闘鶏
闘鶏
「あぁ、駄目だよ山本さん!雌鶏は雄鶏と一緒にしちゃいけないって!」
「……すいません!じゃあ、この子たちは……」
「向こうに小さい小屋があるだろ、そこに入れといてくれれば良いよ」
吉屋と言う人の良い主人の経営する農場へ研修に出されたのは、九月も半ばだと言うのに立っているだけで汗の流れてくるような、残暑厳しい秋の事だった。
私は勿論新入社員などではなく――三十一歳の自分が、何故こうして泥まみれになって家畜に翻弄されているのか最初はどうしても呑み込めなかったが、一週間もすると慣れてしまった。どちらかと言うと、諦めに近いかも知れない。自分の一番やりたかった仕事を捨てて、親のコネと妥協で入社したあの上場企業を、全く気に入っていないと言ったら嘘になる。だが、自分の身の丈に合わないと感じるのも事実だ――実際、営業の成績は悪い。
積極的に昇進したいとも思わないし、上司に認められたいとも思わない。所詮自分には全く興味の無かった分野の仕事だ。広告業を目指して某有名大学に何とか滑り込んだものの、結局食品流通会社の営業を任されている。自分がお飾り社員である事は、最初から薄々分かっていた。しかし、仕事らしい仕事もせず、こうして給料を貰えているのだから、己が不服を言う権利は無いのだ。
「……はい」
笑顔で雄鶏に餌を与える吉屋を横目で見ながら、私は両手に抱え上げた雌鶏に視線を落とす。雄鶏と違っておとなしい気性の雌鶏でさえ、ふとした拍子に嘴を突き立てることがある。五日目に流血騒ぎを引き起こしてからは、面倒くさがらず手袋をはめる様になったのだが、それでも時折刺すような痛みが厚い革越しに走るのだから恐ろしい。
「そう言えば、吉屋さん」
「何だね?」
上機嫌で雄鶏の面倒を見ている吉屋の背中に、私は思い切って問い掛けた。
「……雌鶏と雄鶏、一緒にしちゃあ何か都合の悪い事でも……有るんですか?」
「でなきゃ分けたりしないよ……お前さん、何でだか分かるかい?」
「はぁ、その……闘鶏用の雄は気が荒いから、雌が危ないとか……」
「いいや、鶏ってのは情は深くないが、子孫を残すのには熱心な鳥でね。そいつは闘う雄でも一緒さ。だから殺したりはしないよ」
「じゃあ、増えすぎると困るから、ですか」
「それは確かに一理あるがね……うーん、お前さんの予想の逆、って言えば分かるかな」
「雌が、雄を……殺すんですか」
あの体格の差を、一体どうやって補うのだろうと私は考える。雌であれば、筋肉も嘴の鋭利さも実戦経験も少なかろうに。それとも、情事の最中に油断しているところを襲うのだろうか――それにしても解せない、雌が雄を殺すとは。両手に抱えた雌鶏が、急に恐ろしい怪物のように私の腕に重く感じられた。
「って言っても、間接的にだけどね」
「……頭でも使いますか?その、道具を使ったり……」
「そんな鶏が居るなら会ってみたいモンだが……何と言うのかな、どんな雌鶏でも闘鶏の雄にとっちゃあ“運命の女”に成り得る、って言うのか」
「運命の、女……」
その言葉には聞き覚えがあった――サロメなどが好んだ、「男を破滅に導く悪女」の美しい通り名だ。確か谷崎や乱歩の小説にも、度々描かれた題材だったように思う。
しかし、全ての雌鶏が即ち“運命の女”に成り得るとは。
吉屋を急かすように、私は彼の顔を覗き込んだ。ゆったりと細めた眼で遠くを見通しながら、彼は口を開く。
「そうそう。特に試合を控えてる雄鶏には、致命的だね。交尾ってのはね、人間でもそうだが……体力を使うだろ?んでどういう訳か、この疲れってのが中々取れない。しかも太腿に力が入らなくなるもんだから、脚がもつれて……ほんとに情けない負け方するんだな。だから闘鶏の繁殖ってのは、時期を考えてやらないと未亡人がたくさん遺される」
愕然としている私の表情がおかしかったのか、吉屋は小さく口元を上げて懐の煙草を取り出した。
空へと立ち昇る一筋の煙を目で追いながら、私は雛子の妖しい魅力を想う。しっとりと滑らかな白磁のような肌、しかし触れればひんやりと、微かな水気さえ感じさせながら吸いついてくるその肢体の艶めかしさ。蠱惑的な笑みを形作る、紅をささずとも濡れた椿のようにぬらぬらと、空恐ろしい程赤く光る形の良い唇。手を入れれば指先に絡みつき、真の闇夜の中でこそようやく周りと馴染むのではと思わせる黒い髪、流れるように重たげなそれは雛子の纏う空気によく似合った。
そして何より――情事の時の雛子の魅力は、とても言葉に出来たものではない。
両親の脛を齧れるだけ齧りながら生きているのも、広告業を諦めて人生に妥協したのも、全て雛子の為だったと言っても過言ではない位だ。そして、雛子はそれに見合うだけの女なのである。渋谷の都心に超高級マンションの一室を買い与え、欲しがる物は何でも用意させ、勿論家事も仕事も一切させてない。本人が望めばしぶしぶ承知はしてやるだろうが、今のところ雛子にその気は無いようだった。
「……山本さん、雌鶏。早く入れて来てやってくれんかね」
隣の人物が発した言葉にようやく我に返り、私は気まずい思いで頭を掻いた。
「ただいま」
雛子のマンションに訪れる時にはいつも、唸り声で出迎えられる。体は小さくとも、下手に刺激すれば血の海を見る羽目になるのは目に見えている――雛子を呼んで、別室に移してくれるよう頼むのがいつもの常だ。
「……おい、また唸ってるぞ」
「あっ、優二さん……今行くから、じっとしててね」
何とも変わった言い回しだが、無理に室内に踏み込もうとするとこの勇敢なミニチュア・ダックスフンドは容赦なく攻撃を仕掛けてくるだろう。ショーンと名づけられたその犬は、雛子が欲しがったのを誕生日にプレゼントした物で、雛子がこの三年飽きずに所有している数少ない品だ。
「それしても、変ねェ」
ベッドの中で忙しなく互いの衣服を剥ぎ取りながら、キスの合間に雛子がぽつりと呟く。
「あの子、普段はとっても大人しいのよ。友達にも、可愛いって評判なんだから」
「……嫉妬してるんだろう。君と僕の仲の良さに」
「やだ、あの子は犬よ……確かに、雄だけど」
「見せつけてやれば良いさ。ほら、そんな事より……」
「あん、やだ……先にお風呂に入らせて!」
雛子は可愛らしく頬を膨らませて、私が会話を遮ったのに不快を示して見せたが、体中に口付けの雨を降らせてやると途端に笑顔を取り戻した。口先だけの雛子の躊躇を受け流し、嵐のような行為の中に溺れてゆきながら、昼間の闘鶏の話を思い出す。
もしもショーンが本当に雛子を愛しているのだとして、勝っているのはどちらの雄なのか。永遠に実らぬ恋に身を焦がすちっぽけな犬なのか、雛子を抱きしめる腕も愛を囁く口も持つ私なのか。
詮無い事かと溜め息を吐きながら、私は雛子の柔らかい裸の胸に顔を埋めた。
「昼間にね、面白い事を聞いたんだよ」
何故その話を雛子に聞かせたのか――睦言を交わしながらまどろむベッドの心地よさに誘われたのか。それとも、先程の他愛も無い想像が脳裏に残っていたからなのか。
いずれにせよ、雛子は目を輝かせて私の話を聞いていた。
「……じゃあ、貴方にとっては私が“運命の女”ね」
「どうしてそうなるんだ」
「だって、貴方無理してるでしょう?私の為にどんどんお金使って、その内破綻するのは目に見えてる。でも、私がこうやって贅沢してるのを見るのが、貴方は好きなのよね」
「……参ったな、何でもお見通しかい?」
「貴方の事なら」
鼻先に触れるだけのキスをして、雛子の汗の余韻が残る首筋にそっと触れる。温かい人の肌、その命の脈動をリアルに感じて少し安心した。鶏を触っている時には、布団の材料にもなるその厚い羽の所為で、生き物と言う感じを受けにくいのだ。
「可愛い事言ってくれるじゃないか」
「ねぇ、でも……未亡人になった雌鶏は、操立てたりしない訳でしょう。卵産んだらもう前の男の事なんて忘れちゃうのよね。ううん、きっと交尾が終わったらすぐ次の雄鶏といちゃいちゃ出来るんだわ。報われないわね……命まで捨てて愛し合った結果が、それだなんて」
しみじみと呟いた雛子の言葉に、一度きりの愛と情事に散っていったのかも知れない雄鶏たちの事を考える。破滅へと導かれてゆく己の運命も知らず、戦地へと赴く弱々しい足取りの闘鶏を。
ライバルに哂われ、無様に横倒しになって攻撃を享受するしかないその瞬間、彼は後悔しただろうか。今頃は違う雄鶏と情けを交わしているかも知れない彼の“運命の女”を、恨んだだろうか。
「いや……そうでもないかもしれないよ」
私は答えながら、隣室に控えている私自身のライバルの微かな優越を知った気になっている。永遠に昇華されぬそのもどかしい熱情は、肉欲を満足させてしまったが最後足を縺れさせるだけの男の愛などには、決して負けはしないだろう。だからショーンは唸るだけ――自分の愛する女の心が奪われることなど、永遠に無いと読んだ上での、寛大さ。
ショーンの恋人は永遠に、“運命の女”にはならない。恋人のまま、惜しみない愛を注いでくれる慈悲の神である。
だが、それでも。
私も闘鶏も、身を滅ぼすと分かっていながら、きっと“運命の女”と情を交わすその一瞬を生きがいとしているのだ。案外、雄鶏たちは自分の未来を予測していたのかも知れない。死地に旅立つ気高き戦士の胸に去来したのだろう、美しき女の面影――隣で眠る雛子の無防備な姿に目を落して、私は小さく微笑んだ。
実際の鶏の生態や闘鶏についての知識は皆無な人間が書いております。
あくまでもエンターテイメント、机上の空論として読んで頂ければ幸いです。




