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年下の上司  作者: 石田累
86/202

story8 November① それでも僕はやってない?(3)

「じゃ、資料は全部Eメールで送ってるから」

 さすが、りょうの仕事は速かった。翌日の昼前には、詳細なレポートが果歩のメールボックスに届けられた。

「でも注意してね。役所のマル秘だから、基本、内容は公文書公開請求がなきゃ見せられないってこと忘れないで。傾向だけなら掴めると思うけど、過去は過去、大河内さんのケースは人事委員会が決定することだからね」

「うん、わかってる。ありがとう」

 幸い、大河内主査の騒動は、昨日の地元新聞とローカルニュースで若干紹介されただけの騒ぎで終わりつつある。

 課名までは公表されたため、昨日から今日にかけて苦情電話が数件あった。が、それも今はぷっつりと途絶えている。

 一人欠けた総務課は、南原や藤堂が仕事の穴埋めに追われているが、他の課には早くも通常の雰囲気が戻りつつある。

 今頃になって、果歩は、昨日激昂していた夫人の憤りが判るような気がしていた。

 どれだけ親身になって考えたところで、しょせん、私たちには他人事なんだ。今、一番大変なのは、やはり大河内さん自身と、そしてご家族だろう。

 ――なんとかして、支えになってあげたいな。

 昨夜は、自室のパソコンで、冤罪事件についても調べてみた。

 全てがそうとは言わないが、示談金や報復目的での痴漢でっちあげ事件は、確かに存在しているらしい。

 満員電車で「触られました」と言われれば、男に逃げる術はないらしい。

 鉄道警察につれていかれて、そこで調書を取られて、あとは有罪になるしかないと 。いくら否定しても、警察は被害者の証言に重きを置き、よほどのことがない限り、加害者の無実を証明するのは難しいのだと言う。

 被害者ネットワークなるものを閲覧すると、犯行を否定すれば、認めるまで解放されない、との書き込みもあった。中には1年近く拘留されたケースもあり、当然会社はクビ、家族もばらばら。たとえ裁判で無実を勝ち得たとしても、失うものがあまりに大きすぎるのだという。

 痴漢行為の立証なんて、せめて誰かが目撃してるとか、現行犯逮捕じゃないとダメなんじゃないの?――と思っていた果歩には驚きの連続だった。

 確かに、ネットに書いてあることが本当ならひどすぎる。自分が男だったら、怖くて満員電車なんて乗れやしない。

 が、最近の動向には、少なからず救いが読み取れた。痴漢冤罪が公の形で認知されはじめてからは、企業も、否認している容疑者を即解雇しない傾向にあるらしい。中には、裁判を経て二年以上たって公務に復職した人もいた。その間の生活支援が問題になるが、企業や官公庁では、募金や支援金を募って容疑者を支えていくケースもあるという。

「さてと、うちの事例はどうかしら」

 果歩は、メールの添付文書を開いてみた。

「……へぇ……」

 収賄、汚職、横領――この辺りは漏れなく懲戒免職になっている。おそらく管理職の倫理研修用の資料か何かだろう。課名と氏名は伏せられているが、歴代の免職事例が、比較的詳細にずらずらと並んでいる。

 窃盗……うわ、市の職員で窃盗? しかも5件も? 万引きとかって……ちょっとあり得ないでしょ。いい年した大人が。この事例も漏れなく免職。

 飲酒運転で、一件免職。これは……現在、無効を争って係争中とある。よその都市でも、確かそんな裁判があったと聞いたから、罪に比べて罰が厳しすぎると問題になっているのかもしれない。

 が、意外と厳しい……と思ったのはそこまでで、残る事例では、懲戒免職は殆ど見られなかった。

 暴行、脅迫で、減給、停職。事情にもよるのだろうが、万引きで免職で、暴行で停職とは、少しばかりバランスに欠けているような気もしないではない。

 果歩が驚いたのは、婦女暴行罪で停職で済んだ事例である。10年ほど前のケースだが、どんな理由があったにせよ、それを停職で済ませること自体が感覚として信じられない。若年者による初犯で相手方との示談も済み、本人もいたく反省している。との記述が添えられていた。――なるほど、これなら大河内主査も免職まではいかないだろう。

 ざっとその他の事例を見ても、迷惑防止条例違反や準強制わいせつ罪――つまるところ痴漢行為で、免職まで問われたケースはひとつもなかった。たいていが相手方と示談が交わされ、前科までに至っていない。

 ――痴漢は親告罪じゃないけど、被害者の親告がないと殆どが裁判にならないって書いてあったな。ってことは、罪を認めて示談さえしちゃえば公務をクビになる心配はないってことか。

 果歩はそう結論づけた。

 もちろん、その後の昇進は絶望的だろうが。

 ちらっと藤堂の席を見る。藤堂は朝からずっと資料作成に追われている。

彼がこの2日、ほとんど自宅に戻っていないことを、果歩はよく知っていた。

 ――今夜……差し入れ持ってってあげようかな。

 ふと、そんなことを思っている。そういえばもう直お昼だ。最近はコンビニに寄る間もないだろう。よかったら、何か買ってきてあげようか……。

 折しも昼のチャイムが鳴ったので、果歩は立ち上がっていた。「あの、藤堂さん」

「的場さん!」

 華やかな声が、果歩の声を上書きした。鈴を転がしたような愛らしい声である。

 果歩は驚いて振り返った。

「わあっ、よかった。思い切っておたずねして。誰も知った顔がないので、どうしようかと思いました」

 黒く潤んだ、子犬みたいに可愛い目。信頼し、甘え切った笑顔が果歩を見上げている。

 一瞬、誰? と思った果歩は、次の瞬間、さっと笑顔が強張るのを感じていた。

 白いニットと重ねた薄紫の花柄ワンピース。すらっとのびた足はタイツに包まれ、靴は可愛らしいショートブーツ。髪はひとつに束ね、ワンピと同色のシュシュが、彼女の愛らしさを引き立てている。

「瑛士さんに、お昼をお持ちしたんです」

 悪びれずに、(ただし、ものすごくよく通る声で)香夜は言った。

「瑛士さんたら、昨日も一昨日も家に帰ってこなかったんですよ。あのよく食べる人がどうしているのかと思ったら、もう心配で心配で」

 果歩はなんと言っていいのか判らなかった。背後では、おそらく全員が――多分隣の課あたりまでが、見慣れない女の登場に注視している。

「ちょ……ちょ、失礼します」

 果歩の背後から、完全に動揺して困惑しきった声がした。声の主は――振り返るまでも、説明するまでもない。

「うそ、瑛士さん?」

 まさか、本人が目の前にいるとは知らなかったのか、両手を口にあてた香夜の顔が、みるみる赤く染まっていった。

「やだ、私、どうしましょう、こんな大声で……恥ずかしい」

 ものすごく可愛らしいと、果歩は内心思っていた。

「いや、もういいですから、こちらへ」

 片や藤堂は、完全に横顔に怒りみたいなものを浮かべている。

 それも――果歩には意外というか、ショックだった。流奈もこういった突撃はよく仕掛けてきた。その時の藤堂はどうだったろう。困惑してはいたが、怒りを感じさせる態度は絶対に見せなかったはずだ。

 やっぱり、この人は特別なんだ……。

 逆説的だが、そう思わずにはいられない。いってみれば、彼が被った仮面をナチュラルに引っ剥がせる、唯一の人。

「あの、でも私、職場の人たちにご挨拶しないと」

 が、その怒りさえごく軽やかににスルーして、香夜は総務課に向きなおった。急いで藤堂が口を挟もうとしたようだが、香夜のほうが早かった。

「はじめまして、私、瑛士さんと婚約しております。松平香夜まつだいら かぐやと申します」

 果歩はあっけにとられていた。なんていうか――すごい。

 背後の空気は、もう完全に凍りついている。

「――あのですね」

 藤堂が口を開いた途端、南原が口をぽかんと開けたままで言った。

「てか、一緒に住んでるんスか?」

「え、やだ……それは――どうしましょう、瑛士さん、皆さんに知られてしまいましたわ!」

 真っ赤になってうつむく香夜の可愛らしさと、この緊迫した状況で呑気に婚約者を連れてきた(と、多分皆に思われている)藤堂への蔑みというか呆れ果てた空気で、課内は完全に動きが停止している状態だ。

「あので」

 再び、藤堂が口を挟もうとした時だった。

「いつも瑛士さんがお世話になっております。ご挨拶が遅れて大変申し訳ありません。これ、つまらないものですけど、皆さんで」

 すかさず言葉を繋ぐ香夜の鮮やかさに、果歩はもう、声もない。

 にっこり笑った香夜は、邪気のない笑顔のまま、高級スィーツ店の手下げ袋を差し出した。果歩に。

 果歩は――受け取るしかなかった。この瞬間、自分が恋の脇役になったことを自覚しながら。

「すみません、事情は後で説明しますので」口早に言って香夜の腕を引いた藤堂は、もう、完全に諦めを滲ませている。

「俺らはいいよ。するなら的場」

「いってらっしゃい!!」

 何故南原にそんなフォローを入れてもらわなければならないのか。果歩は大慌てで声を張り上げていた。

「係長、昼くらいゆっくり休んできてください。せっかく婚約者がおいでくださったんだし、ね」

 大丈夫……笑えてる。笑えてる。強張ってないよね、私の笑顔。

 これくらいは我慢できる――そう決めたから、彼に役所に残ってほしいと言ったんだ。

 しかもここ数日、彼を避け続けていたのは私なのだ。彼が抱えている事情から、一切耳を閉ざすようにして。

 が、香夜は機敏にも、何かの空気を察してしまったようだった。

「あの……なにか、大変な時に来てしまったんですか、私」

「あんた、ニュースみてないの?」

 もともと美女に横柄な南原が、呆れたように口を開いた。

「あんたの婚約者の部下が、先週逮捕されたんだよ。今うちは、その対応でてんてこまいなの。そんくらいも聞いてないの?」

「まぁ……」さっと表情を曇らす香夜は、不安そうに藤堂を見上げた。

「本当ですか、瑛士さん」

「東京で暮らすあなたには、こちらのことは判らなくて当然なんですよ」

 それが、藤堂が放てた唯一の、そしてささやかな言い訳であり反撃のようだった。

 ああ、そうか。もともと香夜さんは東京の人なんだ。それがこちらに来ている……滞在している……じゃあ、藤堂さんの部屋に?

 ある程度覚悟はしていても、想像しただけで、胸の中に何かがめらめらと舞い上がるようだった。

 ――藤堂さん、それ、全くフォローになってないです。

「失礼します。すぐに戻りますので」

 今や、完全に女たらしの烙印を押された年下の上司は、まさに大慌てで、香夜の手を引いて執務室から出て行った。

 

 *************************

                

「にしても、可愛い人でしたねぇ、美人というのとは少し違うけど」

 水原がふと口にしたのは、果歩が特段気にする風でもなくケーキを切り分け、平然と昼の弁当を食べていたからかもしれない。

「確かに、不思議な魅力のある子だったなぁ。無邪気で幼い淑女のような、それでいて妖艶で、大人びた娼婦のような」

 谷本主幹の文学的な感想には思わず吹き出しそうになっていた。

 妖艶? 娼婦?? いったいどこが。可愛くてちっこくて、清純派の代表みたいなキャラなのに。

「というより、本当に婚約してんなら、なんだか須藤さんが気の毒じゃない? あれだけ公然とアタックしてたのに」

 須藤流奈びいきの新家主査が、非難たっぷりに呟いた。「婚約者のこと、的場さんは前から知ってたの?」

 その須藤さんのほうが、私よりよく知ってるんですよ。実は。

 と言いたいのをぎりぎり押さえ、果歩は「いえ、私は何も」と簡単に答えた。

「事情はどうあれ、あれは結婚まで持ってかれるね」

 やや呆れ気味に口を挟んだのは南原だった。

「知らなかったよ。藤堂みたいな掴みどころのない奴の首にも、縄をつけられる女がいたんだな」

「な、縄っすか」

「おうよ。見えなかったか? 藤堂の首にゃ、透明な縄がもうぐるぐる巻きに巻かれてあって、で、その先を引っ張ってんのがあの女だ。藤堂は多少なりとも抵抗したいようだったけど、あがけばあがくほど、縄はきゅうきゅうに締まるって寸法だよ」

「……なんだか、自分も経験があったみたいな言い方ですねぇ」

「ああいう女はやっかいなんだよ。匂いで判る」

 彼女なんていたためしがないくせに、何をえらそうなことを言ってるんだろう。

 これ以上、この話題に加わるのが嫌で席を立とうとした時だった。卓上の携帯電話が数度震える。果歩は急いで携帯を取り上げた。――見知らぬ番号。 でも、どこかで見た覚えがある。

「……もしもし?」

「的場さん? 私よ」

 ――私?

「大河内の妻です。携帯なんかに電話してごめんなさいね。でも私、どうしてもあの若い男と話したくなかったものだから」

 大河内主査の奥さん    。

 果歩は慌てて、携帯を持ち直した。「どうなさったんですか。どうして私の携帯の番号を」

 そうか、番号に見覚えがあったはずだ。大河内の妻の携帯番号なら、連絡先として、果歩もメモをもらっている。

「主人が持ってた緊急連絡簿から調べたの。今、お話いいかしら。例の件、とても急いでいるんだけど、調べてもらえた?」

 ひどく苛立った声だった。

 果歩は、少し困惑して、席空けの係長席を見た。どうしよう、私が対応してもいいのだろうか。

「あの、藤堂は今席を」

「あなたね、さっきの私の話聞いてたの? 女のあなたなら判ると思ってた……あの男と話したくないのよ、私」

 早口の声は、やや涙まじりのようにも聞こえた。果歩は緊張しつつ、席を立って、空室になっている次長室に入った。

「藤堂が、何か気に障ることを言ったでしょうか」

 女の地雷ポイントが判らなくては、果歩とて安心して話はできない。

「そうじゃないのよ……私にここまで言わせないで。判るでしょう。主人より10以上も年下なのよ? そんな男が上司なんて……辛いじゃない、なんとも惨めで情けなくなるじゃない」

「…………」

「しかも、主人ときたら、そんな男を4月以来ベタ褒めなんだから。いったいどんな優れた上司かと思ったら、26歳だなんて……あんな子供に、うちの人が馬鹿みたいにへーこらしてたと思ったら」

 4月からベタ褒め……。

 果歩は、意外なところで胸を打たれていた。

 知らなかった。そんな素振りさえ見せなかったから。……大河内主査が、藤堂さんのことをそんな風に思ってくれていたなんて。

「とにかく、私は過去のデータが知りたいだけなの。調べてくれたんでしょう。急いでるのよ。起訴されるまで、あまり時間がないんだから」

 どういう意味だろう……。

 少し迷ったが、データの内容程度なら、伝えても構わないと思われた。

「わいせつ罪や県の迷惑防止条例違反……いわゆる痴漢などの事件では、示談となったケースで、懲戒免になった事例はありませんでした」

「本当なの? 間違いないのね?」

「ええ、間違いはないです。ただ、停職と減給については、その判断材料がはっきりしなくて」

 ケースごとに差がありすぎて、もっと深く調べてみないと、どうしてこのような懲戒が決定されたのか判らない。

「そんなのどうでもいいわ。免職にさえならなければ。そう、間違いないのね。免職にはならないのね」

 その念の押されように、少しばかり不安になった。

「あの、これはあくまでデータの話ですから」

「でも、ないんでしょ? そうなんでしょ」

 少し迷ってから、果歩は、はいと答えていた。「過去のデータ上は、ですけど」

「そんなの知ってるわよ。わかったわ、ありがとう。免職にならないと判ったらそれでいいの」

 それだけで、一方的に電話は切れた。

 ――なんだろう、……いったい。

 微妙に重たいものを感じながら執務室に戻る。

 藤堂が戻って来たのはその時だった。


 *************************

 

 三役の動きが、妙に慌ただしくなったのは夕方、5時が近くなってからだった。

 局長までも、難しい顔をして、次長と閉じこもりきりで協議している。

 藤堂はずっと席空けで、志摩課長もどこかへ行ったきり戻らない。

「大河内さんのことで、何かあったのかな」

 水原が不安気に呟いた。

「まさか、今さら、何を騒ぐ要素があんだよ」

「だって、……4時前に課長席にあった電話って、帝王新聞でしたから」

 果歩もその話には、身を強張らせていた。それは――地元新聞ではない。全国紙だ。

「よくわからないけど、何か進展があったんじゃないすかね。でなきゃ、局長まで、あんなにピリピリしてないでしょ」

 昼から会議続きだった藤堂に、電話の件を伝えそびれていたことに、果歩はようやく気がついていた。どうしよう。なんだか妙な胸騒ぎが収まらない。いったいあの奥さんは、何をしようとしていたんだろう。

「全員、5時を過ぎても帰らないように」

 戻って来た志摩が短く指示を出し、あとは、全員が待機状態になった。

 藤堂、春日が戻って来たのは6時すぎで、そこでようやく、全員が次長室に集められた。

「結論から言うと、大河内君が、容疑を全面的に認めたそうだ」

 春日がひどく事務的に切り出し、月曜以上の衝撃が、全員を包み込んだ。

 隣では、志摩が無表情で空を見つめ、その隣では藤堂が唇を引き結んで立っている。

「それは……あれですか」南原が、しどろもどろで口を挟んだ。

「裁判で争っても勝ち目がないから……示談で済まそうと、そういう意味で認めたんですか」

「理由までは知らん」

 ひどく冷淡な口調で春日は答えた。「認めた以上は理由など関係なかろう。罪は罪だ」

 でも―― 示談して、相手が告訴を取り下げたら、主査が刑事罰に問われることはないはずだ。果歩もそれを聞きたかったが、とても口を出せる雰囲気ではなかった。

「それはまぁいい。大河内君個人の矜持の問題だ。問題は、どこで嗅ぎつけたか、マスコミがまた騒ぎ出したということだ」

 ――マスコミ……。

 果歩は眉を寄せ、春日は疲れたように嘆息した。

「少なくとも、帝王、朝登、読宮、主要3社が揃って取材を申し入れてきておる。事件から5日もたって、正直、わしにもわけがわからんがね。市長とも協議中だが、おそらく明日、再度記者発表の運びになるだろう」

 もう一度、春日は軽いため息をついた。

「タイミングが悪かったとしか言いようがないが、こうなれば、実名報道になるだろう。容疑を認めた以上、警察も当市も、……人権団体でさえ」

 そこで春日はわずかに苦い笑みを浮かべた。

「大河内君を庇う必要がなくなるからな。少なくともこの課に、大河内君が戻る可能性はなくなったと思ってくれ」

「ちょっ――ちょっと待ってくださいよ」

 ここまで機嫌の悪い春日に、感情のままに口を挟めるのが、南原のすごいところなのかもしれなかった。

「だって、親告罪ですよね? 示談が成立すれば、告訴されないはずですよね? だったら、主査が戻ってくる可能性だって」

「馬鹿者!!」

 春日の裂ぱくの声が、次長室を震わせた。

 さしもの南原も、蒼白になっている。

「知ったかぶりで、何を適当なことを言っておる! 元来、強制わいせつ罪は親告罪ではない。卑怯で最低の犯罪行為だ。いやしくも公の立場の人間なら、間違っても犯罪者を擁護するような言葉を口にするな!」

 果歩の胸にも、その声は楔の鋭さで落ちてきた。

 頭ではそれは判っている。――でも自分は、身内可愛さに、罪を軽く考えすぎてはいなかったろうか。懲戒になるかならないか、起訴されるかされないか、 まるで、何かのゲームのように。

「いいか、よく肝に銘じておけ。公務員を取り巻く世間の風はここ数年で急激に変化している。昔ならこの程度は許された、慣例として誰でもやっている、――そんな理屈がまかり通る時代ではなくなったんだ。志摩!」

 いきなり名を呼ばれた志摩課長が姿勢をただした。「はい」

「倫理研修指導者として、言ってみろ。公務員の懲罰とは何を基準にして決定されるのか」

「世間の常識が第一基準です」

「その通りだ」

 春日の鋭い眼差しが、居並ぶ全員をねめつけた。

「いいか、世間の感覚はここ数年で劇的に変化している。これからも変化し続けるということを常に念頭に置いておけ! 今の時代、痴漢のような破廉恥な行為を世間が許すと思うのか! そのような犯罪者に、税金を投じて多額の給与を払うことに、いったいどんなお人よしの納税者が賛成してくれると思うのか!」

 南原はうなだれ、その場に立つ誰もが、―― 果歩を含め、自身の目論見の甘さを痛感していた。

「大河内君には懲戒免も視野に入れての厳しい処分が下ることになるだろう。わしが言いたいのはそれだけだ」

 春日はそれだけ言うと、憤然たる面持ちで席についた。



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