約者?」

「そう。あの美少女に対抗する勇者はいないってわけなの。イチズあの子に勝てる?」

 あたしは首を横にふった。ぶんぶんぶんと。

「無理」

「でしょう? しかもきれいなだけじゃないのよ。あの子は国会議員の孫でね。本土の資産家の娘でもあるわ。つまり美貌と権力とおカネの三拍子がそろってるの。あの子のお母さんとカケエくんのお母さんが親友でね。それで婚約者になったそうよ」

「カケエがもてないふたつの理由か。納得だわ」

 その正徳院桜子が日傘をさしてしずしずとあたしたちに近づいてきた。歩き方ひとつ取ってもお嬢さまだ。そこに校舎内からカケエとリョースケがでてきた。リョースケは右腕にスミレちゃんをからませていた。日傘をほうり投げた桜子が足を速めた。カケエに向かって一直線だ。あたしは桜子がカケエに抱きつくと思った。でもちがった。桜子が抱きついたのはリョースケだ。

「リョースケ! 会いたかった!」

 スミレちゃんが桜子を引きはなそうと努力した。

「お兄ちゃんから離れなさいよ桜子!」

 桜子も負けてなかった。

「うるさいわねブラコン娘!」

 ふたりの女はそれぞれリョースケの右腕と左腕に抱きついた。あまった手で女同士のこづきあいを始めた。桜子はさっきまでのお嬢さまがどこへやらだ。すっかりオスを奪い合うメスネコと化していた。そこへ仁木板派や七瀬派がぞろぞろと校舎からでてきた。んまあという声やチッと舌を打つ音があたしの耳に届いた。あたしは修羅場になると目を閉じた。でも大騒ぎは起きなかった。つづいているのはスミレちゃんと桜子のののしりあいだけだ。リョースケと関係を持ったと思われる八割の女たちは遠巻きに見ていた。学校ではリョースケに口出ししないというルールが生きているらしい。

 スミレちゃんが桜子のオカッパを手でつかんだ。

「あんたは本土で男をあさってりゃいいのよ桜子! わざわざこんな島までくることはないでしょ!」

「その手を放しなさいよスミレ! わたしは犬に会いにきただけよ! リョースケと約束したもの! 今度ロクを見せてくれるってね! そもそも妹の口をはさむ問題じゃないわ! お兄ちゃんを卒業して別の男を探しなさいよね!」

 女ふたりにはさまれたリョースケはあきれ顔で空を見あげていた。かたわらのカケエはおろおろするだけだ。あたしは胸の奥でつっこんだ。『しっかりしなさいよカケエ。あんたの婚約者でしょ』と。玲ちんがあたしの耳にささやいた。

「この四月からいつもあんなふうよ。桜子はわたしたちとおない歳だけど午後からの授業をさぼって遊びにくるの。週に一回はかならずくるわよ」

「でもさ。桜子ってカケエの婚約者じゃなかったの?」

「中学生まではみんなそんなふうに信じてたわ。カケエくんのお母さんがそう宣伝してたからね。でもこの春休みになにかあったみたい」

「なにかってなによ?」

「こら。年頃の女の子がそんなの訊くものじゃないわ。きっとああいうことがあったのよ」

「なるほど。エロ大魔王だものね」

 あたしは肩をすくめて興味をなくした。リョースケの毒牙にかかった女がひとり増えただけだ。あたしには関係ない。あたしは玲ちんの手を取って校門に足を進めた。リョースケが弁解しているのが耳に飛びこんできた。

「きょうはだめだ正徳院。おれは用がある」

「なんの用なのリョースケ?」

 桜子の問いにあたしは心の中で答えた。『女と会う用に決まってるわ』と。

 リョースケが答えた。

「イチズと遊びに行く」

 えっとあたしの足がとまった。

 玲ちんがあたしの顔を見た。そんな約束をしたの? そう問う顔だった。  

「とんでもない。あたしリョースケと遊びになんか行かないわ」

 実際あたしはなにも聞いてない。朝の騒動以来リョースケを避けていた。玲ちんは疑わしげな顔をくずさなかった。あたしは玲ちんの手を引いて校門をでた。桜子のリムジンをとおりすぎるとあたしは弁解を始めた。

「信じてよ玲ちん。あたしはリョースケを避けてるの。リョースケと遊びに行くなんて誤解だからね。そうだ。きょうは玲ちんと遊びましょ。玲ちんあたしにこの島を案内してよ」

 玲ちんが不審顔ながらうなずいた。

「いいけどね。なにもない島よ。カラオケボックスとドーナツ店くらいしかないわ。以前はケーキ屋さんがあったけど倒産しちゃったからね。ゲームセンターもないのよ。映画館は一軒あるけどいまはヤクザ映画がかかってるわ」

 あたしはどこでもよかった。リョースケと遊ぶ疑いを晴らすアリバイ作りだ。

「じゃドーナツ店がいいわ。あたしドーナツ好きよ」

 玲ちんがうんざりした顔になった。またドーナツかって顔だ。きっとこの島の女子高生はことあるごとにドーナツ店に集合しているのだろう。

 あたしたちがドーナツ店に落ち着いてしばらくたったあとだ。玲ちんのスマホに呼び出しがきた。玲ちんが歓声をあげた。

「きゃーっ! リョースケくんからだわ! はい。もしもし。わたし友崎玲子」

 ふたことみこと聞いた玲ちんがあたしにスマホを突きつけた。

「なに玲ちん?」

「リョースケくんが『イチズに代われ』って」

 あたしはいやーな顔をした。

「いやよ。ことわって。あたしはリョースケと話すことなんてない」

 玲ちんもいやーな顔であたしをにらんだ。

「おねがいイチズ。わたしリョースケくんから電話をもらったの初めてなの。リョースケくんからたのまれごとをされたのも初めてよ。わたしの顔を立てると思って出てあげて」

 玲ちんがあたしをおがみたおした。あたしはしぶしぶ玲ちんのスマホを手に取った。すぐにリョースケの声が流れた。

「イチズ。浜まできてくれ。大至急だ。待ってるぞ」

 あたしはリョースケに釘をさした。

「あのね。あたしは行かない。待ってもむだ。別の女を誘いなさい」

「そんなわけにはいかねえ。おまえじゃなきゃだめなんだ。とにかく来てくれ。カンパチを釣りに行くんだ」

 あたしは眉をしかめた。

「環状八号線を釣りに行く? なにそれ? 環状八号線を車で流して女の子を引っかけようっての? それにあたしもつき合え? バカ言ってんじゃないわよ! どうしてあたしがあんたのナンパにつき合わなきゃならないの!」

 頭にきて思わず立ったあたしを玲ちんが押しとどめた。

「ちがうわよイチズ。カンパチは魚なの。おねがいだからリョースケくんにつき合ったげてよ。リョースケくんはいやがる女の子にエッチはしないわ。イチズがいやだって言えば絶対そんな関係にならないからさあ」

 あたしは玲ちんの顔をうかがった。嘘ではなさそうだ。

 あたしは電話の向こうのリョースケに問いかけた。

「カンパチって魚なの? 魚を釣りに行こうっての?」

「ああ。おまえとエッチがしたいんじゃねえ。たのむからつき合ってくれねえか。時間がねえんだ」

「じゃ玲ちんもいっしょはだめ?」

「玲ちん? 友崎か? 友崎はだめだ。友崎は船に酔う。魚にもさわれねえ」

 リョースケの言葉どおりらしく玲ちんが手でいやいやをした。玲ちんがリョースケに聞こえないように声をひそめた。

「あのねイチズ。わたしもリョースケくんと行ったことがあるわ。でも役に立たなかったの。ここはひとつイチズだけで行ってよ。わたし小さな舟はだめなの。もう二度とリョースケくんに嘔吐するところを見られたくない」

「あのう玲ちん。あたしが嘔吐するところは見られてもかまわないっての?」

「だってイチズはリョースケくんが好きじゃないんでしょ? 好きでもない男の前で嘔吐したっていいじゃないよ。わたしはリョースケくんが大好きなの。あんな恥ずかしい思いはもうしたくないわ。だからイチズだけでおねがい」

 あたしがなおもためらっていると玲ちんがスマホを切った。玲ちんがあたしを立たせた。玲ちんはあたしの手を引いて浜への道を降り始めた。玲ちんがあたしを連れて行ったのは漁港ではなかった。港から離れた砂浜だ。あたしは砂浜でカンパチという魚を釣るのだとかんちがいした。砂浜にはすでにリョースケが待っていた。

 てっきりリョースケひとりだと思ったあたしは肩すかしを食った。リョースケの左右には桜子とスミレちゃんがついていた。カケエもいた。犬までリョースケの足元でじゃれていた。白と茶色の雑種犬だった。玲ちんが犬を指さした。

「あれがロクって犬よ」

 あたしたちに気づいたカケエが手をふり始めた。スミレちゃんと桜子があからさまにいやーな顔をした。あたしが来なければいいと思っていたらしい。リョースケはにくらしいほどすっきりした笑顔を見せた。その笑顔に玲ちんが目尻を吊りあげてあたしをにらんだ。

 あたしはあきれた。

「ちょっと玲ちん。玲ちんがおねがいしたから来たんでしょ。あたしが好きで来たんじゃないわ。にらまないでよ玲ちん。」

「ごめん。わかってるんだけど妬けちゃうの。あーあ。わたしにもあんな笑顔を向けてくれたらなあ。あっ。それからね。リョースケくんがスマホを持ってるってのはないしょにね」

「なんで? どうしてスマホを持ってちゃだめなの?」

「みんなに知れたらたいへんなことになるからよ。一日中メールや通話が殺到したらパンクしちゃうでしょ。だからなの。リョースケくんがスマホを持ってるって知ってるのはわたしくらいよ」

 あたしの目が輝いた。

「それってリョースケが玲ちんを?」

 玲ちんが肩をすくめた。

「残念。そうじゃないわ。たまたまリョースケくんが契約するところに居合わせただけなの。番号も交換したけどリョースケくんがかけてくれたのは今回が初めてよ。リョースケくんにおねがいをされたのもね。つまりわたしはリョースケくんの女たちのひとりにすぎないってわけよ。甘い期待はもう抱かないことに決めたわ」

「いいのそれ?」

「よくないけどしかたないわ。なるようにしかならないもの。ところでさイチズ」

 そこで玲ちんが声をひそめた。あたしは玲ちんの口に耳を寄せた。

「なあに」

「イチズは下の毛が生えてないってホント?」

 あたしは顔をしかめた。ママのやつぅ。恨んでやるぅ。

 リョースケたちに近寄ると犬のロクがあたしの足にまとわりついた。人なつっこい犬らしい。頭をなでてやるとシッポをふって愛想をした。飼い主のリョースケに似ず可愛いやつだ。玲ちんもロクの頭をなでてやった。そのあたしと玲ちんをスミレちゃんと桜子が冷ややかな目でながめた。明らかにあたしを敵視していた。

 きのうあたしはリョースケがスケベでなければ学校の人気者だと思った。スケベでも人気者らしい。いやスケベゆえの人気かもしれない。あたしは手当たりしだいに女と関係を結ぶエロ男にその気になる女の気がしれなかった。でもすっかり親友化した玲ちんだってこのエロ男の信者だ。カケエの婚約者すらそうみたいだった。あたしはふと思いついて桜子だけを引き離した。この機会にとたずねてみた。あとでまた泣かれると厄介だからだ。 

「あのさ。ひょっとしてあんたもリョースケと寝た?」

 桜子が一瞬のためらいのあとで口を開いた。他人事のような口調だった。

「ええ。まあそのようね」

「なんでなの? あんたカケエの婚約者でしょ? どうしてリョースケと?」

 桜子が人さし指をひたいにあてた。首をかしげながらあたしの耳に口をつけた。

「わたしにもわからないのよ。気がついたら開通したあとだったの。なにがなんだかわからないうちに全部ぬがされてたわ。なのにね。いやじゃなかったの。とっても幸せだった。ああ。でもこんなこと未開通っぽいあなたに言ってもわからないわね。ごめんなさい」

 最後の『ごめんなさい』に余裕が感じ取れた。リョースケはわたしのものよと言外に匂わせて聞こえた。あたしは桜子をにらみつけた。むかっときていた。あたしはリョースケが好きではない。そう思う。なのに腹が立った。この女ギツネめえと。

 にらみつけたあとでハッとわれにかえった。あたしはリョースケが好きではない。桜子をにらむ理由がないはずだ。リョースケの女に嫉妬するなんておかしい。

 そうだわ。カケエを裏切った女に腹が立っただけなんだ。そんなふうにあたしは自身を納得させた。うしろめたさに玲ちんをチラッとうかがったのは気の迷いとしよう。

 リョースケとカケエとスミレちゃんは制服から私服に着替えていた。三人ともズボンにTシャツに麦わら帽だ。釣りにふさわしい軽装をしていた。あたしは学校帰りだからセーラー服だった。桜子はビロードのドレスに日傘をさしていた。

 リョースケは釣り竿を出すでもなくただ砂浜に立つだけだ。リョースケの目は沖を見ていた。あたしは疑問をリョースケにぶつけた。

「ねえリョースケ。釣りをするんじゃないの? なにを待ってるわけ?」

「船を待ってるんだ。ああ。きたきた」

 リョースケの指の先に漁船が見えた。波を蹴立ててこちらにくる。

 漁船は波打ちぎわよりすこし沖で停止した。渚から船まで十メートル以上あった。船の横腹をさざ波がチャプチャプと洗い始めた。

「さあ乗るぞイチズ」

 リョースケがあたしの背を押した。あたしはためらった。船に乗ろうとすれば海にはいらなければならない。あたしは制服のスカートだった。スカートの下は木綿の下着だ。ウサギ柄だった。海水が腰までくると下着も濡れる。濡れた下着はスケスケになるはずだ。なにより下着が濡れると感触が気持ち悪い。下着の替えなど持っているはずがなかった。

 犬のロクがまっ先に海に足をいれた。華麗な犬かきで船まで泳いだ。そのあとをスミレちゃんとカケエが靴を手に追いかけた。水はひざ上までだった。あたしはすこし安心した。でも途中で転べばやはり下着はびしょ濡れだ。油断はできない。

 あたしは靴をぬいで海にはいった。リョースケがあたしの手を引いてくれた。

 そのときあたしは気づいた。桜子は日傘をさしたまま浜にいる。動く気配はなかった。

「あれ? 桜子は釣りに行かないの?」

 リョースケの足がとまった。

「バカかおまえは? どこの世界にベルベットのロングドレスで釣りに行くやつがいる? 黒真珠の首飾りをエサにしようってのか?」

 あたしはあらためて桜子の全身をながめた。夜会にでる淑女の服装だ。漁船に乗って魚を釣る者の衣装ではない。素直にあたしは負けを認めた。

「ごめんなさい。あんたの指摘どおりだわ。桜子が嘔吐したら取り返しのつかないほど悲惨な事態になりそうね。でもあたしだって船酔いするかもよ? あたしは釣りもしたことないしさ」

「かまわねえ。たいていの女がそうだ。船酔いしなかった女はまだいねえ」

 あたしは眉をしかめた。

「あのさあ。それならどうして女を誘うのよ? あんたが女好きだってのは知ってるわ。でも釣りに行くなら男を誘えばいいじゃない」

「そんなわけにはいかねえんだ。男を誘うとゴーキの耳にはいる。おれと釣りに行ったのがバレると一家離散になりかねねえ」

「あっ。なるほど。男はみんな漁業関係者の息子ってわけ?」

「そういうことだ。ゴーキにバレて影響がねえのはカケエくらいでな」

 そこで漁船の上から船長らしい中年男がリョースケに呼びかけた。

「リョースケ。船賃はひとり五千円だぞ。前払いでたのむな」

 あたしはリョースケの顔を見た。

「えー? あたしそんな大金持ってない」

 先に船にあがったカケエが声をあげた。

「イチズのぶんはぼくが出すよ」

 リョースケがカケエに声を飛ばした。

「いや。おれが払うからいい」

 あたしは船にのぼった。手をカケエに引かれてリョースケにお尻を押されてだ。リョースケはあたしにいたずらをしなかった。あたしはお尻をもまれるのではないかとひやひやしたのにだ。いやがる女に手をださないというのは本当かもしれない。それとも他人の目があるからだろうか? ああそうではない。他人の目があろうがスカートをめくりあげる男だもの。人ごみの中だろうとどんなエッチな真似でもするに決まっている。

 リョースケが四人分の船代を船長に払った。次にあたしに船長を紹介した。

「この船の船長で長者林長五郎ちょうじゃばやしちょうごろうさんだ」

「あたし青桐一千鶴です。よろしく」

 船長がすばやくあたしの全身を観察した。

「ふうん。新顔だな。青桐ってことは青桐洋二の娘かい? あいつ東京に行ってちったあまともになったかね?」

「いいえ。きっとろくでなしのままです」

 船長は一瞬あっけに取られた。そんな答えが返るとは思わなかったらしい。

「あはは。こいつはおもしれえお嬢ちゃんだ。おいリョースケ。今度は当たりかもしれねえな。ところできょうはどこへ行くんだい?」

 あたしに救命胴衣をかぶせながらリョースケが笑顔を見せた。

悲恋岬ひれんみさきの沖五キロだよ船長」

「ほぉ。悲恋の棚か。この時期はあんなところで釣れるのかあ。穴場だねえ」

 船長が言いながら船を走らせた。船は海岸を離れて北上した。若菜島は大小百五十の島からなる若菜群島の中心島だ。群島は日本列島から四十キロ離れた日本海に浮かんでいた。若菜島は飛行場もあって県庁所在地までの往復便が飛んでいた。でも四十キロ離れた本土に島民が渡るのは主にカーフェリーだ。一日に四往復の便があった。あたしがこの島にきたのもフェリーでだった。車の積みこみなどの時間もいれると片道約二時間の船旅だ。

 漁船が北上しているあいだにリョースケとカケエが釣りの仕掛けを作った。竿は使わないようだ。釣り針は大きかった。大物を狙うらしい。犬のロクはキャンキャンとうれしげに鳴いて船内を駆けまわった。狭い船なので海に落ちないかとあたしはハラハラした。手持ちぶさたのスミレちゃんはあたしをにらみつづけていた。あたしをリョースケの新しい女だと完全に誤解していた。あたしはつい『リョースケとまだしてないわ』と弁解しそうになった。カケエの耳があるので露骨な話はひかえたが。

 漁船がいかりをおろした。あたしは海をのぞきこんだ。水は透きとおっていたが底が見えない。水深がかなりあるらしい。正面に崖が見えた。切り立った崖の上に木は生えてなかった。気の早い夏草が海風になびいていた。崖の下の海面は渦を巻くように海流が流れていた。カヌーでくだる急流のように白波が岸にかみついていた。

 あたしの視線に気づいた船長があたしに声をかけた。

「あれが悲恋岬だ。絶対あそこに近づくなよ。悲恋岬の下の海底は穴があいてるんだ」

 あたしは船長に顔を向けた。

「穴?」

「ああ。海底に鍾乳洞があるのさ。海流がその洞窟の中まで流れこんでやがる。悲恋岬で身を投げると鍾乳洞に遺体が吸いこまれちまって二度と見つからねえんだ。江戸時代の話だがな。親に結婚を反対された恋人同士が身を投げたんだとよ。ふたりとも死体はあがらなかったとさ。以来自殺の名所になっちまった。しばらく前に大学の研究者が調査にもぐったんだがね。ひとり行方不明になってそれっきりだ。いまでも死体は未発見だぜ。洞窟は五キロほどが調査されただけでその奥には進めなかったそうだ。海流が強すぎてな。だから悲恋岬には行かねえほうが賢明だ。悲恋岬で海に落ちたら死を意味するからな」

 あたしはふるえあがった。悲恋岬の下の海は見ているだけで気持ちが悪い。海流がヘビのようにのたくっていた。あのヘビに飲まれたら助からない。そう思った。

 ところがリョースケはちがった。へへへとせせら笑った。

「おれは平気だぜ船長。悲恋岬でアワビを取ったこともあるんだ。あんな流れはたいしたことねえよ。流れにさからうから飲まれるんだ。流れを見きわめればどうってこたねえ」

 船長が苦い笑みを浮かべた。

「そりゃおまえが特別だからだよ。一般人をおまえといっしょにするんじゃねえ。おまえの親父の敦史あつしも泳ぎは島一だったさ。敦史はイルカみてえに速かったからなあ。去年の遠泳大会もおまえが優勝したんだろ?」

「まあな」

 あたしはつい口をはさんだ。

「遠泳大会って?」

 リョースケがあたしに顔を向けた。

「この島から本土まで四十キロを泳ぐんだ」

「よ? 四十キロも?」

「そう。でもよ。実はそんなにむずかしくねえんだ。途中までは海流に乗ればいい。三時間もかからねえぜ。おれは小学生のころから本土へは泳いで行ってた」

「うそ? 途中でなにかあったらどうするのよ?」

「それはたしかにそうだな。だが気の持ちようさ。怖いと思ったら泳げなくなる。足も吊る。平常心で泳いでりゃ本土が見えてくるものさ」

 あたしは肩をすくめた。

「あたしにはとうてい無理だわ。二十キロで力がつきたらどうしようって思っちゃう」

「あはは。イチズは才能があるな。二十キロまで進む自分が想像できるらしい。ふつうの女は港をでるところまでしか想像できねえぞ」

「あら? そうなの。そういやさ。この船どうして漁港から出港しなかったわけ? わざわざ砂浜から乗りこんだのはなんでよ? おかげで足が濡れたじゃない。下着まで濡れるかと心配したわよ?」

 船長があきれ顔を見せた。

「なんだ? お嬢ちゃんは知らねえのかよ? こりゃ闇営業だ」

「やみえいぎょう?」

「そうだ。釣り船を営業するには免許と漁協の許可がいるのさ。おれは漁師だ。だから漁師の許可は持ってる。しかし釣り客を乗せる資格はねえ。いまおれたちがやってるのは不法行為だよ」

「不法行為? つまり犯罪?」

「ああ。正規の釣り船だとひとりあたり二万円が相場だぜ。リョースケはかつての身内だからな。特別料金だ」

 あたしはリョースケの顔を見た。単におカネが安いってだけではなさそうだ。正規の船はゴーキの家の管理下にあるのだろう。リョースケを乗せるなとでも言いふくめられているのではないか? そのせいでこの船も港でリョースケを乗せなかった。リョースケを乗せるところを見られるとまずいにちがいない。

 なるほどとあたしが納得しているあいだにリョースケとカケエがエサを用意し始めた。あたしが軍手をつけているとカケエがあたしに竿を渡してくれた。あたしは目を丸くした。

「あれ? 竿は使わないんじゃなかったの?」

「最初はエサにする小アジを釣るんだよ」

 カケエがあたしに仕掛けを説明してくれた。あたしはびくつきながら聞いた。魚釣りのエサはミミズだと信じていたせいだ。あたしにミミズが針につけられるの? そうおびえていたわけだ。ところがエサはこまかなエビをカゴに詰めるだけだった。アミエビをこませにして擬餌針でアジを釣るのだそうだ。釣り針にいちいちエサを刺さないらしい。

「なんだ。簡単じゃん」

 あたしは気が大きくなった。ミミズにさわらないなら怖いものなしだ。ところでとあたしはひとつ気になった。どうしてリョースケではなくカケエが説明してくれるのかと。

 あたしがそんな疑問を抱いてリョースケを見ていると理由がわかった。リョースケは左ききだった。リョースケの竿についているリールだけハンドルが逆についていた。アミエビをカゴに詰める作業も左手だ。

 そういうことかとあたしはうなずいた。左ききのリョースケに手順を説明されるとあたしは混乱するだけだ。それで右ききのカケエがリョースケに代わって説明をしたらしい。

 教えられたとおりに仕掛けを海中にほうりこんだ。するとすぐ竿先がブルルとふるえた。

「きゃーっ! 釣れた! 釣れたよぉ!」

 あたしははしゃぎながらリールを巻いた。小さなアジが鈴なりにウロコを光らせていた。八本ある針すべてにアジが食いついていた。あたしはカケエの指示どおりバケツに釣れたアジをほうりこんだ。アジはピチピチとバケツに飛びこんだ。

 リョースケがあたしの釣ったアジのしっぽに大きな針を刺した。そのまま針のついたアジを海に投げこんだ。あたしはなにをするのかといぶかった。リョースケがあたしの手にその仕掛けにつづく糸をにぎらせた。

「イチズ。もうすこししたらアジがあばれる。そうなっても引きあげるんじゃねえ。糸を送りこんでやれ。そうっとだ。するとアジがとまる。アジがとまってしばらくすると今度はいきなり強い引きがくる。そのときだ。そのとき初めて引きあげろ。負けるんじゃねえぞ。一気にたぐり寄せるんだ。いいな」

 あたしは不審顔でうなずいた。

「うん。わかった。最初は糸を送りこむ。次に糸がとまる。それから強く引かれたらたぐり寄せる。そうね?」

「ああ。そのとおりだ。綱引きに負けるなよ」

 あたしは力強くうなずいた。綱引きは得意種目だ。負ける気はしない。

 話しているあいだに指先の糸がこまかくふるえ始めた。アジがあたしの手から逃げようとしている。そう感じた。あたしはリョースケの言葉を胸の奥でくり返しながら糸を送り出した。アジはビビビとあばれながら右に左に動いているようだった。すこししてアジがあばれなくなった。指先から反応が消えた。あれっとあたしは首をかしげた。

 そのときだ。とつぜんグイッと指を引かれた。あたしの手はひじまで海に引きずりこまれた。なんだこりゃ! あたしは無我夢中で糸をにぎりしめた。濡れた軍手のまま水中のなにかと綱引きを始めた。力いっぱい手を持ちあげた。しかし敵はグングンとあたしの手を引きずりこむ。なかなか手が海面から持ちあがらない。しばらく一進一退がつづいた。そこであたしは気づいた。相手が引くときは相手にゆだねることをだ。相手の力がゆるんだときにこちらが引いてやるのがコツらしい。呼吸をととのえて相手の引きとゆるみに息をあわせた。手首を海面から引きぬくとあとはあたしのペースだった。引かれたときにはなだめてやった。相手が油断したすきに強引に糸をたぐり寄せた。

 そうこうしているうちにおもりが手元にきた。海面を見ると青い海に茶色っぽい魚体がうねっていた。あたしの様子に気づいた船長が横で玉網をかまえた。魚が海面にしぶきをはじけさせた。すかさず船長の網が魚体の下にもぐりこんだ。

 船長が魚をすくった網をあたしの前に持ちあげた。

「いえーい! やったなお嬢ちゃん!」

 網の中では六十センチほどある見慣れぬ魚があばれていた。頭に黒い線が走っている茶色っぽい魚だった。

「なにこの魚? 見たことないわ」

 カケエが釣り糸を手にしたままあたしをふり向いた。

「それがカンパチだよイチズ。高級魚なんだ」

 船長が手早く魚の口から針をはずして船の生け簀にほうりこんだ。あたしは魚を観察するひまもなかった。生け簀をのぞくあたしにリョースケが背中ごしの声を飛ばした。

「イチズ。次のを釣れ。早く釣らねえとカンパチの群れが行っちまうんだ」

 そのリョースケも綱引きをしていた。魚がかかっているのだろう。カケエとスミレちゃんも必死の顔で糸をたぐり寄せていた。

 あたしは船長のつけてくれたアジをまた海中にはなった。そのあとはさっきのくり返しだった。アジがあばれてとまると強烈な引きがきた。今度はあたしも心の準備ができていた。落ち着いて魚の引きをいなした。たしょう強引かと思えるくらいの力で魚を海底から引きあげた。釣り糸はとても太くて切れそうになかった。こんちくしょうとばかりにあたしは魚に力くらべをいどんだ。なかなか手ごわい相手だと認めよう。油断するとひじまで持っていかれる。力をゆるめると負けそうだった。あたしは必死だった。でも楽しかった。魚と力くらべをするのが快感だった。ずっしりとした魚が船長の網に収まると「やったーっ!」と歓声が口からもれた。魚釣りがこんなに楽しいとあたしは知らなかった。

 三十分ほど釣ったろうか。糸の先のアジがあばれなくなった。うんともすんとも反応がない。ちいさくツンツンと引くとアジはヒクヒクとあたしの指を引っ張った。でもあたしが引くのをやめると止まるようだ。反応が消えた。アジは生きているがカンパチはどこかに行ったらしい。アジだけが糸の先でのんびり泳ぎつづけているみたいだ。

 リョースケが仕掛けを巻きあげ始めた。

「きょうはここまでだな。みんな仕掛けをあげて帰るぞ」

 カケエとスミレちゃんも糸をたぐり寄せた。あたしは決断がつかなくてぐずぐずと指で糸をツンツン引いた。そのときリョースケが犬のロクのお尻をポンと叩いた。ロクはビクンと飛びあがった。そのまま海にドボンと落ちた。あたしは悲鳴をあげた。

「きゃーっ! なんてことすんのよリョースケ!」

 あたしはロクを助けなきゃと焦った。でもそのあたしをニヤニヤ笑いでカケエとスミレちゃんが見ていた。海に落ちたロクは気持ちよさそうに犬かきで深緑の海面を泳いでいた。そういえばとあたしは思い出した。ロクは最初も達者な犬かきで船まで泳いだっけ。

 しばらく泳いだロクは満足したらしくクウーンクウーンと鼻を鳴らした。スミレちゃんが船べりから手をだすとロクは器用にスミレちゃんの腕を駆け登って船にもどった。どうやらロクが海水浴をするのは毎度のことらしい。船長がもういいかなという顔でいかりをあげた。軍手をはずすあたしの頭をリョースケが大きな手でなでた。

「ありがとうなイチズ。よくやった。きょうの成績はイチズが四匹。おれも四匹。スミレが三匹。カケエが二匹。合計十三匹だ」

 あたしはリョースケの魚臭い手がいやではなかった。リョースケと同じ四匹というのがすっきりしなかっただけだ。あれだけがんばってたった四匹かというのがあたしの正直な感想だった。もっと釣りあげたと思ったが四匹だけだったらしい。格闘した時間が長かったからそんなかんちがいをしたようだ。魚との真剣勝負はとても濃密な時間だった。

 そのときあたしはあれと気づいた。

「でもさリョースケ。どうしてあたしを連れてきたの? あたしじゃなくてもよかったんじゃない? 玲ちんや桜子は無理でも仁木板さんや七瀬さんなら」

 リョースケがあきれ顔であたしを見た。

「おいおいイチズ。七瀬の化粧を見てねえのかよ? あれが魚釣りをする女のツラか? 仁木板? あの女も失格だ。よごれるのをいやがる。エサもつけられねえ。魚がかかったらパニくる。仁木板を連れてくると釣りにならねえよ。本当は女を誘いたくねえんだ。足手まといにしかならねえからな。だがおまえは船にも酔わなかったしよ」

「そういやそうね。酔うのを忘れてたわ。でもスミレちゃんは? スミレちゃんも女だけど船に酔わないし三匹も釣ったわよ?」

「スミレも最初はぜんぜんだったさ。ひとりで釣りあげたのはやっと中三のときだ。おまえは初心者のくせに四匹もあげただろ。才能あるぜ」

「いや。あたしは言われたとおりにしただけで」

「へへへ。イチズ。世の中にはな。言われたとおりにできねえやつって意外と多いのさ。言ったとおりにできる人間ばかりならうちの野球部は甲子園で優勝してる。ホームランの打ち方はみんな知ってるさ。でもホームランを打てるやつはそうそういねえ。おまえはまぐれにしろ一試合で四本ホームランを打ったんだ。なみの女じゃねえよ」

「なるほど」

 あたしとリョースケの会話にカケエが頬をふくらませた。

「どうせぼくは釣りがへたですよーだ。二匹しかあげられなかったものな」

 あたしはカンパチが食いつくのを待つあいだカケエの手元を横目で見ていた。カケエはたぐる糸をもつれさせてあやとりのように糸と格闘していた。そのぶん魚がなかなか手元まで引きあげられなかった。魚をかけてから網に入れるまでの時間はカケエが最も長かった。なので二匹なのだろう。手早く処理すればカケエももっと釣っていたにちがいない。

 船が悲恋岬を離れた。リョースケがスマホを取りだした。

 あたしは女にかけるのだと思った。でもリョースケは真面目な声でスマホに話しかけた。

「カンパチを十二匹仕入れたぜ。いくらで引き取るね? 一匹二千円? それじゃ話にならねえ。三千円だあ? ぜんぜんだね。四千円? まだまだ。六千円でどうだ? なに? 破産するだって? すりゃいいじゃねえか。六千円でいこうぜ。えっ? 六千円なら手を引く? しかたねえなあ。五千円で手を打つか? ああ。しょうがねえ。一匹五千円で十二匹だ。話は決まったな。いつもの浜に船をつける。浜で待っててくれ」

 リョースケが通話を切った。あたしはおどろき顔をリョースケに向けた。

「なに? 釣ったカンパチを売っちゃうわけ?」

 リョースケも意表をつかれたという顔であたしを見た。

「おまえこのカンパチをぜんぶ食う気だったのか? どんな胃袋してるんだよ?」

「いえ。たしかに十三匹も一度に食べられないけどさ。まさか売るとは思わなかったわ」

「うちの高校はアルバイトが禁止だからな。でも魚釣りは禁止じゃねえ」

「へりくつねえ。するとあたしは四匹釣ったから二万円もらえるの?」

「おいおい姉ちゃん。そんな甘い話があるかよ。おまえの船代はおれがだしたんだ。おまえの取り分なんてねえ。おまえが釣ったカンパチはおれのだ。おまえの収入はゼロだな」

 あたしは口を大きくあけた。

「ええーっ! そんなのないよぉ! あたしは努力しただけなのぉ!」

「釣る楽しみは味わえただろ。一円もふところを痛めねえで儲けだけ持ってこうってのはあつかましすぎねえかい?」

「そ。そりゃそうだけどさ。あたしにもちょっとは分け前をちょうだいよ」

「一匹は売らねえで残してある。そいつをおまえに食わせてやるよ。釣りたてのカンパチなんて高級料亭でしか食えねえぞ。ありがたく思え」

「あんまりありがたくないわねえ」

 そこであたしはふと気がついた。カンパチは一匹五千円で売れる。船代はひとり五千円だ。船長は四人分の船賃の二万円を手にするだけだった。つまりカンパチ四匹分だ。船長はカンパチを一匹も釣ってない。あたしたちの釣ったカンパチを網ですくう手助けをしただけだ。どうして船長はカンパチを釣らない? 四匹釣れば船賃と同じだ。わざわざリョースケからおカネを取る必要はないぞ?

「あのさ船長。船長はなんでカンパチを釣らないの? 自分で十匹釣れば五万円よ? 船長は漁師の資格があるんでしょ? 違法行為をしなくても合法で五万円稼げるわよ?」

 船長が苦笑した。

「そういうわけにゃいかねえのさお嬢ちゃん」

「どうして?」

「そもそも日本海にカンパチはすくねえのよ。そのためカンパチを釣る漁師はいねえ」

「いないの?」

「おおともよ。カンパチはほかの魚にまじってたまに釣れるていどだ。専門に狙う漁師はいねえのさ。つまりなお嬢ちゃん。カンパチが狙って釣れるならおれはとっくに大金持ちになってるぜ。ところがおれはこのとおりさ。ケチな違法行為で食いつないでる。カンパチって魚は回遊魚でな。いつどこにくるかがおれにはわからねえのよ」

「じゃどうしてリョースケにはわかるの?」

「それにゃカラクリがあるのさ。漁師はそれぞれ釣り日誌をつける。いつどこでなにが釣れたかをこまかく書きとめとくのよ。リョースケの親父も漁師だった。リョースケは親父の日誌をもとにカンパチがいつどこで釣れるかを推測してやがるんだ。一種の情報戦だな。漁師はそれぞれが独自の釣り場を開拓してるんだ。この広い海だがね。どこででも釣れるってわけじゃねえんだよお嬢ちゃん」

「なるほど」

 リョースケが口をはさんできた。

「季節と気圧配置と潮流のぐあいでどこにくるかを推測するんだ。それでもかならず釣れるとはかぎらねえ。釣れねえこともある。釣りはバクチなんだよ。この付近のカンパチはたいてい二十匹ていどで回遊してるんだ。ひとつの場所にとどまるのは三十分くらいさ。その三十分にできるかぎり多く釣らなきゃ群れがとおりすぎる」

 あたしはハッと気づいた。

「あっ。あたしを呼んだのは釣り手をひとりでも増やすため? 三十分のあいだに釣れる数を増やすためにあたしが必要だったの?」

「おや。気づいたか。そのとおりだ。手早く釣りあげられる釣り手が五人いれば群れのすべてを手にできる。おれとカケエとスミレでは十匹あがるかあがらねえかなんでな」

 カケエが情けない顔になった。

「ごめんね。ぼくが足を引っ張って」

 リョースケがカケエに声をかけた。

「釣れねえよりましだ。気にするな」

 ひどい言いぐさだとあたしは思った。

「それってなぐさめになってわよ。カケエはよくやったとあたしは思う。リョースケひとりよりましでしょ。カケエにありがとうと言いなさい」

 リョースケが肩をすくめた。

「ありがとうなカケエ」

 カケエが顔をあからめた。

「リョースケに礼を言われるなんて何年ぶりだろう。あしたは大雨かな」

 船長が口をはさんだ。

「あしたも晴れだぜ円城寺病院のおぼっちゃんよ」

 あたしはまだ腑に落ちないしこりを残していた。

「でもさ。どうして船長は釣りをしなかったわけ? 別にカンパチを釣ってもよかったんじゃない?」

 船長がまじめな顔になった。大人が子どもに人生訓を語るときみたいな表情だった。

「おれはなお嬢ちゃん。欲をかきたくねえのよ」

「欲をかく?」

「カンパチは高級魚なのさ。浜値で一匹が五千円なんて魚はざらにねえ。そんな魚をおれがまとめて売るだろ? 買い手はどう思う? おれは本職の漁師だぜ。おれにたのめばいつでもカンパチが手にはいると思わねえかい?」

「ああ。そうね。そう思うわよね。漁師さんだもの」

「そうなりゃおれはなんとしてでもカンパチを手に入れなきゃならねえ。ちがうかい? 売り手と買い手には信頼関係が必要なのさ。買い手は定期的に魚を手に入れてえ。おれは買い手の要求にこたえようとする。ところがだ。日本海にはカンパチがすくねえ。おれが毎日カンパチを釣りにでても一日に一匹すら釣れやしねえさ。すぐにおれの信用はなくなっちまう。そうなりゃたまにカンパチが釣れても買ってくれねえやな。こちとらはカンパチを狙うあまり赤字つづきさ。それよりゃ安い料金で違法に釣り客を乗せるほうが飢え死にしなくてすむって寸法よ。そもそもおれが違法行為をやってるのはおれが腕の悪い漁師だからさ。一時的にカネを手にしてもつづかなきゃ意味がねえ。さらにカンパチなんて高級魚をいつもさばいてると網元ににらまれちまう。漁師の世界は情報の世界なんだ。カンパチの釣れる場所を地図にすりゃその地図に一千万円だすやつがざらにいるぜ」

「一千万円? そ? そんなに?」

「そうさ。一匹五千円で二十匹がワンセットだぞ。一日に十万円だ。百日あれば一千万円になる。一年釣りつづけりゃ一千万円なんて元が取れちまう」

「はあ。そのとおりだわね。ということはリョースケって大金持ちになれるの?」

 船長が笑った。

「ははは。計算どおりにいけば苦労はねえよお嬢ちゃん。季節と気圧配置と潮流のかげんで釣れる場所は変わるんだ。リョースケも三回に一回はなにも釣れねえのさ」

「なるほど。甘くはない?」

「そういうこった。そんなわけで毎日カンパチを釣りに出漁すりゃおれはたちまち破産さ。漁港から出港しねえのも網元ににらまれたくねえからよ。目をつけられると違法行為がバレちまうからな。悪いことをするやつは細心でなきゃならねえ。欲張りすぎるのは禁物だ。法律をやぶってる人間が欲張るとろくな目にあわねえぞ。臨時所得に手をだしてやみつきになっちまったら破滅する。ぐっとがまんも人生にゃ必要だ。人間は地道な努力が一番さ」

「あのね船長。それってさあ。違法行為をしてる中年のおじさんに言われたくないわねえ」

「おっと。こりゃ一本取られたか。まあなんだな。沖釣りがしたくなったら言ってくんな。あんたらはリョースケのダチだ。ひとり五千円で船をだしてやるぜ。緊急に本土に行きたくなったら送ってやってもいい。おれの船なら本土まで一時間だ。でも特急便は一万円いただくぜ。そんなわけでこれからもごひいきにな」

 あたしは肩をすくめた。貧乏なあたしが長者林船長のお得意さまになるとは思えない。

     ☆

 浜にもどると漁船が一艘待っていた。生け簀のカンパチをその漁船に積みかえた。漁船の船長がリョースケに六万円をわたして船は去った。夕暮れが浜に迫っていた。五月の砂浜に人影はなかった。玲ちんも桜子ももういない。リョースケが生きたままのカンパチを肩にあたしの手を引いて砂浜にみちびいた。渚の砂を素足で踏んであたしはため息を吐いた。あーあと。あたしはがっかりしている自分を発見した。あたしには自分が意外だった。

 ドーナツ店であたしはリョースケに『おまえじゃなきゃだめだ』と言われた。あたしはこの浜にくる時いやいやだった。玲ちんにたのみこまれたから仕方なくよと自分に言いわけをしつつ来た。でもあたしは期待していたらしい。リョースケとデートするのをだ。あたしのため息の原因はリョースケとふたりっきりになれなかったせいだ。あたしは手をつないだままのリョースケを見ずに自分の思いを否定した。ちがう。ただの労働力として駆り出されたのに腹が立っただけだ。決してこのエロ大魔王とデートしたかったわけではないと。デートと連想してちくしょうと歯がみした。こいつがエロ全開男じゃなければなあと。リョースケとハンバーガー店でひたいを寄せ合う。遊園地の観覧車で夜景を見ながらの甘いくちづけ。好きだよなんてささやかれたらたまらないだろうなあ。そんな想像にあたしは首を横にふった。甘美な妄想をふり払おうと。ええい。いまわしい。このエロ男がそんな生やさしいことをするものか。きっと速攻で押し倒されるに決まっている。そしてあたしは後悔するはずだ。そのときリョースケがあたしの手を放した。

 先行したスミレちゃんがひたいに青すじを浮かせてあたしをふり返った。

「イチズ! きょうは負けたわ! ええ! たしかに負けました! でも今度は負けないからね! 憶えてらっしゃい! かならずリベンジしてやるわ!」

 スミレちゃんがドタドタと足音を響かせて砂に足跡を刻んだ。

 あたしはうんざりした思いと甘い陶酔を交錯させながらリョースケのあとにつづいた。

 ロクに先導されてリョースケの家に着いた。大日向と表札がでていた。カケエは自分の家のようにただいまと声をかけた。家の奥からお帰りなさいと文代さんの声が聞こえた。あまり元気そうな声ではなかった。体調が悪そうだ。家は一軒家で平屋だった。かなり古い家だ。昭和の時代の家だろう。はいってすぐ台所があった。手を洗ったリョースケが包丁を取り出した。まだ生きているカンパチをリョースケが料理するらしい。

 奥から文代さんがでてきた。パジャマ姿だった。寝ていたようだ。

 リョースケが包丁を手に声をかけた。

「きょうは釣れたよおふくろ」

「そう。よかったわね。リョースケが料理をするの? わたしがやってあげたいけど身体が重いのよ」

「いいさ。おふくろは寝てなよ」

「ありがとう。そうさせてもらうわ。じゃ手を切らないよう気をつけるのよ」

「わかってるさ。おれはそんなドジじゃねえっての。安心して寝ててくれよおふくろ。おーいスミレ。おまえはイチズと先にシャワーをあびろ」

 スミレちゃんがはーいと返事をしてあたしの手をつかんだ。あれよあれよと言う間にあたしはスミレちゃんといっしょにシャワーをあびていた。桜子は言っていた。気がついたら裸だったと。あたしもそうだ。気がついた時にはスミレちゃんに全身を泡まみれにされていた。この兄妹はそろって他人を脱がすのがうまいらしい。

 あたしはスミレちゃんの服を借りた。下着からスカートまでをだ。

 カケエは台所でリョースケの助手をしていた。リョースケはあたしたちのシャワーをのぞきにくるかなと思った。でもリョースケは関心がないようだった。カケエのほうがのぞきたそうな顔をしていた。玲ちんの話どおりならカケエもエロエロのようだ。カケエはむっつりすけべらしい。シャワーをあがったあたしは笑みをうかべながらリョースケの手元を見ていた。切り落とされたカンパチの頭をまっぷたつに切り割るところだった。リョースケの手つきは自信満々に見えた。カンパチの頭部は鮮やかにカブト割りされると思われた。

 ところがだ。リョースケが力をいれたとたん包丁が横にすべった。左ききのリョースケがすべらせた包丁の刃はリョースケの右手の親指のつけ根を切りつけた。血がビシュッと噴きだした。スミレちゃんが悲鳴をあげた。

「きゃーっ!」

 リョースケが右手を押さえて叫んだ。

「いってーっ!」

 血がどくどくと流れた。鮮やかで深い赤だ。あたしの顔は青くなった。卒倒するかと思った。カケエひとりが冷静だった。

「落ち着けリョースケ。どれ傷を見せろ」

 カケエがリョースケの右手をつかんだ。

「ふむ。たいしたことはない。でも縫ったほうがいいな。うちの親父を呼ぼうか?」

「いや。カケエでいい。おまえが縫ってくれ」

「わかった。スミレちゃんぼくのカバンに救急セットがはいってる。取ってよ」

 スミレちゃんが迷いもなくカケエのセカンドバッグから透明プラスチックの箱を取りだした。カケエはブラ箱から皮のケースをつまみだした。ペン入れのような細長いケースだった。パチンとボタンをはずすと中にメスが一本と曲がった針と糸が収納されていた。

 カケエが自分の手に手術用の極薄手袋をはめた。次に手袋の手とリョースケの傷をせっけんで念入りに洗った。カケエは消毒薬を針にかけてリョースケの傷には麻酔薬を塗った。慣れた手つきでカケエがリョースケの傷を縫いあわせた。縫い終わると血はほとんど出なくなった。カケエは皮ケースにはいっていたメスで結び終わった糸をプツンと切断した。カケエが極薄手袋を器用にはずした。手術はぶじ成功したようだ。

 カケエがあたしに顔を向けた。にっこりと笑いながらだ。

「これも違法行為だよ。医師免許を持たない者が医療行為をしちゃいけないんだ。イチズ警察に通報しないでね。ぼく撃ち殺されたくないからさ」

 あたしも笑顔で答えた。

「わかったわ。源馬刑事にはないしょにしとくね。でもさカケエ。いつも救急セットを持ち歩いてるの?」

 カケエがあたしにウインクをした。

「血の気の多い親友を持ってるからね」

 なるほどとあたしはうなずいた。あたしがふと見るとリョースケが困った顔をしていた。

「どうしたのリョースケ?」

「右手がしびれて魚を押さえられねえ。これじゃ料理ができねえぞ? このあとまだ三枚におろす作業が残ってる。どうすりゃいいんだ?」

 あたしはまな板に近寄った。手を洗ってまな板に乗る包丁を手に取った。ずっしりと重い包丁の感触があたしに語りかけた。できるよなと。あたしは心の中でうなずいた。

「しょうがない。あたしがやってやろう」

 リョースケがびっくり顔であたしを見た。

「おいおまえにやれるのかよ?」

「まかせなさいっての」

 あたしは包丁をかまえた。あたしのママはろくでなしだ。料理なんかこれっぽっちもできない。包丁のにぎりかたすら知らない。とうぜんと言うべきかあたしがいつも料理を作った。テレビの料理番組を見ながらだ。おかげでイタリア料理を作れるまでに成長した。魚もスーパーで売っている養殖の鯛ならさばける。あたしは慣れないながらもカンパチの背に包丁をいれた。よく切れる包丁だった。すべるようにカンパチの身は三つにわかれた。いきがいいためか皮も簡単にはずれた。あたしは刺身を作り始めた。

 そのあたしにリョースケが声をかけた。

「四分の一だけ身を取りわけといてくれ。友崎の家にとどけるんだ」

「玲ちんの?」

「ああ。おまえを説得してくれたものな。友崎がいなければおまえはきてないだろ?」

 たしかにそうだった。あたしが身を切りわけるとスミレちゃんがラップにくるんで冷蔵庫に入れた。あたしはスミレちゃんが用意した大皿に刺身を盛った。大根でケンも作った。

 そのあいだにカケエとリョースケがシャワーに行った。

 できあがった作品を見て湯あがりのカケエがおおと声を洩らした。あたしは胸を張った。

「これからはあたしを『和食の達人イチズさま』と呼ぶように」

 テーブルでスミレちゃんがご飯をよそい始めた。あたしはアラで煮付けも作った。文代さんもきてみんなで刺身をつついた。食べてみてあたしは驚愕した。こんなにうまい魚があったのかと。カンパチはまぎれもなく高級魚だと確信した。身はコリコリしてそのくせ脂が乗っていた。濃厚なのにさっぱりした味だ。いままでに食べたどんな魚ともちがった。

「こりゃたしかに一度食べたらやみつきになるわ」

 テーブルの向かいにすわっていたリョースケがあたしを揶揄した。

「あんまりありがたくないわねえ。そう言ったのはどこのどなたでしたっけ?」

「いや。それは。その。ええ。そうよ。たしかにあたしが言ったわよ。悪い? だって食べたことなかったんですもの。あんただってさ。手を切るドジじゃねえ。そう豪語してなかったかしら?」

 あたしとリョースケがにらみあった。文代さんがふふふと笑った。

「恋人同士で見つめあうっていいわねえ。でもそのあいだにみんな食べちゃうわよ?」

 リョースケが先にあたしから視線をはずした。

「おれはこんな女は好きじゃねえ!」

 あたしも抗議した。

「あたしだってあんたみたいなエロ男は好きじゃなーい!」

 リョースケがテーブルの上に身を乗りだした。

「なにをぉ!」

 あたしはリョースケの右手を指さした。

「やろうっての? 痛む傷口をつかむわよ? それとも平手打ちがお好き?」

 リョースケはきのうの廊下を思い出したようだ。

「わかった。おれの負けだ。こうさん。つづきを食おうぜイチズ」

 あたしに異論はなかった。ふたたび食べ始めたあたしをカケエが複雑な表情で見ていた。嫉妬のこもった目に見えた。カケエがどうしてあたしに嫉妬をするんだろう? あたしはそう思った。カケエは同性愛者ではないはずだ。カケエがリョースケに惚れているなんてありえない。あたしにはカケエの嫉妬が誰に向けてなのかわからなかった。

 スミレちゃんもあたしをにらんでいた。スミレちゃんの嫉妬はあたしにも理解できた。リョースケに近づく女が許せないのだろう。

 あたしはリョースケを挑発するのをやめて食べることに専念した。あたしはすごく幸せだった。それはカンパチが美味だったせいだけではないと思う。リョースケといっしょにご飯を食べたことが大きかったようだ。認めたくないがあたしはリョースケに惹かれ始めたみたいだ。なんてあたしはバカなんだろう。こんなエロい男がいいなんて。

 いや。女ってみんなバカかもしれない。あたしのママなんかいつも惚れるのはろくでなしだ。あたしはあのママの娘だった。きっとあたしにもバカの血が流れている。。そうにちがいない。不毛な恋に身もだえするバカな女にあたしが堕ちる日も近いようだ。

 あたしはカケエに送られて夜道を玲ちんの家まで行った。

 カンパチの身をわたすと玲ちんがよろこびを顔にだした。

「ありがとう! これすっごく好きなの! それでさ。どうだった? イチズも釣れた?」

「ええ。おかげさまで。でもあたしの分け前は刺身だけだったわよ。四匹も釣ったのにさ」

「まあ。四匹も釣ったの? わたしは一匹も釣れなかったのよ。船には酔った?」

「ううん。酔わなかったわ。そんなひまなかったの」

「ふうん。残念」

「こらこら。残念ってなによ? あたしが酔って嘔吐するのをリョースケに見られろ?」

「そうよ。イチズだけいいかっこしちゃずるい。でもね。また釣りに協力してあげてね」

「なんで? なにか理由があるの? カンパチの切り身が欲しいから?」

 玲ちんが声をひそめた。カケエの耳を気にしているようだ。

「くれるにこしたことはないけどさ。リョースケくんの家はお母さんの具合が悪いでしょ? 文代さんは小学校の仕事も休みがちなんですって。うちの高校ってアルバイトが禁止だからさ。リョースケくんは釣りで家計を助けてるの。文代さんは心臓が悪いから病院代もたいへんみたいよ」

「あっ。そんな理由だったの。なるほどねえ。こづかいかせぎじゃないんだ。でもさ。どうして高校がアルバイト禁止なわけ? いまどきそんなのあり?」

 玲ちんがさらに声をひそめた。

「それがさ。しばらく前に殺されたの」

「こ? 殺された?」

「そうなのよ。この島の中でアルバイトの口ってないのよね。パートの仕事は主婦がみんな先に取っちゃうでしょ。高校生はどうしても本土に行く羽目になるの。アルバイトが終わって帰りのフェリーを待つ女子高生が誘拐されてさ」

「誘拐?」

「ええ。六十歳すぎのおじさんが女子高生はおカネさえ出せばエッチしてくれると思いこんだそうなの。自宅に連れこんだけどどうしても言うことを聞かない。腹が立って殺しちゃったんだってさ。この島はいま平和なのよ。すぐ拳銃を撃つ刑事さんがいるでしょ? そのせいで昔より犯罪がへってるの」

「誰も撃ち殺されたくないものね」

「そうよ。島も狭いしね。でも本土までは目が届かないでしょ? 本土にアルバイトに行くとどうしても帰りは最終のフェリーになるわ。女子高生がひとりで夜のフェリーを待つ羽目になるのよ。だから高校はアルバイトを禁止したの。島にいるほうが安全だってね」

「そういう事情だったの。じゃあの問題刑事ってそんなに悪い人じゃないわけ?」

「基本的にはいい人よ。ただ過激なの。悪人はみんな撃ち殺しちまえって感じ? 犯罪者にはようしゃないのよね」

「多少の問題はあるわけね?」

「まったく問題のない警察官はこの島に流れてこないわ。警察署長の木之元さんはつかいこみをやったって話よ。不倫してた婦人警官にみついだってのがもっぱらの噂ね」

「なるほど。髪の毛の薄い人はすけべだって言うものね」

 あたしと玲ちんはうしろで手持ちぶさたにしているカケエにそろって目をやった。むっつりすけべのカケエは将来ハゲるかもと。あたしと玲ちんはクフフと笑った。

 カケエはなにを笑われたのかわからないが自分の話題だと悟ったようだ。

「こら。いまぼくを笑っただろ。そんなに婚約者を寝取られた男がおかしいか? きみたちには親友があんな美男子な男のつらさはわからないんだ。ぼくはこう見えても傷ついてるんだぞ。ぼくがはじめて好きになった女の子もリョースケに取られそうだしな」

 玲ちんが最後のひとことに食いついた。

「ねーえカケエくん。カケエくんがはじめて好きになった女の子ってだーれ?」

 カケエがウッと詰まった。あたしも興味が湧いた。

「誰なのカケエ? 桜子じゃないみたいね?」

 カケエがくるりとあたしたちに背中を向けた。

「おみやげはわたしたんだしさ。早く帰ろうよイチズ。きみの両親も心配してるよきっと」

 カケエが歩きだした。あたしと玲ちんは顔を見合わせて肩をすくめた。五月の日はすっかり暮れていた。家々のあかりにまぎれて群青の夜空にまっ白な星が輝いていた。空に星があるとあたしはこの島にきて初めて知った。東京では空を見あげるゆとりがなかった。見あげたところでくすんだ情けない星しか見えなかっただろう。ここでは鮮やかな青白い星が数万の閃光を降らせていた。キラキラと降る光にあたしはすがすがしさを覚えた。

 さわやかに吹く風の匂いは初夏をとおりこして夏を連想させた。あたしの十七歳の夏がすぐそこに迫っていた。あたしの運命を決定的に変える熱い暑い夏だった。


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