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年下の上司  作者: 石田累
96/202

story9 November② 本当に悪い奴は誰だ(6)


「随分面白い展開になったみたいですねぇ」

 電話で聞こえる男の声は、今にも笑い出しそうに思えた。

「どうします? 藤堂さん、期限は明日ですが、お金、まだ振り込んでもらえてないようですね」

 藤堂は答えず、壁に背を預けて天井を見上げた。

「木曜には記事が出ますよ? 今回の未成年脅迫未遂ももちろん、面白おかしく書かせてもらいますよ?」

 くぐもった笑い声が、電話の向こうから響いている。

「じゃ、また明日連絡しますよ。まだご実家には連絡をとっておられないんでしょう? 原稿の締め切りがあるんでね、僕のほうの条件は明日がぎりぎりのリミットです」

 電話を置いた時、隣の部屋から声がした。

「……瑛士さん?」

「仕事の電話ですよ」

「そう? ひどく憂鬱な顔をしていらっしゃるけれど」

 軽く息をつき、藤堂は振り返った。丁度香夜が、奥の寝室から出てきたところだった。すっかり、身支度を整えている。

 今日、ホテルを引き払ってきた香夜は、今夜の新幹線で東京に帰ることになっていた。今夜は、藤堂の部屋に残した私物を取るために寄ったのだ。

 ワイン色のコートに身を包んだ香夜は、藤堂にすれば、ようやく年相応の落ち付いた装いになっていた。

 多分、的場さんが見たら驚くだろうな――と、内心ふと思っている。

 香夜には色々な顔があるが、今の香夜の姿が一番本人に近い気がする。というより、ここ数日、徹頭徹尾天真爛漫なお嬢様を演じていた香夜には、一体なんの意図があったのだろうか。

「もっと、瑛士さんの傍にいたかったのだけど」

 香夜は唇を尖らせ、不服気に呟いた。

「大切な会議があるの。そんなの、私がいなくても大丈夫だって言ったのに」

 微笑した藤堂は、傍らのキャリーバッグを取り上げた。

「じゃ、行きましょうか。駅まで車で送りますから」

 それには、香夜の眉が、わずかに上がる。

「もしかして、また、あのクラッシックなお車かしら?」

「中古なので……、でも、あの時はエンストだったんですよ」

「私、自家用車で初めて生命の危険を感じました」

「まぁ、交差点のど真ん中でしたからね」それはさすがに、申し訳ないと思っている藤堂である。

 じゃあ、タクシーを呼びましょうか。そう言おうとした時だった。

 不意に背後から袖を引かれた。

「――?」

 振り返ると、すんなりした腕が首にまわされて、甘い香りが近づいてくる。

「……どうしました?」

 頬に香夜の髪が触れている。藤堂は少し戸惑いながら、用心深くその肩を抱いて、引き離した。「何か、ありましたか」

 見下ろした女の双眸は、うっすらと涙にぬれて潤んでいる。

「ごめんなさい……なんだか、急に悲しくなって」

 泣いた自分を羞恥するように、香夜はさっと目を逸らした。

「……最後まで、私を頼ってはくれないのね。瑛士さん」

「え?」

 いやいやと首を振るようにして、香夜は再度藤堂にしがみついてきた。

「ちょ……香夜さん」

「私、知っているのよ。瑛士さんが脅されているのを」

「…………」

「余計なことだは思ったけれど、今回灰谷市に来たのは、瑛士さんのお母様に頼まれたからだわ。―― お判りになるでしょう? 今回の騒動は、全て、瑛士さんを呼び戻すための企みなんです」

「香夜さん」

 藤堂は、いっそう身体を寄せてくる女を離そうとした。が、細い腕はますます強く身体を締め付け、のしかかるように体重を掛けてくる。

「ちょっと―― 」冷静に――。

 壁におしつけられ、ようやく香夜の突進は終わった。

「一緒に帰りましょう、東京に」

 藤堂にしがみついたままで香夜は言った。

「このままでは、瑛士さんのせいで、役所のみなさんに迷惑がかかってしまいます。それで、ますます瑛士さんが苦しむなんて―― なんだか、私のほうが辛くなるわ」

「どこで、記者のことを知りました」

 藤堂は、冷静に返していた。

 まだこの件は、誰にも口外していない。

「瑛士さんのことは、全部知っています。日本に戻ってからのことなら、なにもかも」

「…………」

 軽く嘆息し、藤堂は視線を逸らしていた。やはり、この人の内面は、俺には謎だ。

「お気持ちはありがたいのですが、あなたを頼るわけにはいかないですよ」

 そっと肩を抱いて押し戻す。「これは、僕の問題ですから、僕自身でなんとかします」

「何もできませんわ。今のあなたには」

 はっきりした口調だった。香夜は身を離し、手にしていたバッグから白い封筒を取り出した。

「小切手が入っています。額面は自由にお書きになってください。私の会社のものですから」

「受け取れません」

 即座に断ると、腕を強く掴まれ、掌に封筒が押しつけられた。

「お金なら、すでに瑛士さんのお母様からお預かりしています。決して、私が立て替えようというんじゃないんですよ」

「母に?」

 あの人の性格からして、香夜にそんな真似を頼むだろうか?

 戸惑う藤堂を、香夜は落ち着いた目で見上げた。

「こちらの役所にお入りになられる時、瑛士さん、ご自身の貯金を全てお母様にお渡しになられたでしょう? これはそのお金なんです。瑛士さんのものです」

「……それは」

「瑛士さん」

 香夜は、挑むような眼差しを藤堂に向けた。

「私……知っていますよ。どうして瑛士さんが、役所にお入りになられたのか」

「…………」

「ずっとお勤めされるつもりではないのでしょう? だってそんなの、瑛士さんの立場では、絶対に許されるはずがありませんから」

 潤んだ目が、藤堂を見上げている。

 その瞳の芯の部分に、ひどく冷え切った光がある。

 藤堂は再会して初めて、かつての香夜の片鱗を、彼女に見たような気がしていた。

 同時に、今さらのように気がついていた。

 自分のためなどに、父がこんな馬鹿げた騒ぎを起こすはずがない。

 そうか――そういうことだったのか。

「―― 香夜さん」

 藤堂はやんわりと、香夜の身体を押し戻した。

「とにかく、今夜は東京に帰りましょう。話はまたゆっくりと」

「それで? 瑛士さん1人でどうなさるつもりなんです? 職場の方がたをお見捨てになるつもりですか?」

 ふふっと含んだように、香夜は笑った。

「それとも、本来の姿に戻って金策に走られます? あなたが本気になれば、もちろん私の手助けなどいらないのでしょうけどね」

「…………」

 それは、何度も考えたことだった。

 が、そうしてしまえば、自分はもう藤堂瑛士ではいられなくなるような気も、同時にしている。そういう解決方法を選んでしまったら。

「瑛士さんが出来ないなら、私が全部、片をつけます。騒がれている事件のことも、瑛士さんが心を痛めている的場さんのことも」

 返事のしようがないまま、藤堂は視線を逸らしていた。

「瑛士さん」

 香夜がその場に正座して居住いをただしたので、藤堂も仕方なく同じように膝をついた。

「……なんでしょう」

 不思議な表情を潜めた目が、じっと藤堂を見上げている。

「瑛士さんは、あの方がお好きなんですね」

「…………」

「馬鹿な瑛士さん……。それを、私が許すとでも思っていたのですか?」

「…………」

「理由は、言わなくても、お判りになるはずですわね」

 藤堂が黙っていると、香夜は静かな微笑を浮かべた。

「あなたが出ていかれてから8年、婚約者に棄てられた私が、どんな思いで生きてきたか判りますか」

「……あの時のことは」

 藤堂の言葉を、香夜は静かに首を横に振って遮った。

「この8年、ずっとあなたのことが好きだったなんて、そんな見え透いた嘘は言いません。でも他の誰かと結婚するくらいなら、私は二宮の血を引く方と結婚します」

「…………」

「あなたにそれを、拒むことはできないと思います。……違いますか」

「…………」

 藤堂は嘆息して膝を起こした。

 これもいずれ、ぶつかるしかなかった問題なのかもしれない。

 が、何故8年もたった今になって、こういった展開になるのだろうか。

 この人の真意は、やはり、俺には判らない。

「それでも、今夜は帰りましょう。話は、またの機会にゆっくりとすればいい」

「いえ、気持ちが変わりました。帰りません、ここに泊ります」

「だったら僕が出ていきますよ。香夜さん、僕らは」

 不意に香夜の表情が崩れ、彼女は両手で口元を覆った。

 そのまま、子どものように声をあげて泣き始める。

 突然の香夜の変化に、どう対応していいか判らないでいると、女は、泣きながら再び藤堂にしがみついてきた。

「今、瑛士さんの気持ちが私になくても構いません。私の気持ちが信じられないことも判ります!」

 しゃくりあげながら、懸命に香夜は続けた。

「瑛士さん、気づいてください。でも、あなたの居場所は、少なくともこの街ではないんです」

 言葉が何も繋げないまま、藤堂はただ、その背中をあやすように撫でている。

 ―― 居場所……。

 自分の場所、か。

 本当にこれから、どうしたらいいんだ。

 このままではいけないことは判っている。なのに、これから、どこに流れていっていいのか判らない。

「瑛士さん……好き」

 頬に唇が柔らかく触れた。驚いて顎を引くと、唇はそのまま、首にあたりに寄せられた。

「逃げないで、お願い」

 首に、しっかりと女の腕が巻きついている。息も触れるほどの距離で、初めて見るような女らしい眼差しで、香夜はそっと囁いた。

「昔みたいに、して」

「…………」

 胸の底に、ひやりとしたものが不意に流れた。

 ガラスの砕ける音と、足元をすり抜ける猫の気配。

 女の子の金切り声と、草むらにうずくまる白いシャツ。

 ずっと封印していた、過去の記憶の断片が、まるで幽霊のように首をもたげてくる。

 一瞬忘我した藤堂は、やがて虚ろな気持ちで言っていた。

「どいてください」

 離れてくれ。――俺に、触らないでくれ。

「あら、何を怖がっておられるの」

 くすぐるような笑い声と共に、雨の音が、どこかで聞こえた。どこか――胸の底に閉じ込めてある情景から。

 甘い匂いが、藤堂を包み込む。

「私の気持ち……今夜は、瑛士さんの手で確かめて……」


 *************************

                 

「っくしょっ!」

 ぶるっと身体を震わせて、果歩は開け放っていた窓を閉めた。

 さむ……。そういや、季節は冬に近かったっけ。あまりに残暑がきつかったから、なんだかすっかり忘れていたけど。

 隣の部屋では、妹の美怜が彼氏とずっと長電話をしている。

 今夜は、両親が揃って実家の法事に出ているから、姉妹2人だけの夜なのだ。

 ――てか、いくら親いないからって、いったい何時まで話してるのよ。脛かじりが。

「えー」とか「だよねー」とか、「まじでー」とか、そんな言葉しか聞こえない会話が、いったい何を意味しているのかまるで判らないが、とにかく互いに鼻の下をでれでれに伸ばしているのだけは窺える。

 ―― ああ……なんて、私には縁遠い光景だろう。

 鏡の前で肘をつき、果歩はほっと溜息をついた。

 強い度の入った眼鏡をかけた女が、鏡の中からじっと果歩を睨みつけている。

 30歳、独身、公務員……なんかすごくやばいワードばかりが、出揃ってるような……。

 もともと男運はないんだろう。最初がああで……次がこうで……今がこの様。

 真鍋さんとの恋愛は、つきあったと思えたのは瞬間単位。晃司は……時間だけは長かったが、忙しい彼と過ごす時間は本当にわずかで、最後のほうは、月に1回も会っていなかった。

 そうだ、そういや最後の半年あたりは、今にして思えば逃げ回ってたんだ、あの男は。今さらながら、むかむかしてくる。二股かけてるならかけてるって……最初から言ってくれてりゃ、こっちからとっとと別れてやったのに。

「…………」

 その晃司にも、今回は……その時の貸しなんかじゃ間に合わないほど、とんでもない目にあわせてしまった。

 わかっている。晃司だけじゃない、もう他の誰にも、迷惑はかけられない。意地になっている場合じゃない……でも……。

 なんだか悲しくなって、果歩は唇を噛んだまま、鏡台の前につっぷした。

 このままじゃ、また藤堂さんが一人で何もかもひっかぶってしまう。

 目撃者を探します。そう言いきったものの、そこから派生する騒動を、また彼一人に被らせることになると思うと、気持ちはそこでくじけてしまう。

 そうして、結局、長妻真央の言うとおりだと、認めるしかないのだろうか。

 真実には何の意味もない。いや、そうじゃない、あの子の心を閉ざしているのはそんな理屈でも哲学でもない。あの子は……多分、待っているのだ。

 天の雷が本当に降りてくるのを。

「…………」

 どうしよう。

 なのに、私には何もできない。私一人じゃ、何一つ、乗り越えられない……。

 弱い自分が悲しくて、無力な自分が悔しくて、なんだか泣きたくなってしまう……。

 藤堂さん……。

 今、何してるのかな。

 会いたいな。

 会って、話しがしたい。私の気持ち……私の心、全部、打ち明けてしまいたい。胸の底にあるものも、全部。

 そうして、彼と2人で歩いて行けたら……この、目の前に立ちはだかる壁も、乗り越えていけるのだろうか。

 ほとんど無意識に、果歩は携帯を取り上げていた。

 むろん、かけられない自分の性格はよく判っている。こんな時間だし、―― 多分、もう寝ているのだろう。もしかすると、また家に帰れないでいるのかもしれないし。

 アドレスから呼び出して、名前だけを表示させる。

 藤堂さん。

 写真の代わりに、くまのプーさんのイラストを入れた。最初の印象がそんなだったから―― 。今も、少しだけそんな感じがするけれど。

 私……。

 果歩は目を閉じ、携帯を胸に抱いていた。

 やっばり、好き………。

 不思議な動悸と衝動のまま、果歩は通話ボタンを押していた。

 特に用事もないのに、自分からかけるなんて初めてだ。心臓が、ものすごくドキドキしている。3コール……それだけで切るつもりだった。多分、寝ている。こんな時間だもの。きっと出ないに決まってる。

 出てほしいのと同じ気持ちだけ、出ないで欲しいと願いながら、最初のコールを果歩は待った。が、

「はい」

 えっ――?

 鳴る前に出た??

「……的場さん?」

「はっ、はい」

 コール鳴った? 果歩の耳には、プルルルの、プしか聞こえていない。

「どうしたんですか」

 心なしか、藤堂の声がかすれて聞こえた。その、低い囁きにも似た声に、果歩は胸が不意に締め付けられている。

「……あの、別に……用じゃないんですけど」

「…………」

 わー、な、なんだろう。この気まずい沈黙は。

「今、家ですか?」

 藤堂が切り出してくれた。果歩は、妙にほっとしながら、返事の前に頷いている。

「い、家です。藤堂さんは?」

「……僕は、外です」

 そうなんだ……。

 こんな時間に? ふと時計を見てから、果歩は、はっとあることに思いいたって、表情を陰らせていた。

「もしかして……ご実家ですか」

「実家?」

 が、それには、少し意外そうな声が返される。「違いますよ。明日も仕事なのに」

 その口調が、いつもの藤堂だったから、果歩はようやくほっとしていた。

「じゃ、また役所ですか」少しだけ、口調が滑らかになっている。

「違います。……さすがに少し冷えますね、この時期は」

「えっ、じゃあ、本当に外なんですか?」

「少し、頭を冷やしたかったので」

 なにかあったんだろうか……。

 彼の背後から、そういえば車が通り過ぎる音が聞こえる。

「電話、すごく早く出てくれたんですね」

「僕も、かけようと思ったから」

「…………」

「だから、びっくりしました。こんな時間だから、もう寝ていると思っていたので」

 え……?

 それって、もしかして、私に……?

「あの……」

 不思議な熱に包まれたまま、果歩は携帯を持ち直していた。「今、どこにいるんですか?」

 何故か、藤堂は答えない。

「あの、」果歩は再び時計を見上げた。「うち――今、親が留守で」

 しまった。それはまずい。この格好といい、すっぴんに眼鏡といい、家に呼ぶなんてとんでもないミステイクだ。

「出てこれますか」

「え?」

「……近くまで来ているので、どこかで会えませんか」

「…………」

 あの……今から……?

 なんで……?

 近くって、うちの近く?

 それじゃまるで、私と藤堂さん……同じこと考えてたみたいじゃない。

「10……いえ、15分ください。あの、今部屋着なんで」

 それでも、咄嗟にそう答えていた。「行きます。必ず行きますから」

「うん……待ってます」

 胸がしめつけられるような熱に包まれたまま、果歩は電話を切って、天井を見上げた。

 これは、何かの夢だろうか?

 だったらお願い―― 彼と会うまで、覚めないで……。


 *************************

  

 夢でない現実は、思いのほか厳しかった。まず、フルメイクは、さすがに15分では無理だった。

 乾き切らない洗い髪をとりあえずひとつにまとめ、コンタクトをして眉を引き、マスカラだけを睫に入れた。

 あとは着替えるだけでいっぱいいっぱいで、なんで15分なんて自分の首を絞めるような時間を指定してしまったのか、――果歩は半分泣きたくなった。

 まぁ、夜だから顔色までは判らないだろう。どこか店に入るのかな? いや、それはちょっとパスさせてもらって……。

 自転車かな。

 だったら私も、自転車でいったほうがいいのかしら。が、母のママチャリはちょっと風情が……。とはいえ、美怜のバイクはもっと情緒がない。

 玄関で靴を履きながら、ふと果歩は我に返っている。

 まるで初めてデートする高校生みたいだ、私……。

 ふわふわした気持ちを、落ち着け落ち着けといさめながら、果歩は浮ついているのか、緊張しているのか、よく判らない状態のまま、エレベーターを降りて、エントランスを出た。

 藤堂は、マンションの外壁にもたれるようにして立っていた。

 白いシャツにVネックの黒ニット。下は暗いカーキ色のパンツだった。 

 眼鏡は掛けていない。

 果歩に気づいたのか、顔をあげた藤堂は、控え目に片手を上げてくれる。

 わずかに微笑した顔は、なんだか服もせいもあって妙に幼くて、まるで大学生のようにも見えた。

「すみません、お待たせしちゃって」

 ひどくぎこちなく果歩は言った。藤堂が視線を下げて、自身の髪に手をあてる。

「いえ……僕が無理を言ったので」

 その綺麗な横顔に、果歩はますます胸が締め付けられている。

「自転車ですか?」

「いえ、車です」

 あ……そうなんだ。意外な感に打たれ、果歩は少し言葉に窮している。

「結構遠くに停めてあるんで、……少し、この辺りを歩きましょうか」

「あ、はい」

 どこに……行くんだろう。まぁ、確かに、この時間ならどの店もしまっているから、行く場所なんてないんだけど。

 静かな夜の街を、肩を並べて歩きながら、果歩は少しずつ、気持ちが落ち着いていくのを感じている。黙ったまま、何もしゃべろうとしない彼の気持ちまでは判らないけど――

「藤堂さん、別の人みたい」

「そうですか?」

「服のせいかな。……役所とは全然違うから」

 藤堂は足を止め、少し眩しそうな目で果歩を見下ろした。

「的場さんも、少し印象が違って見えますね」

「えっ―― 」しまった。メイクが甘いのを見抜かれてる。

「そ、そそ、そうなんでしょうか」

 が、この人には一度、すっぴん眼鏡という最悪の素顔を見られているのだ。その時に比べたら、随分作っているほうなのだが……。

「よ、夜のせいかもしれませんねー。ほら、いつもより暗いから」

「……うん、そうですね」

 特段否定も肯定もせず、藤堂はわずかに笑んで歩き出した。

 道路沿いに川土手がある。「降りてみましょうか」藤堂が言ったので頷いたが、内心は、多少ドキッとしていた。

 むろん、藤堂は知らないだろうが、このあたりは夏、少しばかりいかがわしいデートスポットなのである。

 が、さすがにこの時期は寒いせいか、周辺は閑散としていて、目の前には暗い河川が静かに流れている。

 傾斜のきつい土手を、バランスを取りながらよたよたと歩いていると、先を行く藤堂が手を貸してくれた。

 温かくて大きな手を当然にように取りながら、果歩は彼との距離が、今までになく近くなったのを感じていた。

 傾斜を降りても2人は手を離さず、寄り添ったまま、川の近くにまで歩いて行った。

 ずっと無言だった藤堂が、初めて静かに口を開いた。

「一緒に、やってみましょうか」

「え……?」

「目撃者探しですよ」

「………………」

 今度は果歩が――夕方の藤堂と同じ反応を返す番だった。

「ちょ――それは、まずいんじゃないですか」

「何がでしょう」

 藤堂の横顔が軽く苦笑する。「これ以上まずい事態なんて、僕には、思い浮かびませんが」

「…………」

「大河内主査の懲戒免は、来週月曜に決まります。それまでに示談が成立するか、もしくは被害届の取り下げがあれば、あるいは覆るかもしれない」

「…………」

「可能性は限りなく低い上に、明日から、僕らがそういった活動をすれば、それは間違いなくマスコミから叩かれます。しかも的場さんは、先月……別のことでも騒ぎを起こしているでしょう」

 あ……。と果歩は思い出している。ホテルのカラオケボックスで、なんとかという嫌味な男をバッグで思いっきり殴った件……のことだろうか。

「あれは、僕の対応も悪かった。……言ってみれば、僕のせいでもあるんですが」

「藤堂さんは、全然関係ないじゃないですか」

 果歩は慌てて言い添えている。が、藤堂は何も言わずに、わずかに息だけを吐いた。

「その件も含め、先日長妻真央さんに会いに行かれた件も、合わせて叩かれるかもしれません。その結果、どれだけ騒ぎが大きくなって、どれだけの余波があなたを見舞うのか、正直、僕には予想もつかない」

「…………」

「そういった事態に耐えていける覚悟は、ありますか」

「…………」

「あなたにその覚悟があるなら、僕に言うことは何もありません」

 ――私………。

 果歩は、こみあげる感情をうつむいてやりすごしてから、藤堂の手を強く握りしめた。

「全然大丈夫です」

 藤堂さんが、いてくれるなら。

 あなたが、私の傍にいてくれるなら。

 でも――。

「藤堂さんは、どうなるんですか」

 この場合、役付きの藤堂のほうが、責任がより重くなる。役所の非難は、どちらかといえば、藤堂1人に集まるだろう。

「僕は、まぁ、なんとでもなります」

「役所……辞めるってことですか」

 心臓が嫌な風に鳴り始める、が、藤堂の横顔はそれをあっさり一蹴した。

「そのくらいで懲戒が下りることはありませんよ。まぁ、中途異動は確実でしょうが」

「最悪、島もありですよ」

「いいですよ」藤堂は笑った。「一緒に、島で暮らしましょうか」

「…………」

「まぁ、2人一緒ってことはないでしょうけどね、現実には」

 その言葉は、果歩の耳には入っていない。

 一緒に暮らしましょうか―― 暮らしましょうか……って、な、なに? それって、もしかしてプロポーズ??

 ではない証拠に、藤堂の横顔は憎いほど淡々としていた。

「今の職場を離れるのは、心残りですが」

「…………」

「そのほうがいいのかもしれないと思うこともあります。いずれにしても、主査の事件が大きくなったのは、僕に責任があるんです。このままには、しておけない」

 ――藤堂さん………。

「それでも、今夜、的場さんに会うまで決心がつきませんでした。本当は……」

「…………」

「僕が、役所を去るのが一番いい方法かもしれないと、思っていたものですから」

 藤堂の手を握りしめ、果歩は彼の肩に寄り添って頭を預けた。

 私……。

 そのまましばらく、2人とも無言だった。

 何かを言いたいのに、伝えたいのに、言葉にしたら、今2人の心に生まれたあまりにも淡い何かが、流れていきそうな気がして――。

「すごく、いい匂いがする……」

 藤堂が囁いた。

「え、今日は何もつけてないですよ」

「シャンプーかな」

「やっぱり、犬ですよ、藤堂さんは」

 ぎこちなく固まったまま、果歩は、彼の指が髪を解くのを許していた。

 肩に流れた髪に、藤堂はそっと唇を寄せた。

 心臓が、壊れそうに高鳴っている。果歩は眩暈を感じて、藤堂の胸に身体を預けた。

「……また、前みたいになったら、みっともないので」

「…………」

「これだけ――許してください」

 本当に女心が判らない人。

 ここまできて、もう、許すも許さないもないのに――。

 優しい手が髪を撫でてくれるのを、果歩は目を閉じて感じていた。

 それでも、果歩は思っている。

 一度だけ――そう、一度だけ、今夜みたいに、家まで訪ねてきてくれた人がいた。あの夜は2人で車に乗って、すこしだけ言い合いになって、それから結婚の約束をした。

 あの頃の日々は、自分の中で、全て過去になったんだと思っていた。

 なのに、皮肉なことに、藤堂さんを好きになって、またあの時と同じ感覚を味わっている。同じ不安と、この先に待っているかもしれない別れを―― 畏れている。

「藤堂さん」

 それが、私の中にある大きな壁の正体なら――。

「……的場さん?」

 この壁は。

 この人と2人でなら、乗り越えていけるだろうか。もしかして。

「私……がんばります」

「…………」

「4月までですか。……意味はよく判らないけど、藤堂さんに好きでいてもらえるように、がんばってみます」

 ――好き……。

 今はあなたのことが、本当に大好きだから。

 腕を引かれ、抱き寄せられた。

「今夜だけ」藤堂が、かすれた声で囁いた。

「明日からは、いつもの僕に戻ります」

 唇が性急に重なって、息が止まるほど抱きしめられた。

 すぐに熱が押し入ってきて、果歩は唇を開いて、彼の情熱を受け止めた。広い背に腕をまわして抱きしめて――倒れそうな自分を支えた。

 好き……。

 大好き……。

 たとえ、それがどんなに不安で怖いことでも。

 これからもずっと、この人の傍にいたい――。


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