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年下の上司  作者: 石田累
57/202

extra1 年下の元カレ(4)

「うわっ、ひどいねー」

 のぞきこまれた第一声がそれだった。

 もともと憂鬱だったものが、ますます憂鬱になるような気がしながら、晃司は男の肩ごしにパソコン画面を見る。

 翌日――午後8時の執務室。

 すぱっと帰ろう水曜日(役所内の標語)とあって、残業組は殆どいない。

 近年はどの市町村も財源不足で、残業は極力しないようにと、毎年のように副市長から依命通達がなされている。

 灰谷市では、水曜日と金曜日、そして給料日が定時退庁日に指定されていた。

「朝来たら、必ず夜の内に届いてるんです。1日あたり200通前後。最初はまめに消してたんですけど、なんだかもう、どうでもよくなってきて」

「消しちゃだめだよ、こういうのは」

 パソコンをのぞいていた男――都市デザイン室の窪塚主査は、ひゅっと楽しげに口笛を吹いた。

「開いてみた?」

「いえ、ウィルスが怖くて……えっ!」

 ぎょっとした晃司の目の前で、窪塚はさっさと一番先頭のメールを開く。

「ウ、ウィルスとか、大丈夫なんですか」

「平気だよー、添付ファイル開くわけじゃなし。ウィルスソフト入ってるだろ? こうやってメールが開けること自体、安全ってこと」

「そ、そうなんですか」

 会話が途切れ、2人ともしばし無言になった。

 画面に刻まれた文字列。

 すげーな、と晃司は内心呆れている。文字じゃなくて、記号だよ、もう。

 

 死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね……。

 死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね……。

 

「コピペだろうけど、なんだか凄まじい執念を感じるね」

「そうっすね」

「これほど恨まれる覚え、ある?」

「まぁ、これほどはないですけど、多少、くらいなら」

 晃司は暗い眼を、席空けとなっている対面に向ける。加藤康司。まさか、そこまでする人だとは思わなかったが、今のところ、思い当たる節は彼しかいない。

「役所内から来たかどうかって、わかんないですか」

 それを確認したくて、あえて人のいない時間を選んで窪塚に声をかけた。

 なんでも窪塚は個人のホームページを持っているらしいし、パソコンに詳しいという定評があるからだ。が、わざわざ他課の窪塚を相談相手に選んだのは、それ以外の要素のほう強かった。

 パソコンのウィンドウをあれこれ開いては閉じていた窪塚は、ひょうひょうとした目で振り返った。

「庁内じゃないね。アドレスが別モン。調べてみなきゃわかんないけど、ネットカフェとかマンキツとか、そのあたりじゃないの?」

「マンキツ……?」

「漫画喫茶」

 あっさりと答えた窪塚は、再びパソコンに向きなおった。

 庁内じゃない……。とすると、少しばかり判らなくなる。メールは、勤務時間内にも届いている。加藤はここ最近休みを取っていないし、滅多に外に出ることもない。

「心当たりって役所内? もしかして女がらみとか?」

「女? まさか」

「僕は、恋愛がらみと見たけどね。女を手ひどく振った、とか」

「そ、それはないですよ」

 手ひどく振られたことはあったけど。

「今つきあってる子、いる?」

 晃司の中で、わずかな空白の時間があった。

「……いないです」

 そうか。いない――とも、言えないか。

「そっかぁ、じゃ、その線もナシか。女の元カレとかがやってんのかな、と思ったけどな」

 窪塚は軽く言って、ぎっと椅子を軋ませる。

「で、どうするよ。ここまでされると、もう立派な犯罪だよ? 僕が調べるっても、たかが知れてるし、ぶっちゃけ無理」

「まぁ、そうですよね」

 晃司にしても、忙しい窪塚にそこまで甘えるつもりはない。

「ただ、全部国内の、しかも同じサーバー使って来てるから、相手は多分ド素人。はっきり言ってバカだね、こいつ。プロの手にかかれば簡単に特定されると思うけど」

「…………」

「ま、できないか。どう考えても、もらう君にもダメージがあるしね」

 そのとおりだった。

 相手が加藤だと特定できれば別だが、そうでない限り、理由がなんであれ、表沙汰にした時点で、自身へのダメージは免れない。

 論文審査以前に、それこそ下手をすれば、自分が区に飛ばされかねない事態になる。

 というより、そうまでして自分を恨む相手とは何者だろう。

 つきあっている女子(安藤香名?)の元彼……。それも、今の段階ではありえない気がするものの、万が一その可能性があるとしたら、余計に表沙汰にはしたくない。

「もちろん、上司にも言ってないんだろ。まぁ、だから僕が呼ばれたんだろうけど」

 窪塚は振り返って、こきこきと腕を鳴らした。晃司はあらたまって頭を下げる。

「すみません。時間外に申し訳ありませんでした。うちの課長が、パソコン操作に困るといつも窪塚主査に相談されるんで……主査なら、詳しいことが判るのではないかと思いまして」

「はは、それに、基本人畜無害だしね。相談したところで、誰にも洩らされる心配がないからだろ」

 図星だった。

 やっぱりこの人は頭がいいな、そう思いながら、晃司は用意していた缶コーヒーを出す。

「お、気がきくね」

「今度、昼メシでも奢りますよ」

「いいよ。何も役に立ってないんだから」

「口止め料です」

「ははは、そりゃいい」

 笑いを止めた窪塚はふっと、素の顔になる。

「まぁ、余計なお世話かもしれないけど、早めに上司に報告したほうが無難だとは思うけどね」

「………」

「人事評定の時期だし、外聞気にするのは判るけどさ。刃傷沙汰になってからじゃ、手おくれだから」

 晃司は無言で、自身もコーヒーのプルタブを開ける。

「あれだったら、総務の藤堂君にでも相談してみたらどうかな? 彼なら口は堅いし、トラブル処理にはうってつけだと思うよ」

 死んだってできるか。

「年下ですよ。俺より二つも」

 冗談めかして答えたが、「関係ないだろ」と、窪塚は、意外そうに眉をあげた。

「誰を基準にするかだけど、役所に年下の上司なんてゴロゴロいるよ? 断言してもいいけど、相手の年なんかにこだわってたら、絶対にいい仕事はできないね」

 そうだ……。ゴロゴロいる。

 仕事のできる奴、できない奴。それで判定されるならまだしも、学歴、試験の種類、人脈、派閥、それから――世渡りの上手さ、下手さ。最後に運。

 そんなもので、人生の大半を過ごす役所でのポジションが決まってしまう。

「窪塚さん、主査に昇格されたの、同期で一番早かったんですよね」

「ん? さぁ、どうだろ。よく知らないけど」 

 余裕だなよ。できる人ってのは。

 苦笑しつつ、晃司は続ける。

「俺、最初の3年、区役所にいたんです、南の課税」

「ふぅん」

「俺、島根の出で、……関東圏が多い同期の中じゃ、わりとバカにされてたっていうか、まぁ、相手にされてない感じがあって。その上区役所だから、なんていうのかな、なおさら、下に見られてた感じで」

「ただの被害妄想じゃない? それ」

 気にせずに、晃司は続けた。

「同期が、本庁の税務部に行ったんです。つまり俺の元課。同じ年の奴に、いちいちお伺いたてたり、アドバイスもらったり、なんとも言えない3年でしたけど」

 なんとも言えないどころではない。最悪の3年間だった。

「税務って、もしかして税制担当?」

 興味なさげに聞いていた窪塚が初めて視線を向ける。

「あ、はい」

「ふぅん、新人で? そりゃ確かに優秀なんだ」

「2年前、確か税から法務部に異動したから、確実なエリートコースってやつじゃないですか?」

 苗字は伊達(だて)、下の名は知らない。横浜国立大法学部出身。色白の優男で、女のような綺麗な目鼻立ちをしている。その年の合格者の中でトップ成績。最初から、出世コースに乗っているような男だった。

 それでも――最初の頃は、まだ友人だと思っていた。屈辱的な立場ではあったが、同期入庁した仲間だし、仕事を離れれば同い年の友人なのだと。

「いつだったか、問題ケースの相談に、補佐と2人で本庁の税務部に行ったんです。2人して執務室横の会議室で待たされて……、外の声がこんなに聞こえるって、多分気づいてなかったんでしょうね」


(また区役所のバカが来たか)

(少しは自分で考えてくれって言いたいですけどね。まぁ、下手なことされて、こっちが泥被るのはゴメンですから)

(前園ってのは、君の同期か。気をつけろよ。区なんかに飛ばされたら、5年は昇格が遅れるからな)

(間違っても、区なんかにはいきませんって。いくら同期でも、あんな田舎モンと一緒にしないでくださいよ)


 会議室に座る定年前の補佐は何も言わなかった。

 やがて、とりすました顔で入ってきたのは、まだ40代になったばかりの若い補佐と、同期の伊達。

 あの日の惨めな経験は、骨身にしみるほどよく覚えている。

「年下の上司は、確かに役所にはゴロゴロいます。でも俺、自分が下の立場には、絶対なりたくないんです」

「もしかして、伊達君のことかなぁ。何年か前、議長秘書の子と結婚した」

「えっ」

「その当時、僕、議会事務局だったからね。多分出てるよ、結婚式」

 しまった、と、晃司は内心強い舌打ちをしている。うっかり、心の暗い部分にある思い出を吐露してしまった。相手が人畜無害だと思いこんで、つい警戒を解いていたのかもしれない。

「んじゃ、知らないかなぁ。今、伊達君、人事課付だよ」

「えっ?」

 人事課付。

 その不吉な響きの持つ意味を知っている晃司は、思わず立ち上がりかけている。

 休職が長期に及び、所属を人事課に移された者――つまり、実質的なリタイヤ組。

「事情は知らないけど、心を病んじゃったみたいだね。多分、奥さんとも離婚してるよ。それが原因だったのかどうかは知らないけど」

「………」

「ごちそうさん、なんか今夜は降りそうだね」

 缶を机に置いて、窪塚は立ち上がった。

 雨粒が窓を叩き始めたのはその時だった。

「僕に言わせれば、役所なんて、長く細くつとめあげるに限るけどね。人生は短いし、その大半をこうやって役所で過ごしてるんだ。ま、肩肘はらずに楽しくいこうや」

 

 *************************

  

「前園さん?」

 携帯に出ると、囁くような声がした。

 安藤香名からの電話であ。

「ああ、何?」

「今、お仕事です? もしよかったら、会えないかと思って」

 え? と思わず時計を見ている。10時前だ、こんな時間に?

「今、どこにいるの?」

 男子更衣室。窪塚が帰った後、残っていた仕事を片付け、丁度帰ろうとしていた晃司は、置き傘をロッカーから取り出した。

「まだ、秘書課に残ってます」

「マジで? 俺は、今帰るとこだけど」

「あ、私も……」

「じゃ、一緒に帰ろう。1階のエレベーターホールで待ってる」

 丁度、会いたいと思っていた。とはいえ、恋情とはまた別の意味で。

 例のメールの送り主。もしかすると相手は、安藤香名の線かもしれない。さすがに、面と向かっては聞けないが、探りを入れてみる必要はある。

 しかし、どうする。エレベーターに乗り込みながら、晃司はしばし考える。

 つきあっているかどうかも定かでないのに、いきなり元彼のことなんて聞けやしない。嫉妬深いと思われるのも、夢中になっていると思われるのも癪に障る。

 だったら、直球で本題に斬りこんでみるか。――が、もし安藤に、これっぽっちも思い当たる節がなかったら、これは大きな墓穴である。

 自分だって、逆だったらイヤだ。日に200通も嫌がらせメールをもらう女なんて、ちょっと困るし、重たすぎる。

 ――今夜は、たちまち距離を詰めるか。

 晃司は冷静に計算する。

 前回、初めてのデートであそこまで許したんだから、今夜はそれ以上はいくだろう。

 ホテルは、ちょっと早すぎる。

 どこか、2人になれる場所で――ムードがあって、食事が上手くて、キスと、まぁ、ちょこちょこっと、その手のことができそうな場所。……

 額を押さえ、晃司は、軽く嘆息した。ダメだ、何も浮かばない。

 ここ数年、これっぽっちも外で遊んでないから、何一つ思いつかない。

「…………」

 果歩とは……そういや、俺のアパートで会うばっかだったな。

 

(仕事忙しいなら、家で食べたほうが明日が楽でしょ。私、作るの全然苦にならないから、気にしないで)

 

 食事も作らせてばっかで、外に食べにいったのなんか、数えるくらいだ。

 俺はいつだって仕事にがつがつしてて、余裕がなくて、なのに果歩は文句ひとつ言わずに、俺の帰りを待っててくれたっけ。

 一度、何かの記念日にホテルのレストランに連れて行ったら、ものすごく喜んでくれて……。

 いけない、何考えてんだ、俺は。

 回想にふけりそうになっていた晃司は、慌てて首を横に振った。

 今から会うのは、俺の人生にとって、かけがえのない存在になる相手だ。

 いってみれば、取引先の社長に会いに行くようなものなのだ。

 残酷なようだが恋とは違う。南原の言っていたとおり、計算ずくで選んだパートナー。

 確かに、南原の話を聞いた時は、嫌な気分になった。ささやかな自己嫌悪も感じた。

 でも、今は思っている。計算ずくのどこが悪い。誰と結婚したって似たようなものなら、自分にとってより有利な相手を選ぶのは、当然の選択じゃないか。

 安藤香名にしたって同じことだ。彼女は、おそらく、自分のキャリア形成のひとつとして、俺の将来に賭けたのだ。

 女だって、男を計算して選んでいる。

 果歩だってそうだろうし、……最初、役所に入って一番最初に、たった2カ月つきあった女も、多分そうだったに違いない。

「…………」

 かすかな溜息が唇から洩れた。

 さきほど窪塚から聞いた話が、まだ胸に重く淀んでいる。

(多分、奥さんとも離婚してるよ。それが原因だったのかどうかは知らないけど)

 やめよう。過去にとらわれるのは。

 いずれにせよ、俺には、感情だけの恋愛なんてできない。

 果歩だって、結局は自分のキャリアに有利になると思ったから、声をかけた。

 元市長秘書で、総務の局長担当秘書。その経歴だけが、本庁に異動したばかりの25歳の若造には、ふるいつきたいくらい魅力的だった。――それだけだ。

 エレベーターが一階で止まる。

 薄暗いロビーを見まわした晃司は、長身の女のシルエットが、玄関前に所在なく立っているのに気がついた。

「あ、」

 駆け寄って名前を呼ぶ前に気がついた。安藤香名ではない。

 ――果歩……。

 薄いベージュのハーフコート。

 雨が落ちてくる空を、不安げに見上げていた果歩は、うつむいて傘を取り出し、ゆるく振ってから、前にかざした。

 ぱんっ……と、鮮やかな音と共に、水色の傘が開く。

 晃司は不思議な眩しさを感じ、瞬きをした。

 何か、言葉にできない感情が胸いっぱいに広がった気がしたが、それが何なのか分からないまま、気がつくと、水色の傘は、夜の闇の中で小さくなっている。

 なんだろう……なにか、すごく大切なことを思い出しかけた気がする。傘が音をたてて開いた刹那、でも、それは何だったんだろう。

「前園さん」

 背後から明るい声がして、晃司の思考は打ち切られる。

「ごめんなさい。お待たせしちゃった?」

「いや、そんなことないよ」

 淡い照明に下に出てきた安藤香名は、はっとするほど美しく見えた。

 身体のラインがはっきりと判るニットに、白の、膝頭までのフレアスカート。

 メイクも完璧で、とても午後10時の顔には見えない。

「急に、我儘なこと言っちゃって……恥ずかしい」

「馬鹿だな。そんなこと、思ってないよ」

 自分らしくない甘い台詞に、やや歯が浮き気味になっている。いや、考えるな、自分。相手は取引先の社長だと思え。

「で、何? 何か俺に用だった?」

「……相談したいことが……」

「え?」

 ためらったように俯いた安藤が、わずかに潤んだ瞳を上げる。

「あまり、人に聞かれたくないことなんです。それに、怖くて?」

 怖い?

「どこか……2人で、話せる場所ってないでしょうか」


 *************************


「わぁ、素敵な部屋」

「冗談だろ、安いコーポなのに」

 冗談だろ――とは、今の、あまりに上手く転がった状況に言ってやりたいセリフだった。

 どこに連れていくべきか、と、あれこれ考える必要なんて何もなかった。

(俺の家、近くだけど)

(お邪魔してもいいんですか)

 それだけで、あっさりと今夜の予定が決まってしまった。多分、2人の関係の行末も。

「なんか飲む? コーヒーくらいなら作るけど」

「あ、それは私が」

 ――しかし、昨日掃除しといて、マジでよかった。

 基本、綺麗好きな晃司は、2日に1回は、しっかりと部屋の掃除をする。

 部屋で食事することもないから、食器もためたことがない。

「随分……お部屋、綺麗なんですね」

 が、キッチンの前で、室内を見回した安藤香名の目は、称賛とはやや違う色を浮かべていた。

「誰か、お掃除にきてくれる人がいたりして」

「それはないよ」

「そうかなぁ、前園さん、もてそうだもの」

「買いかぶりだよ。むしろ、女子には敬遠されるタイプだと思ってたけどな」

 水を容れたケトルをコンロにかけて、戸棚から、久しく使っていないカップを取り出す。

 買いかぶりだよ。と、言いながら、そのカップは、須藤流奈が買ってきたものだし、ケトルは、果歩が買ってくれたものだった。

 物に感傷する必要はないから、今までさほど気にしたことはなかったが、なんだか今日は、妙にそれらの過去が心苦しい。

 果歩との付き合いは打算で、須藤は知らず深みにはまってしまった浮気。

 で、利用価値たけで、つきあうことを決めた目の前の女。

 ああ……。俺って、とことん、サイテーな男かもしれない。

「あ、そうだ。今日、職場でいただいたケーキがあるんです」

「へぇ」

「私、用意しますから、前園さん、座っててくださいね」

「うん、ありがとう」

 ケーキかぁ、こんな時間にきっついなぁ。……

 そう思いつつ、晃司は座椅子に背を預けた。

 あー、疲れた。

 眠いわ、マジで。

 こんな状況で、勃つより、眠い俺ってなんなんだろう。もうすっかり仕事やら出世やらに心が持っていかれて、女に対して無感覚になってんのかもしんない。

 目を閉じると、すーっと深みに落ちていくような感覚があった。

 闇の中に、鮮やかに開いた水色の傘がある。

 ――果歩……。

 なのに俺、なんで、果歩に限って、あんだけしつこく拘ってたのかな。

 未練かな……いや、違う。

 確かに、失って初めて知った未練みたいな感情もあった。が、一番大きかったのは、あの男――新任の係長、藤堂瑛士の存在だ。

 なにしろ、民間から来たというだけで、晃司ら生え抜きが最短でも10年はかかる係長の座に、あっさりと据えられた。

 しかも、局総の係長職。

 こういっていいなら、出世には一番近いコースである。

 それだけでも、晃司には屈辱だったし、許せなかった。

 わずかな失敗もすまいと、歯を食いしばって過酷な残業に耐え続け、それでも、30代前半で係長になれるのは一握りだ。

 なのに、たかだか民間大手出身というだけで、どうして労せずしてそのポジションを得ることができるのか。民間の風を通すだか何だか知らないが、不条理な人事にもほどがある。

 さらに言えば、普段はいかにも凡庸な、間が抜けていそうな顔をしているのに、仕事となると容赦なく欠点を見抜き、こちらが反論できない知識と理論を振りかざす所も気にいらない。

 ケンカが強かったり、スポーツが上手かったり――それを全部、普段はおくびにも出さないところにも虫唾が走る。

 昔から、クラスに一人はいた「俺、全然勉強してない」と言いつつ、確実に満点を取る性格の悪い奴によく似ている。

 がんばっている姿は、見せるべきだというのが晃司の昔からの持論である。能力をあえて隠すのは、その人の傲慢であって奥ゆかしさでは決してない。

 ずっとスポーツの世界で生きてきた晃司は、競い、高めあうことの美しさを知っている。故に、自身の能力を隠し、それをだまし打ちのように見せつける輩には反吐が出る。

 藤堂という男は、晃司にはその典型で、多分、一生好きになれないタイプだった。

 そんな男に――よりにもよって、須藤はともかく、果歩が惚れてしまった。

 全身で否定しなければ、あの当時の晃司は、心が壊れてしまいそうだった。

  ……すげー嫌いなヤツに、大切なもんを取られるのって、きついんだ、マジで。

 晃司にとってその経験は、果歩が初めてではない。

「前園さん?」

 近くで聞こえた声に、はっとして目を開く。うとうとしていた――少しばかり、眠っていたのかもしれない。

「ひどい、寝ちゃうなんて」

「ごめん、疲れてて」

 目の前に、香名の顔があった。

「私は、ドキドキして、すごく緊張してるのに、前園さんは寝れちゃうんですね」

「いや、狭い部屋に君みたいな子と2人だと、目を開けとくのも毒になるから」

「もう、冗談ばっかり」

 顔の距離は離れない。

 膝をついた香名は、潤みを帯びた目でじっと見つめている。

 無防備なのかわざとなのか。身をかがめて上から晃司をのぞきこんでいるから、少し視線をさげれば、白くたわわな胸のふくらみが半ばまで見えそうだ。

 実際、数秒後には、晃司はしっとりと量感がありそうなその胸に目をやっていた。

 ごくり、と不用意に喉が鳴った。

 これはもう、後には引けない。

 観念というより、自分の中の男スイッチが無意識に入っている。

 肩を両腕で抱いて、抱き寄せながら唇を重ねた。乳房の重みが晃司の胸におしつけられる。こめかみの奥で、警鐘じみた動機だけが激しくなる。肉感的な唇は、想像以上にエロティックな衝動を加速させる。

 それでも、頭の片隅の一点で、まだ晃司は冷静さを保っていた。

 ここで主導権を握るのは、あくまで自分でなければならないからだ。

 キスを続けながら、ゆっくりと床に押し倒す。柔らかい身体は時折、震えながらも、抵抗の意は示さない。

「前園さん……」

 怯えた目が、晃司を見上げる。演技か? それとも本当に経験がないのか?

 しかしそんな目をしながらも、香名は自分の脚の間に晃司の脚が入り込むのをすんなりと受け入れている。

「嫌だったら、やめるよ」

 とはいえ、もう晃司にもそこまでの余裕はない。絶対にノーと言われない自信があるから、無理強いではないと確認するために訊いたようなものだ。

 潤んだ目を閉じ、香名は首を横に振った。

「嫌じゃない……。嬉しいです」

 多少なりとも焦らされて、晃司も少しばかり性急になっている。

 じゃあ――と、再び唇を重ねようとした時だった。

 けたたましい音がして、晃司と香名は、同時にがばっと跳ね起きていた。

 キラキラとガラスが飛散する。

 窓のカーテンが舞い、そこから、新しいガラス片が床に落ちた。

「きゃあっっ」

 ごんっ、ごんっと、重たい塊が、2人の足もとに転がってくる。

 ――石……?

 石だ、石が外から投げ込まれたのだ。

 がっと立ち上がった晃司は、カーテンを開いて階下を見下ろす。

 闇の中、あわい街路灯の下、黒い背中がさっと消えるのが見えた。足音だけが、夜の住宅街にひびいている。

「悪い、ここにいて!」

 間違いない。絶対にメールの男だ。

 ちくしょう、俺の家を見はってたのか、なんてこった。

「待って、前園さん!」

 背後から、いきなり香名がしがみついてくる。

「大丈夫、すぐに」

「私、誰がやったか知ってるんです!」

 激情を吐露するような声だった。

 ――知っている……?

 香名はうなだれ、覚悟したように顔をあげた。

「実は私、ずっとストーカーにつきまとわれているんです。今夜は、それを、前園さんに相談したくて……」

「ストーカーって、君に?」

 こくり、香名は頷く。

「私にも隙があったと思うと、申し訳なくて誰にも相談できなかったんです。もし、表沙汰になって、相手があることないこと主張しだしたら、私……秘書課にいられなくなるような気がして」

 その気持ちが、手に取るように判る晃司である。

「相手って、誰なの?」

「有名な人だから……前園さんも名前くらい知っていると思いますけど」

 役所の奴か。

「法務係にいた、伊達さんなんです」

 ――…………。

 伊達?

 法務に伊達って、もう一人いたっけ。

「もしかして、……まさかと思うけど、人事課付の?」

「彼、病気のせいもあると思うけど、なんだか頭がおかしくなってるんです。それで……あんなこと」

 うそだろ。

 晃司は、ただ、茫然としている。

 嘘だろ、誰か嘘だと言ってくれよ――オイ!



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