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年下の上司  作者: 石田累
71/202

extra2 復元ポイント(9)

「困ります、こんなの……話が違うじゃないですか!」

 どうしてこんなことになってしまったのだろう。

 果歩は困惑と怒りをもてあましながら、少し離れた場所で、腕を組んでいる男を見上げた。同時に、ぶしつけな視線を感じ、胸のあたりを両手で隠す。

 そうでなくとも、羞恥で、耳まで赤くなる思いだった。

「これはどういう真似なんです。私の服は―― 」

「いやぁ、意外にお似合いだ。でも髪がいまひとつですね」

 笑いを含んだ声で、平然と吉永は答える。

「そういう問題じゃないですよ。今すぐ私の服を返してください。帰ります!」

「どうやって? あなたの財布も携帯も、僕しか判らない所にあるのに」

 笑いながら言うと、吉永は無遠慮に距離を詰めてきた。果歩は逃げるようにあとずさっている。

「騙したんですね」

 壁に背をぶつけながら、懸命に威勢を張って果歩は言った。

「人聞きの悪いことは、言わないほうがいいですよ」

 薄笑いを浮かべる吉永の声は落ち着いている。

「ほら―― みんなが、あなたを、頭のおかしい人か何かのような目で見ているじゃないですか」

(―― 姉に、贈り物をしたいので)

 その日の5時過ぎ。約束どおり吉永は役所の前に車をつけて待っていてくれた。目が覚めるような原色のアルファロメオ。役所には不似合いな車に、退庁する誰もが一瞬目をとめている。

 また、おかしな噂がたったらどうしよう、そう思いつつ、果歩は急いで助手席に滑り込んだ。

「申し訳ない。お話の前に、まず、僕の用事を済ませてもいいですか」

 車を発進させた吉永は、本当に申し訳なさそうにそう切り出した。

「姉の誕生日をすっかり忘れていましてね。どうしても今日、プレゼントを用意しておきたいんです。丁度あなたと同じような体型だ―― なに、すぐに済みます。少しだけお時間を取らせてもらってもいいですか」

 はぁ……としか言いようがなかった。

 その時点で、まさか相手の意図が全く違うものだとは想像できるはずもない。

 珍しく残業から解放された今日に限って、吉永は電話を掛けてきた。

「今夜、例の話をしたいんです。お会いできませんか」

 タイミングのよさにも驚いたが、半ば脅迫まじりの強引さに、果歩は逆らうことができなかった。

 あれから少しだけ冷静になって考えると、あの隠し撮り写真で吉永が握っているのは、紛れもなく果歩の命運そのものだった。

 市長は激怒するだろう。うかつな写真を取られた息子にもだろうが、この場合、怒りの矛先は、間違いなく役所の部下のほうに向けられる。

 どういった方法で人事異動が行われるのか想像もつかないが、少なくとも速攻で市長秘書からは外されることだけは間違いない。

 考えただけで目の前が暗くなるような気がしたが、果歩がどうしても耐えられないのは、そのことではなかった。

 真鍋の―― 彼の人生を左右しかねない見合い話が、流れてしまうことである。

「あの……ひとつ、お聞きしてもいいですか」

 シートで所在なく身を縮めながら、果歩はおそるおそる吉永を見上げた。

「どうぞ?」

 吉永は、微笑してちらりと横目だけで果歩を見下ろす。

「いったいどなたが、……真鍋さんのお見合いを潰そうとしているんですか」

 少しだけ動悸が激しくなっていた。それは―― もしかして、目の前のあなたではないですかと、そう言ってやりたかった。

 今思えば、不思議なほど偶然の重なる夜だった。たまたま真鍋が居合わせた店に果歩が訪れ、同席になり、その後2人になった所をたまたま写真に収められた。

 真鍋と飲んでいたのが吉永であり、果歩に声をかけたのも吉永である。そして、後日、写真を餌に果歩に脅迫めいた話を持ちかけてきたのも―― 吉永だ。

 もし、写真を撮らせたのもこの男だとしたら、全ての偶然が腑に落ちる。

 ――が、いったいなんのために、吉永がそんな真似をするのかが判らない。

「身内ですよ」

 ステアリングを握る男から、あっさりとした答えが返された。

「骨肉の争いというやつかな。うちの一族にはね、雄一郎の成功を望まない人間がいるんですよ」

「でも、真鍋さんは」用心深く果歩は続けた。「見合いは、会社のためのようなことを言っていました。なのに、同じ身内の方が、その話を潰そうとしてるなんて……少し考えにくいような気がします」

「複雑なんですよ。うちの一族は」

 平然と吉永は答えた。

「あなたは、会社が順風満帆にいけば、誰にとっても万々歳だと思っているようですが、そんな甘いものじゃない。食うか食われるかの世界ですからね。弱みに乗じて、実権を握ろうと思っている連中だっている」

「…………」

「そういった目論見を持つ連中にとっては、今回の見合いは、どうしたって阻止したいものでしょう」

「あの程度の写真で、ですか」

 吉永は、果歩の反撃の意図に気がついたようだった。

「あの程度の写真だけなら、難しかったかもしれませんがね」

 では、他にもあるということ―― ?

 背中に冷水でも浴びせられたように蘇る場面がある。エレベーターに乗る前にかわした抱擁。階下の写真があったから、上では撮られていないものだと思い込んでいた。

 でも、―― もし、その場面も写真に撮られていたとしたら。

「いずれにしても」

 用心深く果歩は言った。「あなたも、その片棒を担いでいるということなんですね」

「僕はどっちつかずの立場ですよ」

 吉永は、開き直ったような笑いを浮かべた。「だから写真の流出をとめることもできたし、こうやってあなたに機会をあげることもできるんです」

「機会……?」

「まずは、僕ら家族のことを、知っていただかなければいけませんね」

 話の展開によっては、途中で車を降りるつもりだった。が、吉永は、その思惑を見越したように、巧みに話をもっていった。

「僕の姉は、真鍋家の後妻でしてね。……もう、ご存じかと思いますが」

 控え目に、果歩は頷く。

「元々光彩建設は、雄一郎を生んだ母親の生家が創業なんです。社長を雄一郎の祖父がつとめ、母親はその秘書でした。真鍋正義―― 今の灰谷市長ですが、彼は当時、光彩建設の一社員に過ぎなかったんですよ」

 それは、初めて知らされる事実だった。

「私……市長は、もともと創業一族の方だと思っていました」

「養子なんですよ。悪い言い方をすれば、社長の娘を落として会社の後継にのし上がったともいえますね」

 辛辣なことを、さらりとした口調で吉永は言った。

「一社員といえば、僕の姉もそうでした。姉は―― 麻子といいますが、当時、秘書課で役員秘書をしていたんです。つまり、同じ秘書課で働いていた、真鍋お嬢様の同僚だったというわけです」

 つまり、そのお姉さんが―― 麻子という人が、今は、真鍋正義の妻に収まっているということだろうか。

「姉は、ご存じのとおりの器量です。片や雄一郎を生んだ母親は、奴そっくりの玲瓏たる美女だったそうで―― 。雄一郎を生んだ後に体調を崩して、以来、一年の大半を別荘で療養するようになったそうですがね」

 黙って聞いている果歩の胸に、彼が以前語ってくれた四つ葉のクローバーの思い出がかすめていく。では、あれは、その頃の思い出だったのだろうか。

「まぁ、はねっかえりで気の強い姉とは、何もかも真逆な女ですよ。どうして真鍋市長が、僕の姉のような女と再婚したのか、……正直、理解に苦しみますがね」

 わずかに笑い、淡々と、まるで人ごとのように吉永は続けた。

「僕と雄一郎の不仲に、あなたもお気づきだとは思います」

「…………」

「結果的に、真鍋市長と僕の姉は、死んだ雄一郎の母親から、光彩建設の何もかもを奪ったんです。雄一郎にしてみれば―― 姉は母親の仇であり、僕もまた、同類のように思えるのでしょうね」


 *************************


「ちょっと待ってください。どういうことなんですか!」

「だから、姉にプレゼントを渡すんですよ。そう言ったでしょう」

 強引に腕を引かれ、果歩は車から降ろされた。

「いやです、こんなの―― 」冗談じゃない!

「静かに」吉永は低い声で囁いた。

「僕の顔は知られている。こんな場所で、恥をかかせないでください」

 丁寧だが、威圧的な口調だった。野性的な目が冷たく果歩を見下ろしている。果歩は息を詰めるようにして周囲を見回した。

 スカイブルーに白のラインが入った制服の男性が近づいてくる。頭には同色の円筒状のハット。

 一目で果歩は気がついた。あの夜見たベルボーイの制服……ここは、ホテルリッツロイヤルだ。沙穂と2人で食事に出かけ、吉永と真鍋と同席することになったバーがあるホテル……。

「吉永様、いらっしゃいませ」

「2階だったね」

「翡翠に、ございます」

 恭しく頭を下げるボーイに、吉永は慣れた手つきで車のキーを預けると、果歩の手を引くようにして歩き出した。その場に居並ぶベルボーイたちがいっせいに頭を下げる。

 果歩は咄嗟に前かがみになって肩を覆うストールをひっぱると、胸元であわせた。

 カナリア色のシフォンのストールはたっぷりとした大きさがあって、むきだしになった肩も背中も十分に隠してくれる。いつも以上にボリュームがあるように見えるバストも……。

「……なんの真似なんですか」ひたすら人目を気にしながら、果歩は訊いた。

「姉は、パーティに出ているんですよ」平然と吉永は答える。

「知っていますよ。だからって、なんで私まで」

 エレベーター前で脚をとめ、男は果歩を振り返った。目に、からかうような色がある。「思いのほか、お似合いだったので」

「…………」

「試着をしたお姿を見たら、そのまま脱がせるのが惜しくなった。言ったでしょう。プレゼントです。ただし、こういった状況下でもれなくついてくる下心はありません」

 果歩は、男をにらみつけた。

「私、お写真を拝見したことがあります。……吉永さんの、お姉様の」

「それで?」

「本当に、私と、同じ体型なんでしょうか? すぐに思い出せなかったのは迂闊でしたけど、とてもそうは思えません。あなたは最初から」

 エレベーターが開き、乗り込む間2人の会話は寸断された。

「分野は違えど、デザイナーの端くれですからね。僕も」

 乗り込んだ後、先に口を開いたのは吉永だった。

「美しい素材をみると、非常に興味をそそられるんです。あの店は、僕の大学時代の友人がやっていて、頼めば簡単なヘアメイクもしてくれます」

「卑怯だわ、やっぱりあなたは最初から―― 」

「まぁまぁ」

 不意に正面から肩を抱かれた。密室と化したエレベーターの中で、男と近づきすぎていた危険に、ようやく果歩は気がついた。

 が、固まる前にそっと身体を向きを変えさせられる。戸惑う果歩の目の前に、見知らぬ女の全身が現れた。

 いや、他人ではない、その姿は……一度、先ほどの店で見ている。

 ―― 私……。

「こんなに、お綺麗なのに」

 耳元で吉永が囁いた。

「構築途中の美を目の前にして、男が放っておけるとでも思いますか? あなたの完成した姿を見たかった。その純粋な欲求に嘘はありません」

 これが、本当に私だろうか。

 果歩は、あらためて、鏡に映し出された自分を見つめた。

 つけまつげとボリュームマスカラで、いつもの倍近く大きく見える瞳。パールの入ったホワイトとブルーのシャドー。くっきりと描かれたアイライン。自分では絶対にここまで濃くはしないチーク……。

 たっぷりとグロスの塗られた唇は、赤く濡れた宝石のように輝いている。

 いつもの自分には絶対に似合わないゴージャスなメイクは、しかし、衣装と合わせてみると、見惚れるほど完璧な調和がとれていた。

 高く結いあげられた髪には、ウェーブの入ったつけ髪が施され、シルクコサージュで華やかに飾られている。

 耳にはピアス様の上品なダイヤのイヤリング。同じデザインのものが、胸元を控え目に飾っている。

 衣装は、―― これだけは、どれだけ美しくても、果歩には嫌でしょうがなかった。

 身体のラインにぴったり沿ったオフショルダーのシルクとオーガンジー。上品なミルクホワイト色で、脛までの裾はわざと変則的な長さになっている。

 もし、肩や背をすっぽりと覆うストールがなかったら、どれだけ脅迫されても果歩は頑固として車から降りなかったろう。いくらなんでも、露出がすぎる。いくら……鏡に映る自分が、……自分ではないほど、綺麗に見えたとしても……。

「そうして完成した美をみせびらかしたいという欲求は、アーティストなら誰もが持っているものでしょう」

 吉永の囁きが、果歩を我に返らせた。

 何を―― 見惚れていたんだろう、私ったら! こんな馬鹿げた姿をして、似合わないほど派手な化粧をして。

 知った人が見たら、まさに、ピエロとしか言いようがないじゃない。

「お願い……」頼りなくなって、果歩は弱々しい声を出した。

「私をこのまま帰してください。こんなの……誰にも見られたくないんです」

 エレベーターが開いた。

「大丈夫、あなたを知るどのようなご友人がよしんば会場にいたとしても、絶対にあなただとは判りませんよ」

 吉永の手が、肩を抱いて押し出してくれる。

 それを拒む元気もないまま、果歩は怯えながら脚を踏み出した。

 

 *************************

 

「吉永部長?」

 会場に入るや否や、どこかで聞いた女の声が、果歩をびくっと震わせた。

「驚きました。今夜は、おいでになれないとお聞きしていたのに」

「やぁ」

 うつむいたまま、こそこそ逃げようとした果歩を無理に引き寄せるようにして、吉永は声のほうに振り返る。

「君こそ、どうしたの? 今日はプライベートだろう」

「そうでもないんです。けっこう駆り出されてますよ」

 果歩はひたすらうつむいていた。声の感じで、すでに思い出している。一度、光彩建設で対峙した女の人―― 名前まではうろ覚えだが、果歩の服を制服だと勘違い(皮肉だったのかもしれないが)した人である。

 ―― ど、どうして真鍋さんの秘書が、この会場に??

「あの……失礼ですが、こちらの方は?」

 女が、やや躊躇するように果歩のことを訊いたのが判った。

「実は、姉さんに紹介したくてね」

「えっ、じゃあ」

 女がかすかに息を飲むのが判る。が、それ以上に驚いたのは果歩だった。な、何を誤解させるようなことを言ってるんだろう、この人は!

 果歩が顔をあげると、初めて女と目があった。今夜はとんでもなく高いヒールを履いているせいか、前ほど視線が上に見えない。

 むしろ、女は憧憬の眼差しで果歩を見上げ、丁寧に一礼した。

「きっと、会長もお喜びだと思います」

 ―― は?

 ちょ、ちょ……私なんですけど、ほら、先日会社でお会いした、あの―― どっちかといえば、あなたが思いっきり馬鹿にしてた。――

「失礼するよ。まだ主催者に挨拶もしていないんだ」

 慣れ慣れしく腰を抱かれて、引き寄せられる。

 むっとして顔を上げたが、すぐに果歩は視線を彷徨わせるようにしてうつむいていた。

 初めて目にした会場の全景。広々としたフロアに、沢山の人たちがひしめいている。

 みな、華やかな衣装を着ていた。男も女も―― いかにもドレスアップしたパーティ仕様だ。結婚式の雰囲気によく似ている。違うのは、見る限りほぼ全員が立っていて、手に皿やグラスを持っているということだ。

 ―― 立食パーティ……。

 果歩は、ますます身が縮こまるのを感じていた。どうしよう、本格的な立食なんて初めてだ。マナーなんて全然知らないよ、私。

 そっと視線だけをあげてみる。すでに人気のない壇上には大きな垂れ幕がかかっていた。

 ホテルリッツロイヤル生誕30周年記念祭―――って、このホテルそのものの記念パーティーだったんだ!!

 普段でさえ足を踏み入れたことのない高級ホテルの……しかも、おそらく特別な人しか招かれない今夜の催し……。

「プ、プレゼントを渡すだけですよね」

 強がっても声がひっくり返っている。吉永がくすりと笑うのが判った。

「そのまま帰ったら、いかにも失礼でしょう」

「でも―― 私、招かれてもいないのに」

「招待客は、パートナーを同伴してもいいんです」

 吉永は眉をあげた。「だから君は、今夜は僕のパートナーでいなければならない。恋人という意味ですよ」

 果歩は何か言おうとして―― 力なく口を閉じた。

 そうかもしれないとは思っていたが、やはり、最初から欺かれていたのだ。開き直った吉永の態度に、いまさらながら脱力感がこみあげる。が、悔しいが、このとんでもない状況で頼れるのもまた、吉永という男だけなのである。

 なんだか異国の地で、唯一の知り合いにくっついて歩いている気分だ。どんなに腹の立つ相手でも、その知り合いの手を離してはならない―― 。

「さきほどの方、光彩建設の社員さんですよね」

「姉が共同主催者なんですよ」

 にっこりと吉永は笑ってみせた。

「なにしろ、こちらのホテルとは長い付き合いですからね。建設を手掛けたのもうちの会社です。―― ですから、うちの社員も少なからず手伝いに駆り出されているんでしょう」

 まさか―― 。果歩は顔から血の気が引いていくのを感じていた。まさかと思うけど……真鍋さんや……真鍋市長までも……。

「大丈夫ですよ。雄一郎は義母の出席するパーティに顔を出さないし、市長はこういった席を嫌います」

 吉永は、果歩の胸によぎった不安を遮るように苦笑した。

「それに、いったでしょう? よしんば、君を知っている人がいたとしても、絶対に大丈夫だと。先ほどの女性もまるで気がついていなかった」

「…………」

「楽しみましょう。今だって何人もの男性客が、あなたを振り返っていますよ」

 どんなお世辞よ、と思ったが、果歩は顔があげられなかった。

 それでも、もし市長が―― 真鍋市長がこの場にいたら? 

 今日、市長はプライベートの用だとかで公式行事をキャンセルして帰宅した。だから果歩も、早く帰ることができたのだ。それがもし―― 。

 その時、吉永の足が停まり、彼は果歩の腰を優雅に抱いた。

「―― 今夜は、お招きいただきまして、まことにありがとうございます」

 丁寧に受け答えをする老夫婦は、おそらくこのパーティの主催者だろう。もしかするとリッツロイヤルグループの会長か何かかもしれないが、緊張の極みにいる果歩の耳には、彼らの会話は殆ど入ってこない。

「ねぇ、冬馬、こちらの方は?」

 果歩を見てそう言ったのは夫人の方で、碧眼で鼻梁が高く、みるからに外国人だった。

「ああ、こちらは―― 」吉永が、口を開きかけた時だった。

「まぁ、冬馬??」

 ひどく驚いたしゃがれ声が割って入った。

「どうしたの、あなた、今夜は来られないと言っていたじゃない」

 それは―― 果歩のおぼろな記憶によると、灰谷市長真鍋正義の妻であり、光彩建設の会長、真鍋麻子に違いなかった。

 ラメ入りの黒のイブニングドレス―― お世辞にもスタイルがいいとは言い難い身体に、あまり似合う衣装ではない。顔も―― 写真より随分ふけているな、という感じがした。

 というより、まるで舞台女優か何かのようにファンデをこってりと塗っているから、素顔がいまひとつ見えてこない。

 それでも、圧倒されるほどの迫力の持ち主には違いない。巨大なボディも、派手に盛ったヘアスタイルも、どぎつさを通り越した濃いメイクも―― 全て、この人を形成するパーツのひとつのように思える。

 果歩は、息さえできないまま、ただうつむいて、視線を合わせないようにしていた。

 真鍋さんの義理のお母さん……。そんなことには決してならないだろうけど、こんな迫力満点のお姑さんがいたら、一日で神経衰弱になってしまいそうだ。 

「姉さん」

 が、吉永はそれまでとは別人のような、甘えた優しい声を出した。

「誕生日のプレゼントを預けておいたよ。もっと早く渡したかったんだけど、ごめんね」

 な、なに、この人??

 表情を変えずに、果歩は愕然としていた。―― まさかと思うけど、とんでもないシスコン??

「忘れなさい。姉の誕生日なんて、いい年をした男が覚えているようなものじゃないわよ」

 不機嫌そうな口調で女は答えた。その声がひどく冷たく―― むしろ迷惑気に聞こえたので、果歩は思わず顔を上げている。

「こちらは?」

 ぎょろりとした目が果歩に向けられる。白目部分が少し黄ばんでいるせいか、その表情は本当に恐ろしく見えた。

「私も訊こうとしていたところなのよ、麻子」

 ホテルリッツ夫人(多分)が口を挟んだ。

「この、チャーミングな女性は、いったい冬馬の何なのかしらって」

「目下、最も大切な女性ですよ。―― ああ、姉さんだけは特別ですが」

 あっさりと、シスコン丸出しを隠しもせずに吉永は答えた。

「トバマホさんと言うんです。都内でモデルのお仕事をされています。もっとも、駆け出しですから、仕事はあまりないそうですが」

 なんじゃ、そりゃ…………。

 開いた口がふさがらないとはこのことだ。モ、モデル?? 私が? どうしてそんな、誰が訊いてもすぐに嘘だと判るようなことを!

「どちらの会社?」

 口を挟んだのはリッツ夫人だった。

「早速オファーをしてみましょうよ、あなた。こんな素敵な方なら、ぜひうちのホテルのイメージガールに使ってみたいわ」

 嫌味かと思ったが、そうではないようだった。本当に熱心に果歩を見つめる夫人の目に、皮肉な感情は欠片もない。

「勘弁してくださいよ」吉永が笑いながら口を挟んだ。

「僕は、できれば彼女には、仕事をやめて家庭に入ってほしいと思っているんです。今、そうやって、一生懸命口説いている最中なんですから」

「まぁ、それでは結婚を?」

「僕も、来年で37ですからね」

 和やかに話す吉永とリッツ夫人―― が、果歩は凍りついていた。心臓の音がどっくどっくと鳴っている。とんでもない話ばかりする吉永のことよりも―― 自分をじっと睨んでいる真鍋麻子の視線がものすごく恐ろしいからだ。

 息子の恋人と、年が離れた弟の恋人―― 女としては、どちらが不愉快なのだろうか。

「本当に冬馬が結婚したいなら、私に言うことは何もないわよ」

 肩をすくめるようにして麻子は言った。

「ただ、小姑に大切な奥さんをいじめられたくなかったら、さっさとロンドンに帰ることね」

 い、いきなりの宣戦布告……。

 真正面から反対よ、と、言われているようなものだ。

 実際、吉永と結婚するつもりの女性なら、この瞬間泣いて逃げてしまうかもしれない。

「麻子がそんなだから、冬馬がいつまでも一人身なのよ」

 リッツ夫人が、苦笑しながら口を出した。

「雄一郎の縁談が決まったのだから、ついでに冬馬も出してしまいなさいよ」

「まぁまぁ、姉さんは寂しいんですよ。僕が結婚してしまうと」

「そりゃあ、2人きりの姉弟ですものねぇ」

 笑いあう夫人と吉永を尻目に、麻子は所在なく空のグラスを弄んでいる。

 疲れたような不機嫌なような、どちらとも取れる表情だ。果歩には……それは、なんとなく、疲れているように見えた。それもひどく―― 相当に。

 つっとグラスを唇にあてようとして、麻子は、初めてそれが空っぽなのに気がついたようだった。

「何か、飲み物をお持ちしましょうか」

 果歩は咄嗟に言っていた。

 正直言えば、この場を離れる口実が欲しかったというのもあったが、八方美人の秘書気質が、この状況で黙ってはいられなかった。

 麻子が、少し驚いたように果歩を見上げる。隣のリッツ夫人もわずかに表情を陰らせている。

 え、なんだろ、私、何か……すごく場違いなことを言ったのだろうか。

「ああ、それは」吉永が取り繕ったように口を挟もうとした時だった。

「ええ、じゃ、お願いするわ」

 素っ気ない口調で麻子が言った。

「オレンジジュースをちょうだい。もうカクテルはうんざりなの。すっかり酔ってしまったわ」

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