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年下の上司  作者: 石田累
9/202

story2 May「人はそれを嫉妬と呼ぶ」(3)

 ――キス……しちゃったのよね。

「ここは過去5年分のデータでいいでしょう。とすると、下の欄が不要になりますね」

 淡々と語る唇を見つめながら、果歩は、数日前の夜のことを思い返していた。

 金曜日の夜に口づけて――それから、互いに、言葉少なになったまま、それぞれ別のタクシーに乗って別れてしまった。

 月、火、水と、研修センターで新人役付きの研修を受けていた藤堂と、今日――木曜日、5日ぶりに再会したことになる。

「もう一度、表を作り直してください、……的場さん?」

「えっあ、は、ははいっ」

 ぎょっとして姿勢を正す。

 午前の、静まり返った執務室。いきなり上げた素っ頓狂な声に、庶務係の職員だけでなく、隣の計画係の職員も驚いているようだった。

「……えーと」

 藤堂が、困惑したように咳払いした。

 彼の横に立っていた果歩もまた、同じようにわざとらしい咳をする。

「……なんですか、妙な雰囲気ですね、お二人さん」

 けげん気にそう言ったのは、ひとつ前の席に座る、庶務係主査の大河内(おおこうち)だった。40前の主査は、役所の出世としては順当なパターンだが、席次としては、26歳の係長の下である。若禿げの体質なのか、つるりとした禿頭に、猫毛がそよそよと揺れている。

 元来温厚で他人のことにあまり干渉しない大河内は、年下の上司をさほど気にとめてはいないようだった。

「あやしいっすね。金曜日の飲みで、何かあったんじゃないですか」

 と、口を挟んだのは、果歩より一つ上の南原亮輔(りょうすけ)だった。口も悪くそっけないが仕事の手際はいい男だ。

 ひょろりした長身で、顔のつくりは悪くない。が、肌が妙にごつごつして、クレーターのように荒れている。

 何を考えているか掴み難い男で、藤堂より5歳年上だが、藤堂に対しては、悪い意味で無関心をきめこんでいる。相談ごとは、隣の係の中津川補佐か、志摩(しま)課長に直に持っていっているらしく、彼が藤堂と話しているのを見たのは、二、三度しかない。

 公務員なんて、真剣に仕事をするだけ無駄っすから、が、南原の口癖だった。

「あの日は、お二人とも帰られたんでしょう?」

 大河内が、パソコンに目を落としながら言った。

「モーニング娘ちゃんが、うちに来て、色々聞いてましたよ。あの後、藤堂さんが何処へ行ったのかとか、的場さんはちゃんと帰ったのか、とか」

「あの二人はできてるのか、とか」

 揶揄するように口を挟んだのは南原だった。

 ――あの子……。

 果歩はさすがに困惑しながら、藤堂を窺い見る。が、藤堂の表情には、髪一筋ほどの変化もなかった。

「藤堂さん、二次会にいかれたんじゃないんですか?」

 ようやく自分のペースを取り戻した果歩は、わざと驚いた風に言ってみた。

「いえ、急用ができまして」

 藤堂も何気なく言い、その場はなんとなくお開きになった。

 ――私ったら……。

 決裁文書を抱くようにして自席に戻りながら、果歩は自然に頬が赤らむのを抑える事ができなかった。

 今朝から気がつくと、藤堂の唇ばかりを見つめている。

 形のいい、綺麗な唇。ほどよい厚みがあって力強く引き締まっている。

 一度目のキスはわけがわからなかった……。というか、殆んど記憶に残らないほど、頭の中が真っ白になって、唇を合わせているという感覚さえなかった。

 でも、二度目のキスは、本当にキスしている、という感じだった。

 藤堂が、少しだけ唇を開いて、果歩の唇を挟むように口づけてくれたことまで、生々しく覚えている。

 ――うっ、うわっ……。

 は、恥ずかしい。

 思い出すだけで赤面して、ドキドキが止まらなくなる。

 今日は、思い切ってお弁当を作ってきた。

 多分、コンビニ弁当二つ分くらいの重量がある。それを……食べてくれますかと、一言聞きたいのに、どうしても声が掛けられない。

「会計課、行ってきます」

 書類をつかんで、取り合えず席を立った。気持ちを落ち着かせないと、午前は仕事になりそうもない。

 ――私……。

(宴会の途中から、なんだか、妙に腹ただしくなってきまして……いや、僕の怒る筋合は、全くないことなんですが)

 ――す、好きなの……かな。

(局の庶務担当が、皆に人気があるのは、いいことだと思います。……いや、僕がおかしいんです、忘れてください)

 ――と、藤堂さんは、……私のこと、……す、好きとかでいてくれるのかな。

 分からない。

 まさかね……と思う反面、もしかしたら、と期待を抱いている自分がいる。で、こんなに浮ついている果歩自身は、もう、間違いなく、藤堂に気持ちを奪われているような気もする。

 役所にはいって最初につきあった男にも、そして晃司にも、こんな気持ちになったことは……。

「………………」

 どうだったかな。

 いや、なってるか。

 どの恋愛も真剣だった。その刹那は全部が果歩の宝物だった。

 ただ、今となっては、そう思いたくないだけだ。

 ホールでエレベーターを待ちながら、果歩は、過去の自分を思い出していた。

 そして、ようやく現実に立ちかえり、少しだけ苦い気持ちになった。

 浮ついて期待して、それでどうなるというんだろう。彼は4つも年下で――私は結婚適齢期を軽く越えて、一時燃え上がった恋なんて、いずれはあっけなく冷めてしまうものなのに。

 下に降りるエレベーターが止まる。乗り込んでスイッチに手を当てて振りかえると、駆け足で、長身の男が飛び込んできた。

「…………」

 果歩は、はっとしてうつむいた。

「……果歩」

 最初から、この機会を待っていたのか、晃司の目に驚きはなかった。

 扉が閉まり、2人きりのエレベーターで、果歩はできるだけ隅の方に身体を寄せた。

「そんなに怖がるなよ」

 前を向いたままの、晃司の声は優しかった。

「…………」

「あの時は……ちょっと酔ってたし」

「…………」

「……俺、お前が好きなんだ」

 どこか辛そうな声だった。果歩はうつむいた顔をあげかけて、また下げる。

「……やっと分かったよ。バカだった、俺。……お前の気持ち過信しすぎて……どっかで自惚れてたのかもしれない」

「…………」

 晃司が本当に反省して、悔いているのがよく分かった。今までの果歩なら、そこで、自分から晃司の手を取っていただろう。

 でも、今の果歩は動けなった。手も足も、石のように凍りついたままだった。

「……須藤が言ってたよ。でも信じられない、お前……マジで、あんなうどの大木が好きなのか」

 晃司が、じれたように振り返る。

 それが、藤堂のことをさしているというのは、すぐに判った。

 が、それにどう答えていいのか分からなかった。

「……それは、……晃司とは」

 関係ない。そう言おうとした途端、ふいに歩み寄ってきた晃司に、手を強く握られていた。

「お前、結婚したいんじゃないのかよ」

「……何よ、それ」

 腕を振りほどこうとする、が、晃司の手は離れない。

「だったら、藤堂なんてやめとけよ。あいつの年わかってんのか? それに、須藤が言ってたけど、あいつ」

「離して、人が乗ってきたらどうするの」

「あいつ、どえらい金持ちのぼんぼんらしいぜ。そんなのがお前なんか本気で相手にすると思ってんのか」

「………………」

「冷静になれよ」

 晃司の言葉が、冷たいのか温かいのか、果歩にはもう分からなかった。

「前の男のこと、もう忘れたのか、……あんな思いをまたしたいのかよ」

「………………」

 チン、と音がしてエレベーターが会計課のある1階で止まる。

「俺、お前のことあきらめねーから」

「…………」

 扉が開くより先に、晃司がそう言って手を離した。

「あんなヤローに、取られてたまるか」

 最後に吐き捨てるようにそう言うと、乗り込むためにホールにいた人の輪をすり抜けるようにして、晃司は足早に姿を消した。


 

*************************


 

 だったら、藤堂なんてやめとけよ、あいつの年わかってんのか?

 あいつ、どえらい金持ちのぼんぼんらしいぜ、そんなのがお前なんか本気で相手にすると思ってんのか。

「…………」

 給与システムの端末を叩きながら、果歩は何度目かの溜息を吐いた。

 ――私は……藤堂さんのこと、何も知らないし。

 ――藤堂さんも……私のこと……。

 ちらっと、パソコンデスク越しに、係長席をのぞき見る。

 藤堂は相変わらずの無表情で、手元の決裁書類に目を落としている。

 ばっとその顔がいきなり上がる。

 果歩は慌てて視線を下げた。

 結局――お弁当のことは切り出せないまま、昼もすぎて、まだ巨大弁当は果歩のロッカーの中にある。

 5月とはいえ庁内は暖かい。いくらなんでも、もう渡せないし……渡す気にもなれなかった。

(――もしご迷惑でなかったら、これからも、作ってきていいですか)

 そう言ったのは果歩だし、

(――お礼、しないといけませんね)

 そう言ったのは藤堂だ。

 が、あれから半月近くたっているのに、互いにその約束には、一言も触れないでいる。

「大河内さん」

 藤堂の声がした。

「はい」

 と、庶務係主査、大河内の呑気な声も聞こえる。

 庶務係長と主査。机が近い2人は、何かを相談しあっているようだった。

 はっきりとは聞こえないものの、時々大河内が困惑したように「はぁ……」と首をひねるのだけが、分かった。

「的場さん、今度の都市計画大都市会議だけど」

 背後から、ふいに同じ係の南原の声がした。

 南原は、果歩と背中あわせのパソコンデスクに座っている。

「最終的な案内の発送と、出席者のチェック。会計やお茶出しのことなんか、いつものように頼んだから」

「はい」

「来月だから、早めにな」

 南原は、大都市や地方都市で集まって行う、担当者会議のセッティング担当者である。

 たいてい、年に二度は、本省を招いた大規模な会議がある。その会場設営、接待等は、全てこの南原の担当であり、それを補佐するのが果歩の仕事だった。

 補佐――といっても、やることは、本当に雑用のようなものなのだが。

「ああ……えーと、南原君、今年はそれ、バイトさん使って君一人でやって」

 と、そこにいきなり口を挟んだのは、藤堂と話していた大河内だった。

「はっ……?」

 南原は、唖然として、椅子を軋ませて大河内を見上げる。

「何いってんすか、このクソ忙しいのに」

「的場さんには、別の仕事を頼むことになりそうだから、……まぁ、藤堂係長のご命令で」

「はぁ……?」

 南原は、クレーター面を間伸びさせ、心底唖然としているようだった。

 果歩も、同じくらい驚いていた。咄嗟に係長席を振り返るが、藤堂の姿はない。

「ま、女性登用に熱心な係長ってとこなのかね。管理課の仕事が一本、うちに回ってくることになってね、それを的場さんに頼みたいんだそうです」

 大河内は淡々とした口調で言う。

「……って、なんなんすか、それ。なんだって管理の仕事、うちで引き受ける事になったんすか」

 南原は、もはや不満もあらわに、口調も投げやりになっている。

「さぁね」

 大河内は、言うことは言ったから、という感じで肩をすくめると、そのまま自席に戻っていった。

 果歩は南原を見たが、南原は、いまいましそうに舌打すると、そのままパソコンに向き直った。

 ――どういうこと……?

 管理の仕事とはなんだろう、そんなことは、初耳だ。

 戸惑いながら、果歩も端末に向き直ると、

「かっ……たまらんね、無能な上司を持つと」

 背後から、吐き捨てるような南原の声がした。そして、

「的場さん、まさかと思うけど、あんたが頼んだんじゃないの?」

 ――えっ……。

 どういうことか意味が分からず、果歩は困惑して顔を上げる。

「雑用ばっかで、面倒なんですって……扱いやすいだろ、4つも年下の男なんてさ」

「…………」

 反論を遮るように、そのまま南原は、椅子を激しく軋ませて席を立った。

 果歩は黙ったまま、ただ、眉をひそめていた。

 

 

 *************************

 

 

「的場さん、ちょっと」

 滅多に部下と口を聞かない、総務課長、志摩に呼ばれたのは、終業時間の5分前だった。

 局長室からコーヒーカップを下げていた果歩は、驚いて顔を上げる。

 執務室の一番奥まった所に、ひとつだけ離れて置いてある課長席。

 席についたままの課長の隣には、藤堂が立っていた。

「は……はい」

 カウンターにトレーを置き、急ぎ足で駆けつける。

 まるで能面のような顔をした男である。総務課長、志摩大輔――大柄で骨太、運動などしそうもないのっそりした体型なのに、ゴルフ焼けなのか、肌だけが浅黒い。

 年齢は50を過ぎているが、恰幅がいいためか、40代に見えない事もない。

「……あー、実はね、今年、灰谷市の都市計画史を編纂した冊子を作る予定になっているんだが」

 志摩は、まるっこい指で、こつこつと机を叩きながらもそもそとした声で言った。

「予算は400万、発刊は年度末だ。今から準備するのは大変だろうが、管理の方で資料だけは揃えてもらえる」

 もそもそとくぐもった声を聞きながら、ただ果歩は、はぁ、と頷くことしかできなかった。

 戸惑いながら、傍らに立つ藤堂を見上げる。これはまさか、この仕事を――私にしろということなのだろうか。

「まぁ、詳しいことは藤堂君と話し合ってすすめたまえ。この先何年も資料として市に残る大切な仕事だ、失敗は許されんよ」

 そこだけ、威嚇するように低くなった声は、果歩に向けられているようであり、藤堂に向けられているようでもあった。

「まぁ、いくら藤堂君がいるとはいえ、担当首は君だから、そのつもりで責任を持ってやってみたまえ」

「……は、はい」

「じゃ、これでいいかね、藤堂君」

 最後に志摩は、面倒そうにそう言うと、太い溜息を吐いて、もういいという風に手を振った。

「はい」

 藤堂は頷き、席に戻りましょう、とでも言うような目で果歩を見下ろす。

 執務室は、しん、と静まり返っていた。

 多分、課の全員が、聞き耳をたてて今の会話に聞き入っている。

「あまり時間がありませんので」

 係長に戻った藤堂は、普段どおりの声でそう言うと、傍らのダンボール箱を指し示した。

「これが、管理から引き継いだ資料です。今週中に一通り目を通せますか」

「は……はい」

 見るからに重量がありそうなダンボールに、厚手のファイルがぎっしりと詰まっている。

 今週中―――それは、あと、今日を含め、金曜日しかないのではないだろうか。

 週休日に出て、土日を含むとしても、正味3日。

「あの……私」

 どう言っていいか判らなかった。通常業務は山のようにある。それは――残業するほど忙しくはないが、正直、就業時間内の余裕は全くない。

「的場さんの仕事は、僕ができるだけ手伝いますが」

 ダンボールを、まるで紙パックか何かのように、軽々と持ち上げながら、藤堂は言った。

「あなた自身も、少し、無駄をなくすような仕事の仕方を心がけてください。アルバイトさんを有効に使ってください。政策や調整課のアルバイトさんは、日中割と暇そうなので、手伝ってもらうこともできますから」

「…………」

 そんなことできるわけがない。

 みな、それぞれの課で抱えているバイトである。いってみれば職員と同様で、それぞれの課で可愛がられている。

 他課のバイトに仕事を頼まないのは、役所の慣例のようなものだ。それをやると、女性職員やアルバイトたちの反感を買う事になる。

 自分の席の後ろに置かれたダンボールを見て、果歩はただ、呆然としていた。

 できません、お断わりします。その言葉が、もう喉元まででかけている。

「やれやれ、大変だね、係長のお気に入りも」

 隣席から、揶揄するような囁きが聞こえた。南原である。

 果歩の机の上には、その南原の置いたメモ用紙が置いてある。

 決裁済みの大都市会議の案内状の原稿――ただし、文章は赤ペンでチェックまみれになっている。その上に付箋「100部コピー、金曜に発送」

 これをワープロで打ちなおし、100部コピーし、各都市、関係者に送れ、ということなのだろう。

 とどのつまり、南原は、藤堂の言うことをまるで聞くつもりはないらしい。

「じゃ、僕は失礼しますよ。今日は娘の誕生日なので」

 大河内は、我関せずとばかりに鞄を持って立ちあがる。

「藤堂君、今日は、どこだったかね」

 志摩課長の声。

「はい、料亭岡倉で6時です。タクシーを用意していますので」

 藤堂が即座に答える。

 ああ、そうか、と、果歩は思った。

 今日は、局の役付会が予定されている。

 ということは、係長職につく藤堂もまた、飲み会に出てしまうということだ。

 ――どうすればいいの……。

 果歩は途方にくれたまま、ただ、その場に立ち尽くしていた。


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