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年下の上司  作者: 石田累
51/202

story7 October もう1人の年下の上司(13)

「これは、一体どういうことかね!」

 藤堂の予言は、思わぬ形で的中した。

 16階の特別会議室。

 いまだかつてないほど顔を赤くした春日次長の前に立たされているのは、勤務中、いきなりこの場に呼び出された果歩である。

 春日の傍らには、志摩課長と政策課長、そして入江耀子と藤堂が立っている。

「的場君、君の職員証はどこにある」

 ねめつけられ、果歩はただ、うなだれた。

 迂闊にもほどがあるが、化粧ポーチのことはすぐに気づいても、職員証を紛失していたことは、指摘されるまで気がつかなかった。

 春日は舌打ちをして、果歩の職員証を、机の上に叩きつける。

「公務員は、職務外であっても、決して市民の信頼を裏切るような行為をしてはならんのだ。それを――民間人と飲みに行き、泥酔した挙句に暴れるとは何事だ!」

 昨日の騒ぎが、どうしてそんな筋書きにすり替わってしまったのか。

 しかし、成り行きだけを取れば、全てが作り話とも言えず、また、今日休暇を取っている流奈の名前を出すわけにもいかず、果歩はただ、黙ってうなだれ続けている。

 藤堂もまた、一言も口を開かず、ことの成行きを見守っているようだった。

 実際、彼は、昨夜の詳細を何も知らないのだから、口の挟みようがないのかもしれない。

「怪我をした相手は、訴訟も辞さないと言っているそうだ」

 苦い声で、春日は続けた。

「迂闊にもほどがあるぞ、的場君! 君はいったいいくつかね? 若い者にまじって、バカ騒ぎに興じるような年ではあるまい!」

 春日の一言一言が、ぐさりぐさりと胸を刺す。

 ひどく惨めで悔しかった。でも、何も言い返せない。

「春日次長、私にも責任があることです」

 苦しそうな顔で、口を挟んだのは入江耀子だった。

 果歩は内心、拳を握りしめている。

「会をセッティングしたのも私ですし、的場さんの傍にいて、止められなかったのも私です。本当に……責任を感じています」

「まぁ、入江君はまだ若いし、責任うんぬんの話ではないよ、これは」

 すかさず、政策課長がフォロー。

「幸いといっていいのかどうか……相手は、入江君と旧知だというし、そのあたりから、訴訟だけは思いとどまるよう、話をしてみてもらったらいかがでしょう」

「いずれにせよ、すぐに相手方に謝罪に伺いたまえ!」

 春日は、厳しく言い捨てた。

「言っておくが、訴訟になった場合、君の進退に影響がでてくることだけは避けられん。それを肝に命じ、誠心誠意、相手が納得するまで謝罪するんだな!」

「……はい」

 果歩は、唇を噛んで、頷いた。

 まったく、とんでもないことになってしまった。

 果歩に殴られ、怪我をしたと訴えている男、有宮尚紀。

 都英建設の若き専務で、社長の息子。母親は全国に展開するホテルグループの、取締役に名を連ねている。

 経歴もそうだが、男としても相当に危険でやっかいなタイプに違いない。

 しかも、今にして思えば、ワインを頭にぶちまけ、バックで顔をひっぱたいてしまった。それはまぁ、プライドの高い男なら怒るだろう。自分のしでかしたことをものの見事に棚に上げて。

「今、有宮氏は休暇中で、市内のホテルに滞在しておいでです。大丈夫です、私が案内しますから」

「すまないね、入江君」

 春日が苦く呟いて、額に手を当て席につく。

「では、私と藤堂君が同行しましょう」

 志摩の表情も流石に冴えない。

 春日と志摩。普段、弱い部分を見せない2人が、本当に困惑しているのを感じ、果歩もまた、事の重大さに、足がすくむような不安を感じている。

「いえ、同行するのは、僕と入江係長でいいでしょう」

 初めて藤堂が口を開いた。

 それまで、存在感の欠片もなかった男がいきなり口を挟んだので、全員が、驚いたように振り返る。

「それで話がつかない場合に、課長にご同行お願いします。最初から課長を出せば、それだけうちのカードが少なくなりますから」

「カードだのなんだの言っている場合かね」

 部下の口応えに、春日はむっとしたようだったが、「だったら、君の好きにしたまえ」と結局は苦々しく顎を引いた。

 

 *************************

             

「残念だったわね、的場さん」

 本庁舎の地下駐車場。

 藤堂が、車を駐車場から出す間、束の間2人になった入江耀子は、楽しそうな目を果歩に向けた。

「昨日、一緒に楽しくやっていれば、あなたも私側の人でいられたのに」

 果歩は、まじまじとその清楚な顔を見る。

 正直言って、まだ内心は信じられない。

 これだけ綺麗で――仕事もできて、上司や同僚の信頼も厚い人が、なんで子供じみた職場イジメに夢中になっているんだろう。

「残念だけど、有宮君は絶対に訴訟の話を持ち出すわよ。どこで取り下げるかは、これからのあなたの誠意しだいになるのかしら」

「…………」

「流奈のことを持ち出しても無駄よ。あの子が自分の過去を喋るはずがないし、証拠なんて何もないんだから」

 それは、最初から判っている。昨夜のメンバーの誰もが――多分、市の女子職員たちでさえ、果歩の不利になる証言しかしないだろう。

「自分のやっていることが、恥ずかしいとは思わないの」

 憤りが突き上げる。何を言っても無駄だと判っていたが、それだけは言いたかった。

「あなたのような人に、私が言うまでもないけど、職場は学校とは違うのよ」

「そうね。でも、結局、この職場を追われるのはあなたで、私じゃないわ」

「…………」

「素敵なセリフは、負け犬が吐いても惨めなだけじゃないかしら」

 藤堂が車を寄せてくる。

 2人の会話はそれきりとなった。


 *************************


 最上階の豪華なホテルの一室で、ソファにふんぞり返っている男は、昨夜とは別人のような不機嫌な顔をしていた。

 遠目だから怪我の様子は判らないが、額には白いガーゼが貼り付けてある。

「失礼します。灰谷市役所から参りました」

 扉の前で、まず藤堂が一礼してから口を開いた。入江耀子は涼しげな目で、果歩の背後に控えている。

「あ、そこで。悪いけどそれ以上入らないで」

 こちらを見もせず、有宮は冷たい口調で吐き捨てた。

 指示どおり、果歩たち3人は絨毯の手前で足を止める。

「怪我のせいで寝不足だし、頭痛もする。あまり人と話したい気分じゃないんだ」

 とはいえその口調も態度も、この部屋はお前らみたいな木端役人の入れる所じゃないんだ――と、言っているように、果歩には聞こえた。

「悪いけど、謝罪なら受けるつもりはないよ」

 水とおぼしき液体の入ったグラスを持ちあげ、有宮はわざとらしく嘆息した。

「全く、どうなってるのかな、こちらの市の職員管理は。酒に酔って一般人に乱暴するなんて冗談じゃない」

「まことに……申し訳ありませんでした」

 悔しさを押し殺し、果歩は深々と頭を下げた。

「だから、いくら謝られても、無駄だっていったでしょ」

 有宮はうるさげに片手を振る。

「こっちは、耀子の友達だと思って親切にしてやってたのに……あきれたよ。何を勘違いしたのかしらないけど、いきなりそこの女が暴れ始めて」

 果歩はぐっと唇を噛む。

「僕に酒を頭から被せた揚句、鞄で顔を叩かれたんだ。こんな酷い目にあったのは初めてだよ。土下座されたって物足りないくらいだ」

 それは――私と流奈のセリフだ。

 果歩は顔を上げていた。どうせ訴訟になるなら、こっちだって受けて立つ程度の脅しはかましてやりたい。

「ただ、昨日の件に関しては、私にも」

 藤堂の背中が、果歩を遮るように前に出た。

「的場の上司の、藤堂です」

「藤堂?」

 はじめて有宮が、眉をしかめて、こちらを見る。

 藤堂は、緋色の絨毯に足を踏み入れ、驚く有宮の前に、断りもなく歩み寄った。驚いた果歩が止める間もない。

「あらあら、有宮君、ますます機嫌が悪くなっちゃうわよ」

 背後で入江耀子が、楽しそうに呟く。

 果歩もまた、びっくりしているし、動顛もしている。

 藤堂の背中の影になって、有宮の表情は判らない。が、いきなり大男が近づいてきたのに驚いたのか、慌てて立ち上がるのだけは判った。

 ――それから。

「え、瑛士さん?」

 鶏のような素っ頓狂な声に、驚いたのは、果歩だけではないだろう。

 入江耀子も、不意打ちをくらわされた人のような顔をしている。

「市役所の、藤堂です」

 藤堂は、再度繰り返した。

 片や、有宮は、人が変わったように慌てている。着崩したシャツを改め、ベルトを締め直し、直立不動になっている。その口が、みっともないくらい、ぱくぱくと動いている。

「ま、まさかと思いますが、昨年、都英を退職された……藤堂というのは、あの」

「僕です。その節はお世話になりました」

 有宮1人が顔を赤くしたり青くしたりしているが、藤堂の口調は最初と少しも変わっていない。

「いっ、いえいえ、僕は何もっ。あの、名前が……? えと、その、どういう事情かまるで知らなかったものですから……大変失礼申し上げました」

 最後は、蚊の鳴くような声である。

「ちょっと、有宮君、なんなのよ、これ」

「馬鹿! お前は出てくるな!」

 飛び出しかけた入江耀子に、今度は有宮が怒鳴りつけた。

 そうして有宮は、再度藤堂を見上げ、驚くほど深く頭を下げた。

「申しわけありません。全ては僕が、度を越して飲み過ぎたことから来た誤解のようです。役所には謝罪を入れ、話は全て取り下げさせてもらいます」

「そう言っていただけると、こちらとしても助かります」

 淡々と藤堂。

 果歩はただ、唖然としている。

「お、お預かりしております、そちらの方の忘れ物……などは、こちらで全て綺麗に致しまして、返送させていただきます」

「須藤さんの服も、忘れないようにお願いします」

 その瞬間の、一気に蒼ざめた有宮の顔を、果歩は一生忘れないだろう。

 隣では、まだ入江耀子がぽかんと口を開けている。

「帰りましょうか、的場さん、誤解も解けたようですし」

「は、はぁ……」

 振り返った藤堂は、何事もなかったかのように、普段どおりの微笑を浮かべた。

「相手が、物分かりのいい人でよかったですね」

 唖然度では、むろん果歩が上である。

 て、てか、どうなってるの、これ。

 何が起きたのか、さっぱり判らないんだけど……。


 *************************


「先に降りてもらえますか」

 藤堂にそう言われたのは、意外なことに的場果歩のほうだった。

 役所内の地下駐車場に入る手前。

 駐車するには多少の時間を要するから、同乗者はたいてい手前で下車する。耀子は、自分も降りようとしたが、「入江さんは、このままで」と藤堂に呼びとめられた。

 なるほどね。

 耀子は腹を括って後部シートに座りなおした。

 ただの唐変木だと思っていたら、とんでもない伏兵だったというわけだ。

 帰りの道中、ずっと物言いたげだった的場果歩は、未練たっぷりに振り返りながら中央玄関のほうに消えていく。

 それでも藤堂は、しばらく車を動かそうとしなかった。

「なんでしょうか? 言いにくい話なら、手短にどうぞ」

 足を組みながら、耀子は先に切り出した。

 藤堂の目は、前を見ている。そのままの姿勢で、彼はようやく口を開いた。

「今回の件は、僕の口から、全て春日次長に報告させてもらいます」

「それで? 春日さんに、私がどうにか出来るとでも?」

 挑発するつもりで言ったが、フロントミラーに映る藤堂の目は動かなかった。

 あまり度の入っていない、黒縁の眼鏡。――ようやく耀子は、この人とどこかで会った――そんな印象を抱いた理由に思い至った。

「あまり、力で、何もかも動かせると思わないほうがいい」

 静かな口調だった。

 耀子は、わずかに眼をすがめる。

「どんな世界にも、上には上がいるんです。力だけで築いた関係は、いつか必ず覆されます」

「上には上……。それがあなただって言いたいんですか」

 失笑と共に、耀子は辛辣な口調で言い返していた。

「驚いたわ、有宮君をあんなに怯えさせるなんて。あなた、いったい何者なの? 人にお説教なんてしている場合? あなたこそ、力で全てを解決しようとしているんじゃない」

「そうかもしれません」

 あっさりと、藤堂は認めた。

「止むを得なかったとはいえ、今回のことは、少々反省しています」

「…………」

 そうか。

 昨夜、開かないはずの扉が開いたのも、多分、この男の仕業だろう。

 耀子には、もう藤堂の背後にあるものがうっすらとだが透けて見えている。

 もし、この勘が当たりなら、有宮がああも恐れた理由も理解できる。それどころか、もし、この男を味方に出来れば、自分にとっては、とてつもないバックになる。

「いいえ、私こそ、……少し、感情的になってしまって」

 短い時間に頭を切り替えた耀子は、しおらしく、視線を伏せてみた。

「正直言うと、本当はほっとしているの。だって、私も、有宮君にはいいように使われてきたから」

「…………」

「私、養女なの。18の時、分家から本家の養女に入ったから、……本当言うと三輪グループ内では、すごく下の立場」

 寂しげな微笑は、自分でも惚れ惚れするほど完ぺきなはずだった。

 藤堂は、まだ前を見ている。

「有宮君の機嫌を損ねたら、義父も義母もひどく怒るの。私は……しょせん、有力な婿をもらうために引き取られたようなものだから」

 ようやく車が動き出した。運転手の反応は一切ない。が、耀子にはそれでよかった。人の心など、そう簡単に動かせるものではない。今は、一石投じておくだけで十分なのだ。

「これを機会に、私も少し、自分を見つめ直してみるわ。今回は、……本当にありがとう」

「そんなに自分に自信がないですか」

「…………」

 何を言われたのか判らなかった。

 耀子は黙って眉を寄せる。

「そんなに、自分の居場所がないことが不安ですか」

「…………」

 なにそれ。

 なによ。

 どういう意味よ。

 てゆっか、私の話、ちゃんと耳に入ってるんでしょうね。

「あなたなら、ただ笑っているだけで、人気者になると思うけどな」

 厭味のない笑いを含んだ声だった。

 全く無意味なことを言われている――この男、実は頭がとんでもなく悪いんじゃないかしら――。そう思いつつも、耀子は、胸の底の、最も痛い部分を衝かれたような衝撃を感じて黙り込んでいた。

「まぁ、これからも一緒に頑張っていきましょう。若い係長というのも、楽な仕事ではないですからね」

 フロントミラーの藤堂の目は、一片の厭味もなく、優しげに笑っていた。

 

 *************************

  

「モラルハラスメントの常習者?」

「らいしわよ」

 りょうは、さばさばと言って、青空に向けて伸びをした。

 昼休憩の屋上。2人の、久しぶりのランチタイム。

「バイトや国家二種、地方自治体からの出向職員……まぁ、自分より立場の弱い相手に狙いをつけては、徹底的に嫌がらせをするんだって。上手く隠れてやってたみたいだけど、さすがに噂になって、本省に居づらくなったんじゃない」

 入江耀子が市役所に飛ばされてきた、本当の理由。

「なんで……そんなこと」

「自分に自信がないからでしょ」

 りょうはあっさりと言ってのけた。

「本当に優秀なら、霞が関だって引き止めるはずだもの。ずっとお嬢様だの、美人だの、頭がいいだので、ちやほやされ続けてきて、いざ人気職種に就職したら、仕事はどうも上手くいかない。霞が関よ? 入江耀子程度の才媛なんて掃いて捨てるほどいる世界よ」

「…………」

「もともとイジメの常習だったみたいだけど、その癖がまた出ちゃったのね。一種の病気よ。常に誰かを支配下に置いて卑下していないと、不安で心細くてどうしようもないの」

 果歩は、眉をひそめている。

 それが、入江耀子の拠り所だとしたら、なんて寂しい存在だろう。

 入江耀子の異動内示が発表されたのは、昨日のことである。

 来月の1日から、議会事務局秘書課に異動。

 晃司に聞いた話では――政策部の部長、課長以下、みなほっと胸をなでおろしたのだと言う。

「みんなそうよ」

 空をあおぎながら、りょうが言った。

「私だってそう、自分だけにしか判らない何かにすがって生きてるの。仕事して仕事して……どんな時でも仕事をしていないと、不安で不安でどうしようもないの」

「私は……」

 果歩は思わず呟いている。

 私の、拠り所ってなんだろう。結局最後まで、それは判らなかったような気がする。

「腹が立つほどいい天気ね」

 りょうの横顔が笑っている。

「こんな憐れで寂しい女たちに、早く誰か、あったかーい手を差し伸べてくれたらいいのにね」


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