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年下の上司  作者: 石田累
73/202

extra2 復元ポイント(11)

――真鍋さん……。

 窓に映るその人を見て、果歩は全身を強張らせていた。

 なんで? どうして? どうして彼が、こっちに来るの?

 心臓が、銅鑼のように鳴り始める。パニックになりそうだった。彼がひどく怒っているのは知っている。もう、二度と、声さえかけてもらえないだろうと思っていた。

 周到な罠に陥ったとはいえ、自分がいかに愚かな―― 取り返しのつかない過ちを犯したのかは判っている。

 吉永にとっては軽い冗談だったのだろう。が、真鍋やその父親である市長にしてみれば、冗談ではすまない。他人のふりをして欺くなんて、しかも、本意ではなかったとはいえ、真鍋家のプライベートに足を踏み込んでしまうなんて。

 人として―― 最低の真似をしたのだ。

 彼が、背後に立つのが判る。果歩はストールを胸であわせてうつむいた。

 なんてみっともない姿だろう。こんな……不釣り合いな衣装をきて……自分ではないような派手な化粧をして……完全に呆れられたに決まっている。いっそ、逃げ出してしまいたいほどだ。

 真鍋は、そのまま黙っている。

 距離はいくらもない。知らない人から見れば、2人は少し位置をずらして並び、同じように窓の外を見ているように映るかもしれない。

 こんな時でさえ、果歩は―― 真鍋の美しい姿に思わず心を奪われそうになっていた。

 いつもの、どこかかっちりしたビジネススーツではない。薄いストライプのはいったネイビーのスーツ。紫がかったグレーのタイ。普段よりヘアワックスを少なめにしているせいか、前髪がゆるく額に流れ、普段の彼より若々しく見える。

 果歩は窓に映る姿ごしに彼を見つめ、彼もまたそうしていた。果歩の、勘違いでなかったら。

「背を伸ばして」

 彼が、不意に囁いた。果歩は驚いて顔をあげている。

「肩を開いて、まっすぐに前を見るんだ」

 ―― 真鍋さん……。

 戸惑いながら、果歩は言われるとおりにした。

「うつむいてはいけない。頭から上に引っ張られるような気持ちで―― 前を見て、そう」

 彼の囁きが近くなる。

「……綺麗だ」

「…………」

 果歩は顔をあげていた。見上げた真鍋の目には、抑え切れない賛辞が滲んでいる。あろうことか、真鍋が―― 今、自分に見惚れているのが果歩には判った。

 全身が熱を帯びて熱くなる。今日の私は、何もかもあなたのためにあるのだと、そんな大胆な気持ちで胸がいっぱいになっている。

 真鍋が綺麗と言ってくれた瞬間に、今日の何もかもが美しい色彩を帯びた。それまで、なんの意味もなかった衣装もメイクも―― 全てが誇らしく、輝かしいものに思えてくる。これは……いったい何の魔法だろうか。

 果歩が唇を開き、同時に真鍋が何か言いかけた時だった。

「待たせたね、ハニー」

 腰を抱かれるようにして、不意に距離を詰めてきた吉永に抱き寄せられていた。ハニー?? 驚くというよりあっけに取られる果歩に、男は素早く唇を寄せた。

「さぁ、行こう。部屋に服を用意させたよ」

「は……はい?」

「慣れない場所で疲れたろう。少し休もう―― 部屋には食事も用意してある」

 な、なんなのこの人。そんなにべたべたくっつかないで。部屋で食事―― ? 冗談じゃない!

 救いを求めるように真鍋を見る。その刹那果歩は凍りついていた。真鍋は―― 初めてみるような冷やかな目をしていた。

 彼が、尋常ではないほど、今の状況に怒っている……いや、呆れているのが果歩には判った。

 途端に気持ちがしおれるようになって、果歩はわずかに示した抵抗をやめていた。

 まるで魔法が解けたように、惨めで情けない気持ちでいっぱいになる。なんで私はこんな格好で、こんな場所にいるのだろうか?

 ただ、一刻でも、一秒でも早く、今、この場から消えてしまいたい。

「悪いな、雄一郎」

 勝ち誇ったように吉永が言った。果歩の耳には、それはただうつろな響きにしか聞こえない。

「今夜、この子は俺のパートナーなんだ。お前にも、別の相手がいたように」

「お好きなように」真鍋も言った。「僕には何の関係もない人ですから」

 その冷たさに、果歩は絶望的な衝撃を感じて、思わず吉永の腕にすがっていた。唇が震えた。顔をあげると―― 涙がこぼれそうだった。

「さ、行こうか」

 背を撫でられるようにして促される。動揺したまま果歩は頷き、うつむいた顔を上げないままで、吉永に従った。

 真鍋さんに嫌われた―― 頭の中は、それだけで一杯だった。もう、二度と会ってもらえないだろう、もう二度と口をきいてももらえない―― 。

 私…………。

 悲しみの中で、別の感情がじわじわと滲みだしてくる。

 悔しい。そんなつもりはなかったのに、そんな風にしたのは絶対に真鍋さんのほうなのに。

 なのに―― 私だけ―― 私1人が、もうこんなに真鍋さんのことが、好きになっているなんて……。

 不意に腕を掴まれたのは、フロアを中ほどまで突っ切った時だった。

「いいのか、雄一郎」

 吉永の声がした。果歩にはわけがわからなかった。どうして、真鍋さんが、私の手を掴んでいるのか。―― しかも、こんなに恐ろしい顔をして。

「親父さんが見てるぞ、お袋もだ」

「あなたの勝ちですよ。叔父さん」

 歯ぎしりでも聞こえるような声がした。

「最初から、こうなるのを待っていたんでしょう」

「俺のお古には興味がないと言ったくせに」吉永が笑っている。「これではっきり判ったよ。彼女はお前の、特別なんだ」

 意味が判らない果歩は、獰猛な力で吉永から引き離されていた。

 ―― 痛……。

 握られた腕がねじれるようだ。痛みで眉をしかめたが、構わず真鍋は果歩の腕を掴んだまま、歩き出す。

「ま、真鍋さん」

 驚いたような周囲の視線が、果歩と真鍋に向けられている。このちょっとした騒ぎに、フロアの皆が注目していたのだ。いけない、この大事な席で―― もし、真鍋さんにおかしな噂がたったりしたら。

「離してください、お願い」

 果歩は懸命に腕をふりほどこうとした。

「私1人で帰れますから、それに、服が―― 」

 扉を出て、人気のないサニタリー前のホールに引きずって行かれる。真鍋は腕を解き、ようやく果歩を振り返った。

「最低だな、君は」

 目は、怒りで燃えていた。果歩は言葉をなくしている。

「こんな場所で、いったい何をやっているんだ。しかもそんな―― 」

 視線が、果歩の胸元やむきだしの肩に注がれる。

「呆れたよ。君がそんな破廉恥な人だとは思ってみもなかった。恥ずかしくないのか、公務員のくせに」

 最後のは偏見だ。公務員だって―― が、悔しさとショックで頭がいっぱいになって言葉が何も出てこない。

「どいてください」ようやくそれだけを果歩は言った。

「私、吉永さんの所に戻りますから」

 必死にこらえた涙が、一滴だけ震える唇の上を濡らした。ぶるぶると、握りしめた拳が震えている。

「行けばいい」真鍋の声も、わずかに震えているような気がした。

「言っておくが、君はただ遊ばれているだけだ。それも判らないくらいのぼせているなら、とっとと行けよ!」

「行きます!」

 歯を食いしばったが、ぼろぼろと涙がこぼれた。どうして真鍋さんに、こんなに侮辱されなければならないんだろう。私のことなんか―― 「行けばいいんでしょ??」なんとも思ってないくせに!

 真鍋の目に、暗い焔がよぎるのが判った。影が覆いかぶさり、果歩は咄嗟に逃げようとその胸を拳で叩いた。

 二度目のキスは涙の味がした。強引で怒りまかせの、優しさの欠片もない口づけだった。

 歯を食いしばりながら、果歩は何度も真鍋の胸を叩いた。その両手首を掴まれる。2人の間から腕が押し退けられ、遮るものは何もなくなった。

 気づけば全身から力が抜けて、真鍋に抱きしめられていた。

 ただ、乱暴なだけだったキスが優しくなっている。唇が濡れているのは、もう涙のせいだけではない。真鍋の唇が、その内に潜む原始的な熱が、果歩の閉ざされた唇を押し開こうとしている。こういったキスは初めてで、数秒、頭の中が真っ白になる。

 触れ合った舌からカクテルの甘い味がした。甘い―― 真鍋の味。理性も躊躇いも溶かすほどの―― 。

 やがて唇を離し、彼はいとおしむように親指で果歩の唇を撫でた。果歩は、真鍋の顔を見ることができなかった。

「離して……」

 それだけがようやく開いた唇から漏れた。

 もう、何もかもが判らない。理解不能だ。今、彼を支配している感情は何だろう。あれほど怒っていたのに、なのに、こんな……。

 真鍋の指が離れ、腕が離れた。果歩は自由になり、さっと顔を背けていた。真鍋の顔が見たくないのではなく、自分の顔を見られたくなかったから。

 真鍋もまた、果歩から顔を背けていた。彼はそのままの姿勢で言った。

「……本当に、誰とでもするんだな」

 声には冷たい軽蔑が含まれていた。果歩は信じられなかった。

 今の何? 本当に彼が―― 真鍋さんが言った言葉だろうか。

「し……」

 懸命に、爆発しそうな感情を堪える。それでも、涙だけが堪え切れずに零れ落ちた。

「……失礼します!」

 駆け出していた。後も見ずに。

 もういい。もう、どうなったって―― 真鍋さんのことなんか、考えない。考えるものか、もう二度と。

 気づけばホテルのエントランス前、タクシーの中にいた。

「どちらまで」運転手に問われ、ようやく我に返っている。

 着替えもない、お金もない。こんな姿で家に帰って―― 間違いなく父親に叱られる。どう言い訳すればいいのだろう。どう……こんな……惨めな姿を。

 ふたたび涙がこみ上げ、果歩は顔を覆っていた。

「あの、お客さん?」運転手が困惑している。「気分でも、悪いんですか」

 しゃくりあげながら首を横に振る。―― その時だった。

 コンコンと、ウインドウが叩かれ、助手席側の扉が開いた。

「こちら、そのお客様のお荷物です」

 誰の声―― ? 果歩は顔をあげられないまま、全身でその人の気配を探ろうとした。真鍋さん? 吉永さん? その、どちらでもない気がする。

「そりゃお預かりしますが」戸惑ったような運転手の声。「こちら、お1人で大丈夫ですかね」

「大丈夫ですよ」

 がさがさと紙袋がこすれる音がして、再び扉が閉ざされる。

 ―― 大丈夫ですよ。

「お客さん、ひとまず進行方向に出ますけど、いいですか」

 背後のタクシーに気を使ったのか、運転手が急かすように声をかける。果歩はようやく顔をあげた。

 滲む視界、窓の外を見る。動き出した車―― 垣間見えたのは、頭を下げる背の高いベルボーイの姿だった。

 果歩が身を乗り出した途端、ボーイの姿は柱の影に隠れてしまった。

 ――大丈夫ですよ……。

 ひどく優しい声だった。運転者じゃない、まるで私に言っているような気がした。

 もしかして、あの時コンタクトを拾ってくれた人だろうか―― まさかね。いくらなんでもそこまでの偶然、あるはずがない……。

「どちらに行きましょう?」

 運転手の声で、再び我に返っていた。涙を両手で拭って前に向きなおる。ホテルのロゴが入った真っ白な紙袋が目に入る。

 わずかにのぞいているのは、見慣れた自分のハンドバッグのショルダー部分だ。

 ようやく自分の中に、いつもの自分が戻ってくる。

 家の住所を言おうとして、少し躊躇してから、別の場所を告げていた。

 こんな格好じゃ、間違っても家に帰れない。どうせ最悪の夜なんだから、もう、多少のことはどうでもいい―― 。

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