第八・五章「少女と海」
笛を吹く。
荒れる海原の只中、偶然手にした小さな板切れに掴まり必死に角笛に息を吹き込む。普段であればはるか遠くまで重低音が響いて私の存在を知らしめてくれるのに、今は波と波がぶつかる圧倒的な轟音に簡単にかき消されてしまう。それでもやめるわけにはいかない。これが生き残るため、いま私に残された最後の希望なんだ。
失敗した。さっきまで仲間と母港に向けていつも通りの航海を続けていたのに。漁が終わりしばらく休んだら今度は酒場を開ける。そんな慌ただしくも幸せな日常が待ってるはずだったのに。あんなに穏やかだった海が急に荒れて、立っているのさえやっとというほどの高波に襲われるなんて思いもしなかった。
足を滑らせて海に落ちた見習い船員のタリーを助けるためロープ片手に海に飛び込んだ。無茶な話だけど決して無理だとは思わなかった。彼を捕まえ身体にロープを巻いたまでは良かったけど、私は流されてしまった。一瞬のうちに船が遠ざかっていく。仲間たちが私の名前を叫ぶ。ドゥトー、ヴェロ、エクセ、サン、マル、今まで苦楽を共にしてきた仲間が離れていく。タリーが泣きそうな顔で手をのばす。いや、波でわからないけど泣いていたかも。いいの、天候を読むのに失敗した私の責任だから……。苦労をするのは船長の役目。みんな、絶対に港に帰れ。ドゥトーならちゃんと仲間を連れて帰ってくれるはず。それでこその一等航海士なんだ。ヴェロの操舵を信じろ。きっと大丈夫。だから私は自分のことに集中する。
極力、波に逆らわず身体を預ける。波に屈したわけじゃない。体力を温存するためだ。きっと一晩耐えれば仲間たちが港の他の船と一緒に探してくれる。小さい頃に見た映画のように、氷山が浮かぶ極寒の海ではない。海水に大きく体温を奪われることはない。それでもずっと水に浸かるのは体力を消費する。眠い。だめだ。今寝たら確実にそのまま死ぬ。耐えろ。耐えればきっと天気は落ち着く。そうすれば楽になる。
その前に身体が限界を迎えて楽になるかも……。
「バカじゃないの」
くだらない冗談。でもそんなことを考えてないと正気を保てないほどに疲れた。
「どうする嬢ちゃん。考えろ嬢ちゃん……」
わかっていたはずなのに。人生なんて、突然わけのわからない力でねじ伏せられるものだって。十六歳になる少し前のあの日、いつもどおりに寝て気がついたら浜辺だったあの日……。
私はこの世界の人間じゃない。十五歳までは平和な国で母と兄と暮らしていた。違う、母はそのちょっと前にいなくなってしまった。私の家族は兄だけだった。だがある朝起きたら異なる世界にいた。異なる国じゃなくて、異なる世界。お兄ちゃんは、急にベッドからいなくなった私に驚いただろうな。
家族も友人もいない世界だけど、居心地は悪くなかった。私を拾ってくれた親切な老夫婦の子供として、漁師と酒場の見習い店員の二足のわらじを履いて頑張ってきた。こちらの世界の父が漁師、母が酒場を営んでいたからだ。どちらも慣れないことで始めは毎晩泣いていたけれど、両親は優しかった。愛情を込めて育ててくれたと思う。この親切な両親の元、恩返しのためにも努力を続けた。毎日休みなく働き続けた。二人には『早く一人前になりたいから』と言ってたけど、実際は何かしていないと元の世界のことを思い出してしまうから――。
そうしてあっという間に六年の月日が流れ、私は港で唯一の女船長として船を任され、酒場の女主人として港のあらくれ男たちと時には喧嘩をし、時には喧嘩の仲裁をし、時には発破をかけ、時には慰めてやるという充実した日々を過ごしてきた。この世界で私を育ててくれた両親は少し前に他界し、私はこの世界でもまた一人になってしまった。だから仕事に打ち込んでいたということもある。
母は最期の瞬間まで私の前では笑顔だった。
いつも口を横一文字にしていた父は最期のとき笑顔で礼を言ってきた。子宝に恵まれなかった両親にとって、私は『神様が授けてくれた、雪の中に咲くバラの花』だったらしい。そう言っていつも私を『嬢ちゃん』としか呼ばなかったのに、初めて名前で呼んでくれた。嬉しかった。だから私も笑顔で二人を見送った。
私が一人のとき、つい自分を『嬢ちゃん』と呼ぶのは父を思い出したいからだ。きっと今も父が一緒にいてくれる。そう思って頑張ってきた。
母は酒場を残してくれた。母がいなくなっても身寄りのない私が困らないよう積極的に客に引き合わせ顔見知りを増やそうとしてくれた。初めは緊張したけど、慣れてこの世界の言葉も話せるようになると人と話すのが好きになった。
父は船と乗組員と角笛を残してくれた。代々この船の船長に託された大切な角笛。出港と帰港のときに吹くものだ。その大切な角笛が今、私に残された最後の希望……。
ない。角笛がない!握りしめていたはずなのに。ほんの一瞬、寝てしまっていた。
いけない!笛はどこに。大切な角笛は!?
あった、手を伸ばせば届きそうな位置で波に揺れている。遠く離れていく前に急いで掴まなければ。しかし私は迂闊なことに慌てた拍子に板切れを手放してしまった。伸ばした右手に角笛を握った感触があった。運悪く、高波が私を頭から飲み込む。
水の中に沈む直前、海の向こうの暗い夜空に光り輝く人の影が見えた気がした。
・・・・・・・・・・・・
寒い。
暗い。
私、死ぬの?
今はたぶん海の中。
海に沈んでいるんだろう。
それなのに苦しさはない。
恐怖もない。
これが死なんだ。
もうすぐ私が終わるんだ。
死んだ後はどこに行くんだろう。
悪いことはしてないし天国かな。
この世界の天国?
それとも元の世界の?
考えたって仕方ないか。
ただ、最期にもう一度、日本の家族に会いたかった。
大事に思っていたのに、思春期だからかあまり話さなくなってしまった兄に……。
・・・・・・・・・・・・・・・
私は死んだの?
身体は動かない。
今はどこ?
目も開かない。
何が起きてる?
波に飲まれてどれだけ過ぎたんだろう。
何か気配を感じた。人だろうか?
「ねえ。だれ、そこにいるのは」
よかった、喋れた。だけど返事がない。
「あんたは一体何者?」
もう一度問いかける。
「チキュウノ カミダ」
謎のエコーがかかった聞き取りにくい老人の声が頭に響く。
「地球の神?」
「ソウダ。トオイウチュウカラ、ニンゲンノジョシヲサガシテ、ヤッテキタ」
「人間の女子?」
「チキュウノミライヲツクル。コヲナスタメノムスメガ、ヒツヨウダ」
聞きにくくてイライラしてきた。しかも『子を成す』って、なんで急に知らんやつと子作りしなきゃならんのよ。腹立つな。そもそも私、もう死んでるし。
「まだ死んどらんよ。諦めてはいかん。」
「うわ!」
急に聞きやすくなった。なにこれ。
「聞きにくくてイライラとか考えておったから」
驚いた。このじいさん、心が読めるの!?
「読めるさ。いい趣味ではないがな。驚くのも無理ない」
「アンタ誰?」
わけのわからん状況でビビったところでどうにもなりゃしない。
「もう順応したのか。大したもんだ。さっき言ったように、わしはお前が生まれ育った世界の神じゃ」
「神?そんなら教えて」
「なんだね?この後の行き先か?」
「私の部下たちはどうなった?」
「自分の身よりも部下のことか。たいした娘――」
「どうなった!」
「うお!お主度胸があるな。みんな無事じゃよ。お前さんが海に消えてから、泣く泣く港に帰った。ちょうどいま他の船乗りたちに君がいなくなったことを説明しとる」
「みんな港に帰ったんだな?怪我人は?」
「んー、おらんな」
「それなら良かった。ならもう悔いはない。神様ありがとう」
それだけ聞ければ満足だ。
『部下たちが 欠けずに帰還 未練なし 心安らか いざ天国へ』
「こらこらこら、辞世の句を読むんじゃない。兄妹でまったく。お前さんに第二の人生をやろう。いや、この世界に来たのが第二として、次は第三かな?」
「人生?」
「うむ。子孫繁栄に適した者を探していた。さあ、お前さんを元いた世界に戻そうぞ。では、強く念じるといい」
「何を」
「先ほど考えたじゃろう。お主が今最も会いたい者だ」
「だれ?」
気配が消えた。
会いたい者?元の世界の人で会いたい人。
私がさっき考えたのは――。
第八・五章「少女と海」
完