踏み出すのは一歩でいい
懐かしいと感じた。
夕暮れ時。
西日差し込む教室の中の一角。
数人の生徒が一人の生徒を取り囲んでいる。
彼らの周りはすでに水浸しで、中心にいる生徒を見てみんなは笑っている。
うれしいとか、楽しいとか、そんな生易しい笑いじゃないかった。
そう例えるのなら、檻に入れられた動物を見て笑っているかのような、そんな他人事の笑いだ。
これは夢だ。
瞬時に理解した。
だって、俺はこの光景を俯瞰して見ているからだ。
ひどい有様だった。肉体的にも精神的にも痛めつけられ、笑いものにされる。
きっと彼はこの世は地獄か何かなんじゃないか錯覚しただろう。絶望したに違いない。
なのに彼は、いやだからかもしれない。彼は何も抵抗しなかった。できなかったわけじゃない。やろうとも思わなかった。
既に気づいていた。
彼は自分自身の行く先を見据えたのだ。
自分は立派な人間でもなければ、完全なる悪人でもない。
他人を引っ張ることもついていくこともできない。
なら、何ができる?
何もできない。何も成せない。
だったら……、もう、いいじゃないか。
自分が消えればいい。誰からも忘れられた存在。誰の記憶にも残らない。誰とも交流しない。誰からも自分からも存在を消す。
そうすれば、自分も他人も苦しまずに済む。
《《俺がすべて捨てれば何も苦しむ必要はない》》。
関りは悪だ。関われば、俺は俺じゃなくなる。
最後はモルモットと同じだ。他人の実験台で笑われて、捨てられる。同じ対等なやつとは見られないんだなって。
気づいたとき、悲しかった。ひどく孤独を感じた。だが、不思議と涙は出なかった。
しばらくして、中心にいた彼はゆっくりと立ち上がった。
突然のことで驚きを隠せずにいる周りの生徒を一瞥して彼は歩き始める。
もちろん、彼らは止めようとした。
だが、途中で諦めた。
歩き始めた彼は何とも言えない凄みを放っていた。
誰も触るな。誰も近寄るな。
当時の同世代には到底理解しがたい覚悟と信念を持ってして彼はその場を離れた。
静寂が訪れる教室。
この日、この瞬間、一人の人間が生まれた。
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やけに眩しい。
俺は明るいところじゃ寝られないんだ。
寝る?
はて、俺はいつベットに移動した。
思考を呼び覚ましながら、俺は目を開けた。
よく知っている天井。しかし俺の自室ではない。
上半身を起き上がらせる。すると、身体がバキバキと悲鳴を上げた。
見るとどうやらソファーで横になっていたらしい。
なんで俺はソファーで寝てたんだ。
時計を見る。
時刻は21時。まだ日付はまたいでいなかった。
頭が固まったように思い出すのを拒む。
だが、ようやく思い出してきた。
確か俺は発作に耐えられず、昏倒したんだ。
静かなリビング。人の気配は感じない。
彼女はどこに行ったのか。
取り敢えずソファーから降りる。
まだ少し頭痛がするが、何か彼女に一言言ったほうが良いと思った。
急に目の前で昏倒してしまった。心配かけたのは事実だ。
自室にでも戻っていったのだろうか。その考えを持って、俺はリビングから出ようとした。
「っと、あれ、もう起きたの? 大丈夫?」
「え、ああ。もう、大丈夫だよ……、多分……」
リビングに接した廊下で彼女と鉢合わせた。
廊下はリビングの光が漏れているだけでかなり暗い。そのせいか、彼女の表情も暗く感じた。
だがそれ以上に心配の念も感じる。……申し訳ないことをした。
「今日はこのまま寝ることにするよ。迷惑かけたね……」
「う、うん。そうしたほうがいいと思う」
彼女は少し俯きながら言った。暗く感じたのは気のせいではなかったようだ。
俺は心苦しいのを尻目に自室へ戻ることにした。
これでいいのかと、誰かが俺に問いかける。
いいさ、これで。
今更俺に何ができるのか。
俺はもう人と関わるのはやめたんだ。
とっくに諦めたんだ。
心に自答して、自分に言い聞かせる。
違うな、……きっとこれは暗示だ。
俺が少しでも心残りがあることへの暗示に過ぎないんだ。
何か俺の信念が動かされているのが気に食わないんだ。
なんてちっぽけなんだろうか。
変わろうとしている自分を無理矢理止めて、現状維持を貫き続ける。
なんて滑稽か。なんてバカなのだろう。
それでも俺の足は止まらない。
現状維持を貫こうと俺の身体を突く動かす。
逃げるように、自室への道をたどり始める。
彼女は何も言ってこない。
だけど後ろにまだいるのは気配でわかる。
彼女は何も動こうとはしていない。
だからなんだというのだ。
否定とモヤモヤとした感情が入り混じって、俺の足を鈍足にしていく。
やっと階段に足をかけた。……一段目、……二段目。
足取りはひどく重い。自室まで10秒もかからないのに遠く感じる。
それでも俺は、変わらないことを選ぶのか。
「ねえ、」
後ろから声がした。
この家で俺以外に問いかけてくる奴なんて一人しかいない。
彼女は口を開いたことに少しホッとする。
そんな自分をも殺そうとしているところに彼女は続けた。
「まだ、話してくれないの……」
振り返りはしなかった。
だけどその声音は顔を見ずとも理解できるわかりやすさだった。
寂しさか、悲しさか。それともどちらもか。
けどわかることは彼女がひどく落ち込んでいるということだ。
まだここにきて2日目だ。関係は知り合い程度かそれ以下か。
会話だってまだまともに交わしたこともない。
顔だってちゃんと見たことがあったか。
家にいる。ただそれだけの肩書がある他人。
今の俺と彼女の関係はそんなもんだ。
だけどそれでも……。そうだとしても。
俺たちは家族になったのだ。
多少は心を許してもいいんじゃないか。
それは俺が今までやってこなかったことだ。
明日香は来た時から変わらない。
ずっと俺との関係を深めようとして来ていた。
気づいていなかったわけじゃない。感じていた。
足りなかったのは俺がそれに応えようとしていなかっただけ。
それは俺のプライドか、迷惑をかけないためか。
理由なんてわかるわけない。だって、人と関わらないというのが俺の中で長くデフォルトになってしまってるから。もう、どうやって接するのかもわからなくなりつつある。
だけど、変わらなきゃいけない。
怖かったのかと、今やっと気づいた。
俺は怖かったのだ。
今ここで俺が変わってしまったら、それはあの時俺が決意した信念を捨てることであって。
今までの俺の生き方を否定してしまう気がして。
俺は恐怖を感じていたんだ。
俺は自分で何もかも諦めたと言いながら、ただ自分を否定することが怖かっただけじゃないか。
勇気が必要だった。赤の他人に家族として接していくのは。彼女の、明日香の勇気は果てしない。
そのふり絞った勇気を払うほどの何かが俺の中にあるのか。
俺はそんなに強い人間じゃない。けど理解がないわけじゃないはずだ。
だから、俺は今こうして葛藤しているんだろっ。
俺はやっと振り返った。目の前には俺を見上げる明日香がいた。
明日香は悲しそうな瞳を浮かべて、だがその奥。俺が応えるのを期待して、下から見据えている。
こんな強い意思の女の子に期待されていたのもつゆ知らず、ひとり避けていた自分が馬鹿らしく思えた。
俺は一歩前に踏み出した。
「いや、もういいんだ」
俺は首を横に振った。明日香の言葉への答えにはなっていない。
だけど確かにその言葉は俺の心に問いかけられた。
くだらない恐怖を打ち破るには充分すぎる言霊だ。
「ごめんな、察しが悪くて。わざと避けていたわけじゃないけど、きっと、無意識にそういう行動を選んでいたんだって、今はそう思ってる。悪いことをしたよ……」
ゆっくり歩いて、俺はリビングの方へと向かう。
一瞬、呆けている彼女を見た。なかなか整った顔立ちをしている。
初めて、明日香の顔をちゃんと見た気がした。
突然の謝罪じみた発言に戸惑いを隠せずに立ち尽くしている明日香。俺はそんな彼女に面と向かって話しかける。
「話がしたいんだ。ちょっと長くなるけど」
明日香の表情が少し柔らかくなった。少しホッとする。
でもそんな感情も今は愛らしく思えた。
「コーヒーでも飲む?」
俺は初めて、彼女に笑いかけた。