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年下の上司  作者: 石田累
32/202

story6 September 男の闘い!嵐を呼んだ臨時職員(2)


「てか、最低ですよね」

 心なしか、水原真琴の声は嬉しそうだった。

「彼ってあの年まで、何やってたんでしょうね、僕も同年代として恥ずかしくなりますよ」

「ほんっと、ろくでもねぇ野郎だったぜ」

 すでに過去形で語る南原。

 ――辞めたわけじゃないんだけど……。

 果歩は、嘆息して、空のままの机を見た。が、実質これで、自主退職がきまったようなものである。

 欠勤報告の電話を受けたのは南原だった。

 宇佐美祐希。 

 雇用4日目にして、早くも欠勤。

「うちのダメ係長も午前中休みだし。のんきなもんだよな、民間さんは」

「いやー、同情しますよ、南原さん」

 南原と水原、最低男2人組の笑い声が、執務室に響く。

 果歩は、手にしたシャーペンを、ばきっとへし折ってしまう所だった。

 藤堂が休んでいるのは、規定の夏休みが消化できなかったからである。

 予算と人事要求で、8月の後半、藤堂の忙しさは半端ではなかった。ようやくその喧騒が収まったと思ったら、宇佐美君と猫騒動。

 のほほんとしているのは、むしろ全国会議が終わって暇になった南原や、これといった仕事がなく、毎日定時に帰る水原の方なのに、なんなんだろう、この言い草は。

「あ、そうだ、僕午後から研修なんで、これで失礼します」

 その水原が、ふいに慌てた様子で立ち上がった。

「いいよなー、新人さんは」

「面倒なんですよ、研修も」

 ああ、そうか。

 と、果歩は手元の予定表を見る。入庁2年目の水原には、まだ規定の新人研修がいくつか残っている。

 ばたばたと水原が退室した後、果歩はそっと、背後の水原の席を伺い見た。

 本人の几帳面な性格を反映してか、卓上は綺麗に片付けられている。が、ひとつだけ片付けていないものがあった。

 半分コーヒーが残ったマグカップ。

 果歩はそっと立ち上がり、そのカップを取り上げて、キャビネットの上の洗い籠に入れた。

 ――たった、これくらいのことなのに……。

 思わず、軽くため息をついていた。 

 真面目な水原が、あえてカップをそのままにしておくのは、藤堂への反発――というより、「お茶改革」への、反対の意思表明なのだろう。

 一種のハンストみたいなもので、それは、水原だけでなく、計画係の中津川補佐以下、全員の態度でもある。

「手が空いた人で、お茶の準備や片付けをしましょう」

 と、藤堂が提案してから早2ヶ月。

 いまだ、中津川補佐を筆頭とする計画係には、その提案に協力しようという者は誰1人いない。

 中津川に習い、飲んだカップさえ籠に入れず、平然と自席に置いて帰る始末である。

 それらをひとつひとつ、トレーに収容して片付けるのは、果歩であり、時に藤堂である。果歩にすれば、入庁以来ずっとやってきたことだし、なんでもない仕事だが、係長である藤堂にそれを負担させるのは、いつも思うが、どうかと思う。

 藤堂と、計画係のバトルは、いまや、互いの意地の張り合いのようなものだ。

 黙々とカップを洗い、お茶の準備をする藤堂と、それを、徹底的に見て見ぬふりを決め込んでいる計画係の面々。

 庶務係の南原と大河内主査は、さすがに藤堂に遠慮があるのか、単に面倒から逃げたいのか、自身のカップだけは、洗って帰る。が、それ以上のことに手を出すのは、中津川の目が気になるのか、対処に迷っているようにも見える。

 いずれにしても、課内の雰囲気が、あまりよくないことだけは間違いなかった。

 それが、お茶汲みに端を欲しているだけに――果歩には、どうにも、居心地が悪いのである。

 正直、藤堂が、来客にお茶を出すたびに、もうやめてください、と言いたくなる。

 まるで、周囲の目全てが、「お前は女なのに何をしている」と、無言で果歩を責めているような、そんな気がしてしまうのだ。

「的場君」

 背後で、いやみな金々声がした。

 洗い籠の前でぼんやりしていた果歩は、顔を上げる。振り返るまでもない、計画係の補佐、中津川。

 藤堂への反発が尋常ではない中年男は、補佐になった年齢からすれば、とっくに出世コースから外れていて、かなしいかな、課長の志摩より年上である。

「会議室にお茶が出しっぱなしになっている、さっさと行って片付けたらどうだ」

「あ、すみません」

 慌しくて忘れていた――というより、他のことに気をとられて忘れていた。果歩は慌ててトレーを掴む。が、歩き出す前に、再度声が追いすがってきた。

「あまりくどくど言いたくないが、これを機会によく考えてみたらどうかね」

「何を、でしょうか……?」

 嫌な予感をかみしめつつ、果歩は振り返った。

 運の悪いことに、計画係には中津川1人。

 南原が丁度席を立ち、庶務係には、何があってもわれ関せずの主査、大河内の寂しい頭しか残っていない。

 中津川は、椅子にふんぞりかえったまま、わずかに鼻を鳴らすような仕草をした。

「藤堂君が、妙な提案をしてから、うちの課が、よそから色々言われているのは知っているだろう」

「……はい」

「やはりね、不自然なんだよ、男で、しかも管理職がお茶をいれる職場など、ほかにはないよ、そうだろう?」

「そう思います」

 それは、いわれるまでもない。果歩が一番強く感じ、そして肩身の狭さを感じていること。

 藤堂が、張り切っているし、一歩も引かない覚悟だから、果歩もそれを信じて合わせているが、正直、自分でやった方が、どれだけ楽かと思ったかしれない。実際、藤堂がいない時や、目の届かない所では、果歩が全てやるようにしている。

「しかも……局長のミルク作りまで」

 中津川は、笑うような軽蔑の目で、果歩を見上げた。

「悪い言い方をしていいなら、あれは君の、局長への……媚みたいなものだろう」

「………………」

 媚。

 果歩は、腰の後ろで、強く拳を握り締めた。

 なに、その言い方。

 そんなんじゃない、そんなんじゃないけど。

「局長にああいう特別なことをしている君が、いまさら職員のお茶だけを簡素化しましょうって、……周りからみれば、何をいっているという感じなんだよ」

 何ひとつ反論できない自分が悔しい。

 果歩は視線を下げ、そしてもう、どうでもいいや、と思っていた。

 なんでこんな面倒なことになったんだろう。たかだかお茶をいれたり洗ったりするだけのことなのに。

 もともと仕事だと思ってやっていたわけじゃない。

 どの職場にも、こういった潤滑油のような仕事があって、それを、女性である果歩が、課内での自身の役割として、いつも引き受けていただけだ。

「別に女性軽視で、こんなことを言ってるんじゃないよ、ものごとには役割があるじゃないか、庶務には庶務の、我々計画には計画の」

 果歩が黙っていると、中津川は、自信に満ちた口調で続けた。

「適正というものもある、君がやるのが一番早いし、常識的にも自然なんだ。他の仕事は減らしてもらえばいいじゃないか。何も君が、ほかの仕事に手を出す必要はないんだ。3役の世話と、来客の接待、それが第一じゃないか、局総の女性は」

「…………そう、思います」

「民間君には、役所の常識がわかっとらんのだよ。君もそういう意味では、被害者だがね、早くそのことを、あの若い係長に教えてやりたまえ」

「………………」

 答えも出口もない迷路。

 藤堂が、お茶のことを言い出してから、果歩はずっと、その中を歩いているような気がする。

 藤堂の言い分も理解できる。

 こういった仕事を1人の負担にさせるのではなく、みんなで分担して、その分、空いた余力を本来の職務に回す。

 でも同時に、中津川の言い分も理解できる。

 男の人が、もたもたするより、果歩が何倍も早く、そして確実に、なんの苦もなくできる仕事。なにより他課から、あなたは何してるの? みたいな目で見られることもないし、男性が? と、お客さんに驚かれることもない。

 藤堂がお茶を出すことに関して、志摩課長も春日次長も黙しているが、局長の那賀だけは「わしのお客さんには、女性が対応してくれるとありがたいんだがね」と、控えめに拒否された。今年で定年の那賀の年では、男に来客接待をさせるのは、相当抵抗があるに違いない。

 それでも、藤堂が、自分を見てくれていることだけが、果歩のよりどころであり、支えだった。

 今は、その自信が儚いくらい揺らいでいる。

 ――どうすればいいの、これから……。

 果歩は暗い気持ちで、会議室に続く階段を上がった。

 

 

*************************

  

 

「あ、的場さん」

 会議室のカップを提げて給湯室に入ると、中から明るい声がした。

 百瀬乃々子。

 都市政策局住宅部の職員で、この夏、果歩と急速に親しくなった後輩だ。

 陰鬱な気分だった果歩は、癒し系の後輩の笑顔を見て、ふっと気持ちが軽くなるのを感じた。

「もしかして、睫パーマ、やっちゃった?」

「あ、わかりますー?さっすが的場さん」

 きらきらと輝く瞳が印象的な顔に、モデルばりのスレンダーな体型、いまや、流奈についで都市計画局のアイドルになった乃々子は、今日も相変わらず綺麗だった。

 果歩にとっては、少し前までの恋のライバル……きっぱりとふられたらしいが、日増しにきれいになる後輩が、今でも藤堂のことが好きなのかどうか、そこはいまひとつ分からない。

「……今日、もしかして、藤堂さんお休みですか?」

 カップを適当に洗っていると、隣で湯飲みを拭きながら、乃々子がそっと囁いてきた。

「うん、午前中だけだけど」

 そっか、いまさらだけど、藤堂さん、今日は休みだ。

 だから夕べ、猫をもって帰ってもいいみたいなことを言ってたんだ。

 果歩はぼんやり考える。私は休みじゃないけど、あの人は休みだから――本当に気を使っただけなのかな。もしそうだったら、私の態度は最低で……ああ、やめよう、いい風に考えて、また期待値をあげていくのは。

「……嫌な情報、流してもいいですか」

 が、乃々子は、ますます声をひそめて囁いてきた。

 正直言えば、聞きたくなかった。どうも、今日のバイオリズムは最悪だ。なにをやっても、気持ちが全く浮上しない。

「須藤さんも休みなんです」

「流奈が?」

「しかも午前中だけ」

「………………」

 レバーをあげて水を止め、しばらく考えた果歩は、「ふぅん」とだけ言った。

「それだけですか」

「だって、たまたま偶然でしょ」

 ざっくりと布巾で拭いて、棚の中にカップを収める。

 須藤流奈。

 都市政策局のモーニング娘。と呼ばれている小柄で可愛らしい女である。

 さらさらのミディアムストレート、小さくてもスタイルのいい、女らしい体型。局の中年男性のハートをがっちり掴んで離さない、野生の猫を思わせる小悪魔は、春からずっと藤堂瑛士に夢中なのである。

 その猛アタックは、局といわず庁内中の噂になっており、一部では、来年春挙式説までまことしやかに流れているほどだ。

「的場さんは、のんきですねぇ」

 が、乃々子は、少し不満そうに唇を尖らせた。

「最近の須藤さん、なんか余裕なんですよ。ちょっとした変化かもしれないけど、私でも分かるのに」

「……余裕?」

「余裕です、恋愛に余裕がある感じ」

 果歩の顔を正面から見て、乃々子は指を1本たてた。

「少し前まで、むしろ悲壮感さえ漂ってたのに、今は局で、藤堂さーんって甘えた声を聞くこともないじゃないですか」

「う、うん」

 そういえば、確かに。

 8月の半ばまで頻繁に聞こえていた聞き苦しい声は、最近はぴたっと止んだ。

「そのくせ、藤堂さんとすれ違うとき、すごく意味深な目をして笑うんです。藤堂さんは、それを軽く受け流す感じで……でも、どうなのかな、2人にしか判らない空気、みたいなものを、そこに感じたんですよね、私」

「………………」

 そうなの?

 果歩は、喉の奥で、言葉が固まるのを感じた。

 そんなわけないし。

 藤堂さんが、流奈なんかを相手にするはずがない。

 でも、細かさにかけては局ナンバー1の乃々子の観察眼は確かである。あながち、全てが勘違いとも思えない。

 確かに、8月の後半から、果歩と藤堂との間には壁ができて。

 逆に、流奈が、余裕めいた態度をとるようになった……?

「だったら、もういいわよ」

 冗談みたい。

 果歩は、冷めていく気持ちを感じながらそう言った。

 もしかして、晃司の時と同じで、また2股?

 後になって、浮気を後悔した風であった果歩の元彼、前園晃司を、果歩はその1点だけでも到底許す気にはなれなかった。

 よりにもよって、流奈と2股だなんて、冗談じゃないという気がする。晃司のことは、今ではちょっと好感を持ってはいるものの、そこだけは、少し根に持っている。

「もういいって、須藤さんにとられちゃっても、いいってことですか」

 乃々子が、目を丸くするのが分かった。

「えー、理解できませんよ、的場さんの好きって、その程度だったんですか」

「…………」

 その程度。

 果歩は言葉に詰まったまま、所在無く手だけを動かし続ける。

「なんだか、歯がゆいなー、だったら私が参戦しちゃいますよ、マジで」

 果歩の表情を察したのか、乃々子は冗談めいた声で笑ったが、果歩は笑う気にはなれなかった。

 その程度――ってわけでもないけど。

 なんだろう、流奈と同じ土俵で競わされるのだけは、たまらなく嫌な気がする。

 そんな真似をさせられるくらいなら、どうでもいいからリタイアしたい。

 ぼんやりと執務室に戻り、課長席の決済箱から文書を取っていると、次長室から、志摩課長がふいに出てきた。

「的場君」

「は、はい」

 こ、今度は課長?

 果歩は、緊張して姿勢を正す。一体今日は、どんな厄日だろうと思いつつ。

 普段、部下とほとんど口を聞かない男、総務課長の志摩大輔。

 まだ40代にして、局の課長職についている。いわば、エリート中のエリート。

 骨太の体格に、ゴルフでいつも焼けている肌、厚い眼鏡の底の目は、まるで機械人形のように表情がない。この課長に、ごくたまに声をかけられる度に、果歩はどきどきしてしまうのである。

「宇佐美君のことだがね」

 いつものことだが、口の中でこもって聞き取りにくい声。

「人事に相談して、途中解雇の手続きをとりたまえ。特別な事情があれば、可能だそうだ」

「……は、はい」

 いいのだろうか。

 だって、彼は、ここに座る志摩課長の甥なのに。

「でも……まだ、4日ですし」

「4日もたてば十分だろう」

 それだけで、志摩はうるさげに片手を振る。

「以上だ」

 果歩に、それ以上、聞き返す勇気はなかった。

 4日で、十分か。

 自席につきながら、果歩はかすかに嘆息する。

 昨日までは果歩も同じで、どうやって宇佐美を解雇しようかと考えていたのに、いざ、その身内から吐き棄てるように言われている様をみると、どうにも気に毒になってきた。

 水原君と同い年。

 その水原は、2年という長期にわたり、悠とした研修期間が設けられている。

 かたや、バイトの宇佐美の猶予期間は4日。

 4日でみきりをつけられようとしている青年に、なんともいえないやるせなさを感じ、果歩は再度、深いため息を吐いていた。



************************* 


 

「おはよーっす」

 いつもの時間に執務室のカウンターを通った果歩は、少し驚いて足を止めていた。

 ポットを片手に、威勢のいい声をあげたのは宇佐美祐希。

 うっと目を引く原色のシャツに、ずり落ちそうなジーンズ、長い前髪をピンで留めて――服装は相変わらずいっちゃってるが、こんな早い時間に彼の姿を見たのは初めてだ。

「…どうしたの?」

「いやー、たまたま早く目が覚めたんで」

 果歩は自分の机が、妙に濡れているのに気がついた。隣では南原が、露骨に嫌な顔で、水浸しの机をティッシュでぬぐっている。

 ――机も拭いてくれたんだ。

 多分、水を絞りきっていない雑巾で。

 が、こんな仕事まで、果歩はこのバイトに教えてはいない。

 というより、基本、時間給で、時給もかなり安いアルバイトに、始業前の机拭きまでやらせている課はあまりない。

「いいよ、それくらい私がやるから」

 荷物を置きながら、果歩が慌ててそう言ったとき、給湯室から洗い籠を下げた藤堂が出てきた。

「おはようございます」

 先日来の気まずさなど忘れきったような爽やかな笑顔に、果歩もつられてよそ行きの笑顔を返している。

「今日も暑くなりそうですね」

 白い歯を見せて、藤堂。

「……そうですね」

 ぎこちなく視線をそらしながら思った。一体、どの面さげてこの挨拶だろう。

 こういう時、職場恋愛って辛い。本当は今も、顔さえ合わせたくないくらいなのに。

「あ、藤堂さんっ」

 が、そこで、まるで飼い主を見つけた犬みたいに可愛い声で鳴いたのは、流奈ではなく、宇佐美だった。

 かわいらしく尻尾を振り振り(そんな感じに果歩には見えた)藤堂の傍らに駆け寄った宇佐美は、女の子も顔負けの潤んだ瞳で、藤堂を見上げた。

 身長180超えの男2人。体格の大きな藤堂と、すんなりと華奢な宇佐美は、妙なほどつりあいが取れている。

「あと、俺、何したらいいっすか」

「じゃあ、コーヒーの作り方を覚えてください」

「はいっ」

 え、何、この甘々な雰囲気は。

「的場さん」

「えっ」

 いきなり藤堂に名前を呼ばれ、果歩は慌てて居住まいを正した。

「淹れ方を教えてあげてもらえますか」

「あ、はい」

「給湯室のどこに何があるかも、教えてもらうといいですよ」

 それは宇佐美に言っている。

 え、てかマジで、この子にやらせるつもりだろうか。

 果歩は慌てたが、洗い籠をキャビネットの上に置いた藤堂は、そのまま平然と自席についた。

 ――そんな……これ以上、中津川補佐を逆撫でする原因を増やしたくない。

 先に給湯室に向かって歩き出した宇佐美の背に、背後の藤堂に聞こえないよう、果歩は小さく声をかけた。

「お茶なんかはいいのよ、これは私の仕事なんだから」

「いいっすよ、どうせ俺が一番暇なんやし」

「でも、こういうことは、男の子には……」

「え? なんで?」

 けろっと答える宇佐美は、天真爛漫とした笑顔である。

 給湯室の扉や引き出しをいちいち開けて、中のものを確認している。しゃがみこむと割合はっきりとしたつむじが見えて、それが少し可愛く思えた。

「男とか女とか、そんな意地悪いわんと、俺にもなんかさせてくださいよ」

「意地悪だなんて」

 屈託のない横顔を見ていると、先日、感情まかせに藤堂に愚痴を言った自分が、大人げなくて恥ずかしく思えてくる。

「慣れれば俺かてできますし」

「そうなんだけど……」

「それに、いつも藤堂さんが、してはるやないですか」

「………………」

 そう言われると、二の句が継げない。

 お茶のことは、いずれ、なんとかしなければならないだろう。

 また中津川に嫌味を言われる前に、藤堂に、もう一度相談してみよう。

 頭を切り替え、果歩はコーヒーの粉を戸棚から取り出した。

「猫、どうなったの、あれから」

「あ、」

 と、宇佐美が、言葉に詰まるのが分かった。

「あー……あれやったら、すいませんでした、俺、あんな騒ぎになるとは思わなくて」

 立ち上がり、わずかに表情を翳らせた宇佐美は、髪に手を当てて、視線を下げた。

「うち、飼えないんです。置いて帰るつもりはなかったんやけど、あの日はちょっと………なんや、暑くて」

 暑い?

「体調、いまいちやったから……、ちょっと病院いっとこ、思うて」

「そ、そうなんだ」

 それは、なんとも下手な言い訳のような気がした。信頼している風の藤堂には悪いが、やっぱり、少しいいかげんな子なのかもしれない。

 が、宇佐美の表情は、すぐにあっけらかんとした明るさを取り戻す。

「せやけど、藤堂さんが、飼い主探してくれはるゆうて」

「…………」

「あの人、ごつい人やけど、心もごっついい人やなぁ、ほんま」

 満面の笑顔で同意を求められると、果歩も、そうね、以外に答えようがない。

 確かに、心もごっつい……優柔不断だと思う。

 宇佐美は鼻歌を歌いながら、引き出しの中のスプーン類を整理し始めた。

「俺、働くの初めてで」

「え、そうなの?」

「バイトとかもしたことあらへんし、仕事ってどんなもんか、ようわからへんかったから」

「……そうなんだ」

 相槌を打ちながら、果歩は、宇佐美の履歴を思い出す。

 大学を中退したのが、確か19歳だったから、この年までこの子は何をしていたんだろう。引きこもるタイプにも見えないし――少しだけ不思議になる。

「俺、なんかえらい勘違いしとったみたいで」

 果歩を見下ろした宇佐美は、綺麗な八重歯を見せて、はにかんだように笑った。

「勘違い……?」

「仕事って、これとこれとこれって感じで、用意されたものがもらえるんやと思ってたけど、そうやないんや」

「……ああ」

「俺、なんも仕事もらえへんの、おっさんの嫌がらせやおもっとったからなぁ」

「何、それ」

 一瞬吹き出しそうになった果歩だったが、すぐに慌てて表情を引き締めた。

「……役所は、少し、特殊だから」

 曖昧に言葉を濁す。

「特にうちは、これって仕事を決めて雇ってるわけじゃないから、オールマイティに色んな事を手伝ってもらえたら、助かるかな」

 ルーティンな仕事が多い区役所なら、確かに決められた仕事がある。しかし、本庁の――果歩がいるような部署では、アルバイトに決められた仕事などなく(というより任せられるような簡易な仕事がない)、職員の代わりに雑用をさせられるケースがほとんどなのである。

 当然、大卒の男子にはいい意味でつとまらないし、そもそも雇用の対象外。自然に家事見習いとか、公務員と結婚したい花嫁候補が集まってくるし、集められる。

 そういう目的で来る子たちには、おそらく気楽で楽しい職場だ。

 が、逆に、何か1人前の仕事ができると張り切ってくるバイトには、たまらなく退屈な職場に違いない。

「本当いうと、男の子向けの仕事じゃないかもしれない、宇佐美君が悪いんじゃないわよ」

「でも、仕事ゆうたら、もらうもんやなくて、自分で見つけるもんでしょ」

「……まぁ、そうね」

 意外な言葉を吐く男を、果歩は驚いて見上げていた。

 もしかしてそれは、藤堂さんが言ってくれたのだろうか。

「俺、誰かが声かけてくれんの、待ってただけやったし」

「………………」

「それに、男向けやないゆうのも、なんか違う気がするなぁ。男向けゆうのはなに? 力仕事ゆうこと?」

「えっと……」

 言葉に詰まり、同時に果歩は、何気なく言った自分の失言に気がついた。

「果歩さんって、若そうなんに、結構古いこといわはるなぁ。おもろい人やわ」

「えっ……」

 おもろい?

 そんなこと、生まれてはじめて言われた気がする。

 が、宇佐美に対するガードが、その時はじめて解けた気がした。

「若いかなぁ、もう若くないと思ってたけど」

「なんで?」

「だって30だもの」

「ぜんっぜん、オッケーっすよ、俺、初めて見た時から、かわいい人やなーって思ったもん」

「……………」

 て、天性の女たらし?

 まさか、藤堂2世じゃないよね、この子。

 微妙に固まる果歩に、宇佐美は、人好きのする笑顔でにっこりと笑った。

「ほんまは昨日、むかつくからやめたろ、思うたけど、よう考えたらええ勉強になるな、思うて。えらいすいませんでした。ちょっと悪い癖でてもうた、俺」

「………………」

「今日からがんばります、果歩さんの手伝い、なんでもしますから、ゆうてください!」


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