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【コミカライズ】代筆の恋 –お嬢様のふりをして婚約者に手紙を書いています–

作者: 深見アキ

 


 恋をした。だけど、叶わぬ恋だった。



『親愛なるエリオット様。

 寒い日が続きますが、リンデン地方ではいかがお過ごしでしょうか?

 我が伯爵領は冷え込みが厳しいのですが、こんな日は暖炉の前に座って編み物をして過ごすことにしています。去年は失敗ばかりでしたけれど、ようやくコツを掴んできました。

 いつか、エリオット様のために、何かを編んで差し上げられたらいいのですけれど――』


 他愛のない世間話をつらつらと書いた私は、最後に『メアリーより、愛を込めて』と署名してペンを置いた。

 私の名前はケイト。

 メアリーというのは私が仕えているお嬢様、メアリー・ウィンセンブルク伯爵令嬢のことだ。彼女の婚約者・エリオット様はもう何年も遠く離れたリンデン地方に留学していらっしゃる。


 離ればなれで暮らす婚約者同士の、微笑ましい文通。

 いつの日か結ばれるときのための心温まるやり取りだ。

 私はメアリー様に成り代わり、この二年もの間、恋心を「偽装」している。



 *



 使用人にしては字がきれいだ、と褒められた私は、十四歳で雇われてすぐにメアリーお嬢様付きに抜擢された。同い年で気安いからという理由でお声かけくださったけれど、同い年には見えないくらいメアリー様は美しい少女だった。

 艶のある亜麻色の髪に、アメジストのような紫色の瞳。

 肌はきめ細やかで瑞々しく、水仕事で荒れた私の手とは比べ物にならない。

 人形のように愛らしい主人は、ある日「ケイト、今から話すことは誰にも秘密よ」と顎の下で切りそろえた私の赤毛に顔を寄せ、そうっと耳打ちした。


 私、恋人がいるの。

 ええ、存じ上げております。婚約者のエリオット様でしょう?


 当然のことのように返した私に、メアリー様は赤く色づいた唇を歪ませて笑った。大人びた少女だと思っていたけれど、蠱惑的な笑みはすでに「女」のものだった。


 違うわよ。お父様が勝手に決めた婚約者のことじゃなくてね――……



 *



「メアリー様、ケイトです。エリオット様へのお手紙を書き終えましたので、ご確認いただけますか?」

 ノックをしても返事がない。

 私は皺にならないようにお仕着せのポケットに手紙を忍ばせると、屋敷の裏口へと向かった。

 日が当たる表玄関はまだましだが、北側の廊下は耳がキンと冷えてしまうくらい冷たい。用もないのに外に出たがる使用人はほぼおらず、屋敷の裏手はまず人が来ない。恋人が忍んで会うには絶好の隠れ場所だった。


 息を殺して、音を立てないように裏口の扉をほんの少しだけ開ける。

 木の幹に背を預けている亜麻色の髪の令嬢の姿が見えたところで、私はドアノブを握りしめた。


「っ、はぁ……。離れたくないわ、アイザック」

「僕もだよ、メアリー……」


 ちゅっ、ちゅっ、と口づけの音が何度も聞こえてくる。愛してる、別れたくなんかない。熱に浮かされたように囁き合い、頬を上気させて見つめ合う様子が目に浮かぶようだ。


 冷えきったドアノブを握っているせいで指先の感覚がなくなってきた。

 気づかれないように扉を閉め、私はメアリー様の部屋へと踵を返す。

 戻ってきたらきっと身体が冷えていらっしゃるだろうから――部屋を暖かくして、お飲み物と、ブランケットも出しておかなくちゃ――頭の中で段取りをしながら、私は泣きたくなる気持ちを必死に飲み込んだ。


 子どもの頃に婚約者を決めてしまうのは、貴族にとって珍しくもない話だ。

 お二人が会ったのは、エリオット様が七歳、メアリー様が五歳のときに一度きりらしい。


 以来、エリオット様は十年間ほどリンデン地方に留学しており、その間は文通でのやりとりをしていた。とはいえ、ろくに顔を見たこともない婚約者より、すぐ側で愛を囁いてくれる相手に夢中になってしまうことは仕方のないことだろう。


 十四歳の時に、私はメアリー様から「恋人がいる」と打ち明けられたのだ。

 地方貴族の、あまりぱっとしたところのない青年だったが、メアリー様よりいくつか年上なだけあって、甘い言葉を囁くのが上手で、まめにプレゼントや花を贈ってよこした。


 互いに婚約者のいる身、というのが余計に恋心を燃え上がらせたらしい。

 メアリー様はすぐにアイザック様と言う恋人に夢中になり、エリオット様から届く手紙の返事は遅れがちになった。好きでもない相手に割く時間がもったいないと思うようになったのだろう。


 ――ねえ、ケイト。だから代わりに、エリオット様への手紙を書いて欲しいの。

 ――大丈夫、ケイトの字は私の字に似ているからバレやしないわ。

 ――お願いよ、私、このまま、お父様が決めた相手と結婚するなんて嫌。だけど、いきなり手紙を送らなくなったら、変に思われてしまうでしょう?


 そうして二年。私は、メアリー様のふりをしてエリオット様と文通を続けている。けれど……。


『メアリー、風邪をひいたりしていないかい? 少しでも喉が痛いと思ったら、はちみつとレモンをたっぷり入れた湯を飲んで眠るといい。……これ、うちのじいやの口癖なんだ。まったく、いつまでも子ども扱いで参ったな……』


『父と一緒に、稀代の名建築家ドーキンスが設計した橋を見に行ったんだ! 本当に素晴らしかった。いつかきみにも見せてあげたいな』


『こちらで咲いたデイジーの花を押し花にして贈ります。本当はきみの亜麻色の髪に差してあげたいけれど、それはいつかの未来に取っておくね』


 エリオット様からの優しい手紙が来るたびに、私は心が痛んだ。

 この人を騙していることに。そして――この言葉が「ケイト」に向けられたものだったらどんなにいいだろう、と。


 叶わない恋だ。

 名前だけしか知らない男性。それも、主人の婚約者に――私は、恋をしている。



 ***



「ええっ、エリオット様がいらっしゃる⁉」


 メアリー様が大声を上げた。

 娘の頓狂な声に、御父上であるウィンセンブルク伯爵は顔をしかめる。

 朝食後、書斎に来るように、と呼び出されたメアリー様は嫌な予感がしたらしい。私一人だけを伴って伯爵の部屋に入った。


 そこで聞かされたのは、婚約者であるエリオット様がこちらに訪ねていらっしゃるとのことだった。――それも、今日!


「急すぎますわ! そんな……。急にこちらに帰っていらっしゃるなんて……」

「昨日のうちに伝令を出していたそうなのだが、悪天候のせいで連絡が遅れたそうなのだ。数日この屋敷に滞在されたあと、またリンデンに戻られる。……くれぐれも失礼のないように」


 このウィンセンブルク家より、エリオット様の家の方が格上だ。

 朝から使用人たちは大わらわだった。この部屋を出たら、メアリー様の身支度も入念に整えなくてはならない。

 ただでさえ好意のない相手なのに、自分の予定を乱されたメアリー様は唇を尖らせていた。エリオット様が滞在されるなら、アイザック様との逢瀬はしばらく無しだ。

 そんな態度を見抜いた伯爵は冷たい声を出した。


「メアリー。あの男とは別れなさい。分かっているな?」

「……あの男? なんのお話ですか、お父様」

「とぼけなくても分かっている。お前がこそこそと男と会っているということは知っているぞ。子どものままごとだと思って放っていたが、お前はエリオット様に嫁ぐ身。今後、エリオット様以外の男と会うことは禁ずる」

「……っ!」


 メアリー様は唇を噛みしめた。

 しかし、何の話だととぼけた手前、表立って反論することはせず、踵を返して部屋を出ていく。私も慌てて伯爵に一礼して後を追いかけた。


(伯爵がおっしゃるとおりだわ。婚約者がいるのに別の男性と会っているなんて、エリオット様の耳に入ったら大変だもの……)


 だけど、ほんの少しだけ、私はメアリー様に同情してしまった。

「……ままごとなんかじゃないわ」

 怒ったようにずんずん歩くメアリー様の後ろを、私は黙って追いかける。


 好きでもない相手に嫁がなくてはならないメアリー様。

 好きなのに想いを伝えることすら叶わない私。

 どちらも不幸で、どちらもかなしい。



 *



 メアリー様は……さすが、貴族の令嬢だった。

 いつまでもぐずぐずと文句を言わず、ドレスに袖を通し、鏡の前に立つ頃には優雅な微笑みを浮かべて武装していた。それが彼女の務めだからだ。


(……私も気持ちを切り替えなくちゃ)


 これからお会いする相手は、メアリー様の夫になる相手。

 あの手紙のように細やかで、優しい青年なのだろうか。春の訪れのように柔らかな声を想像してしまう。だめだと分かっているのに、どんなお相手なのだろうかと胸を膨らませてしまう。頭を振ってそんな妄想を打ち消した。


 午後。

 従者や使用人たちを伴って現れたエリオット様は――とても、眩しい人だった。

 ブロンズの髪に、湖のように澄んだ瞳。

 明るい笑顔を浮かべ、さっとメアリー様の前にひざまづいてみせたのだ。芝居がかった仕草で手の甲に口づけを落とせば、メアリー様は真っ赤になる。


「ああ、メアリー! こんなに美しくなっていて驚いたよ! 元気にしていた?」

「えっ、ええ……。エリオット様もご立派になられて……」

「本当? そう見えているなら嬉しいな」


 そう言ってメアリー様を軽く抱きしめる。

 突如現れた見目麗しい婚約者にメアリー様は真っ赤になっていた。


「照れているの? 可愛いね」

「ま、まあっ、子ども扱いしないでくださいませ」


 エリオット様に微笑まれたメアリー様はツンとした態度を取ってみせた後、潤んだ瞳で婚約者を見上げて笑う。

 恋をしている顔だ。

 十年ぶりにあった婚約者が素敵な男性で嬉しい、とその表情が物語っている。演技ではないだろう。

 服装も所作も都会から帰ってきて洗練されているエリオット様に比べると、アイザック様はさぞかし野暮ったく見えるに違いない。私はアイザック様に密かに同情してしまった。


(エリオット様……。とても素敵な方だわ。でも、なんとなく手紙とはイメージが違うかも……)

 勝手に穏やかな男性をイメージしていたが、ダンスでも踊っているかのようにメアリー様をぐいぐいリードしていく姿はちょっぴり軽薄そうにも見える。

(……なんて、所詮は私の幻想だったってことよね)

 がっかりしたなんて、結局は負け惜しみにしかならない。


 これで良かったのだ。


 私が恋をしたのは、手紙の中のエリオット様。実際のエリオット様がどんな方だって結ばれることなんてありえないのだから、想像とかけ離れていてくれたほうが諦めもつく。


 挨拶を終え、昼食を召し上がられたエリオット様は、メアリー様の案内でこの辺りを見て回りたいと申し出た。

 とはいえ、この寒さだ。デートに相応しい庭園や森林浴ができそうな場所はおすすめできない。馬車で辺りを回るだけでもじゅうぶんだよ、とエリオット様は笑った。


「あ……でしたら、教会はいかがでしょう。エインズレイ氏が設計したと言われていて、内観がとても近代的だと評判ですわ」


 私は控えめに提案してみた。

 以前、エリオット様は名建築家ドーキンス氏の橋を見に行き、大変感銘を受けたと手紙に書いてあった。エインズレイ氏はドーキンス氏の教えを受けた弟子だ。エリオット様が建築に興味があるようだったので、恥ずかしながら私も少し勉強したのだ。


「エインズレイ? 有名な人?」

 小首を傾げるエリオット様に、

「ケイトったら物知りね」

 いきなり何を言い出すのかとこちらを見るメアリー様。私は頬を赤らめた。


(馬鹿ね。エリオット様は外交でいろんなところを見ておられるのよ。いちいち建築家の名前なんて覚えていないかもしれないわ)


 その時、エリオット様の耳元で従者の一人がそっと耳打ちした。

 黒髪の物静かな青年だ。馬車の手配が済んだらしい。

「ケイト」

 私はメアリー様に手招きされる。

 ついてくるようにと指示されるのかと思ったが、それは勘違いだった。


「……ねえ、いつもの時間にアイザックがやってくるかもしれないわ。悪いけれど、ここへはもう来ないでって伝えておいてくれる?」

「え?」

「だって、私にはエリオット様がいるもの。お父様の言う通り、やっぱりもうアイザックとは会っちゃいけないわ」


 メアリー様の言うことはもっともだ。

 しかし、魅力的なエリオット様にあった途端、あっさりアイザック様を捨ててしまうかのようでもやもやしてしまう。

 そんな私の表情を見たメアリー様は苦笑した。


「なあに、その顔。……アイザックだって婚約者がいるのよ?」


 ――そう。

 二人とも婚約者がいて、何食わぬ顔で結婚していくのだ。一時の恋なんてなかったことにして。


「メアリー、どうかした?」

「ううん。何でもないわ、エリオット様!」


 メアリー様は甘えるようにエリオット様の元に駆け寄り、腕に絡みつく。

 馬車に乗り込んだ二人を見送る。扉が閉まるか閉まらないかのところで、エリオット様がメアリー様を抱きしめる様子がちらりと見えてしまった。……お出かけは口実で、彼らは二人っきりになりたかったのだ。行き先なんてどこでもいいに違いなく、馬車の中は甘い空気でいっぱいだろう。付いてこいと言われないことに心底ほっとした。


 私は屋敷に残り、気鬱な任務をこなさなければならない。


 いつもの時間。いつもの場所。

 人目を忍んでやってきたアイザック様は、相手がメアリー様ではなく、お仕着せ姿の見知らぬ女が待っていることに驚いたようだった。

 ギクリと身を引いたアイザック様を落ち着かせるように「メアリー様から言伝を預かっています」と口にする。単なる伝言役だと思ったようだ。焦った様子を見せてしまったことを誤魔化すように「何?」と素っ気なく催促してくる。


「メアリー様はもうあなたにお会いにならないそうです」

「なんだって?」


 アイザック様の鳶色の目が見開かれる。


「もう会ってはいけないと伯爵からお叱りを受けたのです。メアリー様は今、婚約者のエリオット様と一緒にいます」

「親が勝手に決めた相手なんかと結婚したくない。彼女はそう言っていた。……あんた、メアリーが可哀想だと思わないのか⁉」

「……エリオット様はとても素敵な方です。メアリー様は喜んでいらっしゃいました」

「嘘だ!」


 一方的に振られることになったアイザック様は引き下がらない。

 つい昨日まで、ここで毎日のように抱き合い、口づけをして睦み合っていたのだ。はいそうですかと納得するわけがなかった。


「嘘ではありません。どうか、お引き取り下さい」

「俺を諦めさせようとしてそんな嘘を言うんだな! そう命じられているんだろう」


 アイザック様の声はどんどん大きくなる。


「いいえ、違います。メアリー様がそうお望みで……」

「メアリーは僕と一緒にいたいと泣いていたんだ! 使用人風情が、彼女のことを知ったような口を利くな!」

「きゃ……!」

 アイザック様が手を振り上げるのが見え、私は目を瞑った。


 痛みはいつまでもやってこない。


 おそるおそる目を開けると、従者服の青年がアイザック様の腕を横から掴み上げていた。先ほどエリオット様の側にいた黒髪の従者だ。


「何をする!」


 アイザック様が従者を睨みつける。


「私はエリオット様付きの従者です。主人の婚約者であるメアリー様付きの彼女に暴力を振るおうとしたあなたを見過ごすことはできません」


 エリオット様の名前を出されてアイザック様は怯んだ。

 舌打ちをして掴まれた腕を振りほどくと足早に去っていく。騒ぎになったらまずいと思うほどには頭が冷えたのだろう。


「あ、ありがとう、ございます……えっと……」

「……ニコラスだ」

「ニコラスさん。助かりました」


 同年代だと言うのにニコラスさんは落ち着いていた。彼も、主人の外出に同行しなかったらしい。「今の男は?」と問われてぎくりと身がすくむ。


「メアリー様の恋人か」

「ちっ、違います!」

(もしかしてエリオット様の指示で、メアリー様の周囲に男性の影がないか探っているのかもしれないわ)


 しらを切らなくては、と私は唇を引き結んだ。

 気合いを入れた矢先、私の身体は寒さでぶるっと震えた。はっくしょん! と盛大なくしゃみが出てしまう。

 初対面のニコラスさんの前で淑女らしさの欠片もないくしゃみを披露してしまい、私の頬は赤らんだ。


「……中に入りましょう。ここは冷えます」

 ニコラスさんは自分の上着を脱ぐと私にかけてくれた。

「だ、大丈夫です! 寒さには慣れていますから」

「着ていてください。女性が身体を冷やすものではありません」


 女性⁉

 エリオット様といい、ニコラスさんといい、女性の扱いにはずいぶん長けているようだ。それとも、リンデンではこれが普通なの?


 女性扱いに戸惑った私は「本当に平気です。中に腹巻もしていますから。手作りなのでお見せできるような代物ではありませんけれど、目を詰めて編んでますからちゃんと温かいです」などとどうでもいい情報を口走り、再び赤面する。

 ニコラスさんは黒い瞳をきょとんとこちらに向けていたが、「とにかく行きましょう」と寒々しい廊下を歩き始めた。


 ともかく、アイザック様のことは忘れて頂かなくてはいけない。私は話題を探す。


「ええと、こちらは寒いでしょう? エリオット様も驚かれたのではありませんか」

「……そうですね。事前にかなり寒いとは聞いていましたが」

「私なんてずっと暮らしていますけど、まだ慣れなくて……。あの、風邪をひかないように気を付けてくださいね」


 ニコラスさんはふっと笑った。


「はちみつとレモンを浮かべた湯を飲むといいですよ。風邪予防になりますし、身体が温まります」

「ああ、じいやさんの直伝レシピですか?」


 ついぽろりと口にしてしまった。

 エリオット様からの手紙に書いてあったことを思い出したのだ。


「は? どうしてあなたが知って……」


 ニコラスさんの驚いた顔を見て、私は「しまった」と焦った。しかし、ニコラスさんは何を思ったのか、突然「編み物は上達したようですね」と確認するように呟く。

 編み物がなかなか上達しない。手紙に書く話題を探すうちに、つい自分のことを書いてしまったことがあったのだ。メアリー様は編み物などしない。

 ハッとした私の顔を、ニコラスさんが覗き込んだ。


「……先ほどのエインズレイ氏の名前が出たときにもしやと思いました。……エリオット様宛ての手紙を書いていたのはあなたではありませんか?」

「な、なんのことでしょう……」

「隠す必要はありません。……手紙の返事を書いていたのは俺ですから」


 えっ、と大きな声が出る。

 そんな……。でも、確かに、エリオット様はエインズレイ氏の話題を出してもなんのことだかさっぱり分かっていないようだった。それに、お二人とも不自然なほど手紙の話題に触れなかった。

 メアリー様は自分が書いていないと気づかれるのが嫌で話題に出さないようにしていたが、思えばエリオット様もそうだ。


「……いったいどうして……」

「親同士の決めた婚約なんて嫌だと、エリオット様はメアリー様と会うことに乗り気ではありませんでした。ですが、再会したメアリー様が美しくなられていたのを見て、お気持ちを改められたそうです」


 メアリー様とまったく同じだ。

 ということは、エリオット様にも恋人がいたのかもしれない。

 二人とも恋人をあっさり捨てて、新しい恋を始めようとしている。なんて馬鹿馬鹿しい茶番劇……、ままごとなのだろう。きっと二人はこのまま無事に結婚するに違いない。


「心優しいメアリー様を騙しているようで、俺はずっと辛かった。ですが、手紙の相手があなただったと知ることができて良かった。安心してください。エリオット様に先ほどの男性のことも、あなたが代筆していたことも報告するつもりはありません」


 エリオット様とメアリー様の間に余計な波風を立てるつもりはない。

 ニコラスさんはそう言って笑った。


「……私も、同じです。エリオット様を騙しているのが辛くて……」

「そうですか。でも、これでお役御免ですね。きっとこれからはエリオット様もメアリー様もご自分で手紙を書かれますよ」


 ニコラスさんの言う通り、私がメアリー様に成りすまして手紙を書くことはもうないだろう。

 廊下を二人、並んで歩く。

 いつもなら早く暖かいところへ戻りたいと早足になるのに、私の足は鈍った。


「……デイジーの押し花もニコラスさんが?」

「ええ。あまり上手にできませんでしたが、エリオット様も不器用ですのであれでいいかな、と」

「ふふ。確かに少し花びらが折れ曲がっていましたね。あの押し花、私が持っています」

「そうですか。……恥ずかしいので、次はもっとましなものを贈ります」


 負けず嫌いらしいニコラスさんがそう言う。

 楽しみにしています、と笑いかけて私は気が付いた。


 エリオット様が書いた手紙だろうと、ニコラスさんが代筆した手紙だろうと、きっともう私が受け取ることはないのだ……。


「あなたも編み物、頑張ってください。俺は暖かい靴下が欲しいです」


 落ち込む私が顔を上げると、ニコラスさんは笑った。


「手紙を書きます。今度はちゃんとニコラスとして、あなた宛てに」

「……!」



 私は、恋をしていた。


 顔も知らない「エリオット様」という文通相手に。

 ちょっと悪戯っぽく笑う顔は、こうだったらいいな、と思っていた「エリオット様」とは違ったけれど、――それでも、私が好きになった「エリオット様」は……いや、ニコラスさんは素敵な人だった。


「私も! 私も、書きます。お話ししたいこと、たくさんあるんです!」


 メアリー様のふりをした私ではなく、ありのままの私をもっと知ってほしい。


 今度こそは心を込めて結びの文を書けるだろう。

 親愛なるニコラスさんへ。 

 ケイトより。愛を込めて――と。


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