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年下の上司  作者: 石田累
70/202

extra2 復元ポイント(8)

「すまないが、欠席で回答してもらえないか」

 朝のお茶を出した時だった。

 いまだ、ここ数日のショックから立ち直れず、少なからずぼやっとしていた果歩は、驚いて顔を上げている。

 新聞から顔もあげずにそう告げたのは、灰谷市長真鍋正義。

 今年で二期目―― 公務員の削減と市政の透明化を訴えて当選した、市民の絶大な人気を誇る市長である。

「は、はい、かしこまりました」

 果歩は姿勢をただすと、わずかに緊張してそう答えた。

 無口で短気な市長の意図は、実のところ、それだけで、汲み取らなければならない。

 おそらく、昨夜照会があった市労連との会合のことだろう。もう1人の男性秘書に確認を取らなければならないが、同組織と折り合いの悪い市長は、彼らの主催する会合への出席要望をことごとく拒否しているからだ。

 一礼し、果歩は市長室を退室しようとした。

「……失礼します」

 いつものことながら、市長の前に出ると必要以上に緊張する。1年たって少しは慣れるかと思ったが、その期待はいまだかなえられていない。

 気難しくて、虫の居所の見当さえつかない真鍋正義のお守りは、どんなベテラン秘書でも1年で異動を希望するほどの難務なのだという。

 そもそも、反公務員をのろしにあげて当選した市長である。市職員を無駄な存在と切り捨てているだけに、部下に対する態度は極めて横柄でぞんざいだ。

「どうしても外せない用事が入っているのでね。プライベートだが」

 が、珍しく真鍋市長は言葉を続けた。依然、新聞から目を離さないが、手では湯飲みを持ち上げている。

 まさかと思うが、私に話しかけているのだろうか―― ?

 ドキっとしたが、そこは1年修行を積んだ秘書らしく、微笑して頷いてみせた。

「またの機会に必ず出席すると、貝谷君に伝えておいてくれたまえ」

 珍しく上機嫌??

 が、これで確認する手間が省けた。間違いない。労働党の貝谷議員。市労連の会長である。

「君は、今年で2年目だったね」

「はい……?」

 初めて、市長が新聞から顔をあげた。

 薄い白髪まじりの髪、が、額はつやつやとして、一見して年齢不詳。目は力強く輝き、眉は凛としている。そこだけ……少しだけ、息子と似ている。見上げるほどに背が高いことも。

「上手い茶だ」

「は、……」

 内心、おののきながら、果歩は上ずった声で「ありがとうございます」とだけ答えた。

「ま、がんばりたまえ」

 嘘みたい―― 。

 それきり、再び新聞に視線を落としてしまった市長に深々と頭をさげ、果歩は浮足立つ気持ちで執務室に戻って行った。

 もしかして、存在さえ意識されていないかもしれないと思っていた。

 上手い茶だなんて―― 初めて言われた。きっと、機嫌がいいせいなんだろうけど、なんだか嬉しい。すごく嬉しい。ここ数日の憂鬱や不安や悲しみなんて、吹き飛んでしまいそうなほどに。

「へぇ、市長がねぇ」

「そうなんですよ。お茶もってって声かけられたのなんて、初めてで!」

 席についてその話をすると、パソコンでスケジュールを確認していた男性秘書の御藤は、何か思いあたる節があるらしく、意味ありげな目で果歩を見上げた。

「でも、的場さんには、ちょいと痛いことが原因かもしれないよ」

 なんとなく……嫌な予感はうっすらとした。

「いよいよ、息子さんの婚約がまとまりそうなんだろうね」

 カタカタとキーを叩きながら、御藤は続けた。

「結婚相手、なんだかすごい家の人だって聞いたよ。あ、これ、まだオフレコだけど」

「どうしてそれが、私には痛いんですか」

 むっと唇を尖らせてみせる。―― 大丈夫、この程度の演技なら、自然にできる。

「いやぁ、だって、仲良かったろ。的場さんと、真鍋ジュニア。俺からしたら、雄一郎さんが必死にアプローチしてるように見えたけど」

「なっ、滅多なこと言わないでくださいよ!」

 御藤は主幹で、40前の―― 年齢的にはおじさんだが、見た目も感覚も、かなり若々しい人だった。女性秘書は毎年代わるが、男性秘書は、真鍋市長が当選した2年目から、ずっとこの御藤が勤めている。

 今では、御藤なしでは秘書課は回らないとさえ言われている。そういう意味では、女性秘書は常に添え物のようなもので、御藤のサポート役という域を出ることはない。

 御藤はおかしそうに、声をひそめて笑った。

「君が冷静で、俺は内心ほっとしてたんだけどね。判ってるだろうけど、君の立場で……タブーだよ。俺が、真鍋市長の娘に手を出すようなもんだ。バレちまったらクビどころの騒ぎじゃ済まない」

「……市長に、娘さんなんかいないじゃないですか」

 自分の声が、自然にトーンが下がっている。

「たとえば、の話だよ。まぁ、雄一郎さんの女癖の悪さは有名だから、そのへん、市長も大目に見てるのかもしれないけどね」

「…………」

 忘れていた―― 忘れようとしていたあの夜の記憶。

 宮沢さんの騒動もあったし、あえて頭の隅に押しやっていた。思い出さないようにしていた。

「婚約って、本当にまとまりそうなんですか」

「ん? ああ―― らしいね。まだ内々だけのオフレコだけど」

 そうか……。

 どんな人だろう。真鍋さんの―― 全てを見ることができる幸福な人は。

 あれから、一度だけ真鍋から電話があった。秘書室の代表電話に。

 果歩は、ごく自然に対応し、にこやかに先夜のお礼を述べた。彼が口火を切るのを恐れるように―― 実際、その隙さえ与えなかった。

 察しのいい人だから、気がついたのかもしれない。いや、気づいたからこそ、彼もまた、淡々と先夜の無礼を詫び、なんでもないように電話を切ってくれたのだろう。

 もう―― かけてこないで。

 キスのことに、触れないで。

 忘れたいし、思い出したくないんです。二度と。

 そうやって、気持ちに整理をつけていきたいから―― 。

「なんでも、大物議員のお嬢さんらしいよ」

 御藤の声が、果歩を現実に引き戻した。「え、なんのお話です?」

「いやだなぁ、真鍋ジュニアの結婚相手。名前聞いたら驚くよ。それはまだ言えないけどね」

「…………」

「大物政治家の家族って、暗黙の了解でマスコミからは守られるだろ? ジュニアとの結婚も公にはならないだろうけど、内々じゃかなりの噂にはなるだろうなぁ。―― もしかすると、マジで、真鍋ジュニアの時代が来るかもしれないよ。この灰谷市に」

「……どういう意味ですか?」

「今の市長は三期が限界だよ。後継者はいない―― ワンマンな人だからね。判るだろ?」

「…………」

 それは……真鍋さんが、いずれ父親に代わって、市長選に出るということだろうか。

「国会議員の入り婿になるのなら、いずれは、国政に打って出るんだろうけどね。イケメンは得だなぁ。今は政治家も顔で選ばれる時代だからね」

「確かに、主婦受けしそうですよね」

 軽く返しながら、果歩は、気持ちが底なしに沈んでいくのを感じていた。

 想像してもいなかった。彼は……、真鍋さんは、そんな遠くにいってしまうんだ。

 もう二度と手の届かないほど遠くに―― 。

「的場さん、ちょっと」

 気づくと、入口のところで、沙穂が手を振っていた。

 あの日―― 沙穂一人を置いて帰った夜から、沙穂の機嫌は少しばかり悪かった。

 まぁ、それは当り前だ。私だって、逆に1人で取り残されたら、連れを恨んでしまうだろう。

「なんでしょう?」

 申し訳なさもあって、必要以上に機嫌よく沙穂の傍に歩み寄る。沙穂は、御藤の目を気にするように、果歩の腕を引いて戸口の陰に引き寄せた。

「実はね、ロビーに来てるのよ。この前の夜の人」

「え?」―― なんの話?

「ほら、ラウンジバーでご一緒した吉永さん!」

 自然に眉が曇っている。真鍋さんの叔父―― 強引で、少しばかり感じの怖かった人のことだ。

「私、つい携帯の番号教えちゃったの。てゆっか、的場さんからお礼も言わせなきゃと思ったし。実際、すごい料金だったのよ」

「す、すみません」

「で、今、下で待ってるの。吉永さん、的場さんに話があるんですって」 

「…………は?」

 意味ありげに目配せする沙穂に、果歩は思いっきり間の抜けた視線を向けた。

「なんで、ですか」

「そりゃ、あんた」

 周囲に聞こえないように声をひそめつつ、沙穂は肘で果歩をつついた。

「あんたに気があるからじゃないの?? だって、あの夜、彼、的場さんのことばかり見てたのよ?」

 ―― はい??

 それは多分、とんでもない誤解だが、沙穂は、それで用事は済んだとばかりに、さっさと席に戻ってしまった。

 ちょっと待って―― 。

 てゆっかどうして? あれから10日もたった今になって。

 正直、名前もうろ覚えで、ただ、感じが悪くて怖かった人という印象しか残っていない。しかも年は、真鍋よりさらに上で、果歩より一回り近く上である。  

 あ、冬競馬……。

 ようやくそれだけ思い出したものの、いったい自分に何の用なのか見当もつかず、果歩は首をひねりながら、ひとまず階下に降りて行った。

 

 *************************

 

「お待たせしました」

 市民ロビーで、探していた人の姿はすぐに見つかった。いや、探すまでもなかった。その背中を見つけた途端、すぐに顔や声を思い出していたから―― 。

 男はソファで脚を組み、掌で携帯を開いていた。果歩の声で顔をあげて振り返り、薄い唇に、例の―― 魅力的な笑みを浮かべてみせる。

「やぁ、またお会いしましたね」

 微笑してその傍に歩み寄りながら、果歩は、内心むっとしている。またお会いしましたねって……一方的に訪ねてきた人が言うセリフだろうか。

 ――やっぱり、この人苦手だわ、私……。

 というより、このトラブル続きの数日間はなんなんだろう。まさか、今頃になってあの夜の料金を払えとでも言いに来たのだろうか。

 一難去ってまた一難……。

 とはいえ、真鍋のことはまだ胸に重苦しくしこっているし、宮沢りょうとは怖くて顔が合わせられない。どの災難も完全に去ったとは言い難いのだが。

「先日は、本当に失礼してしまって」

「いやいや、構わないですよ。強引に誘ったのは僕なんだし」

「そんなことありません」まぁ、その通りなんですけど。「ごちそうになりました。私、挨拶もせずに帰ってしまって、……本当に申し訳なかったです」

「まぁ、そのお話は忘れましょう。今日はあなたにご相談がありましてね。雄一郎のことです」

 立ったままで会話を続けようとしていた果歩は、その言葉で表情を素に戻していた。

 真鍋さんのこと……?

 どういうこと?

 私にはもう、いえ、最初から関係のない人なのに―― 。

「さ、座って」

 促されるように、男の対面に腰をおろしている。果歩を見下ろし、男は野性的な目をすがめた。

「綺麗な脚ですね。いや、セクハラじゃないですよ」

「ありがとうございます」思いっきりセクハラじゃない。「あの……申し訳ないんですけど、執務中なので、そんなに長い時間お相手は」

「今は用件だけで、あらためてアフターファイブにお伺いしてもいいですよ」

「申し訳ありませんが、仕事がら、定時に帰れたことがないんです」

「では、お待ちしますよ。あなたの仕事が終わるまで」

「…………」

 なんだろう。この人は。

 確かに、魅力的な人だけど、なんだか少し気味が悪い。

「この写真、見てはもらえないですか」

 警戒を見透かされたように、男がテーブルの上に茶封筒を置いて、差しだした。

「私に……ですか」

「ええ、あなたに」

 にこやかに促される。胸の前で両手指を組むようして、吉永は上機嫌な表情を浮かべている。果歩はためらいつつも、封筒の中から数枚の写真を引き出してみた。

「あっ……」

 目を疑っている。全体的にうす暗くぼやけた写真。が、その中に映し出されているのは、まぎれもなく自分自身だった。果歩と―― そして真鍋の姿。

 クリスタルビルに連れ添って入っていく後ろ姿。店内で隣り合って顔を見合わせている場面、笑顔―― 果歩のバックを持つ真鍋。エレベーターから降りてくる所。2人の表情がぎこちなくなっている。ああ、キスの直後―― 。

「これ……」

「あなたですよね。的場さん。人が悪いな、はっきり言ってくれればいいのに、雄一郎とつきあっていたんですか」

 茫然としていた果歩は、その言葉で我に返っていた。

「違います! そんなことありません」

 吉永の目が、ますます楽しそうに細くなった。

「あの夜と同じ服ですよね。2人とも。……ああ、日付もそうだな。確かお父様が怒っているという理由で帰られたと記憶していますが、そういうことだったんですね」

 どう、言い訳したらいいのだろうか。が、困惑したのは一瞬で、すぐに怒りが感情の全てになった。

 なに、これ―― こんな、いやらしい。じゃああの夜、私たちはずっと誰かに見張られていたということ?

「いったい、何がおっしゃりたいんですか」

 頬が熱く火照る。果歩は睨むように男を見据えた。

「どう曲解されようと、私と真鍋さんは、友人程度の関係でしかありません。ほかに説明しようがありませんので、これで」

「まぁ、まぁ、僕の話を最後まできいて」

 なだめるように、男が両手で、座れのジェスチュアをとる。

 果歩は構わず、立ち上がろうとした。

「ほっとしましたよ。今のご返答をお伺いして」

 吉永の声は落ち着いていた。

「誤解されたようですから、申し上げますと、この写真を撮らせたのは僕じゃない。―― いや、僕はむしろ、あなたのご返事如何によっては、この写真が彼の父親の手に渡るのを阻止するつもりでいるんです」

「…………」

 どういうこと?

「奴の、縁談の話はご存じでしょう」

 膝の間で指を組んで、吉永は、やや陰った目で苦笑した。

「身内の恥を申し上げるようで恐縮ですが、雄一郎の幸福を望まないものが、うちの一族にはおりましてね。雄一郎自身は政治家などに興味も関心もないようですが、芹沢代議士の婿養子になるということは、いずれ国会議員になることが約束されたようなものでしょう。それは……こういってはなんだが、望んだ誰もが得られるわけではない。とてつもない幸運だ」

「…………」

 吉永が当然のように言った言葉が、果歩の胸に重い衝撃となってのしかかってきた。

 芹沢代議士―― 。

 もしかして、まさかと思うが、与党公新党の幹事長のことだろうか?

 果歩は、自身の血の気が引いていくのを感じていた。

(君はどう思う?)

(逮捕されると思う?)

 あの日、真鍋が見ていた新聞。その一面に映し出されていた仏頂面。まさか、あんな有名政治家の……お嬢さんが見合い相手だったのだろうか。

 政界の大物、影の宰相、ゼネコンの総本山―― 今も、政治規正法違反だとかで、連日逮捕されるかどうかが新聞を騒がせている。日本人なら知らない者がいないのではないかと思うほどの、有名政治家―― 芹沢陽一。

「とにかく、建設業界にとっては決して無視できない政治家だけに、会社にとっても影響は大きい。いい意味でも、悪い意味でもね」

 果歩の動揺を、むしろ楽しむように微笑すると、抑えた声で吉永は続けた。

「だからでしょうか、なんとしても、この結婚話を潰そうとしている連中がいるんですよ。幸いといっていいか、ここ半年、雄一郎の火遊びはなりをひそめています。―― 唯一彼の周辺に見え隠れする女性が―― 多分あなたなんでしょうね」

「私……」

 動揺から、ようやく現実が見えてくる。

 とんでもない誤解には違いない。私にとっても、それ以上に真鍋さんにとっても。

 が、いまさらながら果歩は気が付いていた。もし、こんな写真が真鍋市長の手に渡ったら―― 最も困った立場に追い込まれるのは、私なのではないだろうか?

「どうしたら、いいんでしょうか」

 目の前が暗くなるようだった。やましいことは何もない―― いや、本当に何もないのだろうか? 写真はこれだけ? エレベーターの中は2人きりだったから―― でも、でも……。

 それでも、私が、やってしまったことだ。

「ご相談にのりますよ。そして、我が家の事情も……多少はご理解いただいたほうがいいでしょう」

 今度、余裕を見せて立ち上がったのは吉永のほうだった。

「私が、市長に説明します」

 半ば、蒼白になりながら果歩は言った。

「こんな誤解で、真鍋さんの縁談に支障があったら申し訳ないですから」

「それは―― どうでしょう」

 再び、吉永が腰を下ろした。彼は少し驚いた目をしていた。

「賢い選択とは言えないな。あなた、義兄の―― いや、失礼、真鍋市長の秘書でしょう。失礼ながら、義兄の気性で、あなたのような子供の話をまともに受け取るとは思えない」

「…………」

 それは、確かにボスの真実を突いていた。果歩は黙って唇を引き締める。

「誤解されないように僕の立場をはっきりさせれば、僕は、雄一郎は今回の縁談を逃してはいけないと思っています。あなたには判らないと思いますが、雄一郎は光彩建設では非常に微妙な立場にありましてね。―― このままでは、やつの将来はないんです」

「どういう、意味なんですか……」

「以前、確かに雄一郎は光彩建設の後継候補でした。でも、今は違う。社内の派閥争いに敗れたんです」

「…………」

 色んな疑問が、頭の中に渦を巻いて、収集しきれないほどだった。この人は真鍋さんの味方なのだろうか? 微妙な立場? 派閥争い? 彼は会社のために結婚するようなことを言っていたけれど……。

「長いお話になるので、別の席を設けたほうがいいでしょう」

 吉永は、今度こそ満足そうに立ち上がった。

「さきほどは5時に、と申し上げましたが、あなたは時間が自由にならない立場の方のようだ。この写真の一件なら、すでにデータごと手に入れているのでご心配なさらなくていいですよ。ただあなたは―― この先、どういう理由があろうとも、奴と2人にならないほうがいいでしょうね」

「それは、ご心配いただく必要はないと思います」

 眉を寄せながら、果歩も立ちあがっていた。

「連絡しますよ。僕のほうから」

 吉永は果歩の顔をのぞきこむようにして―― 気遣うような微笑を浮かべた。

「心配しないで。僕は、雄一郎の味方です。だからこそ、あなたに忠告に伺ったんです」

 懐疑をこらえて、男を見上げる。真鍋さんの味方―― 。

「が、―― あなたがもし、本当に雄一郎に心を奪われていたなら、もっと残酷な言葉であなたを説得しなければならなかったでしょうね。そうならなくて、本当によかった」

 そこで言葉を切り、吉永はわずかに目をすがめて見せた。

「実のところ、僕はまだ多少の疑いを持っているんですよ。あの夜、あなたを見る雄一郎の目が、どうもただごとじゃないような気がしたので」

「そんなことありません」

 果歩は、きっとして否定する。吉永はおかしそうに、目元の表情を緩めた。

「まぁ、その話は、後日別の場所で聞かせてください」

「これ以上、私に話は―― 」

「まぁまぁ」

 なだめるような目になって、男は肩をそびやかした。

「あなたが本当に雄一郎に何の未練もないことを、少なくとも僕は確かめないといけないと思っているんですよ。あなたにその気はなくとも、あなたは―― そうですね。雄一郎にとっては、唯一の弱点なんですから」

 

 *************************

 

「年上といっても、たかだか3歳ですし、少し身体が弱くていらっしゃいますが、とても控え目でよいお嬢さんですよ」

「お写真を拝見しましたから」

 雄一郎は、微笑して頷いた。「とても、お優しそうな方だと思いました」心の中では別のことを考えている。

 余りものには理由があるというのは本当だな。ようは、30過ぎの売れ残った我儘娘を押しつけようという腹か。

 写真の女は、着物を着ていてもそれと判るほどの痩身で、相当濃い化粧を施していた。多分肌色がよくないか、地味な顔をしているのだろう。顎は尖り、首には皺がよっている。

 美しい―― とかろうじて言えるのは、見事な西陣と化粧だけで、他には何も言いようがなかった。とはいえ、たとえ素顔が写真以下の醜女でも、父親の威光だけで縁談は降る星ほどもあったに違いない。

 それでも、自分で決めたことだ。

 この10日、考えに考えて整理をつけた。その結末だ。

 一度だけ、電話した。

 予想通り、言い訳も謝罪さえも彼女は期待していなかった。その気持ちが判ったから、切った。何も与えることができないばかりか、彼女を傷つけるだけになると―― 判っているから。

 料亭「鴨はる」

 特別に用意させた席に、2人の男は向かい合って座っていた。

 見合い相手、芹沢しほりの代理人―― 数日前、雄一郎が会食の約束を一方的にキャンセルした相手である。

 申し訳程度に口をつけたビールのグラスを押しやりながら、雄一郎は人好きのする微笑を浮かべてみせた。

「ただ、少しばかり意外な気がしたのは確かです。何故、このような立場の方が、僕のような市井の人間を、相手として選んでくださったのか」

「何をおっしゃる!」

 代理人―― つまり、仲人になるのだろう。上品な背広に身を包んだ初老の紳士は、驚いたように白髪まじりの眉をあげてみせた。

 彼もまた、食事には殆ど手をつけていなかった。

 芹沢議員の遠縁に当たるというこの男は、都内で総合病院を経営していると言う紹介で―― 名を、南條史郎と名乗った。

「まがりなりにも、政令指定都市の市長の息子さんを、市井の人間とは言えませんぞ。芹沢と貴殿の父上は昔からの友人なのです。いってみれば、この御縁は、あなたが生まれる以前から定められていた運命なのかもしれませんなぁ」

 はっはっはっ、と息を吐くようにして南條が笑うので、雄一郎も同じように笑って見せた。「それは、素敵なお話ですね」何が運命だ、馬鹿馬鹿しい。

「しかし、僕に政治は、全く未知の分野ですよ。いえ、不満があるわけではありません。しかし、何故僕のような者が―― 」

「あなたは何か……こう、堅苦しく考えておるようですが」

 ごほん、と老人は咳払いした。

「先日も、そういった誤解を解こうと、食事会を計画したのですがね。誤解をおそれずにはっきりと言えば、芹沢は、何もあなたに後継を望んでいるわけではないのです」

 当たり前だ。望まれても、困る。

 雄一郎は生真面目に頷いてみせた。

「芹沢の支配が及ぶ会社に、あなたを今と同じポジションで雇い入れることも可能です。全てはあなたが望むようになされればよいのです。ご存じでしょうが、芹沢の個人資産は莫大です。芹沢はあなたに―― あなたが望むのであれば、その大半を譲っても構わないとさえ思っています」

 とんでもなく優しい顔で、とんでもなく失礼なことを言う男だ、と雄一郎は思った。

 人の心を金で買えると―― 当然のように思っているから、そんなセリフがごく自然に出てくるのだろう。

「僕が訊きたいのは」

 やんわりと、雄一郎は遮った。「それが、何故、僕だったのかということですが」

「ああ、そうでしたな。……失礼しました」

 ごほん、と、再度老人は咳をした。

「が、それは、私の口から申し上げるのは野暮というものでしょう」

 そして、まじまじと相手の内面を見透かそうとでもするかのように、雄一郎の顔を見つめた。

「今夜、お嬢様とお会いなさった時、直接お聞きになればよろしい。そう……私の口からは、説明しがたいことも多々ございます」

「なるほど」

 雄一郎は神妙に頷いた。なんだ、妙にもったいぶるな。

「では、そういたしましょう。しかし、今夜が見合いだということを……相手の方はご存じないとお伺いしましたが」

 それが、この話の一番奇妙な点だった。

 向こうから望んだ縁談のくせに、今夜、2人はパーティに偶然同席したという形で引き合わされる手筈になっている。

 事前に言い含められている雄一郎にしてみれば、まぎれもなく「見合い」である。が、相手の女性には、そうと気取られてはならないらしい。

 まったく、大変なお姫様だな。―― 正直、それだけで雄一郎はうんざりしていた。

 プライドが天より高いせいだろう。東大英文科卒―― 俺より上の大学で年も上。むろん家柄も財産も。つまるところ、どうしても男のほうから膝を折って頼まなければ承知しないということか。

「ひどく、内向的なお嬢様でございますから」

 控え目な口調で老人は続けた。

「あなたが、始終お傍におられればよいのです。あまり華やかな場においでになられない方ですから、他に話す相手もおりませんでしょう」

「そうですか」30過ぎて内向的……子供だな。「わかりました。そうしましょう」

 雄一郎は微笑して立ち上がろうとした。そろそろ時間だ。仕事の合間を縫ってセッティングした会合は、3時で終わる予定になっている。

「今のあなたをご覧になったら」が、老人は立ち上がらずに呟いた。「梶川さんも、さぞかし喜ぶことでしょうな」

「……梶川をご存じですか」

 思いがけない名を呼ばれ、用心深く雄一郎は訊いた。

「旧知の間柄というやつです。確か3年前に癌で亡くなられたのでしたな」

「僕が看取りました。家族も同然に世話になりましたから」

 梶川逸郎は、光彩建設の取締役副社長だった男で―― 母の死後は、実質雄一郎の後見を務めてくれた。義母とは犬猿の仲で、最後は体調不良もあり、追い出されるようにして役員を解任された。

「梶川とは、どういう……?」

「しかし、一言だけ付け加えさせていただくなら」

「はい……?」

 かみ合わない会話に戸惑って雄一郎は立ちすくむ。じっと見据える老人の目は、何か、物言いたげな深い含みを帯びていた。

「あなたに選択肢がないと思われているなら、それは大きな誤りです。あなたのご両親はこの結婚に大変乗り気のようでしたが……決めるのはあなただということを、どうか、お忘れになりませんように」

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