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年下の上司  作者: 石田累
83/202

extra2 復元ポイント(最終話)

「わぁ、昼間に見ると、いっそう綺麗ですね」

 緑の絨毯に、日差しの欠片がきらきらと溢れている。

 果歩は、少し離れた場所に立つ真鍋を振り返った。そして、ふと不思議に思っている。

 が、白のかぎ編みニットと麻のパンツ姿の真鍋が、いつもよりひどく魅力的だったから、その疑問はすぐに流れていった。

 髪が、少し長くなったせいかもしれない。透き通った肌と高い鼻梁もあいまって、まるで外国の俳優のようにも見える。

 ―― ドライブにでも行かないか。

 先日、話を切り出そうとした果歩を、真鍋はそう言って遮った。

 果歩にしても、落ち着いた環境で、じっくり彼と話し合いたかった。持っていきかたを間違えると、機嫌を悪くされるのが判っていたから。――

 土曜日。待ち合わせの場所に現れた真鍋は、特段結論を急かしもしないまま、果歩を葉山の彼の別荘に連れて行った。

 ただ、家の中には入らず、果歩の手を引いて、裏の山道を登っていく。

 真鍋が、どこを目指しているのかは途中から察しがついた。あの、クローバーの丘だ。

 彼の傍に戻ろうとした果歩は、足元に、小さな木製の柵の名残が残っていることに気がついた。

「ここ、なんでしょう」

 しゃがみこんで、果歩は訊いた。「なんだか畑があったみたい。すごくちっちゃいですけど」

 柵の中は、今はシロツメクサが咲き乱れている。

「そこで、苺を育てていたんだ」

 背後から真鍋の声がした。

「苺?」果歩は眉をあげている。「こんな草原で、育つものなんですか」

「当時は、もう少し行き届いてた」呟くように言って真鍋は笑った。

「小さいハウスもあって、夏の間は俺が毎日、水をやりに行ってたんだ」

「……へぇ……」

 なんだか想像できないや。でも、真鍋さんにとって、ここは―― この場所は、本当に大切な思い出だったんだろうな。

「眼鏡、どうしたんですか?」

「失くしたんだ」

 澄んだ琥珀にも似た瞳を陰らせて、真鍋は微笑した。「もう掛けないよ」

「……そうなんですか」

 なんだろう。やっぱりどこかへんだ。今日の真鍋さんは……。

 果歩は歩みより、真鍋の腕をとった。果歩を見下ろした真鍋は、優しく微笑して、自分から指を絡めてくれた。

 よかった。いつもの真鍋さんだ。

 なのに、なんだろう。今日は、すごく彼を遠く感じる……。

「この丘も、あの家も」

 その眼差しのまま、真鍋は続けた。「俺には、ひどく恐ろしくて、なのに忘れ難い、心の底深くに刻まれたような場所だった。……二度と戻りたくないと思うのに、気づけばいつも、無意識に追い求めている」

 なんだろう……。

 意味はよく判らなかったが、果歩は黙って真鍋の言葉の続きを待った。

「君とあの家の扉を開けば、俺は、俺自身が恐れていた何かから解放されると思っていたんだ。……実際は、違った。俺はあの2日間、ただ見たくないものから目を逸らして、美しくて幸福のものばかりを追い続けていた」

「…………」

 どういう意味だろう。

 思い出されるのは、閉じられたお姫様の部屋と、ビニールのかかった大きな本棚。そして、写真。

「雄一郎さん」果歩は言った。

「いつか2人で、あの家を大掃除しませんか」

「……掃除?」

 不思議そうな眼をして、真鍋は笑った。

「……それは、考えてもみなかったな」

「家具の覆いも全部取って、大人用の書斎も作って、いつでも大勢の友達を呼んで賑やかに過ごせるように、……そうだ、私はできないけど、ビリヤード台なんか置いたらどうです? もしくはカラオケルームとか」

「想像できないな」真鍋は、優しく苦笑する。「考えたこともなかったよ」

「庭にはお花をもっと植えて……ハーブとか家庭菜園にも興味があるし」

 果歩は、指を折りながら2人の未来の家を空想した。

「あ、そうだ。週末はいつもここで過ごすのってどうですか? すごく先にことになるけど、友達の家族みんなを招待するのも楽しいですよね。……子供たちも沢山呼んで……」

 沢山の楽しい思い出を、2人で、この場所に刻んでいけたら。

「上手く言えないですけど、そういう場所にしていけたらいいですね」

 何も言わず、真鍋はただ微笑していた。

 その、静かで包み込むような優しさに、果歩はまた、不思議な不安を感じている。

「……雄一郎さん、私」

 まだ、彼に打ち明けていないことがある。彼は多分、知っているのだろう。だから、どこか、掴みどころがないのだろうか。

「私、役所は、辞めません」

 すぐに、真鍋の顔を見ることができなかった。

「……上手く言えないんですけど、こんな形でやめたくはないんです。今辞めたら、……悪い思い出ばかり残るような気がして」

 こんな私でも、必要としてくれた人たちもいる。

 まだ、自分の何がよくて何が足りないか、その見極めさえできないけれど……。

「結婚はします。あの、……本当にしたいんです。でも、仕事も……」

 一瞬息を詰め、緊張したまま、真鍋を見上げた。

「辞めたく、ないんです」

「―― 果歩」

 果歩から手を離した真鍋が歩き出し、少し離れた場所で振り返った。果歩は彼の後を追おうとしたが、彼がそのまま佇んでいるので、自然に足を止めていた。

 風が、2人の間のシロツメクサの葉を舞いあげた。

「君は、大丈夫だ」

「…………」

 なに……?

「何があっても大丈夫だ。……きっと、役所でも上手くいくだろう。俺は君を、ずっと、俺の眼鏡でしか見ていなかったのかもしれない」

 意味が判らず、ただ果歩は瞬きをした。

「君は綺麗だ」

 ひどく優しい目のまま、真鍋は笑った。

「美人で、そしてチャーミングだ。俺の前では小悪魔でもある。……完璧だ、君ほど素敵な女性はいない」

 雄一郎さん……?

「俺の完敗だ。君の前では白旗を揚げるしかない。……君は、大丈夫」

「…………」

 なんだろう、彼が―― 彼がひどく遠くて。

「大丈夫だ、……大丈夫、何があっても、君は大丈夫だよ、果歩」

 なのに声だけが、心の深いところに浸みていく。

「雄―― 」

 その時、ひときわ強い風が吹いて、果歩は目を閉じていた。

 目を開くと、視界には一面に舞うシロツメクサ。

 そして、―― そして……。

 




 *************************

 

「取りあえず、異動祝いってことで……って、もうできあがってんじゃない?」

「だって、宮沢さんが遅いんだもん」

 果歩は、ビールグラスを持ち上げた。「かんぱーい」

「すみません、まだ注文すらしてません」

 冷やかに遮って、宮沢りょうはカウンターに向きなおった。「ジントニックね」

「本当、空気読めないね、宮沢さん。こっちビールなのに、カクテルはないでしょ」

「読めないんじゃなくて、読まないのよ」

 やがてカクテルが出され、グラスを持ち上げた宮沢りょうは、それを目元まで挙げて見せた。「―― 鉄の女に」

 それ、絶対褒め言葉じゃないでしょ。とは思ったが、取りあえずは居心地の良さが勝っている。

 午後8時、市内のラウンジバー。店は宮沢りょうの指定で、飲みに誘ったのは果歩だった。

 10月の初め、秋の気配が夜の街にも漂い始めている。

「ここ、宮沢さんの行きつけ?」

「行きつけってほどでもないけど、……二、三度行ったかな」

「よく飲みに行くの?」

「新しい店を開拓するのが、唯一の趣味ね」

「受付の男の子、かっこよくない?」

「まぁ、それも楽しみのひとつよ」

 しれっとした顔で、りょうはグラスを唇につけた。

 本当、綺麗な顔して趣味はオヤジ臭いというか……。まぁ、オヤジっていうか、意外に人間臭い人なんだけど。

 夏から秋にかけて、果歩の身に起きた様々な出来事。そこに、宮沢りょうも、彼女らしからぬ役回りで絡んでいる。―― 本人に聞いたところで、どうせ認めやしないけれど。

 礼を言おうと思ったが、やめておいた。

 改めた形で言わなくても、これからいくらでも2人の時間はありそうだから。

「どう、新しい職場」

 チーズの盛り合わせに手を伸ばしながら、りょうが訊いた。

「10階から、3個上に変わっただけよ。……とはいえ、庶務は初めてだから、ちょっと戸惑ってばかりだけど」

「てっきり、外郭か出張所だと思ってたけど」

 にやっとりょうは皮肉っぽい笑みを浮かべた。

「まさか本庁内で異動とはね。やるじゃない」

 それには果歩は閉口している。

「別に私が何かしたわけじゃないわよ。たまたまポストが空いてたんでしょ」

「それもそれで、生地獄だと思うけど? 一種の退職勧告だったりしてね」

「―― まぁ、もう、どうでもいいわよ」

 天国から地獄―― ここまで過激な人生のジェットコースターを経験した公務員は、もしかして私くらいかもしれない。

「そっちはどう?」今度は果歩が訊いていた。「区役所の総務って何するの?」

「選挙事務の担当なのよ」りょうは、思いのほか楽しそうだった。

「初めてのことばかりで、新鮮よ」

 じゃあ、もう、辞めるって話はナシってことよね。

 果歩はようやくほっとしている。なんとなくこの友人とは、この先も何年も―― 同じステージに立って話をしていたいから。

「まぁ、色々ありましたが―― 」

 3杯目のグラスを持ち上げ、果歩はしばし、天井を見上げた。本当に、……本当に色々あった。言葉ではもう言い尽くせないくらいに。

 真鍋雄一郎の結婚が、ささやかに地元経済紙面を飾ったのは、先月の終わりのことである。

「ひとつ判ったことがあるわ」

「なに?」

「もう愛なんて信じない」

「昼ドラ?」

「男なんてシャボン玉よ!」

「新喜劇ね」

 

 *************************

 

「ほう」

 顔を上向けた男は、少し意外そうに眉をあげてみせた。くしゃっとまるめた紙みたいな皺が、男を年以上に老けさせて見せ―― 同時に、優しく見せている。

「少しの間に、なんだか、随分顔つきが変わったようだねぇ」

「お呼びだてして、申し訳ありません」

 雄一郎は、丁寧に一礼した。「このたびは、僕の無理な頼みを―― 」

「いや、いいんだ、いいんだ」

 室内樹と麻が2人の周辺を覆い隠している。

「あの子のことは、僕もずっと気にかけていたからねぇ。できることなら、なんとかしてやりたいとずっと思っていたんだよ」

「このことで―― 」雄一郎は、声をひそめた。

「いや、まぁ、まぁ、座りたまえ」

 那賀康弘は立ち上がって椅子を引いた。「君のような色男を立たせたままじゃ、どうもわしが落ち着かん」

「失礼します」

 席につくと、優しい目をした初老の男は、いたわるように雄一郎を見上げた。

「いいのかね、家のほうは」

「……ええ」

「しかし、新婚早々外泊か? 相手がわしのような皺がれた爺さんだとは、さすがに想像もつかないだろうがねぇ」

 控え目に微笑して、雄一郎は顔をあげた。

「今回のことで、那賀次長は、おそらくうちの父に疎まれると思います」

「ふはっ、はっ、なんだ、そんなことかね」

 息を吐くようにして、那賀は笑った。

「心配せんでも、わしはとっくにラインから外れておるよ。なにしろコネとお情けだけでここまで来た男だからね。ふはは」

「…………」

「しかも、元々わしは、真鍋市長の派閥からは外れておる。嫌われようと疎まれようと、いまさら、どうということもないさ」

 那賀の背後には、真鍋市長と対立する党の大物議員がついている。

「か……」わずかに黙り、雄一郎は言葉を飲み込んだ。

「的場さんを引き受けてくださって、本当にありがとうございました」

 那賀は黙って、杯を舐めている。

「あなた以外に、頼れる人はいなかった。彼女も心強いと思います」

 やはり無言のまま、那賀は杯を持ち上げる。そして、ぽつりと呟いた。

「一度余所に出たほうが、あの子のためだったんじゃないのかねぇ」

「…………」

「今でも、ひどい噂が蔓延しておる。あの子が健気で気丈なだけに、わしゃあ、なんとも辛くてねぇ」

「父は、彼女を辞めさせるつもりでした」

 口調を落とし、雄一郎は軽く唇を噛んだ。「……今は、あなたのような庇護者がどうしても必要です」

「……なるほど―― 」

 初めて那賀は、感嘆の目で雄一郎を見上げた。「君は存外に、役所の人間関係をよく見ているということか。まぁ、なかなかに闇の深い場所だがね。それをなんとかしようという動きもある」

 雄一郎はそれには答えなかった。

 ガラスの杯を渡され、受け取った。互いに無言になって、杯だけを交わし合う。

「この店で見たのは、君とあの子だったんだねぇ」

「…………」

「もう、灰谷市とは縁を切って別の世界に行った君が、こうしてわしのような老いぼれを、頼ってくる。……嬉しいような悲しいような複雑な気持ちだよ」

「縁を切ったわけじゃないんです」

「……ん?」

 むしろ、ここからが本当の始まりかもしれない。

「いえ、すみません、今から父と会う約束をしているので」

 立ち上がると、雄一郎は再度深く頭を下げた。

「彼女をよろしくお願いします」

 ―― いつか、俺が……。

 続く言葉をのみ込み、雄一郎は顔を上げた。

「雄一郎君、君は」

 静かな微笑だけを那賀に返し、雄一郎は背を向けて歩き出した。

 いつか俺が、この街に戻ってくる日まで。

 

 *************************

 

「的場さん、復元ポイントって知ってる?」

 場所を変えて飲み直そうと言ったのは、どちらだったのか。「なんで私の部屋なの?」宮沢りょうは不服そうだったが、結局は渋々果歩を部屋に上げてくれた。

「なにそれ……、何用語?」

 眠りに半分足をつっこんだまま、果歩は夢うつつで、それに答える。

 りょうの寝室で、部屋の主はベッドに横になり、果歩は下に敷いてもらった布団でうつぶせになっていた。

「IT用語? ……んっとね、パソコンのセーブポイント、みたいな」

 果歩も随分飲んだが、宮沢りょうも相当だった。

 いつになく上機嫌で、酔うとこの人はほがらかになる性質らしい。

「どっかの時点のデータをね、何月何日何時何分って感じで、パソコンに記憶させとくの。で、例えばデータがぶっこわれたり、……何かの理由でその時点に戻りたいと思った時に、いつでもそこに戻れるってわけ」

「ふぅん……」

 機械はいいなぁ、と寝がえりを打ちながら果歩は漠然と思っている。

「もし、人生にさ」

 天井を見上げながら、りょうは続けた。「そんなポイントが作れたとしたら、的場さんは、どこに作りたい?」

 どこ―― ?

 果歩はしばし、考える。

「まぁ、今じゃないことだけは確かだわね」

「そうなの?」

「人生最悪の時だっていうのに、復元ポイントもへちまもないわよ」

 果歩はむっとしてりょうを見上げた。

「だいたい人生22年しか生きてないのよ? どこに戻りたいかなんて、今は考えられないわよ」

「あら、年なんてあっと言う間にとっちゃうんだから。誓ってもいいけど、30代くらいになった時―― 」

 りょうは、しばし言い淀んだ。

「結婚して子供くらいいるかしら、的場さんの場合」

「悪いけど全く想像できない。今、極度の男性恐怖症だから、私」

 くすくすとりょうは笑った。

「まぁ、その時に、だけれど。絶対今頃の年が恋しくなるわよ。恋なんてね、ふられてもふっても絶対一人じゃできないんだから。むこうみずで熱烈な恋なんて若い頃しかできないじゃない。失恋も振り返れば人生の宝物よ―― なんて、これは彼の受け売りだけど」

「…………」

「私は、またここに戻ってきたいと思うだろうな」

「あんなに、辛かったのに?」

「うん……辛かったけど、また、何度でもあの人に恋したいから」

 果歩は仰向けになっていた。

 淡いオレンジの闇が、2人を温かく包んでいる。

「宮沢さんなら、絶対もっと素敵な恋人ができるよ」

「どうかな、私って、とことん男運がないみたいだから」

「そうなの?」

「昔ね、縁日で占い師にみてもらったことがあるの。出会いは20代でも、結婚は早くて30代後半」

「うっそ、なにそれ」

「しかも相手は我儘なバツイチ男でさ。私は子供を4人も生んで、育児に振り回される人生を送るんだそうよ。って、私、どんだけ絶倫な男を好きになるわけ?」

「それ、ただの占いでしょ?」

「まぁね、でも、男運がないのだけは、違ってない気がする」

「…………」

「もう、その人に出会ってるかな」

 少しだけ、りょうの声が儚くなる。

「まだでしょ……まだ、20代、始まったばかりだし」

「それが……篠田さんだったらいいな、と思ったこともあったけど、彼がバツ2になった時に諦めちゃった」

「てか、そんな占い、信じるほうがどうかしてるよ」

「そうね……意外に信心深い方なの。そうやって、諦めていく感じが好きよ……」

「……宮沢さん、眠いの?」

 返事はない。かすかな寝息が、静かに部屋を満たしていく。

 その気配も、やがて、遠く儚くなっていく……。

 うとうとと、現実とも夢ともつかない世界を彷徨いながら、果歩は不思議な夢を見ている。

 しゃがみこんで、一生懸命コンタクトを探している。落としてしまったコンタクトレンズ。どうしよう、早く見つけないと、彼が、―― 彼が私を待っているのに。

 早く見つけて追いかけないと、彼は永久に、私の元から去ってしまうのに。

 さぁっとシロツメクサが舞い上がる。その向こうで、彼が両腕を広げて立っている。もう果歩には、その顔を見分けることさえできない。

 行かないで―― 。

 傍にいて―― 。

 離さないで、私を。

 やがて何も見えなくなる。何も―― 全てが、風に舞い上がったように。……

 

 

 

 *************************

 

 ふっと果歩は目を覚ました。

 闇の中、時計の秒針の音だけが聞こえている。

 なんだろう。すごく長い夢を見ていたような気がする……。胸が痛むほど幸福で、そして切ないくらい苦しい夢。

 天井には見慣れた電灯、淡いオレンジ色の光。

 ―― そっか、りょうの部屋に泊めてもらったんだっけ……。

 少し目線を上にあげると、傍らのベッドの上から、向こうを向いているりょうの長い髪だけが見えた。

 枕元の置いた携帯が、メールがあったことを告げている。

 眼鏡を掛け、少しためらってから携帯を開くと、メールは後輩の百瀬乃々子からだった。

 

 的場さん、今日須藤さんと何話してたんですか?

 南原さんに聞いたけど、今日、藤堂さんがいかにもデートって感じで正装して帰ってたって……。

 藤堂さんが、須藤さんとおつきあいしてるって本当の話なんですか? だとしたらちょっと許せないって、少し怒ってるんです、私。

 帰りがけにみた的場さんがすごく元気なさそうだったから―― 心配してメールしちゃいました。

 

「…………」

 後輩の優しさと、昨日感じたやるせさを同時に思い出し、果歩は携帯を置いて目を閉じた。

 なんで、あんな夢見ちゃったかな。

 なんで、今頃になって、あの人のことなんか思い出すかな。

 もう―― もうとっくに、忘れたと思っていたのに。

 りょう、昔の話、覚えてる?

 復元ポイント。確かにこの年になってようやく、あの日に戻りたいと思うことがある。

 あの時は、ただ辛くて悲しかっただけの彼との思い出が、自分をつくる何かのひとつになったのだと判った時。

 君は大丈夫、完璧だ、君ほど素敵な女性はいない。

 君は大丈夫、大丈夫―― 私は、……大丈夫。

 彼の囁きは、まだ胸の奥深い部分に残っている。それはもう恋とは違うノスタルジーだけど、時々、切ない痛みと共に、心を優しさと強さで満たしてくれる。

 そういう意味では、私は一生、彼を忘れたりしないだろう。

 若かったころ、苦しいほどの恋をした。それは、人生のかけがえのない、宝物のような思い出だから―― 。




復元ポイント(終)


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