第一章 あたしのスカートをめくらないで ウサギ柄のパンティが見えるじゃない
あたしがふたりと会ったのは円城寺病院の廊下だった。あたしの運命を変えたのはふたりの男だ。それまであたしは平凡な女子高生だった。あたしの人生を劇的に仕立てた張本人はリョースケとカケエだ。
出会いはあたしが高校二年の五月だった。あたしは十七歳の誕生日を目前にひかえたどこにでもいる女子高生にすぎなかった。いや。部分的に未発達な高校生と言うべきか。高校二年生だというのにあたしの胸は中学生なみのふくらみしかなかった。俗に言う貧乳だ。
そのときあたしは円城寺病院の廊下を歩いていた。あたしは病気ではなかった。家族の誰も病気ではない。母がこの円城寺病院の雑用係に応募したわけだ。あたしは母の付き添いだった。というか母の監視係だ。あたしの母はろくでなしだ。娘の口から言うのも変だがあたしは母がきらいだった。どんな重要な場面でもばっくれる。そこであたしが母を円城寺病院まで連行してきた。
その母がぶじに採用されたのであたしはぶらぶらと病院内を見てまわることに決めた。円城寺病院は日本海に浮かぶ若菜島にある唯一の病院だった。そこそこ繁盛しているように見えた。だが都心の大病院を見慣れたあたしの目には田舎の病院にしか思えなかった。全体にのどかで病院特有の悲壮さがどこにもない。患者は老人ばかりだ。若者も子どもも見かけなかった。見ず知らずのあたしにおじいさんやおばあさんが頭をさげてあいさつをしてくれた。若菜島はいい島らしい。
あたしが気をよくした時だ。誰かがあたしのスカートをうしろからまくりあげた。とうぜんと言うべきか。あたしは悲鳴をあげた。
「きゃーっ! なにすんのよっ!」
「うっせえ。大声をだすな。ここは病院だぞ」
あたしはふり返った。男がふたり立っていた。そのふたりの男があたしの運命をとんでもなく変える男ふたりだった。ふたりともあたしと同年代に見えた。たぶん高校生だろう。あたしは小学生にスカートをめくられたと思ってふり向いた。まさか高校男児が犯人とは思わなかった。
男のひとりは王子様に見えた。漆黒の髪がサラサラと流れて涼やかだった。もうひとりはワイルドとしか言いようがない。悪魔のように口の端を吊りあげてニヤニヤしていた。もちろんそちらのワイルド野郎があたしのスカートをまくった張本人にちがいない。
「あんたねえ。その病院でつまらない真似をしたのはそっちでしょ。あんたは小学生かい」
言いながらあたしはワイルド男の頬を平手打ちした。
王子様は目をまん丸にあたしを見た。平手打ちは王子様の常識にない行為だったようだ。
ワイルド男は痛いとも言わずにニヤニヤ笑いをつづけた。あたしの力では叩かれても効かなかったらしい。あたしはよけいむかついた。そのあたしのうしろから声が飛んできた。女の子の声だった。
「お兄ちゃん! なにをやってるのよ!」
あたしはふり向いた。長いつややかな黒髪の女の子が走ってくるのが見えた。
あたしはまた前にいる王子様に目をもどした。王子様はつやつやとした黒髪だ。ワイルド男は赤っぽい髪の毛だった。染めているのではなく自然とそんな髪らしい。
あたしは走ってくる女の子を王子様の妹だとかんちがいした。女の子は美少女と言ってよかった。お姫様と呼ぶべきかもしれない。王子様の妹にふさわしい。そうあたしは女の子と王子様をうらやんだ。あたしが平凡な顔の女子高生だったせいだ。
でも女の子が叱声をかけたのはワイルド男だった。
「お兄ちゃん! なんでそんな貧弱な女のスカートをめくるわけ? お兄ちゃんは女に不自由してないでしょ。下着が見たければわたしのだって見せたげる。どうしてよ? なんでそんなさえない女のをわざわざ?」
ワイルド男が頭をかいた。
「いやスミレ。見かけない顔だったからつい」
あたしはふたたびむかっと来た。
「おい。あたしの下着は『つい』かい?」
ワイルド男があたしを見おろした。あたしより頭ひとつぶん背が高い。顔は苦みばしったいい男だ。スケベでなければ学校の人気者だと思える。
「そうだな。訂正しよう。なんとなくだ。でもなおまえ。もうすこし色気のあるパンツにしろよ。ウサギ柄のパンツ? おまえは小学生か」
あたしは口より先に手が出た。パシーンとワイルド男の頬が音を立てた。
「小学生はあんたでしょ! 高校生がスカートをめくるんじゃない!」
そのとおりだというふうに王子様がうなずいた。
口をとがらせたのはスミレと呼ばれた女の子だ。
「こらあ! わたしのお兄ちゃんになんてことするのよ! 一度ならずも二度までも!」
あたしに飛びかかろうとした女の子をさっと動いたワイルド男がつかみとめた。性格的にはたしかにこの子がワイルド男の妹みたいだ。王子様は修羅場になれてないのか腰が逃げていた。お金持ちの息子のようだ。そこに病院長の円城寺守秀が歩いてきた。院長の横にはあたしの母の月乃だ。院長は新入りの母に病院を案内中らしい。院長が王子様に疑問を投げかけた。
「花兄。なにを騒いでるんだ?」
「なんでもありませんよお父さん」
そのやりとりにあたしは納得した。花兄と呼ばれた王子様はこの円城寺病院の息子か。なるほどねえ。王子様に見えるわけだ。
そこにあたしの背後から声がかかった。中年のおばさんの高飛車な声だった。
「なんでもなくはありませんわ! またその大日向兄妹のしわざですよ!」
あたしは声の出所をふり向いた。すると日本髪に高価そうな和服を着たおばさんがかたわらの主婦っぽいおばさんに顔を向けて叱るところだった。
「大日向文代さん。この島を騒がせるのもいいかげんになさってね。あなたのしつけはなってませんわよ。特に兄の良助はどうしようもないですわ。この島の風紀をひとりで乱してるじゃありませんか」
主婦っぽいおばさんは身を縮めた。
「はい。ごもっともです円城寺の奥様。返す言葉もありません」
値段の張る和服のおばさんは院長夫人らしい。つまり花兄の母だ。主婦っぽいおばさんはワイルド男とスミレの母にちがいない。
今度口をとがらせたのは良助と呼ばれたワイルド男だ。
「おいカケエの母ちゃん。おれのおふくろが悪いのかよ? ちがうだろ? おれが気に入らねえならおれに文句を言えよ」
そのとき初めて王子様が口をはさんだ。
「やめろよリョースケ」
するとスミレが王子様をにらみつけた。
「どうしてとめるのよカケエ! わたしのお母さんは悪くないわ! お兄ちゃんだって悪くない!」
あたしは顔をしかめた。そこはまちがってる。あんたのお兄ちゃんがすべての元凶よと。
次に現われたのは拳銃をふりかざした中年男だった。あたしの常識をはるかに超えた乱入者だ。一瞬あたしは男がなにを持っているのか信じたくなかった。男が手にしていたのはまぎれもなくテレビドラマで見知った拳銃だ。それは理解できた。でも信じたくない。信じられなかった。どうして病院の廊下に拳銃をふりかざした変態男が出現するのよ? そんな感じだった。
「院長。またリョースケかい? いっそ俺がこの銃でひと思いに葬ってやろうか?」
中年男が黒く光る銃口をリョースケに向けた。そこに太った制服警察官が中年男を追ってきた。制服警官は中年男より老けていた。六十歳くらいだろうか?
「こら源馬くーん! 病院内で発砲してはいかーん!」
叱られた中年男がチッと舌打ちをして拳銃をわきの下のホルスターに収納した。あたしは胸の奥でつっこんだ。病院内でなければ発砲してもいいのかいと。
和服のおばさんが制服警官にきつい目を向けた。
「木之元署長! あなたも部下のしつけがなってませんわよ! たしかに若菜島署員が五人でこの島の治安を守ってるのは評価いたしますわ! でもことあるごとに発砲する問題刑事がわが島にいるのは納得しかねます! さっさとその問題刑事を本土へ送り返しなさい!」
署長が脂汗をひたいに浮かせた。
「いやその奥様。その件は私の一存ではなんとも。そもそも源馬くんが若菜島にきたのは本土でもてあましたせいでその。それをまた本土に返すのはその。無理があるかとその」
「送り返すのが無理ならあなたが教育なさい! わたくしはいつ島民が流れ弾丸にあたるかとひやひやしてますのよ! 警察官が無実の人間を撃ち殺したら全国ニュースですわ! そんな形でこの若菜島が有名になることをわたくしは望みませんのよ!」
署長が帽子を取って頭をさげた。髪の毛が薄くなりかけていた。
「はあ。それはごもっともで。でも奥様。この若菜島の島民二万人を私たち五人の警官で守っておるわけです。たった五人ですよ奥様。この若菜島は漁業の島です。気性の荒い漁師相手に威嚇射撃もやむなしと県警本部からのお墨付きも得ております。そこのところをひとつご考慮いただけませんでしょうか」
「考慮などしませんわ! これまでその問題刑事以外むやみに発砲する警官はいませんでした! それでも警察は事件を解決してきたではありませんか! どうしてその問題刑事だけに気をつかわねばならないのです! その刑事はあなたの隠し子ですか!」
署長がひたいの汗をハンカチでぬぐった。苦しげな表情だった。
「とんでもない。私の息子はもっと優秀です。あっ。いや。それは関係なかった。とにかく奥様ここはひとつ穏便に」
そこで源馬と名ざしされた中年刑事がケッと口の端であざ笑った。『なにをほざいてやがるこのババア』という侮蔑に満ちた顔だった。カケエの母ちゃんは見る見る顔をまっ赤にほてらせた。見ているあたしたちはいっせいにカケエの母ちゃんから顔をそむけた。怒号の嵐がくる前にだ。一瞬後にカケエの母ちゃんがわめき始めた。
あたしはそのすきにワイルド男の手をつかんだ。くいくいっと引いて病院から連れだそうとこころみた。いまここはあたしとリョースケとカケエの親が勢ぞろいだ。そんなところでケンカはできない。場所をあらためよう。そう判断しての行動だった。
中庭にのがれてあたしはため息を吐いた。病院内ではカケエの母ちゃんの怒声が響きわたっている。カケエの母はヒステリー体質のようだ。見た目は老舗旅館の美人女将だが中身はうるさ型のPTA役員らしい。
あたしが手を放すとすかさずリョースケがあたしを正面から抱きすくめた。
「いやあ助かったぜ。おれカケエの母ちゃんだけは苦手だ」
あたしに頬ずりをしかねないリョースケにスミレが肩をいからせた。
「こらお兄ちゃん! なんでその女を抱く!」
「ハグしてるだけだろスミレ。そんなに目くじらを立てるなよ」
「その女を放しなさいお兄ちゃん!」
あたしはリョースケの腕の中で身もだえした。
「あたしもスミレちゃんに賛成よ。さっさとあたしから離れて」
リョースケがじっとあたしの顔を見つめた。
「そういやおまえ。なんて名だ? 見かけない顔だが本土者か?」
あたしは至近距離で見るリョースケの男らしい顔にポッと頬に血がさした。顔だけ見ていると男前だった。テレビの男優でもここまでととのった顔はいない。なんでこんなもてそうな男があたしのスカートをめくるのか? そんな疑問があたしの脳裏を横切った。
「あたしは青桐一千鶴よ。あんたたちも名乗りなさいよね」
聞かなくてもあたしはすでに知っていた。ワイルド男は大日向良助だ。その妹は大日向スミレ。王子様は円城寺花兄だろう。
「おれはリョースケだ。こっちが菫鈴。歳は同じだが学年はひとつ下の妹だ。そこのぼんやりしてるのがカケエ。この円城寺病院のひとり息子だよ」
カケエが不満げにくちびるを突きだした。可愛い! あたしはそう感じた。男の子に対する感想ではない。でも可愛いとしか言いようがなかった。このカケエもファンは多いだろうな。そう思った。
「ぼんやりはひどいぞリョースケ。ぼくはおまえほど好戦的じゃないだけだ。でもよろしくねイチズ。きみ役場から紹介された青桐さんの娘だよね?」
あたしはぎこちなくうなずいた。青桐はあたしの本来の姓ではない。こないだまであたしは目加田一千鶴だった。ろくでなしの母が再婚したせいで青桐姓に変わったわけだ。そのため青桐と呼びかけられると首のあたりがむずがゆい。
あたしは病院内でまだつづく叱声にひとつ思い出した。
「そういやあの刑事ってさ。本当に撃つつもりだったの?」
カケエが顔をしかめた。
「撃ったかもしれない。あいつ源馬辰郎って刑事でこの島に左遷されてきたんだ。盗犯係で腕のいい刑事だったけど上司といさかいが絶えなくて飛ばされたんだってさ。不祥事を起こせば自分をこの島に飛ばした上司も道連れにできると思ってるみたいだよ。この島は漁業の島で気の荒い漁師が多いってのは事実だけどね」
「なるほど。あの刑事が一般市民に弾丸をあてれば県警幹部が記者会見でマスコミのやり玉にあげられるってわけね?」
「そういうこと。とにかくこんな島に流されたのが不満でならないらしい。あいつすぐキレるからイチズも気をつけてね。ひと月に一回は発砲騒ぎを起こしてるんだ。刑事じゃなかったらとっくに刑務所行きだよ」
あははははとカケエは笑った。毒のない笑顔だった。
あたしは外にでたらリョースケとふたたびケンカを始める心づもりだった。でもカケエのノホホンとした顔を見ているとその気がうせた。
「ところでさ。どうしてあなた『カケエ』なの? 『カケイ』じゃないのはなぜ?」
カケエが頭をかいた。カケエが口を開く前にリョースケが口をはさんだ。
「おれとカケエは幼稚園からの腐れ縁なのさ。当時のおれは『カケイ』と聞き取れなかった。それで『カケエ』と呼んでた。おれも『リョウスケ』とは呼ばれなかった」
「つまり幼稚園時代の呼び名がいまも続いてる?」
カケエがあたしに苦笑を返した。
「そう。小さな島だから学校がすくないんだ。たいていの者が幼稚園から高校まで同級生さ。呼び名も幼稚園のあだ名をそのまま引きずってる。ちなみに『花兄』ってのは梅の別名でね。ぼくは二月生まれなんだ。リョースケは十二月生まれでスミレちゃんは四月だよ」
ふーんとあたしは感心した。病院長の息子だけあってひねった名前をつけてある。良助なんてひねりもなにもない。あたしの一千鶴だって『思いつきでつけました』って名前だ。菫鈴ちゃんはちょっとひねってあるが。
あたしが感心しているとあたしのママとリョースケ兄妹の母とカケエの父が出てきた。院長夫人から逃げてきたらしい。三人ともこそこそと足音をしのばせていた。警察署長と源馬刑事はまだしぼられているようだ。カケエの母はどうやら円城寺病院の独裁者みたいだった。そのときあたしはふと気がついた。
「そういやさ。あの刑事と署長さんはなにしに病院に? リョースケを逮捕に?」
あたしの問いにリョースケの母の文代さんが顔を青くした。
カケエの父の院長先生があたしに厳しい顔を向けた。
「青桐一千鶴さん。大日向文代さんは心臓が悪いのです。冗談にしてもそういうことはおっしゃらないようにね。源馬刑事と木之元署長は事情聴取にみえただけですよ。きのう小料理屋で漁師たちの喧嘩がありましてね。ひとりが腕の骨を折ってうちに入院したのです。倒れた際に折れたみたいですがね。事件性があるかを調べるらしいですよ」
あたしは文代さんに頭をさげた。
「ごめんなさい。あたし心臓が悪いなんて知らなかったものだから」
そこにあたしのママが口をはさんできた。
「ほんとにごめんなさいねえ大日向さん。うちのイチズは心臓に毛が生えてる娘なのよ。下半身の毛は生えそろってないくせに心臓だけは毛がボーボーで」
あたしは思わず声をあげた。
「ママっ!」
なんて親だとあたしは思った。できればこの母と親子の縁を切りたい。あたしひとりが怒り顔であとはみんな笑い始めた。リョースケとスミレちゃんは大声で笑った。カケエとその父は顔をそむけてクツクツと笑っていた。うちのママはゲタゲタ笑い転げた。文代さんはうふふと可愛く笑った。スミレちゃんと文代さんはよく似ていた。文代さんは美人と言ってもいいだろう。でも生活が苦しいのか黒髪にやつれが出ていた。心臓が悪いというから体調が万全ではないのかもしれない。顔色は青白い。スミレちゃんも透けるように肌が白かった。なのにリョースケはよく日焼けしていた。東京で会ったなら日焼けサロンで焼いたと思うほどだ。リョースケと文代さんに似た点はまるでなかった。文代さんとスミレちゃんはひと目で母娘とわかるほど似ていたのにだ。リョースケは父親似だろう。
そんな騒動があたしとリョースケとカケエの出会いだった。その日のあたしはこう思った。カケエは優等生の王子様だ。彼氏にするならこんな男の子がいいなあと。リョースケの印象は最悪だった。まちがってもこんな男には近寄りたくない。そうあたしは腹を立てた。むかむかしてその夜なかなか寝つけなかったほどだ。