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年下の上司  作者: 石田累
41/202

story7 October もう1人の年下の上司(3)

「で、いつなんですか、局の女子会」

 翌日。

 エレベーターホールで顔を合わせた後輩の第一声だった。

 果歩は危うく、持っていた支出命令書の束を取り落としそうになっていた。

「もしかして、入江さんに聞いた?」

「聞きました。で、誘われました。絶対に来てねって」

 気まじめな顔で、乃々子は頷く。

「臨時さんにも声かけてたから、入江さん、相当力入ってると思いますよ。私が聞いた話では、果歩さんが日程調整してるって」

 ひそひそ囁きかけてくれるのは百瀬乃々子。

 住宅計画課の女性職員である。

 真面目、几帳面を絵に描いたような性格であるが、――そして、かつては藤堂を巡るライバル? でもあったが、果歩にとっては一番可愛い後輩である。

 くるくるっとよく動く目を動かして、乃々子は期待に凝った眼で果歩を見上げた。

「で、いつなんです? 女子会」

「……調整してみるわ」

 入江耀子に頼まれた以上、断る選択肢がないことは判っている。

 彼女が1人で頑張ろうとしている局内革命は、本当は果歩自ら先頭に立ってしなければならないということも――判っている。

 が、いくら自分を励ましたところで、それが憂鬱な仕事であることは間違いない。

 もともとバラバラもいいところの局の女子たちを、臨時も含めてひとつにまとめあげるなんて――ああ、私には絶対に無理。

 私生活のダメージが大きい今、やろうという気力さえへなへなと崩れそうになる。

 エレベーターに乗り込んだ2人の行き先は同じだった。1階にある会計室。

 しばらく果歩の横顔を見ていた乃々子が、ふっと独り言のように呟いた。

「あまり、気がのらないみたいですね」

「えっ、そんなことは」

「的場さんって、意外とプライベートの飲みが苦手ですもんね」

 ぎくり、と果歩は隣立つ後輩を目で見ていた。

 階下に降りるエレベーター。経費節減とかで、日中は1台しか稼働しない。

 込み合ったエレベーターは一階ずつ停止しては、のんびりと進み、なかなか1階の会計室に辿り着けない2人である。

「ど、どうしてそう思うのかしら」

 果歩の動揺を知ってか知らずか、乃々子は、指を唇にあてて、しばしシンキングポーズをとる。

「んー、なんとなくです。的場さんって、見かけは華やかでいかにも派手そうなのに、実は地味で、目立つことが限りなく苦手な人ですよね」

「……………………」

 ひ、人がひた隠しにしている性癖を、あっさりと……。

 しかし、それが、どんな些細な文書のミスも決して見逃さない女――細かさと観察眼では追随を許さない乃々子なのである。

「別に重く考えることないですよ。的場さんなら、気配りもばっちりだし。話題だって豊富だし、いつだって女王の貫禄なのに」

「そ、そうかしら」

 そう見られるから――無理にイメージ通り振る舞う自分に疲れるのだとは、とても言えない。

「でも、百瀬さんも飲みとか苦手なんじゃなかったっけ。前、課飲みも憂鬱だって言ってなかった?」

「そんな自分から卒業したんです!」

 乃々子はきっぱりと言い切った。

 いきなりの宣言に、果歩はびっくりして目を剥いている。

「ど、どうしちゃったの、乃々子」

「入江さんは、すごいですよ」

 不意に出てきた名前に、果歩は内心驚いている。――入江耀子。

 エレベーターが一階で止まる。

 乗り込む職員や来客の間をすり抜けながら、乃々子はふっと溜息をついた。

「私、学暦とかじゃ、あの人に負けてるつもりはないんです。霞が関と市役所っていう差はあるけど……同じ仕事を任せられたら、私だって負けずにやる自信があるし」

「…………」

 大人しく引っ込み思案だとばかり思っていた後輩の意外な一面に、果歩は、咄嗟に言葉が出てこない。

 それはそうだ――年でいえば、乃々子とさほど変わらない入江耀子。

 今回の人事異動で、ある意味一番精神的に打撃を受けたのは乃々子だったのかもしれない。

「教えてもらったんです、私」

「誰に……?」

「入江さんにです」

 廊下の端で足をとめ、乃々子は思いつめた目で果歩を見上げた。

「真面目で優秀、どんな仕事もそつなくこなす。でもそれだけじゃ、女は上に行けないと思うって」

「……どういう意味?」

「男社会の役所で、女の私が上に行くには」

 唇を噛み、乃々子は遠くを見るような眼になった。

「……プラスアルファの、人間的魅力が必要なんです。それから人脈。どれだけ沢山の人の中に、自分の存在を残せるか」

 乃々子の目が、強い光りを帯びて輝いた。

「入江さんはすごいです。知ってます? 彼女、1週間のうち4日は飲みの予定を入れてるんです。上は局長クラスから、下は私たちみたいな役のない平まで。休みの日はテニスかゴルフ。残りの時間は全部英会話です」

「それは……すごいわね」

 素直に、それしか言えない果歩である。

 役所に9年もいれば、人脈を持つ者の強みはよく判る。仕事をする上で有益なのはもちろん、出世、人気職場への異動など、全ての源といっても過言ではない。

 話していると、本当に普通の女の子なのに――。

 やはり、入江耀子は本省の人なのだ、そう思わずにはいられない。上昇志向がすでに身体の一部として染みついているのだろう。

「彼女、三環自動車の会長の孫娘なんですよね。ご存じだと思いますけど」

「うん……色々噂は入ってくるから」

 三環自動車は、灰谷市では最大規模の地元企業。税収入の大半が三環で持っていると言っても過言ではない大企業である。

 現職の社長は、地元商工会の会長でもあり、政治家との繋がりも密接だ。しかも、現市長とは姻戚関係。

 灰谷市への三環自動車の影響は大きく、局、次長クラスの人事にもなんらかの影響を及ぼしていると囁かれている。

 つまるところ、それが庁内<入江詣で>の真相なのである。

「それだけでも、入江さんの将来は約束されたも同然なのに、彼女、現状よりさらに上を目指して、精力的に動いてる……。それは、自分の未来の姿っていうか、将来をしっかり見据えてるからだと思うんです」

 果歩は無言のまま、頷いた。

 本省から市に出向させられた理由が、どこにあったのかは判らない。が、きっと入江耀子の本意ではなかったろう。

 けれど、彼女は、現状には決してめげずに、この市役所で着々と自分の足場と実績を固めようとしている……。

 足元を見つめながら、乃々子が続ける。

「私……今まで勉強だけが取り柄だったし、これからも、きっとそうだと思うんです。的場さんのおかげで女の子になれたけど、いくら綺麗になったって、それは私の……本当の意味での、拠り所とは違うから」

 拠り所。

「仕事してる以上、私だって、行けるところまで行きたいと思ってるんです。でなきゃ、私が今までやってきたことの意味がなくなるような気がして……。だから私、できるだけ飲みに参加しようって、考えを改めました」

「そっか」

 果歩は微笑して、後輩の背を叩いた。

「がんばって、飲み会のことは、またちゃんと連絡するから」

 まっすぐな乃々子の目が眩しかった。

 私は……なんのために仕事をしてるんだろう。

 それは生きていくためであり、自分のためでもあるんだけど。

 それが拠り所かといえば、なんだか違うような気がしなくもない。

 仕事で成功はしたいけど、それは出世したいとは微妙に違うし、むしろ果歩は、面倒な管理職には絶対になりたくないとさえ思っている。

 私の――拠り所ってなんなんだろう。

 てゆっか私、なんのために毎日こうして働いてるんだろう……。


 *************************


「んじゃ、お先」

 給湯室の向こうから、南原の声がする。

「はーい、お疲れ」

 果歩は軽く返して、最後のカップを洗い桶から引き上げた。その途端、ずきりとこめかみに痛みが走る。

「うー……いた」

 片頭痛――もとい、二日酔いの名残。

 昨日、ようやくの思いで催した局の女子会で、無理に二次会、三次会とつきあわされてしまったせいだ。

 乃々子は、午前中休みだった。果歩にしても、朝一のミーティングがなければ休んでいたに違いない。

 が、最後の最後まで一番豪快に飲んでいた入江耀子は、朝から一糸乱れぬぱりっとした姿で出勤している。

(やっぱり入江さんはすごいです。……私たちは、自分を知らずに飲んじゃったけど、彼女はちゃんと計算して飲んでるんですね)

 と、蒼白な顔でしみじみと感心していたのは、午後から出勤した乃々子だったが、それには果歩も全く同感だった。

 しかも入江耀子、明日はなんと、南原、水原ら局の若手男性職員と飲みに行く予定になっているという。

 果歩的には「一生アルコールなんて見たくもない!」てな気分の時に、である。

 ――単なる猿真似じゃ、あの域には到達できないってことか。

 さすがに乃々子の前でそのセリフは口にしなかったが、そう思ったのは確かだった。

 なんていうか……持っているバイタリティーみたいなものが、全然違う。

 上に行く人間とそうでない人間の差を、見せつけられたような気分である。

 あれほど憂鬱だったにも関わらず、昨日の飲み会はそれなりに楽しかった。どこか他人行儀だった他課の臨時職員さんたちとも打ち解け合い、会話も弾み、弾んだというより、異様なくらい盛りあがった。

 とにかく入江耀子の盛り上げ方が上手かったせいだろう。宴会慣れた耀子の手管にかかっては、果歩や乃々子などは、ただ言われるがままに乗せられるしかない。

 が――些細な気がかりが、ひとつだけあった。

 局で1人だけ、昨夜の飲み会に参加しなかった須藤流奈のことである。

(最近の須藤さん、マジむかつくことありますよね)

(藤堂さーんって、あの甘えた声聞くたびに、むしずが走っちゃって)

(あのスカート、どうにかならないんですか?)

 言い方はあれだが、1人だけ欠席者が出た飲み会は、いわば欠席裁判も同然だった。

 確かに最近の流奈の態度には、目に余るものがある。が、なにより果歩が驚いたのは、たった数日で、あれほど流奈よりだった臨時たちが、あっさり入江耀子に寝返ってしまったことである。

「……さて、帰るか」

 果歩は、わずかな迷いを振り切るように呟いた。

 流奈のことは、考えても仕方がないし、考える必要もない。

 洗い終えたカップを乾燥機に入れ、タイマーをひねる。本日のお仕事、終了である。

 振り返った途端、照明が暗く翳った。電気切れ――? ではない。入口を、大きな影が塞いでいる。

「あ、」

 と、低く声をあげた果歩より、いきなり入って来た人のほうが驚いていた。

 トレーを片手に持つ藤堂である。

「お、お疲れ様です」

「的場さんこそ」

 藤堂が、今日15階の会議室で人事担当と協議中だったことを、果歩はようやく思い出していた。

 こんな遅い時間まで――おそらくは来年の人事のことだろうが、もう午後10時前である。

「洗いましょうか」

「いえ、僕が」

 トレーの上には、使い捨てカップやミルク、スティックシュガーの類が積み上げられている。

 生真面目な藤堂が、わざわざ会議室の後片付けまでしたのかと思うと、少しだけ愛おしい気持ちになった。

「じゃ、手伝いますよ」

「すみません」

 藤堂が雑巾を洗う間に、果歩がカップやミルク殻をきれいにゆすいで、リサイクルボックスに入れてやる。

 作業の合間、果歩はちらっと、隣の藤堂に視線を向けた。

 うつむいた横顔に、眼鏡が影を落としている。まくりあげたシャツの袖から、筋の浮いた逞しい腕がのぞいていた。

 いつも思うことだけど、この人の身体の造形美はただごとじゃない。厚みのある首、胸元、なのに引き締まった腰回り。いったい何のスポーツをやっていたんだろう。昔、格闘技に近いことをやっていたと――そんなことを聞いた記憶があるけれど。……

 不思議な眩しさを感じ、果歩は自然に眼をそらしていた。

「志摩課長は、ご一緒じゃなかったんですか」

「もうすぐ、降りてこられます」

「随分長い会議だったんですね」

「僕は、聞いているだけですから」

 こだわりがなく、こんな会話ができるのも、昨夜「男だけが人生じゃない」「あたしたちはこれからよ!」みたいなシュプレヒコールをあげ、局の女性たちと盛り上がってしまったからかもしれない。

 気がつけば水音が止んでいる。

 果歩が顔を上げた時と、藤堂が口を開いたのが同時だった。

「もう、気持ちは落ち着かれましたか」

「…………」

 一瞬、何を言われているのか判らなかった。

 狭い給湯室で、シンク前に並んで立つ2人の視線が、ようやく絡まる。

 瞬きをする果歩に、思いつめた眼差しを注いでいた男は、ふとその目許に微苦笑を浮かべた。

「……僕は、まだ、落ち着いてはいないですが」

 え?

 心臓が飛びあがって、喉から出そうになっている。

 喉に言葉を固めたまま、立ちすくむ果歩の前で、藤堂はトレーをゆすぎ、布巾で丁寧に拭き始めた。

 落ち着いてないってどういうこと?

 ちょっと待ってよ、厭味なくらい平然としていたけど、本当はそうじゃなかったってこと?

「あの」

 足を踏み出しかけた時、トレーを棚に収めながら、藤堂が言葉を繋いだ。

「でも、もう終わってしまったことですから」

「…………」

 終わってしまったこと。――

 足を止めた果歩は、呼吸さえとめて藤堂の背中を見上げた。

 どういうことだろう。

 終わって……しまったこと?

 棚を閉めた藤堂が振り返る。穏やかに何か言いかけようとした唇を、果歩は遮るようにして口を開いた。

「どういう、意味ですか」

「え?」

「すみません、何を言われているのか、意味が全然判らないんですけど」

 自分の顔が、多分蒼白になって、ぎこちなく強張っている。

 藤堂が訝しく眉を寄せ、それがみるみる暗い影に覆われる。

 何かに驚いているようにも見え、動揺しているようにも見えた。

「終わったって、……何がですか。始まったかどうかも判らないのに、終わったって」

「すみません、そういうつもりではなかった」

 今度は藤堂が遮った。声が外に漏れるのを案じているのが表情からうかがい知れる。

 果歩もまた、自分の声が高くなっているのに気がついていた。

 給湯室の外から、足音と談笑が近づいてくる。志摩課長と中津川補佐の声。

 藤堂の目が、焦燥を帯びて背後を素早く振り返る。

「明日、お昼にいいですか」

「えっ」

「屋上で待っています」

「…………」

 呆然と立つ果歩の前から、大きな背中が影になって消えた。

「藤堂君、明日の朝一番で、今日の結果を春日次長に報告する準備をしてくれ」

「わかりました。今夜中に用意しておきます」

 藤堂の、普段通りの声。

 果歩はぼんやりとレバーを上げ、意味もなく手を洗った。

 もう、終わった。

 自分で薄々覚悟していたことでも、相手に直接言われるのは想像以上の衝撃だった。

 終わった――それは、私と、藤堂さんのことだろうか。

 あんなに穏やかな目で、落ち着いた口調で、もう、本当に何もかも吹っ切れてしまったように。

 本当に……全部、終わっちゃったみたいに。

 それでもまだ、心のどこかで認めたくないと思っている。

 これが何かの間違いで――何か、2人の間には致命的な誤解があって――いつものように、藤堂さんが、私の理不尽な怒りを鎮めてくれて……。

 明日にはいつもの2人に戻れると、心のどこかで信じている……。

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