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年下の上司  作者: 石田累
89/202

story8 November① それでも僕はやってない?(6)

――藤堂さん……。

 深夜の市役所。

 果歩が執務室に戻ると、案の定電気がわずかに点いていた。

 守衛室で「都市計画総務です」と身分を名乗ると、「ああ、遅くまでお疲れ様です」と気の毒そうな目で言われたので、 少なくとも誰かが残っているはずだった。今の状況で、それは、藤堂しかあり得ない。

 が、見渡す限り、誰もいない。

 ――トイレかな……食事にでも出てるのかしら。

 そろそろっと、藤堂の席のほうにまで近寄ってみる。

 パソコンは閉じられていたが、彼のデクスには、まだ片付かない仕事の名残が山積みになっている。

 勢いでここまで来たものの、ようやく果歩は、冷静さを取り戻しつつあった。

 こんな時間に、残業中の人の所に押し掛けるなんて、ちょっと……性急すぎたし、自分勝手すぎたのかもしれない。

 今、藤堂が一人欠員となった総務課で、 しかも人事担当者として、いかに激務に追われているか、それを知らないわけではなかったのに。

 せめて、電話で謝るか、ねぎらうか……それくらいにしておこうかな。

 少しためらってから、携帯のコールを鳴らしてみた。

 すぐ近くから音が聞こえて、果歩はびくっと肩を震わせている。藤堂の机の上―― 重なった紙がわずかに震えている。

 携帯を切った果歩は、ようやく次長室の扉が、うっすらと開いていることに気がついた。

「……藤堂さん?」

 そっと扉を押してみる。執務室の照明が、薄く次長室に差し込んで、果歩はようやく、ソファに横たわって仮眠を取っている藤堂を見つけた。

 かすかな寝息が聞こえてくる。

 ――今夜も、帰らないつもりなのかな。

 明け方、2時間程度自宅に戻って着替えと入浴を済ませてくる。これが、ここ数日の藤堂の仕事ぶりだった。若いからできるのだろうが、身体を壊さなければいいがと、心配で仕方ない。

「…………」

 果歩は、そっと、藤堂の顔の辺りに膝をついた。

 彼と気まずくなっている現状を思えば、こうやって距離を詰めるのは少しだけ怖かったが、無防備に寝ている姿が愛しくもあった。

 ――不思議だな……。

 彼と知り合ったのは、今年の4月。同じ課で働くようになって1年にも満たない。

 なのに、ずっと前からこの人を知っているような気がするのは何故だろう。

 たった7ヶ月の間に、本当に色んなことがあった。

 最初は仕事が出来ない人だと思っていたこと。大きな身体や野暮ったい雰囲気が苦手だったこと。

 それが、何時の間にこんなに好きになってしまったんだろう。

 少しずつ意識するようになって、2人で屋上でお昼を食べて、――局の親睦会の帰りに、キスをして……。

 流奈が参戦したり、乃々子が出てきたりと、確かに波乱は多々あったが、こうして思いかえすと、笑いだしたくなるほど平凡な恋の始まりだ。

 ――藤堂さん……。

 その恋を……、意地っ張りな私は、何度、手放そうと思ったんだろう。

 その度に、藤堂さんは追い掛けて、私の手を掴んでくれたのに。

 おそるおそる指を顔のあたりに近付けてみる。吐息がわずかに指をかすめ、果歩は慌てて引っ込めていた。

「……ごめんなさい……」

 初めて、素直な言葉が唇から洩れた。

 私が悪かったです。

 私が……ずっと意地を張っていました。

 私のしでかした失敗まで、全部被らせてしまって、ごめんなさい。

 でも、それが藤堂さんの仕事なら……私には、私にできる仕事をください。

 あなたを、支えていきたいんです。

 なにも……たいしたことはできないけど……。

 そっと頬に触れると、少しだけざらっとした。何故か果歩は、その刹那、ひやっとしたものを背中に感じて、咄嗟に手を引いている。

 なんだろう、今の――すごく嫌な感じがしたけど。

「…………」

 か、春日次長の生霊? まさかね。

 あー、とにかく、寝込みを襲うような真似だけはやめよう、うん。ここは厳正なる職場である。しかも、鬼の春日の専用オフィス。

 そうだ、何か上に掛けるものを探して、それから夜食でも買って置いといてあげよう。

 このままじゃ、あまりにも藤堂さんが可哀そうだ。

 そっと、掛布がわりの制服を、彼の肩にかけ直してあげた時だった。

 腕を強い力で掴まれた。果歩が驚く間もなく、背中に腕が回されて抱き寄せられる。

「ちょっ……」

 え、なになに、何が起きてるの?

 はずみでパンプスが片方脱げた。ただ驚きのあまり硬直していた果歩は、ソファの上で両腕を拘束され、藤堂の身体が上に被さるのを感じていた。

「と、藤堂さん?」

 ――うっ……。

 そ、想像しないこともなかったけど、この重さ、域を超えてる!!

 しかも、まるで遠慮がないってのはどういう量見だろう。これじゃ、ラブシーンというより、ガチでぶつかりあう格闘技――寝技的に抑え込まれているだけだ。

 息苦しさから、果歩は、じたばたと足を動かした。

 今は、ロマンチックなときめき以前に、命の危険さえ覚えている。

「と、藤堂さん、無理です。死にます、私っ。一体誰と間違えてるんですかっ」

 その声が届いたのか、不意に藤堂が顔をあげる。

 影になった唇が薄く開くのが見えた途端、何かの冗談か事故としか思っていなかった果歩の胸が、突然鋭く収縮した。

 え……あの……。

 その時には、果歩は、彼が半分寝ぼけているのだと察していた。が、果歩と判ってそうしているのか、男としての衝動がそうさせているのか、そこはまるで判らなかった。

 被さってきた唇は、熱くて、荒々しくて獰猛で、今まで藤堂と交わしたどんなキスとも違っていた。

 最初から、最後の繋がりを切迫して求められていることがはっきりと判るキスだった。

「や……藤堂さん」

 細くうめいて、果歩は逃げようとした。

 自分が彼の熱に飲み込まれそうになるのが怖かった。が、もちろん逃げられない。顎をしっかりと掴まれ、唇をこじあけるようにして藤堂が中に入ってくる。

 それだけでも眩暈がしそうなほどなのに、同時に硬い太腿が、膝を割ってくるのが判る。

 彼の荒々しさに、逃げる術も抵抗する術もなく、果歩はやがて熱に浮かされたように、広い背に手を回していた。

 ――あ……

 どうしよう、溶けちゃいそう……。

 藤堂さんのキスが上手すぎて――上手というより、情熱的すぎて。

 まるで私の何もかもが、この人の一部になってしまったみたいだ。

 キスを続ける藤堂の手が、服の上から胸に膨らみに被さってくる。

 果歩は小さく叫んで、理性と情熱のぎりぎりの狭間で葛藤した。流れ的にそうなることはわかっていたとはいえ、藤堂が果歩の身体に触れたのはこれが本当に初めてだ。

 どうしよう――このまま――いいのかな――。

 私たちには、まだ色んな問題が残っているのに。こんな――悪い言い方をしたら、なし崩し的に。

 しかも、この人の目は、まだ完全には覚めていないようだし。

 一方、藤堂に躊躇いは微塵もない。普段、慎重すぎるほど慎重な人が、一体どういう変貌だろう。気づけばブラウスの裾がたくしあげられて、熱い手のひらが肌を直に探ろうとしている。

 ――ちょ……ここまで、次長室で……?

 春日の恐ろしい顔を思い浮かべた時、果歩の理性が情熱に打ち勝った。

「藤堂さん!!」

 意を決して拳を振り上げるのと、わずかに顔をあげた藤堂が、はっと眼を見開くのが同時だった。

 彼は、そのままの姿勢で、数度、夢でも見ているかのような瞬きをした。

「…………はい」

「…………」

 いや……律儀に返事しなくていいですよ、この場合。

「あの……」

 手……手が。

 この場合、相手がどういう寝ぼけかたをしているか判らないだけに、果歩の恥ずかしさは倍増だった。

「手を、ですね」

「え、はい?」

 藤堂がぎょっとしたように、果歩の胸に置いた手を離した。もう片方の手はブラウスの下、わき腹のあたりに置かれている。

 藤堂はしばらく、本当にあっけにとられたように、果歩の服の下に沈んだ自分の手を見つめていた。

「あの……これは」

 彼が、(多分身動きも思考も停止するほど)激しく動揺しているのが判ったから、果歩は何も言わず、その手をそっと引き抜いてあげた。

「別の場所だったら、よかったんですけど」

「は、は……はぁ」

「次長室は、生涯の苦い思い出になりそうなので」

「うわっっ」

 ようやく藤堂に、遅い現実が飛び込んできたようだった。

 まさに跳ね起きた彼は、驚愕というか、いっそ恐怖に目を見開いたまま、果歩の足元に腰をついた。

「すっ、すみません、ごめんなさいっ、ちょっと俺……寝ぼけてたみたいで」

 俺?

 なんだろ、この人、本当に藤堂さんかな?

 ようやく重みから解放された果歩は、けほけほと咳き込んだ。

 いや……しかし、曲がりなりにも恋人かもしれない2人が、1人は一人称を間違えるくらいに動揺し、片やもう1人は圧死から免れたような安堵を感じているって……。

「いや……その」

「私だって判ってやってました?」

 ようやく冷静さを取り戻した果歩は、多少の疑念をこめて訊いてみた。

 藤堂の顔が、夜目にもみるみる赤くなるのが判る。

「…………そうかも、しれません」

「なんですか、それ。そうじゃないかもしれないってことですか」

 藤堂は、気まずげに視線を下げる。

「ま……、それは、夢なんで、なんとも」

「えーっ、それひどくないですか? もしかして、ここに来たのが誰だって、同じ真似をしてたってことですか」

 冗談ではなく本気の拳を果歩は握った。まさか、彼がそんなに貞操観念の薄い男だとは思わなかった。男の生理現象は、多少なりとも理解しているつもりだが、それが相手構わず発動するなら、許せない。

「それはないです、それは――絶対ないです」

 藤堂は、気の毒なほど懸命に否定した。

「どうでしょう。だって、夢なんでしょ?」

「いや……その……」

 言葉につまり、本当に困惑したように、横を向いた藤堂は髪に指を差し入れた。

「匂いで……判るんで」

「…………」

 ―― 匂い……?

「だから、ちょっと理性が飛んだのかもしれないです。本当に、すみませんでした」

 匂いって……。

 本当に犬ですか、あなたは。―― 可愛くて愛しい藤堂さん。

「今度は、私を上にしてくださいね」

「はい…………はい??」

「肋骨がきしんで折れそうでした。一時は圧死を覚悟したほどですから」

「…………」

 藤堂が真面目な顔で呆けているので、果歩は仕方なく、その肩にそっと手を置いた。

「冗談ですよ。あまり真面目にならないでください」

「は……はぁ」

 これこそ夢でも見てるんだろうか。私が落ち着き払って藤堂さんが動揺してるなんて、いつものパターンと全く逆じゃない。

「隣、座ってください」

 やはり果歩がリードして、彼はその通りにした。

 果歩がそっと手を重ねると、ようやく藤堂がわずかに力をこめて握り返してくれた。

 謝るつもりできたのだし、実際、これからそうするつもりだった。藤堂の話も、きちんと聞くつもりだった。

 なのに、手を繋いだ途端、自分でも意識しなかった不思議な熱が蘇ってきて、果歩は胸が鋭く痛むのを感じながら、藤堂の肩に頭を預けていた。

 多分、彼もまだ熱の中にいるのだと思った。

 少し首を傾けるのが判って、果歩が顔をあげると、そのまま唇が重なった。

 少しだけ開いた唇は、表皮をなぞるように優しかった。

 なのに果歩は、先ほど激しいキスをされた時よりずっと、彼が欲しくなっていた。胸が波のリズムで締め付けられて、自然に、彼の背に両腕を回して、もっと近くに引き寄せている。藤堂の腕も果歩の背に回され、唇の密度がいっそう深くなる。

 藤堂の髪を撫でながら、果歩は彼に体重を預け、彼は逆らわずに仰向けに倒れて果歩を支えた。

 今度は藤堂の手が、果歩の髪を何度も―― 愛しそうに撫でている。

 先に唇を離したのは果歩だった。藤堂の手が、腰から少しも動こうとしないから    多分、これ以上は彼にとって苦痛でしかないと、少しだけ大人な判断をした。

 額をあわせ、軽く、最後のつもりでキスをした。

「いつもは、俺って言うんですか」

「……いつもじゃないですけど……時々、出てるみたいです」

 彼がまだ物足りなさそうだったので、もう一度キスをした。

 が、内心で果歩は、彼の今の言葉に少しだけ傷ついていた。

 出てるみたい――それは、誰かに指摘されて気づいたのだろう。

 ――香夜さんの前では、俺っていうのかな。

 まぁ、いいや。今はもう何も考えたくない……。今は、藤堂さんが、すごく愛しいから。

 お互いに傷ついて辛い時期だから、ただ―― 身体の温もりを求めているだけなのかもしれないけど……。

 

 *************************


「わぁ、こんな時間に、屋上ってありなんですか」

 果歩は、感激して背後の藤堂を振り返った。

「本当はなしですよ」

 藤堂は微かに笑って、出入り口の扉を閉めた。「最近は泊りこみが多いので、守衛さんに顔がきくようになったんです」

「なんで家に帰らないんですか」

 それは、ちょっとした嫌味だった。藤堂が、うっと口ごもるのが判る。

「仕事が……忙しくて、いや、言い訳じゃありませんよ」

 はぁ……。

 たちまち果歩は、気持ちが萎えていくのを感じていた。まぁ、こんないいムードの夜に、嫌味を言った私がそもそも悪いんだけど。

 なんて言い訳が下手な人だろう。そんな顔されたんじゃ、部屋に香夜さんがいるってバレバレじゃない。

「ワンルームでも借りたらどうですか」

「同じことですから」

 果歩と隣り合ってフェンスの前に立ちながら、藤堂は軽く嘆息した。

「あの人に係ったら、どこに逃げても同じなので。……まぁ、役所が一番安全というか」

「……?」

「夜間は、身分証がないと入れませんからね」

 あの人って、香夜さんのことだよね。

 そんなに目茶苦茶な人だとは思わなかったけど……。そこまで警戒する藤堂さんのほうが、いっそ謎だ。

「まぁ、誘惑に弱そうですからね」

 果歩は、ちょっとつん、として言ってみた。寝ぼけた程度であれじゃなぁ……。今までの流奈の襲撃にも、実はあっさり陥落してんじゃないだろうか。

「……誰の話ですか」腑に落ちないのか、藤堂は訝しげだ。

「別に」果歩はますますつんとしてフェンスに背を預けた。「犬の話ですから」

「…………」

 多分、通じたのだろう。

 少しばかり藤堂が、むっとして黙り込むのが判る。

「言い訳はしたくないんですが、あまり誤解されるのも癪に障るので――」

「え? わざと誤解されるようなこと言いましたよね。確か以前は」

「…………」

「婚約してる人がいるからとか、責任が取れないとか、そんな理由で、私と距離を開けたいって言ってたじゃないですか」

 ああ、何を言ってるんだろう。私ったら。

 流奈に曖昧ながらも事情を聞いて、そこはもう、自分で納得していたつもりだったのに。

 しかも、彼が理由を打ち明けようとしてくれているのを、自分から逃げるような真似をして、耳を塞ぎ続けているのに。

「それを今になって言い訳なんて、藤堂さんって意味不明ですよ。今に始まったことじゃないですけど」

 が、それでも走り出した言葉は止まらず、果歩は最後まで言い切っていた。

 さっきまでの熱々ムードはどこへ行ってしまったのか。

 2人の胸に残ったわだかまりの大きさに、果歩も、多分藤堂も気がついている。

 そこを曖昧にしては、この先、一歩も進めない。

 今夜こそ、聞かないといけないんだ。

 果歩は、今さらのように、その覚悟を決めていた。

 藤堂さんのことを全部――全部、聞いて受け止めなきゃいけない。香夜さんのことも含めて全部。私がまだ、これから先も藤堂さんのことを好きでい続けるなら。

「香夜さんとは、本当に婚約しているんですか」

 思い切って果歩が問うと、藤堂はわずかに驚いたようだったが、沈思した後、落ち着いた表情で頷いた。

「しています」

「…………」

 胸がその刹那、重苦しく軋んだ。

 それだけで、もう果歩はくじけそうになっている。本当――だったんだ。自称じゃなかった。本当に彼と香夜さんは――。

「様々な事情が重なって、親同士が決めました。僕が高校生の時です」

「…………」

 高校生――。

 想像もできない彼の過去に、果歩はただ驚いている。

 いったいどういう家の人なんだろう。高校生で婚約? その時香夜さんは、いったいいくつだったんだろう。

「的場さん、ただ……」

 藤堂は、言葉に迷うように、視線を伏せた。

「ただ僕は、その婚約はとうに立ち消えになったと思っていたんです。僕は、高校卒業した後に家を出たので」

「…………」

「卑怯な言い訳だとは判っています。今年に入って、確かに僕は、僕自身の意思で、……双方の家に了承を入れたんですから」

 彼の横顔は、苦痛に耐えているかのようだった。

「役所を辞めると、あなたに打ち明けましたね。それは――そういう意味でした。彼女と結婚して家に戻ると、一時、確かに僕は決めたんです」

「……どうして、ですか」

 それには藤堂はわずかに眉を寄せただけだった。

 果歩は、ますます藤堂の真意が判らなくなった。

「私、判りません。先日藤堂さんは、香夜さんは関係ないって、そう仰ったじゃないですか」

 なのに――

 やっぱり彼女と結婚するために、私と別れようとしていたってこと?

 藤堂は、何か言いたげに見えたが、その表情は一瞬で消え、再び言葉を失くした人のように唇を引き結ぶ。

「それは、……香夜さんを」

 それを聞くには、相当の勇気が必要だった。

「……あの人を、好きだから、ですか」

「…………」

 眉を寄せたまま、藤堂はわずかに唇を噛んだ。

「……色々な理由があります。ただ……」

「…………」

 ――ただ?

「この婚約が彼女にとって本意だったかというと、それは違うような気がするんです。正直言えば僕は、彼女の気持ちなど、あまり頓着していなかったのかもしれません」

 どういう意味だろう。

 それではまるで、藤堂さんが一方的に香夜さんを好きだったようにも―― 聞こえる。

「婚約が決まった8年前、……彼女を置いて家を出た、――いや、逃げたのは僕なんです」

 藤堂はそこで、言葉を探すように唇を閉じた。

「その時も僕は、彼女のことをまるで考えてはいなかった。今でも、……本当に申し訳なかったと思っています」

 だから?

 だから私ではなく、あの人を選ぼうとしたのだろうか――?

 あたかも二股をかけていたような嘘までついて?

 よく判らない。なんだか話しているとどんどん迷いの森にはまりこんでしまいそうだ。

 いったい、藤堂さんは、私とあの人、どちらを大切に思っているんだろう。

 ずきり、と胸のどこかが痛んだ。

 また背中に、ひやっとした嫌な感覚がかすめて消えた。

「的場さん」

 藤堂の目が、初めて真剣な色を帯びた。

「今はまだ、全てをあなたに話すことはできません。でも、」

「あ―― あの、藤堂さん」

 何故か果歩は、慌てて彼を遮ろうとした。

 何故だろう。聞きたくない。どうしてだろう、この期に及んで、もう果歩はここから逃げ出したくなっている。

「的場さん」

 が、藤堂はひるまずに切り込んできた。

「僕は確かに、彼女とこのまま結婚しようと思いました。役所を辞めて家に戻ろうと思いもしました。でもそれは」

 藤堂は言葉を切り、果歩は息を詰めていた。

 でも、それは――?

「……間違っていた」

 視線を下げ、藤堂はそっと眉を寄せた。

「18の時と同じで、また僕は、逃げようとしていたんです。自分が受け入れられない現実から」

「…………」

「ただ、逃げようとしていただけだった。そのことに気がついた時、僕は……このまま役所を辞めるべきではないと思いました」

 判るようで、詳細は一切判らない、中途半端な藤堂の釈明だった。

「あの……」

 果歩は胸の中で、言葉に出せない疑問を何度も繰り返した。

 あなたは、いったい、本当は誰のことが好きなんですか? 

 私ですか、それとも香夜さんですか。

 あなたの家は……いったい、何をしている家なんですか。

 なんで家を出て、今、どうして役所にいるんですか。

「あの……」

 なのに、その言葉は、胸の底でわだかまったまま、一欠片も出てこない。

「的場さん?」

 果歩の強張った表情に、藤堂は初めて、訝しげな視線を向けた。彼は果歩のその表情を、自分への非難と不信だと受け取ったようだった。

「……もし、僕の家の事情を聞きたかったら」

「あっ、いえ、それはもう」

 果歩は咄嗟に遮っていた。「聞きたくありません。何も言わなくていいです」無意識に迸った言葉だった。

 そして、同時に気がついていた。

 眠っている彼の頬に触れた時、わずかに指をかすめた髭の感触。

 大好きだった―― あの人の……。

 そうだ――

「……私……」

 果歩はようやく、自分が藤堂から逃げていた、本当の理由に気がついていた。

 この人は、真鍋さんに似ているんだ。

 置かれている立場に、彼の背後に見え隠れするものに、あの時と同じ匂いがする。

「あの、……私」

 何年もかけてようやく取り戻した何かが、音を立てて崩れていくような気がした。

 怖い。

 もういやだ。あんな思いをするのは――

(どなた?)

(雄一郎さんなら、今、奥で着替えていますけど)

 過去の一場面と現在が交錯し、果歩は、後ずさっていた。

 晃司の時もそうだった。流奈との二股がどうしても許せなかったわけじゃない。

 ああやって余所からいきなり幸福を奪われることに、たまらない恐怖と嫌悪を感じたのだ。またあの時と同じ思いをすると思ったから、だから。   

「ごめんなさい。もう、帰ります」

「的場さん」

 背後から声がした。

「僕らは、今のままではいけませんか」

 今―― 今って、何?

「僕は」

 藤堂が、気持ちを懸命に振り絞っているのが、果歩には判った。

「僕はまだ、諦めたくないんです」

「…………」

 ――何を……?

「来年の春まで、僕に時間をくれませんか。いや、僕らに時間をくれませんか。もし……4月になって」

 4月になって。

「僕らの気持ちが変わらなかったら、僕の」

「…………」

「僕の、……本当の恋人になってください」

「…………」

 どういう意味?

 なんで4月なの?

 4月になったら、私とあなたの、何かが違ってくるというの……?

 よくわからない。なんでそれを決めるのが私なの? 藤堂さんじゃなくて……。

「……ごめんなさい。……あの、藤堂さんの問題じゃなくて、今は私の問題なんです」

 果歩は後ずさっていた。

「よく……考えてみます。……話してくださって、ありがとうございました」

 藤堂さんにも、見えない壁があるように、私自身も大きな壁を抱えている。

 リスクのある恋愛なんてしたくない。

 失うかもしれない恋には、もう、しがみつきたくない。

 どうしよう。最低だ。こんな根源的なことに、今になって気づくなんて。――


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