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年下の上司  作者: 石田累
87/202

story8 November① それでも僕はやってない?(4)


「藤堂さん」

 執務室を出て行こうとする藤堂に、果歩はエレベーターホールで追いついた。午後8時少し前。藤堂はまだ残るつもりらしい。

「どうしました」

 驚いたように振り返った藤堂は、少し疲れた目をしていた。それはそうだ。今夜で3日目……彼は、ほとんど眠らずに働いている。

 果歩は、すぐに言葉がでてこなかった。喉に何かがひっかかっている。それは飛び出した途端に、自分の何かをずたずたに壊してしまいそうだった。

「あ……、――あのですね、昼間のことは誤解なんです。香夜さんにはああいう、いたずら好きというか、そんな悪い癖があって」

 果歩の沈黙を、藤堂は違う風にとったらしかった。

「違うんです」

 果歩は遮っていた。そんなこと、今はもうどうでもいい。

「あの……大河内主査は、どうして急に容疑を認められたんですか」

 口に出した途端、全身が震えだしそうになっていた。

「その辺りの経緯は、まだよく判らないんですよ」

 藤堂は、逆に少しほっとしたようだった。

「僕らの耳に入ったのも、記者クラブを通じてですから。こんな言い方をしたら……」

 ふと何かに気がついたように、藤堂はちらりと執務室の方を見た。

「少しは時間がありますから、どこかで話しますか」

「……いいんですか」

「いいですよ」

 藤堂が歩きだす。その時になって、果歩はようやく、藤堂の袖を強く握りしめていることに気がついた。

「何かありましたか」

 暗いロビーで、藤堂が少し身を寄せてくる。果歩はすがるようにその腕につかまっていた。「ごめんなさい……少し……動揺していて」

「構わないですよ」藤堂の声は優しかった。

「確かに主査のことは、僕にもショックでしたから」

 エレベーターで16階まで上がると、非常灯だけがついた休憩スペースで、二人は椅子ひとつ分の距離だけを開けて座った。

「主査が、実際に罪を犯したかどうかは、……それは正直言えば当事者以外、誰にも判らないことだと思います」

 果歩が黙っているので、藤堂が口火を切った。

「痴漢事件の裁判で、容疑者が勝つ見込みは極めて薄いですからね。……示談のためにやってもいない罪を認めたとしても、主査を責めることはできないと思います。が、言い方は厳しいですが、示談が成立した瞬間、主査はその行為を実際にしたと――市は、その前提で、今後の処分を決めていかなければならないんです」

 果歩は黙って聞いていた。どうしてそこまで想像することができなかったんだろう。

「だからこそ、次長はあんな言い方しかできなかったんです。冷たいようですが、僕らは公務員です。常に中立の立場で、物事を論じなければならない。それが身内なら、なおさらですからね」

「いえ……次長の言うとおりだと思いました」

 果歩は、何度も唾を飲み込んだ。

「あの……藤堂さん、大河内さんの奥さんの話、覚えてますか」

「ああ―― 。そう言えば、調べ物を頼まれていましたね」

 藤堂の表情もわずかに陰った。

「実のところ、ああいった予備判断を、あの時点で容疑者家族に与えるのは、フェアではないと思っていました。示談をするか否かの判断材料にされるのでしょうが、大河内主査の意向を無視して、家族や弁護士がそっちの方向で進めるのもどうかと思いましたしね」

 果歩は自分の指を、白くなるほど強く握りしめていた。

「……まぁ、次長のおっしゃる通り、過去のデータなど、懲戒免の決定にあたっては、なんの参考にもならないのですが」

 あの……。

 果歩は何度も、喉に出かけた言葉を飲み込んだ。

 そんなことさえ、自分には思いもよらなかった。

「じゃあ……過去の懲戒の資料は、最初から出すつもりはなかったんですか」

「いえ、時期を見計らって説明に伺おうとは思っていましたよ」

 何も知らない藤堂は、あっさりと答えて苦笑した。

「あまり期待させるようなデータは出せないなと思っていましたが……結局は、必要なくなりましたね」

 果歩はうつむいて、ただ唇を噛みしめた。

 あの時、何故私は、藤堂さんの判断を待てなかったのだろう。

 大河内主査の奥さまが切迫しておられたようだから―― いや、違う。私はどこかで年下のこの人の判断を見くびっていたのだ。あるいは、昼間にいきなり訪れた香夜さんの存在に、どこかで冷静な判断力を失っていたのかもしれない。

「実は何度か奥さんの携帯に電話したんですが、繋がらないので、今夜にもご自宅を訪ねてみるつもりだったんです。ご事情をお聞きしたいというのもありますが、新聞社が動いていることを、お耳に入れておかないと」

 実名報道。

「なんらかのフォローをしないと、大河内さんのご家族も辛いでしょうからね」

「…………」

 果歩には、まだ信じられなかった。事件後、あんなに小さく扱われただけだった事件が、本当に――本当に、そこまでされてしまうのだろうか。

「大河内主査には、高校受験を控えたお子さんと、まだ小学生のお嬢さんがいるんです」

 果歩は、呟いていた。

「そんな……父親の名前が、新聞に出るようなことになったら、お子さんたちは、どうなってしまうんでしょう」

 藤堂が何か言う前に、果歩は遮るように続けていた。

「それに、なんだって今さら、地元でもない新聞社が出てくるんでしょう。事件から5日もたってるのに、どうして」

「それは……なんらかのリークが、被害者側からあったのかもしれませんが……」

 藤堂は、迷うように言葉を切った。

「ただ、少なくとも自白した以上、実名がどこかで出ることは、主査も覚悟しておられたと思いますよ」

「本当に、そんな覚悟があったんでしょうか?」

「…………」

 藤堂が、はじめて何かに気づいたように顔をあげた。「……どうしました」

「私……」

「もしかして、大河内主査の奥さんと、何か話をされましたか」

「…………」

 藤堂が近づいてくる。果歩はその胸に手ですがっていた。

「私……以前、……今思えばすごくしょうもないことで……」

 指先が震えている。その手を、藤堂が上から包み込んだ。

「すごく……どうでもいいことで……役所をクビになりそうになったんです。……なんで判らなかったんだろう。来年は市長選ですよね。あの市長が、こんな時期に、世間が騒ぐ事件を放っておくはずがないんです」

 どうしてすぐに、気づくことができなかったんだろう。

 過去のデータに気を取られすぎていた。大河内夫人に過去の例を教えてくれと言われた時、藤堂は、すぐには出せないと慎重に答えた。むろん、彼が漏らしたような理由もあるだろう。

 が、今は市長選直前で、普通の時以上に市全体が緊張をはらんでいる。再選を目指す市長は、市民感情を逆なでしそうな事件を、決して放ってはおかないだろう。

 それは―― 果歩が、即座に気づいてあげるべきだったのだ。

「……もし、大河内主査が免職になったら」

「的場さん」

 藤堂が周囲を見回して、それから果歩の肩を抱き寄せてくれた。「だとしても、あなたのせいじゃないですよ」

「わ、私のせいなんです。私が大丈夫って言っちゃったんです」

 動揺を抑えられないまま、果歩は藤堂にすがっていた。

「絶対に免職にならないから――そう言っちゃったんです。その時は、ただ安心させてあげたかったから。――でも、後で気づきました。奥さん、主査に示談させたがってたんです。裁判を嫌がってたから、だから」

「……落ち着いて……」

 次長室を出てそれと気づいた時、果歩は全身の血が引いていた。

 すぐに大河内夫人に電話を入れたが、ずっと不通のまま、連絡が取れる状態ではないようだった。

 夫人も子供2人も、主査の扶養親族だ。他に一家の担い手はいない。家のローンがあることも知っている。私が、もっとよく調べていたら。もっと慎重に言葉を選んで説明していたら。

「藤堂さん、今から主査の家に行かれるんですか」

 果歩は顔をあげて、藤堂を見上げた。

 まだ間に合うかもしれない。人事委員の決定が降りるまで免職は正式に決まらない。それまでに大河内が自白を取り消して、裁判で争う方針に切り替えたら。

「私もいきます。説明もしたいんです。一緒に 行かせてください」

「次長と行くことになっているんですよ」

 子供をあやすように藤堂は言った。「的場さんがついてくる必要はありません。窓口は僕ですから」

「でも、」

 無責任に主査を庇うべきではない。無実である可能性と同様に、実際に罪を犯した可能性だってあるのだ。でも――。

「私……それでも……どうしても、主査がやったとは思えないんです」

 震える声で、果歩は続けた。

「私、主査をよく知っています。……知っているっていうほど知らないかもしれないけど、……本当に罪を犯したなら、5日間も意地を張れるような人じゃないような気がするんです。……その、仕事にしたって、要領よく誤魔化すとか、そんなこと絶対にできない人じゃないですか」

 むしろ不器用で、やらなくていいことまで、丁寧に仕上げる人である。

 藤堂は黙っている。

「奥さんに、説得されたんじゃないかと思うんです。もしそうだとしたら、早く誤解を解いてあげないと」

「的場さん」

 ややあって、彼は言った。

 少し冷たい声だった。

「気持ちは判りますが、それでも最後に決めたのは主査なんですよ」

「でも―― 」

「人事も、最終的には本人に事情を聞き取ると思います。その時点で大河内さんが何をどう話すかまで、あなたの責任ではないでしょう」

「でも」果歩は食い下がった。「ああいうことって、一度でも認めてしまうと、後がすごく不利になるんじゃないですか。実際にやってなくても、一度でも認めちゃったら」

「的場さん、少し」

「それに、弁護士と奥さんが示談を決めてたらどうするんですか。後から主査が何を言ったって、誰も聞く耳もたないじゃないですか!」

「――お願いですから、少し冷静になってもらえませんか」

 初めて藤堂の口調に苛立ちが滲んだ。

 果歩は、はっとして、興奮しすぎた自分の声の大きさに気が付いている。

「もし、あなたのお話が本当で、それによって大河内夫人が示談を内々でまとめたなら」

 藤堂は、果歩の肩を抱いて自分から引き離した。

「僕らの説明を聞いて、夫人は、相当感情的になるでしょう。そんな状態になると判っていて、当事者のあなたをつれてはいけませんよ」

「私を、庇っているのなら」

 果歩は、唇を震わせて藤堂を見上げた。「今度ばかりは、そんな風に庇ってほしくないんです」

「僕に、そんな余裕があると思いますか」

 思いがけない厳しい声に、果歩は思わず身をすくめていた。

「懲戒免職になれば、大河内家は、収入源を一切断たれるんです。いわば生き死にがかかっている。僕は今から、その説明をあの一家にしなければならないんです」

「…………」

「――あなたを庇う余裕なんて、申し訳ないですが、今の僕には一欠片もありません」

「…………」

 果歩はうつむいて、唇を震わせた。

 確かに自分は、この土壇場で藤堂を頼っていた。失策に気づいたのに、すぐには誰にも相談せず、藤堂と2人になれる機会を待っていた。

 彼ならなぐさめて、そしてなんとか力を貸してくれると、そんな甘えたことを考えていたから……。

「的場さん、市が大河内さんの首を切る以上、今度は市が、大河内さんから訴えられる可能性だってあるんです」

 淡々と藤堂は続けた。

「これからの話し合いは、慎重に言葉を選び、あらゆる事態に冷静に対処していく必要があります。こう言えばいいですか。ここから先は、ある意味リストラ交渉と同じなんです。そして、あなたを連れていけば、交渉は市にとって不利になります」

 交渉……?

 リストラって、どういうこと?

 果歩は、信じられない気持のまま、藤堂を見上げた。

「それは……あとあと、大河内さんと揉め事を起こさないように、上手く説得しなきゃいけないって、そういう意味ですか」

「少なくとも、示談決定に市の意向があったという誤解をさせてはいけないという意味です」

「…………」

「そういう主張を、向こうにさせてはいけないという意味です」

 藤堂の言う意味は、頭では理解できた。

 でも、――やはり果歩には信じられなかった。見知らぬ他人の話ではない。大河内は同僚なのだ。つい先月まで一緒に席を並べ、今年、様々な苦楽を共にしてきた仲間なのに。

「もう決まったんですか」果歩は、顔をあげて、睨むように藤堂を見つめた。

「免職になるって、もう半ば決まっているみたいな言い方をされましたよね」

「もちろん、まだです。しかし、今はその前提で話をする必要があります」

「……冷たいんですね」

 藤堂の手が、肩から離れた。

「それは僕が、大河内さんとのつきあいが浅いからでしょうね」

「…………」

「的場さんたちとは違うんです。だからこそ、適任とも言えます」

 果歩はただ、茫然としていた。藤堂とは、そんな人だったのだろうか。確かにつきあいは浅い。が、曲がりなりにも――半年以上も一緒に仕事をしてきた仲間なのに。

 なんでだろう、どうしてそんな、冷たいことが言えるんだろう。

「主査は……藤堂さんのことを、褒めていたんですよ」

 不意に、涙が零れそうになった。

「奥さんが言っておられました。4月からずっと褒めていたって。……なのに、藤堂さんは、そんな冷めた見方しかしていらっしゃらなかったんですね」

 藤堂はそれには答えず、静かな所作で立ち上がった。

「大河内夫人への失言は、僕が春日さんに報告しておきます。全てこちらで対処します」

 果歩は、なんとも言えない悔しさをこめて、藤堂を見上げた。

「ミスした私には、口を出すなと言いたいんですか」

「そう取ってもらって結構です」

 慇懃だが、冷たく言って藤堂は果歩を見下ろした。

「申し訳ないですが、今後、的場さんはいっさい、この件に口を出さないでください。今の話も誰にもしてはいけません。僕の指示にだけ従ってください」

 なに……それ。

「命令ですか」

「その通りです」

 事務的に答え、藤堂は腕時計を見た。

「すみません、約束の時間が来たようです。あなたは―― 気をつけて帰ってください」


 *************************

  

「このたびは、当市職員の不正な行為により、市民の皆様の信頼を著しく損ねてしまったことを、心よりお詫びいたします」

 フラッシュの中、深々と頭を下げている3人の男性職員。

 画面はそこで切り替わった。スタジオ―― 番組のメインキャスター、鋭い切り口で有名な、女性アナウンサーのバストアップになる。

「灰谷市都市計画局総務課主査、大河内清隆容疑者は、一日の夜八時頃、大橋駅高架下で女子高生に抱きつき、局部に触る等のわいせつな行為を働いたとのことです。灰谷県警の発表によりますと、大河内容疑者は、当夜行われた忘年会の帰りで、酔っていて魔がさした。大変申し訳ないことをした、と、容疑を全面的に認めている模様です」

「しかし、官庁は気が早いですね、この時期に忘年会ですか」

 添え物のような、若い男性アナが、苦笑まじりにコメントを挟んだ。

「民間企業が不景気の折、繁華街で顔をきかせているのは官庁だけ、という話もありますからね。当夜、大河内容疑者が参加した忘年会会場も、市内屈指の高級料亭だったそうですよ」

 きりっとした男まさりの美貌が女性にも受けている女子アナは、そう言って画面を鋭く見据えた。

「サラリーマンが懸命にリストラと闘っているこの時代、公務員は、給与を税金で賄われているという意識があまりに乏しいのではないでしょうか。全くもって呆れた事件だというほかありません。では次のニュースです」

 画面は、そこでプツリと切れた。

「と、まぁ、これが5日、火曜の午後10時、エフテレビ系の全国ニュースで流された映像です」

 部屋の照明が明るくなる。

 まず春日要一郎が、軽く息をついて、顔をあげた。

「知っている。何度も見た」

 さすがの春日もこの件にはこたえているのか、ひどく自嘲気味な口調になっている。

「なにしろ、テレビに私自身が映っているのだからね」

 10階。人事課内部の会議室。

 ずらりと居並んでいるのは、総務局長の藤家広兼、常永次長、勅使河原部長。人事担当課長の安平。都市計画局からは、次長の春日、課長の志摩、庶務係長の藤堂が出席している。

 ――この席に、那賀さんをパスさせたのは正解だな。

 春日の隣席に控えた志摩は、ざっと出席者の面々を見回してそう思った。

 なにしろ、那賀は、ある意味市長部局全体の嫌われ者だ。

 特段の功績も学歴もないのに、気づけばとんとんと出世して、50すぎたばかりで局次長の座を射止めた。縁故、能無し、昼行燈と陰口を叩かれているが、出世コースとすれば最短に位置する。

 そこに、なんらかの人事上のからくり―― 裏工作があることは、誰でも容易に察しがつくのだが、不思議なことに役所の裏事情に精通しているはずの志摩でさえ、その本当のところは掴めない。那賀を縁故で推していると評判だった社労党の大物議員は、昨年落選。 本来なら、そこで局長の座から追われても不思議ではないのに、いまだ局のトップとして生き残っている。

 その不穏な経歴に加え、どう見ても他人を馬鹿にしているとしか思えないひょうひょうたる人柄―― まさに馬耳東風。だから那賀は、局長級全員の総スカンをくらっているのだ。

 ――とはいえ、表に立つ春日さんも、今回ばかりはたまらんだろうな。

 そこは、大いに同情を禁じ得ない志摩である。

 春日要一郎は同期入庁組の中ではエース級だ。財政、総務、人事畑を歩き、一度も本庁舎から外に出たことがない。まさにエリート中のエリート。

 その春日の唯一の躓きが、都市計画局に飛ばされ、よりにもよって問題児那賀の下につく羽目になったことだと言われている。

 そのことにより、同期のライバルに大きな水を開けられた―― その相手が、今、この席に座る総務局長、藤家広兼なのである。 

 藤家広兼は、総務局の局長であり、役所内では白髪鬼と呼ばれる強面の男だ。

 春日とは、全くそりが合わないらしく、2人の不仲は庁内ではもはや定説になっている。

「想像はつくと思いますが」

 軽い咳払いをして、人事課長の安平が口を開いた。

「この件に関し、市長は非常に立腹しておりまして、……まず、何故このような世間から外れた時期に、忘年会など企画したのか」

「当課の事情だ」殆ど投げやりに春日は答えた。「忘年会を何時までにしろと、そういう内部規定でもあったかね」

「世間の常識から外れていることが、問題なんですよ。春日次長」

 のんびりと、勅使河原部長が口を挟んだ。見かけは象のように緩慢な男だが、人事部はこの男の手腕で持っているとも言われている。

 安平課長が、大慌てで言葉を継いだ。

「おそれいりますが、どのような事情であの日に決定されたのか、具体的かつ合理的な理由を踏まえた答弁書をご提出ください」

 傍で聞く志摩も、さすがに鼻白んでいる。

 合理的な理由などあるものか、ここで那賀局長の海外旅行などと書いたら、火に油というやつだろう。

「かまわんよ。市長がそれを出せというなら」

 春日は憮然として眉をしかめる。「何故、公務員に似つかわしくないあのような高級店を選んだのか、それも理由を釈明したほうがいいかのね」

「お願いします」

 春日の皮肉に、安平は滑稽なほど大まじめに頷いた。

 全くもって馬鹿馬鹿しい。それは志摩も同感だし、おそらくこの場に座る全員が、内心ではそう思っている。

 が、――そうであっても、いたしかたない。 あんなタイミングで不祥事事件を起こしてしまったのだから。

 全国紙大手どころか、全国ネットのテレビ局まで、こぞって一政令市の事件を報道したのは、同週の火曜日、総務省の事務次官が、女子高生への盗撮容疑で逮捕されたからだった。公務員を叩けば視聴率があがるという方程式のもと、同じ週に起きた事件が、本省霞が関の官僚と同じレベルで流されたのである。

 運が悪かった―― そう括るしかない。

 が、別の見方もあると、志摩は内心思っている。なにしろ来年は市長選だ。様々な陰謀や画策がすでに水面下で進んでいる。このリークも、その一環だとしたら?

「局長以下、三役の処分は、この答弁を持って決定になると思います」

 淡々とした安平の声が、志摩を現実に引き戻した。

「なにしろ、公務員倫理を指導する立場の局総で、このような事件を起こす職員が出たのですから……責任は、なんらかの形で下されるとお覚悟ください」

 春日は無言だったが、志摩は内心重いため息をついていた。これで、俺も春日さんも、3年は昇格できないだろう。―― 俺はまだいいが、春日さんには致命的だな。

 が、さらに致命的――実際、命がかかっているといっても過言ではないのが、いまだ足代署に留置されている大河内だった。

 強制わいせつ罪に触れたものが、即免職になるとは限らないし、過去を紐とけば減給、停職で済まされたケースもあるだろう。示談ともなれば、訓戒だけで済むこともある。が、 今回は、十中八九懲戒免だ。

 この市長選を控えたデリケートな時期、大手新聞社が動いているという時点で、志摩はそれを確信していた。

 公務員の信頼を著しく失墜させた―― それが表向き懲戒免の基準だが、大河内主査は、総務課どころか灰谷市全体のイメージを、全国的に貶めてくれたことになる。

 気の毒に、間の悪さが重なったな。

 奥さんが懸命に示談をまとめたらしいが、まさかこれだけの騒ぎになるとは、予想してもいなかったのだろう。

 ――小学生と中学生の子供がいたか……。

 なんとも胸が痛い気がするが、こればかりは、志摩にも、おそらく春日にも那賀にもどうにもならない。

 なにしろ、来年は、大きな革命が起こる可能性がある。

 自分たちの首こそ、危ないのかもしれないのだ。 


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