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年下の上司  作者: 石田累
47/202

story7 October もう1人の年下の上司(9)

 気まずいなんてもんじゃない沈黙。

 我にかえって眼鏡を外した果歩には、ほんの1メートルに満たない先に座る藤堂の顔が、滲んだ水彩画のようにしか映らない。

 眼鏡姿を見られたのも最悪だったが、今の自分はそれ以前だ。すっぴんに、ウェーブのとれた髪、しまむらのトレーナーにユニクロのスウェットパンツ。

 多分、驚いているだろうし、がっかりもしているだろうに――その藤堂の表情さえ、強度近視の身では確認することができない。

 2人の間には、美玲が間髪いれずに出してきた珈琲が、熱い湯気をたてている。

 机を挟んで藤堂は正座し、果歩もまた、きっちりと膝を揃えて座っていた。まるで、お見合いのようなバツの悪さである。

「――気分が悪いなら、これで」

 しばらく黙っていた藤堂が、沈黙に耐えかねたのか、立ち上がる素振りを見せた。

「お元気そうで安心しました。いきなり上がり込んでしまって、本当に失礼しました」

「あ、」

「え?」

 呼び止めたくせに、何故か言葉が繋げない果歩である。

 藤堂は再び居住まいを正し、果歩の言葉を待つように黙りこむ。

 えっと、……違って。

 うつむいているのは、気分が悪いからじゃなくて、その――顔を見られたくないからで。

「美玲が……失礼しちゃって」

 かろうじて、それだけが口から出た。

 水彩画の人が、わずかに苦笑する気配がする。

「よく似ているので、すぐに妹さんだと判りました。向こうから、いきなり名前を呼ばれたのには驚きましたが」

「もしかして……その、以前送ってくださった時に」

「ええ、ただあの時は、直接お話はしていないんですが」

「…………」

「…………」

 会話が途切れると、また沈黙。

「じゃ」

「あの、お仕事の途中なんじゃ」

 また、果歩は呼びとめている。

「県庁で会議があって、その帰りなんですよ。直帰するよう言ってありますから、このまま家に帰ります」

「そ……ですか」

 また沈黙。

 てか、卑怯じゃない?

 お見舞いって、学生じゃないんだから。

 いったい、何の用で、わざわざうちまで訪ねてきたのよ。

「あの」

「あの」

 同時に口を開いている。

「藤堂さんから」

「的場さんから」

 また同時。

 前も同じことがあったな――そう思うと、果歩は初めて口元を緩め、藤堂の表情からも、緊張が消えたような気がした。

「先日は……失礼しました」

「いえ」

 と、果歩は、またぎこちなくなりそうな顔に、無理に作った笑顔を浮かべる。

「あの日は、私も動顛しちゃって……」

 あれほど沢山練習したのに、で、はからずも藤堂から話す機会を作ってくれたのに、それ以上言葉が出てこない。

 また、しばしの沈黙がある。

 会議の帰りのせいなのか、スーツ姿の藤堂から、わずかに役所の匂いがした。

「的場さん」

「はい」

「…………」

 よほど、言いにくいことを言おうとしているのか、藤堂がため息をつく。

 そのまま、しばらく沈黙があった。

「あの日は、説明する必要はないと思いました。結論が変わらない以上、何を言っても言い訳ですし、……知ってほしくないこともありましたので」

「……はい」

 果歩は、心臓が高鳴るのを感じた。どういう心境の変化か知らないが、核心に、藤堂自らが踏み込んでくれようとしている。

「僕と須藤さんは、……」

 ドキッとした。

 自分の顔が、みるみる強張り始めるのが判る。

 まさかと思うけど、交際宣言? いや、それともいきなりの結婚宣言だろうか?

「そのことだけは、……はっきり言いますが、誤解です」

 はっきりと言う割には、妙に歯切れの悪い口調だった。藤堂が、視線を逸らすのが判る。

「彼女には、色々……なんというか、助けてもらって」

 助けてもらった?

 流奈が――藤堂さんを?

 果歩はむしろ、ますます不審なものを感じている。

「僕自身、優柔不断なままに、断りきれずに、……彼女にも、的場さんにも、余計な誤解をさせてしまったのだと思うと、まことに申し訳ないと思っています」

「私じゃなくて」

 自分の声が、掠れている。

「流奈を選ぶってことじゃないんですか」

「そうじゃ、ありません」

「じゃ、どうして」

 抑えていた感情が昂りだし、それ以上、言葉が出てこなくなる。

「……私に、何か問題があったんでしょうか」

「それは違う」

 藤堂が、困惑したように顔を上げる。

「問題があるのは、僕のほうだと思います」

「どういう問題ですか」

 強い口調になっていた。

「なんだか、ますます判らなくなりました。問題があるなら、どうしてそれを、先日きちんと話してくれなかったんですか」

「…………」

 随分長い沈黙の後、「的場さん、」と、ようやく藤堂が口を開いた。

「僕には、婚約している人がいるんです」

 ………………。

 身体の全てが、一時真っ白になったような気がした。

 まさか。

 まさかと……思うけど。

「最初から、ですか」

 藤堂は黙っている。滲んだ色彩の中、彼がうつむくのだけが判る。

「最初からです」

 その瞬間、立ちあがって殴りたい衝動にかられた。

 なにそれ?

 もしかしなくても、最初から――最初から、二股だったってこと?

「彼女とは……、ただ、この数年は、連絡も取れずにいて」

「…………」

「僕自身、はっきり結婚を決めたのは、ごく最近のことです。僕は以前、須藤さんにあなた以上にひどいことをしたと言いましたが」

 どう気持ちを鎮めようとしても、冷静になりきれない。

 果歩は目を逸らし続けている。

「僕は、あなたが、須藤さんと僕の関係を誤解していると知った上で、それを……利用していたんです。須藤さんも、それでいいと言ってくれたので」

「意味が……わからないんですけど」

「言いたくなかったんです、婚約者がいたことを」

「………………」

「最後まで、嘘をつきとおすつもりでした」

 唖然と果歩は口を開ける。

 最低。

 本当に、最低な男だった。

 ていうか、殴る価値さえない。

 今にして思えば、心の全部を持っていかれる前に、決別が出来て本当によかったとしか言いようがない。

「須藤さんと、話をしてみてもらえないでしょうか」

「何をですか」

 自分が素顔なのも忘れ、果歩は正面から藤堂を――ただし、その輪郭を見据えていた。

「ふられた者どうし、同病相憐めとでも? 優しい顔して、すごいこと言うんですね、藤堂さんって」

「彼女は今、悩んでいます。それは、僕のことではありません」

「だから、もうあなたには無関係だとでも言うんですか」

「それから」

 果歩の厭味をやりすごして藤堂は続ける。その表情は、両眼視力0.1以下の果歩にはまるで判らない。

「今度、局の女性で、飲みに行かれるそうですね。入江係長の個人的な知り合いとご一緒だとか」

「心配されなくても、須藤さんも行くと言っていますから」

「行かないでください」

「は?」

 果歩は耳を疑っている。

「須藤さんも、行きたくて行かれるわけではないと思います」

「何言ってんですか?」

「そんなことより、今は、須藤さんの相談に乗ってあげてもらいたいんです」

「だから、それと飲みが、なんの関係があるんですか」

 藤堂は黙っている。

 果歩はしばらく――怒りとも呆れとも言いつかない気持ちで、そんな藤堂を見つめていた。

 最低。

 こんな男が好きだったなんて――。

 冗談じゃないよ、私の人生で、最大の失敗だ――。

「的場さん、これは……僕の、個人的な意見です。入江さんとは、あまり懇意にされないほうがいい」

 しばらくして、低い、感情を殺したような声が聞こえた。

「ご存じとは思いますが、彼女には大きなバックがある。大きな背景を持つ人というのは、複雑な事情を沢山抱えているものです。……私生活では、距離を開けられるべきだと思います」

 どんな言葉も、今の果歩の胸には響かない。

「行きます」

「的場さん」

「本当は行かないつもりでしたけど、今決めました。絶対に行きます」

「いや、行くべきではないと思います」

 何故か藤堂も引かなかった。自分が百パーセント悪いくせに、その口調は、むしろ強くなっている。

「行きます、絶対に」

「行くべきではありません」

「行くったら行くんです!」

「行かないでください!」

「ちょっとちょっと、お2人さん、どうしたのよ」

 2人の大きな声に驚いたのか、美玲が慌てて顔をのぞかせる。

 果歩と藤堂は、互いに睨みあったままでいた。……多分。

 なんなのよ、いったい。

 つか、なんで私が、ここで怒鳴られなくちゃいけないのよ。

「よく判りませんけど」

 果歩は、立ちあがり――ださださの服に、はっと気づいて慌てて座り――冷たい目で藤堂を見据えた。

「それは、どういうつもりで言ってらっしゃるんですか。上司としての命令ですか、それとも同僚としての忠告ですか」

「うわっ、おねぇ、きついよ、その言い方」

「あんたは黙ってなさい!」

「言っとくけど、その人、随分下でうろうろしてたみたいだよ。さっき下の山崎さんに、てっきり不審者だと思ったって言われたもん」

「不審者以下よ!」

 言い捨ててから、ん? と思った。

 随分前から?

 仕事は――じゃあ、どうしたわけ?

「上司でも、同僚でもありません」

 呟くように言った藤堂の表情が、果歩には見えない。

「男として、行ってほしくないんです」

 今日、一番卑怯なことを言って、藤堂はそのまま立ち上がった。


 *************************


 音をたてないように扉を閉めると、乃々子はほっと溜息をついた。

 16階の会議室に資料を持って行くよう頼まれたものの、肝心の資料が見当たらず、パニックになること10分あまり。

 ようやくパソコンのファイルから再出力して、今、届け終えたばかりである。

「本当、データの管理がなってないんだから」

 ずさんな同僚に愚痴をこぼしながら、エレベーターホールに向かおうとした時だった。

 目の前を、颯爽と横切った女性が、入江耀子だと判り、思わず乃々子はその背中を目で追っている。

 すらっとした長身が、第2会議室に入ったのを見て、もし会議なら、お茶出しを手伝おうと思った乃々子は、自然に後を追っていた。

 扉は、半開きになっている。

「るーな」

 その、からかうような口調が、敬愛する女の口から出たものだと、しばらく乃々子には判らなかった。

「何よ、その怯えた顔は」

 そして、強張った顔に、明らかな恐怖を浮かべて壁際に立っているのが、あの――いつも自信満々な須藤流奈だとは。

「なんで昨日、休んだの」

「風邪で……」

「電話にも出てくれなかったしー、薄情じゃん、友だちなのに」

 会議室のセッティングをしているらしい流奈の手には、雑巾が握られている。

「流奈? どうしたの? その顔」

 不意に、不思議そうな眼になった耀子が、つかつかと流奈の傍に歩み寄った。

「あらあら、メイクの失敗? いつもと全然違うじゃない、直さなきゃ」

 それから次に行われたことに、乃々子は驚愕で息を引いていた。

 雑巾で乱暴に顔を拭われても、流奈は怒ることなく、ただ目を伏せたままで俯いている。

「人事に、あれこれ訊かれてるでしょ」

「…………」

「あたしの言うとおりに答えてる?」

「…………」

「言うとおりにしないと、あんたの写真、バラまいちゃうよ。全庁中に」

 うつむいたままの流奈の表情は判らない。

 どうしよう。

 扉の影の乃々子は、足が震えだすのを感じた。

 よく分からないけど――これは、ただごとじゃないような気がする。

 早く、誰かに言ってあげなきゃ、的場さんか、藤堂さんに。

「百瀬さん」

 名前を呼ばれ、乃々子は、立ちすくんでいた。

「そこにいるのは判ってるから、出てきたら」

 乃々子は、動けないまま、息を飲む。

「告げ口する? 百瀬さんの大好きな的場さんにでも。ただ、誰も信じてくれないと思うけど」

 答えられない。

 というより、性質の悪い悪夢を見ているような気持ちだった。

 本当のこの声が――入江耀子のものなのだろうか。

「そろそろ、流奈にも飽きがきてた頃だったんだ、実は」

 耀子の声は楽しそうだった。

 意味を悟り、乃々子は全身が震えだすのを感じた。

 女子高だった乃々子にも経験がある。

 クラスには、大抵入江耀子のような女を中心にしたグループが一つや二つ存在していて、クラスで1人ターゲットを決めては、順にその相手をいじめていくのだ。

「私を敵に回したいなら、いつでもどうぞ。好きに告げ口しちゃっていいから」

 耀子の声が近くなる。

「それとも、私の仲間になる?」

 ほとんど扉の傍から囁かれている。

「頭もいいし、可愛いし、割りと気にいってるのよね。あなたのこと」

 同性の声を、こんなに恐ろしいと思ったのは初めてだった。

「的場さんなんかやめて、私を頼りにしなさいよ。悪いようにはしないわよ……将来のことも含めてね」


 *************************


「的場さん」

 昼休憩の執務室。

 机で弁当の包みを開きかけていた果歩は、意外な声に、少し驚いて顔を上げていた。

 カウンター越しに、小さく手を上げているのは晃司である。

「どうしました?」

 極めて事務的に言って、立ちあがると、晃司がわずかに目を伏せる。

「いや、一緒にご飯でもどうかと思いまして」

「???」

 吃驚した果歩の背後では、南原が目を剥き、水原が茶を吹きだし、宇佐美が箸を落としている。

「ご、ご飯ですか」

 咄嗟に、言葉を取り繕えなかった。

 なにこれ。

 あれだけ、庁内恋愛を恐れて秘密主義だった晃司が、いったいどういう嫌がらせ?

 しかも、こうも大胆に誘われた以上、断ればむしろ、晃司に恥をかかせることになる。

 果歩は、晃司を見、背後の机を見つつしながら、強張った笑顔を浮かべた。

「あ、行きたいんですけど、私……その、お弁当が」

「じゃ、それ、俺の夜食にもらってもいいですか」

「…………」

 すでに背後はしん……と静まり返っている。

 果歩は、落ちた顎を上げることができなかった。

 ど、どうしちゃったの、晃司。

 もしかして、夕べ、悪いものでも食べたとか……。

 一瞬、ちらっと上目使いになった晃司が、そっと声をひそめて囁いた。

「須藤のことだよ」

「……ああ」

 ようやく果歩にも合点がいく。

 にしても、ほかに手段はあると思うんだけど。……

 渋々カウンターを出ると、待っていた晃司が低く呟く。

「これ、貸しにしといてやるよ」

 それが、席で仕事をしている藤堂へのあてつけだと、ようやくのように察し、果歩は咄嗟に振りかえった。

 あの日以来、微妙な関係を保っている年下の上司の眼差しは、果歩と視線が合うと、少しぎこちなく下げられた。

 初めて果歩は、それまで自分を見ていた藤堂の視線に気が付いている。

 それは、迷っているようにも困惑しているようにも、何かの感情に耐えているようにも見えた。

 きびすを返し、晃司の後について歩きながら、果歩は小さく呟いた。

「もう、……貸しにはならないから」

「なんでだよ」

「…………」

 あれから3日。

 不思議なほど、果歩の中の怒りは冷め、今はただ、漠然としたやるせなさだけが残っている。

 藤堂さんには婚約者がいた――まるで、漫画みたいな展開だ。

 けれど、本人が認めている限りそれは現実で、現実である以上、最初から二股をかけられていたことになる。

 二股は――果歩にとっては初めてじゃない。

 何度味わっても最低の気持だし、そこにどういう事情が介在しようとも、絶対に許すことも妥協もできない。

 でも……。

 本当に、藤堂さんは、最初から婚約者がいることを承知で、私との距離を縮めて行ったのだろうか。

 冷静になればなるほど、彼が、最初から、二股をかけるつもりでいたわけではないような気がする。

 それどころか。

 くっついたり離れたり、嫉妬したり、されてみたりの微妙な関係を繰り返していたあの頃。

「会ってもらいたい人がいるんです」

 一度は距離を開けようと言われた後、思いつめたように告げられた夜。

 もしかしたら――彼は、あの時、それでも私を選ぼうとしてくれたのではないだろうか。

 どういう事情があったにせよ、婚約を交わした相手を捨てて。

 いや、どういう事情があろうと最低は最低なんだけど。

 ただ、以前りょうが言っていた言葉が、今更、妙に深い意味を持って思い出される。

(例えばさ、どっかの大企業の跡取とか、そういうこと)

 もしかして、藤堂さんの実家が、本当に……若くして婚約者が決められてしまうほどの、すごい家で。

 その婚約が、もし、藤堂さんの本意じゃなかったら……。

 果歩は、ぶるぶると首を振った。

 ああ、だめだめ、それこそ漫画の読み過ぎだ。いい風に解釈しすぎている。

 彼のアパートを見たでしょ? 果歩。あれのどこが御曹司だっつーの。

 が、考えれば考えるほど、まだ26歳の藤堂に婚約者がいて、で、その婚約者とここ数年連絡が取れなかったという、非日常な言い訳が、頭の中に渦を巻く。

(行かないでください!)

(男として、行ってほしくないんです)

 果歩だって、鈍くはない。何度も恋愛と失恋を経験した30歳は、そこまで男の気持ちに疎くはない(多分)。

(彼は、果歩が好きなのよ)

(果歩が思っているより、多分、相当……私の勘だけど、かなり前から好きだったんじゃないかな)

 かなり前からはさすがに違うだろうが、りょうの言葉がある意味本当だったと、皮肉なことに、今更果歩は気付いている。

 けれど、同時に知ってもいる。男とは、結婚相手を、その感情だけで決められる生き物ではないのだ。……


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