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年下の上司  作者: 石田累
62/202

extra1 年下の元カレ(最終話)


「彼女とは助役秘書時代の知り合い……臨時職員だったの」

「秘書課の?」

 驚いて訊き返すと、こくり、と美早は頷いた。

 病院の屋上。待ち合わせの約束をして、先に晃司が待っていると30分遅れで美早があがってきた。

 白いシーツがはためく屋上では、患者らしき数人が夕暮れの散歩を楽しんでいる。

「昔は私よりほっそりしてたのにね。あんなにデブデブになっちゃって……幸せ太りってやつかしら」

 辛辣に聞こえる言葉でも、嫌みなくさらりと言えるのが、昔から美早の得なところだ。

「いくつ?」

「私と同じ、……28よ」

「マジで?」

 今度こそ、晃司は本気で驚いていた。若く見積もって30代だろうと思っていたのに。

「なんか、オバサンみたいな名前だから、結構年いってんのかと思ったよ」

「チヨちゃん? ……そっかなぁ、千の夜って書くの。すごくロマンティックな名前だと思ってうらやましかったけどな」

「…………」

 てか、完全に名前負けしてるだろ、それ。

「想像もできないって顔してるけど、すごくもててたのよ。彼女。秘書課は、臨時も外見重視で採用するじゃない? その中でもダントツ」

「……へぇ……」

 言っては悪いが、想像の範疇外である。

「……なのに、あーんなさえないオジサンと結婚しちゃってさ。みんな吃驚よ。頭おかしいんじゃないって、結構やっかみ半分で陰口叩かれたりして」

 それには、晃司が眉をひそめて、反論したい衝動に駆られた。

 あーんなさえないオジサンとは、間違いなく三田村主査のことである。

「これオフレコだけど、千夜ちゃんには熱烈な信奉者がいてね。当時海外研修が決まってて、将来局長になるのは間違いないって言われてた人なんだけど、その人振って、15も年上のオジサンと結婚したの、信じられないでしょ」

「あのさ、そのオジサンって」

 言いかけた晃司は、ん? と眉を寄せている。

「ちょって待て、その……その、海外研修が決まってて、将来局長は間違いないって、もしかして」

「だからオフレコ。前園君の局にいるでしょ、その人」

 く、く、……窪塚さんか!!

「………」

 落ちた顎が戻らない晃司である。

 すっ、すごい過去を聞いてしまった……。

 愕然としつつも、これで窪塚とはフィフティ・フィフティだと思いなおす。

 自分の情けない本心や過去も、あの人には知られてしまっているのだから。

「窪塚さん狙いの女子、かなりいたからね。千夜ちゃん、まるでいじめられるようにして辞めちゃったけど……」

 辛辣な言葉をずはずばと吐きながら、それでも美早の目はずっと優しいままだった。

「千夜ちゃんには、最初からちゃあんと自分の幸せの道が見えてたんだなぁって。今思えばね……。当時は私も、しんじられなーいって、大騒ぎしたクチなんだけど」

「……いい人だよ、三田村さん」

「……知ってる。千夜ちゃんが、すごくいい人だから」

 夕暮れの中、2人はしばし無言になる。

「伊達も、千夜ちゃんみたいな人と一緒になれば……また、違う人生が待ってたのかもね」

 呟く美早に、晃司は何も言えなかった。

 伊達は役所をやめるだろう。先日、美早の姿を人事部で見た時から予感している。

 あのプライドの高い伊達が、人事課付の烙印が押された役所でやっていけるとは思えない。

 前向きに乗りきっていこうとしている美早にも、これからは、様々な問題や艱難が待ち受けているに違いない。子供があり家庭がある。何一つ失うものがない晃司に比べて、すでに引きかえせない重荷を負った美早は、多分、人生の遥か先を歩いている……。

「スタートは、一緒だったのにな」

「え?」

 なんでもないよ。晃司は苦笑して買っておいた缶コーヒーを差し出した。

「どうせ困る話になると思ったから」

「あ、ついに自覚したな」

 くすくす笑いながら、美早は缶コーヒーを受け取って唇につける。

「あの子のことなら、私から話すことは何もないよ」

 専制して、釘を刺された気分だった。

「私が何言ったって、自分と伊達の都合のいい話にしかならないでしょ。そんなのフェアじゃないし、前園君のためにならないもの」

「まぁ、そりゃ、そうなんだけどさ」

 全てが美早の言う通りで、なんとも間が悪い晃司である。

「前園君が、自分で判断して、決めればそれでいいんだよ」

「………」

「前園君の気持が確かなら、迷う必要は何もないと思うよ。……人にはいい面と悪い面があって……今見えている面だけが、その人の本当とは限らないから」

「………」

「……どんな人でもそれは同じ。私はそう思ってる……だからこそ……好きって気持が確かじゃないと、続かないと思うから……」

 夕暮れの空には、あざやかな金赤色が広がっている。

 雨など一滴も落ちていないのに、何故かその刹那、小さな雨粒が、晃司の胸に吸い込まれたような気がした。


 *************************


「前園さん」

 電卓を叩いていたら、頭上から声がした。

 誤った数字を叩き、晃司は口に出さずに舌打ちする。

「はい、何か」

 が、相手は本省、霞が関から派遣された折り紙つきのキャリアである。しかも、地元大企業の縁故絡み。間違っても機嫌を損ねていい相手ではない。

 ことん、と缶コーヒーが卓上に置かれた。

「この忙しい時に、大変ですね」

 優しげな――が、間違いなく上目線の微笑を浮かべて立っているのは、入江曜子。

 驚くほど中途半端な時期に係長として派遣されてきた年下の美人上司である。

「いただきます」

 晃司は丁寧に礼を言って、缶コーヒーを取り上げた。

 内心では、こんな時間にまだ残ってたのか、と驚いている。残業するほど、この人に仕事なんてあったっけ。――が、本省からきたエリートの主たる仕事はデスクワークなどではない。いかに人脈を築いてそれを強固にするかである。

 その意味では、むしろ晃司は、この仕事のできない係長を冷ややかに尊敬している。

「須藤さんまで休みだから……労災申請って大変なんじゃないですか」

 隣の席に腰を下ろし、曜子は妙になれなれしい声音になった。むろん、晃司はその分警戒している。

「そうでもないですよ。それに、いい勉強になりますから」

「わぁ、前園さんって、えらいなぁ」

「……はは」

「前から思ってましたけど、庶務とかも器用にこなす男性って素敵ですよね」

 あ、それ藤堂のことだな。

 そう思った晃司は、感情を顔に出さないまま、代わりに視線をパソコンに戻す。

 15インチの画面に開いているのは、公務災害の申請書式。

 帰宅途中に事故にあった三田村主査は、通勤災害に該当する。つまり、公務上の事故として、地方公務員災害補償基金に、治療費、休業費等を請求することができるのだ。

 その手続きは、絵図面入りの詳細な事故報告からはじまり、過去3カ月の平均給与額の計算、補償費の算定と、相当煩雑な作業になる。

 業務的には、須藤流奈の分担に当たるが、その須藤は出たり休んだりの繰り返し。

 いくら煩雑でも、庶務的な仕事は直に評価に繋がらないから、当然誰もやりたがらず、もちろん、本省のエリートに頼めるような雰囲気でもない。

 手を挙げたのは、晃司だった。

 この程度で恩返しができるとは思ってもいないが、流れ的に、これは自分だなと腹を括ったからである。

「前園さん……もしかして、余計なことかもしれないですけど。……」

「え?」

 仕事に集中しかけていた晃司は、少し驚いて振り返る。

「ほんっとに余計なことかもしれない。もしそうだったらどうしよう。言わないほうがいいのかしら」

「…………」

「どうしよう……多分、すごく余計なことだわ。……前園さん、気を悪くされるかもしれない」

 しおらしく逡巡する曜子を、晃司は半ばうんざりしながら見つめた。

 いや、そこまで言われて、つっこまないわけにはいかないだろ。俺の立場で。

「なんだろう、気になりますよ。仕事の話ですか」 

「まさか、仕事なら前園さんは完ぺきだもの」

 はいはい。

「えー、じゃあ、ますます気になるな。いったい何の話ですか」

 ちらっと、曜子が上目づかいに晃司を見上げる。

「秘書課の安藤さんの、……ことなんです」

 そっちか。

 さすがにすぐに、リアクションが出てこなかった。

「あー、やっぱりダメ、なんだか告げ口みたいなんですもの。自分がすごく嫌な女になったみたい」

「え、いや……」

「でも聞いちゃった以上、黙っておくのも罪なような気がして。前園さんは大事な同僚だし……、ああ、どうしよう。もしかしたら、すごくおせっかいなことしてるのかもしれない」

 てか…………。

 最初から言うつもりできたくせに。一生一人でやってろよ。

「いや、……その、もしかして、何か秘書課で噂にでもなってますか」

 仕方なく、自分から水を向けてやる。 

「知ってたんですか?」

 演技か本気か、意外そうな目になる曜子。

「まぁ、ある程度は噂になってんのかな、とは思ってましたから」

 というより、あれだけ大っぴらに、屋上や10階で会ってんだから、ならない方がどうかしている。

「そうですか……」と、思慮深そうな目になって、曜子はしばし、唇に指をあてるようにして黙っていた。

「じゃあ、私が聞いた範囲で、話させてもらいますね。噂が本当なら、市長秘書の安藤さんと前園さん……つきあってるってことなんですよね?」

「…………」

 そこは、微笑にとどめておいた。

「もし、前園さんが本気で彼女のこと好きなら、ここから先の話は聞き流してください。そうじゃないなら、少し足元を見た方がいいんじゃないかと思います。彼女、今年の春まで不倫してたんです。相手の家に何度も押しかけて、何百回も電話して……本当にストーカーみたいにしつこくつきまとっていたみたい。相手の男性、名前は言えませんけど、今は病休で休まれてます」

 さすがに、唖然と口を開けていた。

「……それで」

「彼女的には、不倫相手への復讐を済ませたつもりだったんでしょうけど、そういうのって、後からいくらでも人の口に上りますよね。病気になったのは将来ある職員だし、人事だって当然調査に入ります。……彼女、困った立場に追い込まれてたんです。本当は」

「…………」

「それで急場しのぎに前園さんを利用したんだって、秘書課では公然の噂です。あの子、市長のお気に入りだから、今は大きな顔してるけど、もし来年の市長選で市長が変わったら……」

 晃司はただ、考えている。

 最初から今まで、冷静に考えれば、どこか不自然だった安藤香名の態度のことを。

「前園さんだって、危ないですよ」

 いかにも心配そうな顔に、他人を蹴落すことに慣れきったある種の勝利感をひそめ、耀子はすっくと立ち上がった。

 

 *************************


「何か私の顔についてます?」

 きょとんとした目で、自分を見上げる安藤香名の顔を、やはり晃司は、可愛いな、と思っていた。

「いや、別に」

「だって、さっきから、私の顔ばかりみてますよ」

 頬を膨らませながらも、香名はまんざらでもない表情になっている。

 平日のアフターファイブ。初めて2人で食事した店。

 あの夜と同じ、顔と顔を寄せ合うほど狭いテーブルの個室席で、2人は数日ぶりに向かい合っていた。

「これから、どこ行きます?」

 初めて晃司から誘ったせいか、香名はいつになく上機嫌だった。ほのかに酔いのまわった眼を潤ませて、上目づかいに晃司を見上げる。

「もしよかったら、前園さんの部屋に行きたいな。秘書課で美味しい紅茶をいただいたんです。どこかでケーキでも買って」

「君と俺って、本当に似てるよな」

 微笑したまま、晃司は女の声を遮っていた。

「……どういう意味ですか?」

「いや、言葉どおりの意味。俺は君とつきあうに当たって、頭の中でうんざりするほど、色んなこと計算したんだけど、君も同じだと思ったら、なんか、こうおかしくなって」

 ふっくらした唇に微笑を浮かべたまま、香名の目だけが冷めていくのが判った。

「私のことで、何か……誰かに言われたんですね」

「言われたけど、そんなことこれっぽっちも信じてないよ」

 晃司はきっぱり言い切った。

「うそ、だったらどうして、そんな笑い方をするんですか」

「いや……本当におかしいんだ」

 晃司は視線をさげ、再びこみあげた笑いを噛み殺した。

「こんなに似た相手には、二度とめぐり合えないかもしれない。なのに、なんで俺、君と別れようとしてんのかなって」

「……意味、判らないんですけど」

「君は、俺なんか好きじゃないんだ」

「好き?」

 香名の眉が跳ね上がった。

「私がいつ、前園さんのこと好きだって言いました? それくらい判ってるんだと思ってました。私、何も恋愛感情から前園さんに近づいたわけじゃないですから」

「将来の出世を見込んで?」

「いけません?」

 香名の目が開き直る。「前園さんも、それは同じだと思ってましたけど」

「その通りだよ。だから言っただろ。俺と君は似た者同士だって」

「……もう、こんな話やめません? 前園さんが、そんな野暮な人だとは知らなかったわ」

「やっと判ったよ」

 香名を無視して、晃司は続けた。そう――やっと判った。入江曜子の悪意に満ちた告げ口のおかげで。

 伊達の性格からは到底考えられない嫌がらせの数々。そして、妙にあっさりと罪を認めた、その背後にあるものが。

「俺には計算しかなかったけど、君はそうじゃなかったんだ。そういう意味では、君のほうがまだ純粋で可愛いよ。君はさ、最初から俺じゃない別の人間を見てたんだ」

「だから、何の話なんですか!」

「まだ、伊達が好きなんだろ」

「…………」

「俺に近づいたのは、俺が伊達にとって特別な存在だからだろ? 君は、伊達に思い知らせたくてしょうがないんだ。自分を選ばなかったことを後悔させたくてたまらないんだ」

「…………」

「どれだけ君に懇願されても、伊達は、美早とは別れなかった。そうだろう? 君にはそれが、どうしたって許せなかったんだ」

 伊達の病気の原因が、安藤香名のいやがらせに起因したものか、それとも純粋に仕事上の問題だったかは判らない。想像するに、おそらく両方だったのだろう。

 いずれにしても、伊達は20歳そこそこの新人職員に手を出して、夢中にさせた揚句に捨てた。男女のことであっても、この場合、年長者である伊達の罪のほうが、遥かに重いと晃司は思う。

 その罪深さを知っているから――美早も伊達も――2人して安藤香名を庇っていたのだ……。

「君への負い目から、言いなりになるしかない伊達を使って、嫌がらせメールを送らせたのも君だし、あの夜、伊達にわざと後をつけさせたのも君じゃないのか? それが判った時、俺はむしろ、君が可哀想でたまらなくなったよ。そんなにまでして、君は伊達の」

 ばしゃっと、顔面で水が弾けた。

 髪から滴り落ちるカクテルを、晃司は嘆息しながら手で払う。

「最低ですね」

 怒りも動揺もない、淡々とした声がした。

「思い知るのも後悔するのも前園さんのほうですよ。今夜の侮辱、私、絶対に忘れませんから」

「わかったろ」

 晃司も言った。「俺が、笑いたくて仕方なかった理由がさ。俺だって、自分が馬鹿だというくらいの自覚はあるよ」

 最後まで聞かずに、香名は席を立っていた。

 1人になった晃司の耳に、店内の喧騒が戻ってくる。

 たとえば、こつこつと積み上げてきた階段が一気に崩れるとは、こんなことを言うのだろうか。

 それでも、妙にすがすがしい気持ちで、晃司も席を立っていた。

 

 *************************


 店に入る前は晴れていたのに、外は、ぽつぽつと雨が降っていた。

 傘はない。

 空を見上げ、晃司は夜の街を歩きだした。通り過ぎる人が、ちらっ、ちらっと振り返る。多分、シャツを紫色に濡らしているカクテルのせいだろう。

 さて、……これからどうしよう。この姿では、役所にも戻れないし。

 この数日間、自分を無駄に高揚させたり、蔑んだりしていたものが、全部流れたような気分だった。が、それと同時に、将来の夢まで流れたことを、晃司は、肩をすくめたくなるほどのバカバカしさで実感している。

 香名に言われるまでもない。自分がいかにバカなことをしたかというのは、おそらく後日、さらに身にしみる形で味わうことになるのだろう。

 海外研修はいいとしても、来年度に控えている人事異動。それも安泰とは言い難くなった。今後、いかにも執念深そうな安藤香名が、どのような虚言を振りまくか判らないからである。

 ――ま、いっか。

 入江曜子の言葉もある。もし――あまりない可能性だが、来春の市長選挙で、今の市長が敗れたら、役所の勢力図は一気に書き換えられることになるからだ。

 が、連続三期で市長を務めるがちがちの保守派市長に、これといった対抗馬が出てくるとは考えられず、その可能性は、やはり極めて薄いものと言わざるを得なかった。

 それでも、全てをなくしたわけじゃない。

 やたら女に絡まれたこの数日間で、初めて見えてきたものもある。

「おう、須藤、お前、何してるんだよ」

 ようやく繋がった電話に、晃司は思わず声を高くしていた。

「何やってんだよ。電話くらい出ろよ。いや、別に警戒しなくても、昔の話なら蒸し返したりしないって」

 ――なんの用ですか。

 全くいつもの須藤流奈らしくない、暗い声音が返ってくる。

「ちょっと、出られないか、今から」

 青い傘とすれ違う。別人と判っていても、晃司はふと振り返っていた。

 明日……果歩に会おう。

 昼に、食事にでも誘ってみよう。

 百パーセント断られるだろうけど、それはそれで仕方がない。

 なんたって、ゼロ以下からのスタートだ。相手に好きな奴がいることも承知している。そこんとこは、まだ上手く整理がつかないけれど。

 まだ……自分の気持ちが理解できないし、認めるのが怖いような気がするけれど。

 ――このまま、藤堂には渡せない。

 それは意地でも打算でも悔しさからくる未練でもなくて、もっと、純粋な動機からだ。

 胸の底に、まだあの日頬に受けた雨の滴が残っている。

 それが本当の意味で乾くまで、もう少しみっともなくあがいてみるのも、いいのかもしれない。

 晃司は苦笑しつつ、雨の街を歩きだした。


                           

                                 

年下の元カレ(終)


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