第七話:真実
病院の白い天井を見つめながら、私はただ、静かに息を整えていた。
目の前には、さっきまで意識を失っていた黒川君が、ぼんやりとした表情で私を見ている。
「……ここは?」
「病院だよ。黒川君、体育祭の綱引きの最中に倒れたんだよ。覚えてない?」
黒川君はゆっくりと目を閉じ、そして小さくため息をついた。
「……ああ、なんとなく。倒れたのは覚えてる。でも、その後のことはあんまり……」
そう言って彼は、ぼんやりと天井を見つめたまま、動かない。
私は、ずっと言いたかった言葉をようやく口にする。
「……心配したんだから」
自分でも驚くほどのかすれた声だった。
体育祭の最中、黒川君が突然倒れたとき、私は何も考えずに彼のもとへ駆け寄っていた。
周りが騒然とするなかで、私は彼の脈を確かめ、必死に名前を呼んでいた。
けれど、彼の返事はなくて——それがどれほど怖かったか、彼は分かっているのだろうか。
「……悪かったな」
黒川君は、どこか申し訳なさそうに目を伏せる。
「いや……黒川君が謝ることじゃないよ。でも……本当に、もう……っ」
私はそれ以上言葉を続けられなかった。
黒川君は、しばらく黙ったままだった。
だが、やがて彼は静かに口を開く。
「七海……聞いてほしいことがある」
その言葉に、私は思わず彼の顔を見た。
いつもはどこか気だるげで、何事にも本気にならない黒川君。
だけど、今の彼は、まるで——覚悟を決めた人間のような顔をしていた。
「……俺さ、余命宣告されてるんだ」
頭が真っ白になった。
「え……?」
「あと……長くても、一か月くらいしか生きられないってさ。転校してきたときにはもう、そう言われてたんだよ」
——嘘、だ。
私は、思わず彼の言葉を否定しそうになった。
だけど、黒川君の表情は冗談を言っているものではなく——ただ、静かに、事実を語っているだけだった。
「……そんなの……」
言葉が出てこない。
そんなの、おかしい。
だって、黒川君は——ついさっきまで、普通に学校で過ごしていて。
体育祭にも参加していて。
なのに、あと一か月しか生きられない——?
「嘘……だよね?」
そう言いたかった。
けれど、黒川君はゆっくりと首を横に振った。
「……ごめんな。言うつもりはなかったんだけど、こうなったら、もう隠せないと思って」
黒川君は、あくまで淡々と話す。
まるで、自分の命の終わりを他人事のように語るみたいに。
だけど——
「……そんな顔しないでよ」
気づけば私は、涙をこぼしていた。
「なんで……そんなに平気そうなの?」
「……そりゃ、まあ。もともと、どうしようもないことだからな」
「どうしようもないって、そんな……!」
私は黒川君の病室のベッドを掴んだまま、必死に言葉を紡ぐ。
「……まだ、一か月あるんでしょ? だったら……! だったら、何か……」
「ないよ」
黒川君は、はっきりとそう言った。
「俺の病気は治らない。どんな治療をしても、結局、俺は死ぬ」
その言葉を聞いた瞬間、私の中で何かが砕ける音がした。
「……でも、俺は別に、絶望してるわけじゃないよ」
そう言って、黒川君はほんの少し笑った。
「俺は、もう決めてるんだ。最後の一か月、できるだけ普通に過ごすって。……だから、七海も、あんまり気にしないでくれ」
「……そんなの、無理だよ……」
私は、彼の言葉を否定することしかできなかった。
だって、無理だ。確かに彼とはまだ2週間程度しか関わってない。
でも気にしないなんて、できるわけがない。
だって——私は。
「……とりあえず、泣くなよ」
黒川君は、私の涙を見て、どこか困ったように笑った。
その笑顔が、なぜか余計に悲しく思えて——
私は、ただ、泣くことしかできなかった......。
あれからどれくらいの時間が経っただろう。私もだんだん落ち着いてきた。
「落ち着いたか?」
怜人君がそう話しかけてくる。
「まぁ、ね」
確かに落ち着きはしたがまだ怜人君が余命宣告されているということを受け入れられていない。
「……七海、聞いてほしいことがある」
病室の静寂の中、怜人君の言葉が落ちる。
「……何?」
私は涙を拭いながら、彼を見つめる。
「今のお前に言うのは逆効果かもしれない。それでも俺はお前に言っときたいんだ。」
怜人君の目はさっきよりも真剣だった。
「お前さ……本当に俺のこと、覚えてないのか?」
怜人君の言葉に、一瞬、頭が真っ白になった。
「え?」
覚えてない? どういうこと?
「……まあ、そうだよな」
怜人君はどこか納得したように、ふっと息を吐く。
「実は、俺たち——昔、幼馴染だったんだよ」
「——え?」
思わず、彼の顔を見つめる。
「七海が小さい頃、よく一緒に遊んでた。秘密基地を作ったり、公園で泥だらけになったり。……お前、よく転んでたよな」
「……そんな……」
信じられない。
でも、怜人君の口から出る言葉は、まるで本当にその場にいたかのように鮮明だった。
「けど——お前が事故に遭ったんだ」
その瞬間、胸が締めつけられるような感覚がした。
「俺は何もできなかった。気づいたら、お前は病院で眠ってて——俺は毎日見舞いに来てたんだが、親の転勤で引っ越すことになっちまってよ」
「……......」
「それから、お前は……目を覚ました時には、俺のことを忘れてたんだよ。この情報は俺の親経由でお前の親から聞いた話だがな」
目の前の怜人君は、まるで昔のことを噛みしめるように静かに語る。
「俺は……それでも、お前のことを忘れられなかった」
彼は少し笑った。でも、その笑顔はどこか寂しげだった。
「だから、ここに戻ってきた。お前がいる、この街に」
それを聞いた瞬間、心が大きく揺れた。
「……怜人君」
「……まあ、だからって、どうこうしようってわけじゃないんだけどさ」
怜人は軽く肩をすくめて、どこか照れくさそうに目をそらした。
「ただ……言っておきたかったんだよ。俺たちが昔、友達だったってこと」
「……そっか」
知らなかった。ずっと知らなかった。
でも、彼の言葉に嘘はないと感じた。
記憶はなくても——怜人の言葉は、なぜか心の奥に響いていた。
「……ありがと」
気づけば、私はそう呟いていた。
それが、何に対する「ありがとう」なのか——自分でも、よくわからなかった。