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年下の上司  作者: 石田累
6/202

story1 April「100エーカーの森の人」(終)

 4月も後半。

 総務にとっては、人事異動後の2度目の喧噪が始まる時期である。

 連休が月末から月始めにまたがっている。つまり月初め〆の提出物を、連休前と連休明けに、猛ダッシュで作成しなければならないのだ。

 それ以外にも、本省に提出する書類も山積みになっている。定時に帰れたのはほんの数日で、果歩もまた、連日の残業を余儀なくされるようになっていた。

「的場君、お茶」

「これ、コピーして、大至急」

「何を無駄なことをしているんだね、君の時間給を分に直したら」

「すまんがね、今日はミルクにちょっぴりココアをいれてくれんかね」

 殺伐とした忙しさの中、中津川補佐の傲慢な物言いも、春日次長の嫌味も、那賀局長の甘えも、不思議なほど、素直な気持ちで頷くことができた。

 それも――。

「的場さん」

「はい」

 果歩は、即座に立ち上がり、声をかけてくれた庶務係長、藤堂の席に歩み寄る。

「この起案ですが、パーセントの出し方に誤りがありますね」

「あ、はい」

「直してください」

「はい」

 すっと起案文書が差し出される。果歩をわずかに見上げる目。元通りに直された黒縁の眼鏡が、その綺麗な目元を覆っている。

 実は、これには、少しばかりほっとしている果歩なのである。

 多分、藤堂は相当イケメンなのだと思う。黒目がちの切れ長の眼は、男らしいのに涼しげで、じっと見つめられると、吸い込まれそうになってしまう。

 大きすぎる身体の印象が強すぎて、きっと、眼の輝きや顔の端正さがかすんでいるのだ。

 もしかしなくても彼は、学生時代、相当もてていたのではないだろうか。

 あれから二度、果歩は屋上で、藤堂と共に食事をした。

 すぐに忙しくなって、夜は深夜残業、昼もサプリメントかカロリーメイトで済ますようになったから、ここ数日、個人的な話はしていない。

 が、それでも果歩は――この上司が上席にいてくれるだけで、不思議なほど気持ちが穏やかになるのを感じていた。

 どんなに仕事がハードでも、どんな無理を要求されても、なんでもないような気がしてしまう。

 それに、本当に危機に陥ったら、きっと藤堂が何気なく手を差し伸べてくれそうな気がするのだ。

 晃司からは、あれから一度も連絡がなかった。

 時計は、残業の日に、晃司の机の上に何気なく置いてやった。

 局内ですれ違って、たまに物言いたげな視線をぶつけられることもあるが、もう果歩は完全に無視している。

 こちらから連絡するのも癪なので、そのままにしているが、もう晃司も、自然消滅したものと思っているに違いない。

「藤堂さんっ」

 流奈だけは相変わらずだった。さすがにあからさまなアプローチは控えているようだが、庶務係に来る度に、必ず甘えた声であいさつしていく。

「今度、飲みにつれてってくださいね~、約束ですよ~」

 などと言う声がこれみよがしに聞こえてくるが、それもあの日、屋上で2人で話して以来、あまり気にならなくなっていた。

 別に藤堂に、特別な感情を持ってもらっていると自惚れているわけではない。

 果歩にしても、藤堂のことを特別異性として意識しているわけではない……と思っている。

 ――そうよ、いい上司っていう、それだけ。

 仕事ができて、優しい……そしていい人。部下にとってみれば、こんな幸運もないと思う。

 その日も残業で、気がつけば夜の9時になっていた。連休前、仕事のない計画係は空になっているが、庶務係は、藤堂以下全員残っている。

 ――眼……痛……。

 パソコンから眼を上げ、果歩は目をしばたかせた。

 最近は、疲れるとすぐに眼にくる。きっとコンタクトを乱用しすぎているのだろう。いっそのこと、視力回復手術でも受けようかな、と思う。

「ええ……はい、わかりました」

 藤堂の声がした。電話の応対をしていたのだが、いつになくその声に困惑が滲んでいるような気がする。

 何気なく横目で見ると、受話器を置いた藤堂は、ふぅ……と、疲れたように嘆息し、唇をまげてネクタイを緩めている。

 疲れているのかな――と、ふと思った。

 連日の残業、若い彼には、プライベートで会いたい人はいないのだろうか。

「コーヒー、淹れましょうか」

 果歩は立ち上がって言っていた。

「あ、悪いねぇ、的場さん」

「俺、砂糖たくさんいれてくれる?」

 その場に残っていた者から、口々に、嬉しげな声があがる。が、

「係長は……」

 と、黙ったままの藤堂に、そっと声を掛けると、

「いえ、僕はいりません」

 意外にそっけない声が返って来た。

 少しだけ寂しさを感じつつも、果歩は、隣の管理課の残業組にも声を掛け、総勢10名にコーヒーを淹れるために、給湯室に向かった。

 サーバーに豆を淹れ、水を注いだ所で、狭い給湯室に不意に人が入ってくる気配がした。

「的場さん」

「……は、はい」

 吃驚して振り返っていた。声だけで分かる、藤堂である。

 心臓に悪い、ドキドキする。こんな狭い密室で向き合うと、否応なしに緊張する。

「コ、コーヒーでしょうか」

「いえ……」

 藤堂は、何か言おうと口を開きかけ、そのまま再び唇を閉じた。

「……?」

「……すみません、少し……つきあっていただけますか」

 いつになく言いにくそうに声をひそめると、藤堂は髪に指を差し入れた。

 シャツを肘までまくっているから、逞しい二の腕が、露わになっている。

「……今、ですか」

「はい、多分、お手間は取らせません」

「……あ、はい……」

 なんだろう。

 妙に気まずげにしている藤堂の態度を不審に思いつつ、果歩は頷いていた。

 

 

*************************

                  

 

 

「書庫に……呼ばれまして」

 暗い廊下を歩きながら、藤堂は、言葉少なに、目的の場所を説明した。

「……書庫ですか」

 都市計画局の書庫は、ひとつ上の階にある。広い部屋で、局各課が共用で使っている。

「はぁ、高いところにあるものが、取れないそうです」

「………?」

「時間も時間ですし、まぁ、男1人ではどうかと」

「……はぁ」

 意味がよく分からないまま、ひとまず藤堂について階段を上がり、書庫の扉の前に立った。

「面倒だったら、そこにいてください」

 藤堂はそれだけ言って、ガチャッと、ノブを掴んで扉を開ける。

 中は薄暗かった。細長い、奥行きの広い部屋で、中央を戸棚で2つにしきってある。

 奥の方だけ電気がついているのか、ほんのりと明りが漏れていた。

 藤堂が足を踏み入れたので、果歩も不審に思いつつ、足音を忍ばせてその後を追った。

「だから、もう前園さんとは、おつきあいできないんです」

 唐突に聞こえてきた声に、果歩はぎょっとして足を止めた。

 独特の癖がある、鼻にかかった声。流奈の声である。

 ――前園さん? まさかと思うけど、晃司のこと?

 そう察した瞬間、心臓が停まりそうになった。

 ではこの書庫の奥に、晃司と流奈がいる、ということなのだろうか。

 前に立つ大きな背中も止まっている。横顔がちらり見えたが、藤堂にも予期せぬ展開だったのか、困惑気味に眉を寄せている。

「なんでだよ、いまさら……どうしてそうなるんだよ」

 晃司の声だ。

 果歩といる時とはまるで違う。駄々っ子のような、子供っぽい声。

「だって、二股なんてひどすぎます、……私……もう、そういう関係、辛いんです」

 涙声。

 ――は?

 と、果歩は唖然としていた。なんなの、これ。

「さっきも言いましたけど、私、いまは藤堂さんが好きなんです。……ごめんなさい、前園さん」

「ちょっと待てよ。なんだっていきなり、そういう話になるんだよ」

 ようやく――果歩は理解した。

 さっきの電話。あれは、流奈が藤堂をここに呼び出したのだ。

 無論、この場所に晃司がいるのは、偶然でもダブルブッキングでもない。

 あらかじめ、流奈が、晃司を呼んでいたのに違いない。

 2人の会話を藤堂に聞かせるためにだ。

「そんなの納得できるかよ。ちょっと待てよ、果歩のことはなんとかするから」

 自分の名前がふいに出たことで、果歩は全身の血が引くのを感じていた。

 前に立つ男が、ふいに背を固くしたような気がする。

「言ったろ。一緒にいてもつまらないんだ。最初は秘書だし、高嶺の花って感じであこがれてたけど……年だってもう30だし」

「……そんな、的場さんがかわいそう」

 果歩はうつむいた。焔を浴びたように頬が燃え、自分の拳が震えていた。

「あんな年になって、局長にミルクしか淹れられない甘えたところも嫌だしさ。だいたい、果歩の過去、知ってるだろ?」

「……的場さん、本当は、前園さんと結婚したいんじゃないですか」

「こないだ言われたよ。吃驚した、冗談じゃないって、俺、きっぱり断ったから」

「……行きましょうか」

 晃司の声に、藤堂の声が重なった。

 果歩は動けなかった。足も、手も、舌さえも石のようだった。

 奥にいる人の気配が、びくっとして固まったのが分かる。

「……藤堂さん?」

 流奈の声がした。わざとらしくおびえた声。

 まだ、流奈が何か言っている。藤堂に手を引かれ、果歩は――引きずられるように、書庫を出ていた。

 

 

*************************


 

「すみません」

 階段の半ばで手を離し、藤堂は、心底申し訳なそうな声で言った。

 果歩は、ただ、顔だけで笑った。

 ――大丈夫。

 大丈夫。私は、大丈夫。

「……僕があさはかだった……本当に、申し訳ない」

「いえ」

 うつむいて、足だけを速めながら果歩は言った。

「藤堂さんがお困りなのは、よく分かりましたから」

「的場さん、」

「本当にいいんです、気になさらないで」

「……いえ、あの」

 藤堂は、いつになくしつこく食い下がる。

「放っておいてもらえます?」

 いきなり感情が爆発した。

 自分でも驚くくらいだった。

「同情なんてされたくありません、あなたは上司ですけど」

 藤堂を見上げる。分かっている、不幸な偶然――というか、流奈が仕組んだ罠に、偶然果歩がひっかかってしまっただけだ。

 藤堂に罪はない。彼に当たっても仕方がない。

 分かっていても、一度堰を切った感情は止まらなかった。

「人間としては、年下で、……あなたに、同情される筋合は何もありませんから!」

「…………」

 虚を突かれたような顔で、藤堂は口をつぐむ。そのまま、何も言わなくなる。

 ――こんなこと……言うつもりじゃなかったのに。

 果歩は目を逸らしながら、同時に激しい後悔を感じていた。

 何言ってんだろ、私。藤堂さんには、それこそなんの関係もないことなのに。

「……そのとおりです」

 が、藤堂は、わずかな沈黙の後、素直な口調でそう言った。

「申し訳なかった。お仕事の邪魔をしてしまいました」

 そのまま、何事もなかったように階段を降りていく。

 果歩は、溢れ出しそうな感情を抱いたまま、黙ってその後について行った。

 

 

 *************************


 

「的場君」

 給湯室に戻った果歩は、驚いて足をすくませた。

 こんな時間に、まさかこの人が残っているとは夢にも思っていなかった。局次長の春日である。

 スーツを身に纏った長身の男は、コーヒーポットを手にしたままで、怒りのこもった目を果歩に向けた。

「君は、こんな時間に何をやっているんだね」

「……すみません、仕事がたまっておりまして」

「そんなことを言っているんじゃない!」

 気短な声と共に、ばしゃっと淹れ立てのコーヒーがシンクにぶちまけられていた。

 果歩は――信じられない思いで、その光景を見守った。

「君はなんのために血税を使って残業しているんだね。職員に愛想をふって、コーヒーを淹れてやるためか!」

「…………」

 びりびりと、空気を震わすような声だった。

 多分その声は、フロア中に響き渡っている。

「そんな暇があったら、少しでも早く仕事をしようとは思わないのか。君ももう30だ、笑いさえすれば、周りが許すような年じゃないんだぞ!」

「…………」

「そもそも、何故他課の者に、総務の君がコーヒーを淹れてやる。コーヒーは来客接待用、職員は自費で買うのが決まりだろう」

「僕が頼みました」

 背後で声がした。

 うつむいていた果歩は、それが藤堂の声だと分かっても、それでも顔があげられなかった。

「申し訳ありません。僕が彼女に頼みました。皆、連日の残業続きで疲れているようでしたので」

 春日は、ぎょっとした風に振り返る。そして、苦々しげに舌打ちをした。

「……君かね、藤堂君」

「民間会社に勤めていた時の癖が抜けていないようです。給料が税金でまかなわれていることを失念しておりました。申し訳ありません」

 淡々とした声のまま、藤堂が頭を下げるのが分かる。

「ならば、今後は気をつけたまえ。上司なら、部下に無駄な仕事をさせてはいかん」

 吐き捨てるようにそう言うと、春日は肩をそびやかして給湯室を出て行った。

 果歩は動けないままだった。

 藤堂が歩み寄る。果歩の傍をすりぬけて、シンクに散ったコーヒーを、布巾で拭い始める。

「……私……やりますから」

「春日次長は厳しい人ですが」

 感情を抑制したような声がした。

「……決して理由もなく怒る方ではないと僕は思っています。的場さんを思いやっての事だと思いますよ」

「…………」

 あれの?

 どこが?

 何も知らないくせに、分かったようなこと言わないで。

「もういいですから、出てっいってもらえません?」

 自分のものではないような声が出た。

「私やります。お願いだから、ああいう時、私のこと庇ったりしないで下さい」

 動きを止めた藤堂の手から、乱暴に雑巾を奪い取る。

「悪いけど、余計みじめになるんです。あなたに、同情されていると思うと」

「…………」

 藤堂が困惑している。疲れたような、かすかな嘆息が聞こえる。

 多分、こう思っているに違いない、女は理解できない、女のヒステリーにはつきあえない、と。

「……それは、僕の年が下だからですか」

「ええ、そうです。やりにくいんです。年下の上司なんて」

 分かっているのに、感情の抑制ができない。

 悔しくて情けない。9年近く、完璧に色んなことを我慢し続けてきたのに、どうしてこのタイミングで、その仮面が壊れてしまったんだろう。

「……30って、そんなにやばい年ですか」

「…………」

「私、そんなに……人からみたら、甘えた、つまらない女ですか」

 蛇口をひねる。溢れ出した水にコーヒーの沁みた布巾をさらす。

 冷たい水が肌に触れた途端、我慢していた涙が零れた。

 みっともない――、と思った瞬間、背後から伸びてきた手に、布巾ごと手を包まれていた。

 大きな手は、すっぽりと果歩の手を包み込み、それでも余裕があるようだった。

 背後から、その手より――さらに大きな身体に包まれている。

 何が起きたのかそれでも理解できなくて、顔を上げると同時に、唇が被さってきた。

 信じられなかった。

 まるで身体ごと、大きな熱に飲み込まれたように――身動きできないまま、ただ果歩は、水の流れる音だけを聞いていた。

 藤堂の手が、蛇口を締める。締めながら、キスを続けている。水に濡れた冷たい手がブラウス越しに感じられる。いつも、決済を持っていく時に感じる、微かな髪の香りがする。

 暖かくて、少しだけ乾いた唇。どこかぎこちない、それでも優しいキスだった。

「…………」

「…………」

 唇が離れ、背中から少し強く抱き締められても、まだ果歩は――今起きた事が現実のものだとは思えないままでいた。

「藤堂係長、お電話ですが」

 執務室から声がする。

「はい、今行きます」

 なんでもないように藤堂が答える。

 そのまま、すっと身体を離し、藤堂は大きな背を向けて、給湯室を出て行った。



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