第八話:当たり前だった日常
病室に差し込む夕陽が、カーテン越しにやわらかい茜色を落とす。
あたたかくも切ないその光の中で、私はベッドの傍らに座り、静かに目を閉じた怜人君の顔を見つめていた。
彼はもう眠っているのかもしれなかったけれど、私はその場を離れられなかった。
心が、まだ追いついていない。
怜人君が口にした「余命一か月」という言葉。
そして、「昔は幼馴染だった」という真実。
あまりに多くのことが一度に押し寄せてきて、今の私は、ただ感情の波に呑まれていた。
「……どうして、そんな大事なこと、ずっと言わなかったの……?」
思わずこぼれた言葉に、自分自身が驚いた。
本当は、責めたいわけじゃない。
ただ——ただ、悔しかった。
これまで怜人君と過ごした日々のすべてを、私は「普通」だと思っていた。
登校途中のなんてことない会話も、放課後の教室で過ごした沈黙も、
私の中では「当たり前」の一部だった。
けれど、怜人君にとっては——きっと、どれもが「最後の時間」だったんだ。
それを思った瞬間、胸の奥が痛んだ。
私が笑うたび、泣くたび、怒るたび、
怜人君はそれをどんな気持ちで見ていたんだろう。
どんな想いで、私の隣にいたんだろう。
「私……何も、気づけなかった」
そう呟いて、自分のふがいなさに涙が滲む。
記憶を失っていたこと、昔のことを思い出せなかったこと、それは仕方がないのかもしれない。
けれど、今ここにいる怜人君の心に、私はどれだけ触れられていたんだろう。
「当たり前だと思ってたんだよ……」
私は、ベッドの柵にそっと額を寄せた。
「朝、学校に行けば会えること。授業の合間に隣の席でため息ついてること。
一緒に下校して、ちょっとしたことで言い合って、笑い合って——」
一つひとつの記憶が、あまりにも鮮やかで、だからこそ切なかった。
「全部、当たり前だと思ってた。ずっと続くって、勝手に……思ってた」
違ったんだ。
そんな日々は、永遠なんかじゃない。
誰かが心の奥で、大きな秘密を抱えながら過ごしていた時間だった。
それがどれだけ儚くて、貴重なものだったのか、ようやく分かった気がした。
怜人君が眠っている横顔を見つめながら、私は思った。
もう、時間は多くないかもしれない。
でも——まだ、ある。
「まだ一週間くらいあるんでしょ……?」
小さく呟いた声が、病室の中でぽつりと響く。
「だったら……私、ちゃんと向き合うよ」
怜人君のこと。
過去の記憶よりも、今ここにいる彼のことを。
そして、私が感じているこの気持ちを。
もう、見過ごしたくない。
見ないふりなんて、できない。
「今度こそ、ちゃんと大切にする」
その言葉を口にしたとき、少しだけ胸の痛みが和らいだ気がした。
隣にいる人と笑い合えること。
怒ったり泣いたり、くだらないことで悩んだりできること。
全部、当たり前なんかじゃない。
——それは、かけがえのない、奇跡みたいな日々だったんだ。
怜人君と過ごしてきた「何気ない日常」が、どれほど私の心を満たしていたのか、今になってようやく気づいた。
私は立ち上がり、彼の横にある椅子を引き寄せて、そっと腰を下ろす。
そして、怜人君の手のそばに、自分の手を添えた。
指先が、かすかに触れ合う。
それだけで、胸が熱くなった。
「怜人君、起きてる?」
返事はない。
でも、それでもいい。
「私、もう……後悔したくないんだ」
ほんのわずかでもいい。
彼の残りの時間を、ただ「普通の日々」として過ごすんじゃなくて。
ちゃんと見つめて、感じて、記憶に焼きつけて——
「あなたの隣で、一緒に笑っていたい」
もう、時間を無駄にしない。
そう決意した私は、怜人君の静かな寝息を聞きながら、そっと微笑んだ。
この一日が終わってしまう前に、私はようやく「当たり前だった日常」が、どれほど大切だったのかを知ったのだから——