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年下の上司  作者: 石田累
31/202

story6 September 男の闘い!嵐を呼んだ臨時職員(1)

僕はえらい。


「水原君、なんなんだね、君はエクセルの使い方も判らないのか」

 

 僕は、一流大学を出て、出世するためにここにいる。

 

「水原ぁ、悪いけど、そこの書類、財政までもってっといて」

 

 いいんですか。

 

「……なんだよ、その不満げな顔は」

 

 僕は、みなさんの、将来の上司です。



*************************

 

 

「ふざけんな、やってられっかよ!」

「冗談じゃない、なんだってあんな子を採用したんだね、的場君!」

 双方から一時に言われ、果歩は思わず肩を縮めた。

「……すみません」

 そんなことを言われても。

 ちらっと上席の課長席を見るが、そこは朝から空席である。

「とにかく、あんな役にたたないバイトなんて、二度と雇用してほしくないね」

 肩をいからせつつ、きんきんと甲高い声でまくしたてる中津川補佐が、自席に戻る。

「なんだって、若い女の子じゃねーんだよ。いつもいつも、ろくでもない奴ばかり連れてきやがって」

 隣席の同僚、南原亮輔は、あいかわらずえらそうな態度で椅子にふんぞりかえって腕を組む。

「ほんっと、サイテーですよね」

 笑うような声でそれに追従したのは、南原の腰巾着で、計画係の水原真琴。

 ――まいったなぁ……。

 果歩は、げんなりしながら、手元のパソコンに視線を戻した。

 灰谷市役所本庁舎13階。

 都市計画局総務課。

 暦では夏は終わっているが、日差しはまだまだ厳しい。

 ブラインドの角度を変えようと、席を離れて窓辺に立つと、はるか下の地上の景色が目に入ってきた。

 正午少し前だというのに、役所前の歩道は、自転車の高校生が溢れている。

 一瞬、不思議に思った果歩は、すぐにその理由に思い至った。

 ――そっか、世間は新学期、なんだ。

 夏休みも終わった9月。月初めの地獄のような慌ただしさ、それがひと段落した後の、妙に気が入らない、5時がひたすら待ち遠しい気だるい時間。

 役所はいつもと同じ日々を刻んでいるのに、気付けば通勤経路は新しい学期を迎えた高校生で賑わっている。

 この近くに高校が三校密集していて、彼らの若さが、朝の通勤をちょっぴりさわやかに、そしてちょっぴり切なくさせるのだ。

 ――若さ、か……。

 席に戻った果歩は、月初めの時間外集計表を作り始めた。

 若者に関して、今は相当憂鬱な果歩の背後を、諸悪の根源がどかどかと通り過ぎたのはその時だった。

「すんません、えろう遅くなりました」

 重役もびっくりの時間に出勤してきた男は、元気溌溂と自席についた。

 どこにいても耳につく陽気な(しかもやたら大きい)関西なまりに、フロアの全員が振り返るのが分かる

「ほんま、今日も熱いっすねー、果歩さん」

「そ、そうね」

 ピンクのポロシャツに五部丈のジーンズ、踵を潰したスニーカー。

 周囲の苦々しい視線をものともせず、ふわりとした茶髪をうるさげに払うと、男は両肘をついて果歩を見つめた。

「せや、果歩さん、ちょっと、聞いてもらえます?」

「な、なぁに」

「今日、こっちにくる最中に、丁度ですねん、丁度、あれは学校帰りの小学生やなー」

「……………」

 やっぱり、仕事の話じゃなかったか。

 果歩は、耳をふさぎたい気分で、パソコンのキーを叩き続けた。

 ごほん、と隣の係から中津川補佐の咳払いが聞こえ、隣席の南原が、わざとらしいため息をつくのが分かる。

「ランドセルがピカピカですねん、一年生かなー、いや、それにしては、ごっつかったような気ぃもするし」

 さ、察してよ、この空気。

 周囲の冷ややかな空気を一切気にせずしゃべり続ける男は、この9月からようやくついた予算で雇用した臨時職員。

 男子。

 である。

 9年の果歩の役所人生の中で、男性の臨時職員は初めてだったし、役所の中でも数えるほど――(むしろ探す方が難しいくらい希少)な男性臨時。

 無論、その雇用には理由があった。

「そのガキんちょがね、捨ててんですねん、猫。捨てとる現場、ちょうど見てもうて。ほんま、ちっこくて、生まれてちょっとくらいやろか?」 

 果歩は、ちらっと顔をあげて、対面席に座る男を見る。

「顔で選んだんですか?」

 と、都市政策部の須藤流奈に嫌味を言われたように、顔だけは、見とれてしまうほどの美少年。

 宇佐美祐希(うさみゆうき)

 履歴の性別欄を見るまでは、果歩は絶対女だと信じていた。

 顔の輪郭がややいかつくはあるが、ぱっちりとした褐色の瞳、濃い睫。白く透き通る肌に、整った小鼻と桜桃色の唇。写真だけでもちょっと驚くくらい、相当な美形である。

 えー、またライバル登場?

 あ、でもこの子なら、南原さんは大喜びかも。

 22歳、大学中退かー、微妙……、使える子だったらいいけど。

 と、色々複雑な感情を抱いた果歩だったが、実は果歩にさえ、今回は拒否権も選択権もなかった。

 宇佐美祐希はこの職場のボス、都市計画局総務課長、志摩課長の甥。

「的場君、次の臨時はこの子にしてくれ」

 天の一言で決定した、思いっきり縁故採用なのである。

「そしたら、ほっとけませんやん? 普通。だって出会いが超レアでしょ、いや、激レアっちゅーか、むしろ運命的っちゅうか」

 宇佐美祐希は、ちょっと巻き舌ぎみの甘い口調で続ける。

 しゃべり方だけをとると、まるで高校生。幼さ大爆発ってほどに可愛らしい。

 確かに憎めないキャラ(女性には特に)。しかし、当たり前だが、仕事ができない臨時に、周囲の職員はひたすら冷たい。

 志摩課長の縁故だなんて、果歩の口からは絶対に言えない以上、果歩に対する周囲の目も、同様に冷たい。

「その子猫がですねん。まさに、拾ってくださいっちゅう目で、俺のことじーっと見てるんですわ、マジで」

「へ、へー」

「そこでほっといたら、男ちゃいますやろ、やっぱ」

 ――まさかそれが、12時前出勤っていう、ありえない理由じゃないでしょうね。

 電話が鳴る。

 それは、南原のデスクだったが、果歩は転送ボタンを押して、即座に自席の電話でそれを受けた。

 無邪気な宇佐美には気の毒だが、もう、この饒舌に付き合いたくない。

 やたら果歩をターゲットに話しかけてくる宇佐美のことは、もう局内の噂になっていて、果歩まで「勤務中にバイトとしゃべってばかり」というレッテルを貼られつつあるのである。

「はい、都市計画総務、的場でございます」

 沈黙。

 ――ん?

『……藤堂です』

 電話を持ち直そうとした果歩は、ドキっとして、そのまま手を止めていた。

「あ、はい、的場です」

 妙に裏返った声が出る。

 わずかな沈黙。

『すみません、戻るのが5時過ぎになりそうなので、そう春日次長に伝えてもらえますか』

「わかりました」

『よろしくお願いします』

 移動の車の中だろうか、妙に声が遠くに聞こえた。

 そのまま、プツリと電話が切れる。

「………………」

 別に勤務時間に何かを期待していたわけではないけれど、必要以上に事務的な口調。

 果歩は、軽く嘆息して、受話器を置いた。

 この春、民間から中途採用された、年下の上司、藤堂瑛士。

 果歩にとっては、4歳年下の上司で――そして、微妙ながら、多分恋人――未満かもしれないけど、間違いなく友達以上。

 その藤堂に、最近、少し壁を感じるのは気のせいだろうか。

 もちろん、その壁は、果歩が作っているわけではない。

 藤堂が、自身と果歩の間に不思議なラインを引いて、そこから一歩も出てこないような、そんな気がしてしまうのだ。

 あの夏の夜、初めてのデートの帰り、部屋に誘われたあの時から。

 ――3歩進んで、2歩下がる、か。

 人生はワンツーパンチじゃないけど、自分の場合、3歩進んで5歩くらいは下がっているような気がしないでもない。あ、この例え……前も使ったような。

「あれっ、これって、エクセルですやん」

 ささやかな思考すら、大声で遮られた。相手は無論、宇佐美祐希。

 気がつけば果歩の背後に立ち、宇佐美は、丁度果歩と背中合わせに座っている水原真琴のパソコンをのぞきこんでいるようだった。

「そうだけど……」

 多分、その馴れ馴れしさにたじろぎながら、水原が迷惑気に答えている。

 小柄な水原は、身長は果歩と同じか少し下。

 多分、160と少ししかないくらいだから、男としては低い部類に入る。

 かたや宇佐美は、ひょろりと痩せてはいるが、身長はやたら高くて、180に届くか届かないか。広い肩幅ともてあますほど長い足を持つ、美貌の顔に似合わない、結構迫力のある体格の持ち主なのである。

 その宇佐美に背後からかぶさるようにされている水原は、こうしてみるとまるで子供のようにも見える。

「なんの表つくってんの?」

「別に……君に説明しても分からないと思うから」

「あんま、計算式入ってないみたいやけど」

「これは様式で、僕が作ったわけじゃないんで」

「面倒やん? いちいち計算して入力してんの?」

「………………」

 すでに答えない水原が、相手の態度に苛立っているのがはっきりと分かる。

 2人の年はほぼ同年、宇佐美にすれば友達感覚でも、水原真琴にしてみればバイトとのため口は耐え難いに違いない。

「宇佐美君、これ、コピーお願いしてもいいかな」

 見るに見かねて、果歩は口を挟んでいた。

「あ、はーい」

 即座に振り返った宇佐美の綺麗な目に、けれど、はっきりと不満がよぎったのを果歩は感じた。

「……えっと、20部なんだけど、コピー機、使い方分かる?」

「まぁ……昨日も、こればっかだったから」

 雇用3日目。

 宇佐美はいまだ、郵便の仕分けとコピー取りの仕事しか任されていない。

「役所って暇なんすかね」

「そういうわけでもないけど」

「つか、なんか仕事ないっすかね、俺」

「頼みたい仕事があれば、誰かが声かけるわよ」

「……ふーん」

 大卒出の臨時職員がよく見せる反応。

 こういった誤解はよくあるパターンで、一人前の仕事ができると思って意気込んできたものの、頼まれるのはお茶汲み、雑用、それでやる気をなくしてしまう。

 宇佐美は男で、しかもバイトもいくつか経験しているような年齢だから、なおさらだろう。

 本当は、再生紙ゴミの仕分けも頼みたかったが、それは少し気が引けて、今朝、果歩が自分でやってしまった。なんにしても、雇用からまだ3日。果歩もそうだが、周囲も、総務始まって以来の男性臨時の使い方に戸惑っているようだった。

「暇なんやなぁ、役所って」

 書類を数えながら、宇佐美はつまらなそうに、可愛い唇を尖らせた。

「そうね、若い男性には、ちょっと物足りないかもね」

 果歩は曖昧に微笑して、来客のコーヒーを淹れるために立ち上がった。2時半に第三会議室に県を迎えての会議がある。こういった仕事も、宇佐美にはとても任せられない。

 カウンターを出る時、ちょうど外から戻ってきた春日次長――この局のナンバー2で、実質ポスである男と、不幸にもすれ違った。

 枯れ木のような体躯と、血色の悪い痩せこけた仏頂面。唇はいつもへの字で、そのせいか、頬肉がぐっと下に垂れている。簡単に言うと痩せこけたブルドック面。

 過去のあるいきさつから、果歩はこの男が苦手である、苦手というより、むしろ嫌悪に近い感情を抱いている。

 それは相手も同じのようで、一段と機嫌が悪そうな渋面が、果歩を苦々しげに見下ろした。

「的場君、若い男性とのおしゃべりが楽しいのはわかるが、たいがいにしたらどうかね」

「は、はい」

 今日のことを言われたのか、今までのことを言われたのかは分からない。

 が、果歩は、血の気が引くような気分で姿勢を正した。

 春日次長の観察眼の鋭さは確かで、その針のような恐ろしい目は、局内の人間関係の殆どを見抜いているのである。

 春日は、死神よりも不吉な眼差しを、会議机で、つまらなそうに書類をめくっている青年にちらっと向けた。

「臨時雇用の責任者は君だ、ぶらぶら遊ばせないで、なんとかしてやったらどうだ」

「申し訳ありません」

 背後で中津川と南原が、同時ににやついているのが判る。

 ――まいったなぁ。

 最初と同じ嘆息を漏らし、果歩は給湯室に向かって歩き出した。

 

 

 *************************

              

 

「あはは、でも、それってひどいわねぇ」

 昼休憩の屋上。

 親友の宮沢りょうは、果歩の話が春日次長のところにまで差し掛かると、そう言ってほがらかに笑った。

「ひどいなんてもんじゃないわよ。当の課長は、知ってるくせに一言も声かけてくれないんだから」

「じゃなくてー、パグちゃんの言い草よ」

「ああ」

 パグ。

 とは、これこそ恐ろしくて口には絶対出せないが、果歩とりょうがひそかにつけた春日次長のあだ名である。

 りょうが室内犬を飼いたいと言い出したため、2人で行ったペットショップで、2人同時に叫んでいた。「春日次長!」それが、ブルドックを小さくした感じの犬「パグ」である。

「だってさー、可愛い女の子の臨時が来たらさ、それこそ男どもは、お茶汲みやコピー取りみたいな楽~な仕事させて、後は一日話し相手にさせてるわけでしょ。それは黙認なのに、可愛い男子に私ら女が話しかけて何がいけないっつーのよ」

「………いや、それは」

 問題が微妙にずれてる気が。

「それって、絶対何かがおかしいんだって、問題意識持たなきゃダメよ、果歩」

「う、うん」

「その矛盾をわからせるためにも、彼には甘~い仕事をさせて、あとは果歩が、一日べったり可愛がってあげるのね」

「あのねぇ……」

 できるわけないじゃん。それ以前にする気もないし。

「女が顔と見かけで評価され続けていた遺恨を、今こそ晴らすべきなのよ!」

「………………」

 宮沢りょうは、果歩と同期で同年の30歳。すらりとした長身に、端整で色気のある美貌の持ち主である。が、本人はその利点をあえて用いず、すっぴんに度の強い黒縁眼鏡、無造作にまとめた髪にシャツにパンツ、というまさに男みたいなスタイルで通している。

 人事課人事係、果歩の同期では、男性も追い抜く出世頭である。おそらく最初に主査に昇格するのもりょうだろう。

 しかし、男女差別の現実を果歩より赤裸々に知っているりょうは、こういったことにかけては、相当エキサイトした理論の持ち主で、時に果歩にはついていけなくなることもある。

「にしても、22歳の美少年かぁ、ジューシーねぇ、それはぜひとも、ツアー組んで見に行かなくちゃ」

「若すぎて、むしろ疲れるわよ」

「そう? でもおたくのシーズーと同い年じゃない」

「…………」

 あ、そうか、と果歩は口を押さえた。

 シーズーとは、これまたペットショップで見かけた犬が似ていたからつけたあだ名。

 水原真琴。

 総務課計画係に去年入った新人職員で、南原の腰ぎんちゃく。先ほど宇佐美に絡まれて、思いっきり迷惑気な顔をしていた男だ。

 やたら「そうですよね」を繰り返す、主体性のない若者で、最初に南原なんかに師事したのがそもそも間違いだったのだが、新人のくせに、机は拭かない、お茶は果歩に淹れてもらって当然、朝も遅刻ぎりぎりに来る不届き者。

 国立大出身というから、頭はいいのだろうが、その頭のよさが、仕事ではいまいち見えてこない。というか、とりあえず調子よく振舞ってはいるものの、存在感そのものが南原の影で全く見えてこない若者なのである。

「へちゃむくれのあの子から見たら、同じ年の美少年ってどうなのかしらね」

「ちょっと、言いすぎよ」

 確かにぽってりとした下膨れで、目鼻が中央に寄っている水原は、美男子とは言いがたいのだが……。

「シーズーも、年上の中で甘えて育ってきてるからね。同年が入ると、比較されるから、これからが見ものかもよ」

「比較にもならないわよ」

 それには、さすがに苦笑していた。

 学歴でも立場でも上の水原は、そもそもバイトの宇佐美など歯牙にもかけないだろう。

 水原とは、妙に学歴に拘るふしがあって、最初の新人歓迎会の時も、果歩が聞かれた第一声がこれだった。

「どこの大学ですか」

 果歩が自身の出身大学を告げると、水原は不思議な微笑を浮かべた。

 南原に対しても、立場的に絶対服従しているものの、私立卒の南原を内心馬鹿にしているような気もしないでもない。

 正直言えば、果歩は、あまり水原という後輩が好きではなかった。南原を隠れ蓑に調子よく立ち振る舞って、面倒なことから逃げているのも可愛くない。係が違うから、仕事の出来不出来まではよく知らないのだが。

「ま、そんなことよりさ、どうなったのよ、あれから」

「え?」

 半分残した弁当を片付けていると、りょうは、いたずらめいた目で、囁くように顔を寄せてきた。

「ずっと聞きたかったのに、果歩、忙しくて、お昼も一緒に食べられなかったじゃない」

「ああ……」

「藤堂君との初デート、あ、れ、か、ら」

「…………」

 実はそれが話しづらくて、親友との昼食会をキャンセルしつづけてきた――とは、とても言えない。

 それと、この屋上で、藤堂と鉢合わせになりたくないから。

 今日、藤堂は、志摩課長と共に外出している。電話で聞いた予定どおりなら、5時までは帰らないのだろう。

「いやー、それが……」

「それが?」

「…………」

 果歩は所在無く、弁当の包みを何度も包みなおしたり解いたりした。

 進展どころか、避けられてるみたいだなんて、どう言っていいんだか。

 避けられている――とは、断言できない。

 なんていうか、壁。

 普段とおりの関係の中に、藤堂が一枚壁を作って、ここから先は、入らないでね、とやんわり拒絶されているような。

「向こうから誘っておいて」

「え?」

「いざ、その時になると、いきなり実家の母が来てるって言い訳、ありだと思う?」

「……?なんの話?」

 りょうの目が戸惑っている。

 果歩にもそれ以上、あの夜の顛末を説明する気はなかった。

「彼って……何か、秘密があるのかな」

 思い切って言ってみた。

「彼って、藤堂さん?」

「りょう、前さ、彼が資格をやたら持ってるとか、企業の後取りじゃないかとか、色々言ってたじゃない」

「……ああ」

「絶対誰にも言わないから、彼のこと、わかってる範囲で教えてもらえない?」

「憶測よ? それ以上のことは私の権限じゃ分からないし」

 ふいに詰め寄られてびっくりした風のりょうは、しかしすぐに、思案するような目になった。

「……というより、彼はそもそも、特殊な形態での雇用だから、人事関係のファイル自体が、一般職員と別扱いなのよね」

「確認できないってこと?」

「私にはね」

 りょうはあっさりと頷いた。

「要するに彼は、市長、助役級と同じ、特別職扱いになってるの。人事でも、課長級以上しかアクセスできないファイルに収められてるってわけ」

「……そうなんだ」

 ただの係長なのに。

 民間から途中採用されたからだろうか、それがそこまで大層なことなのだろうか。

「彼は法規外措置で雇用されてるのよ、果歩」

 果歩の疑問を察したのか、りょうは、周囲をはばかるような口調でそう続けた。

「法規外措置……?」

「条例外の措置、首長の特別決済で決められた特別任用、本格的に民間企業と人事交流するためのテストケースだからじゃないかな」

「………………」

「私にもその辺はよくわかんない、人事の上の連中と、……今回藤堂さんを受け入れた都市計画局の上の人たちが決めたことだとは思うけどね」

 果歩は黙ったまま、よく晴れた夏の終わりの空を見上げた。

 よく分からないけど、ますます藤堂さんを遠く感じる気がするのは何故だろう。

「そんなに上手くいってないの?」

「…………」

 りょうに真顔で問われ、果歩が思わずうつむいてしまった時だった。

「おい、こんなとこに猫がいるぞ!」

 すっとんきょうな声が、昼休みののどかなひと時を遮った。 

 


*************************

            

  

「申し訳ありませんでした!」

 2人同時に頭を下げている。

 本庁舎、15階の会議室。

 頭を下げる果歩の足元で、にゃあ、と子猫が泣き声をあげた。

「一体全体、何をやっとるんだ、君たちは!」

 春日次長は、最初の叱責を繰り返した。空気がびりびり震えるようだった。見なくても分かる。額にはいくつも青筋が走っている。

「的場君」

「は、はい」

「君は役所に何年いるんだ、まだバイト一人も満足に管理できないのか!」

「も、申し訳ありません」

「藤堂君」

「はい」

「君も管理職の端くれだろう、たった5人の係ひとつも満足に管理できないでどうする!」

「申し訳ありませんでした」

 ようやく言いたい事を言い切ったのか、春日は、気がすんだという風に、嘆息する。

 果歩が頭を上げると、隣立つ藤堂も、同時に頭を上げた所だった。

「とにかくこれは、君らで何とか処分したまえ。全く、局のいい恥さらしだ」

「ご迷惑をおかけしました」

 藤堂が、再度、深く頭を下げる。

「宇佐美君のことも、なんとかしたまえ!」

 はき棄てるような最後のセリフは、果歩に向けて言い放たれたようだった。

 音をたてて扉が閉まる。

 ようやく肩の力を抜いた果歩は、足元のダンボール箱でうずまっている褐色がかった黄金色の毛並みを見下ろした。

 宇佐美君のことも、なんとかしなきゃだけどその前に。

 ――ど、どうすればいいのよ、これ。

 おそらく生後何日かあまりの、可愛く儚い生き物を。

 屋上で発見された子猫は、果歩が大慌てで宇佐美を探しに行っている間に、総務局総務課に通報され、結構な騒ぎになってしまった。

 果歩の対応もまずかった。「うちの臨時が事情を知っていると思います」確かめもせずに、うっかりそう言ってしまったのだから。

 しかし、当の宇佐美は、果歩が執務室に戻った時には、どこにも姿が見えなかった。

「……まさか、あんな時間に宇佐美君が帰ってたなんて」

 果歩は嘆息して額を抑える。

 宇佐美祐希は、昼休憩が終わるのを待たずに帰宅していた。

 12時前に来て、1時前に帰宅。ちょっと、いくらなんでもひどすぎると思う。

 その時点で、猫騒動は総務局総務課に通報され、果歩一人で収集できるレベルではなくなっていた。志摩課長と藤堂が外出していたため、春日次長が総務に赴いて、謝罪。

 で、帰庁した藤堂が、早速果歩と共に呼び出され、叱責と共に猫の後始末を任せられたのである。

「いくら、志摩課長の親戚の方でも、……どうなんでしょうか」

 果歩は、藤堂に思わず愚痴をこぼしていた。

 宇佐美の身上のことを知っているのは、課内では果歩と藤堂だけである。果歩にしてみれば、唯一本音で語れる相手。

「まぁ、まだ3日目ですからね」

 が、果歩ほど深刻でないのか、振り返った藤堂の目は普段どおりだった。

「やる気はあるみたいだし、様子を見てもいいと思いますよ」

「でも」

 藤堂が同意してくれないことに、わずかな憤りを感じつつ、果歩は言葉を続けていた。

「仕事以前の問題ですよ、彼の場合」

「まぁ、そうですが」

「猫のことも無責任すぎます。最近の若者ってみんなああなんでしょうか、勝手に拾ってきて、屋上に置きっぱなしなんてひどすぎるわ」

「……そうですね」

 藤堂は言葉少なに言い、膝をついてダンボールを引き寄せる。

 5時過ぎ、庁内の冷房は切れている。藤堂の広い背中に薄く汗が浮いていた。

 果歩の額にも、汗の粒が浮き出している。

 しゃがみこむ藤堂を見下ろす果歩の目に、開いたシャツの襟、彼の健康的な胸元がわずかに見えた。

 どきりとする前に、藤堂が立ち上がる。

「じゃあ、僕が帰りによって見ますよ」

「宇佐美君の家にですか」

「ええ」 

 笑う藤堂の口元から、白い歯がのぞいた。

「そんなに無責任な子には見えないんです。急用で、忘れて帰ったのかもしれない。一応、届けて、事情を聞いてみます」

 それは楽観的すぎる気もする。

「じゃ、私も一緒にいきましょうか」

「……いえ」

 果歩が思わず口にした言葉に、わずかに考えてから、藤堂は首を横に振った。

「一人で行ってきます、今夜は、もう少し残ってから帰りますし」

「……そうですか」

 別に――へんな意味で言ったわけじゃないけど。

 少しは、2人になりたいとかって、思わないのかな、この人は。

 また、感じる、2人の間の見えない壁。

「春日さんと藤家さんは、犬猿の仲らしいですからね」

 しかし、微笑する藤堂の眼差しは、あくまでも優しかった。

 藤家とは、総務局長の藤家広兼。

 人事、給与、法規、等の職務を持つ役所の総本山、総務局は庁舎管理も担当している。

 庁舎内のトラブルは全て総務局総務課庁舎管理係に伝わる仕組みだが、総務局にしても、屋上で猫が発見されたなど、役所創設以来の珍事だったろう。

 藤家広兼は、総務局の局長であり、役所内では赤鬼と呼ばれる強面の男だ。

 次期副市長候補。

 一番の出世頭だが、同じく出世では同期で群を抜いている春日次長とは、どうもそりが合わないらしく、2人の不仲は庁内では有名な話である。

「春日さんは、藤家局長に借りを作ったのが悔しいんですよ、別に本気で怒ってるわけじゃないですから、気にしないことです」

 そう言って藤堂は、腰をかがめて、猫の入ったダンボールを持ち上げた。

「宇佐美君が、もし飼えないって言ったら、どうされるつもりなんですか」

 これ以上は余計だ、と思いつつも、果歩はついつい言ってしまっていた。

 まだ、宇佐美祐希という少年が信用できない。

 もしかすると、あのままこっそり屋上で飼うつもりだったのかもしれない――とさえ、思えてくる。

「僕がつれて帰りますよ」

 が、藤堂はあっさりとそう言った。

「えっ、でも」

「引き取り手が見つかるまでの間ですが、大丈夫でしょう。鳴き声も小さいですし、こんなに可愛い」

 眼鏡の奥の目が楽しそうに笑っている。

 抜群のタイミングで、2人の間で子猫がかすかな鳴き声をあげた。

「ね」

「…………」

 可愛いのは、猫じゃなくて、藤堂さんなんだけど。

 ささくれだっていた果歩の胸に、初夏の風のような感情が戻ってくる。

「じゃ、私も手伝います」

「いいですよ、そんな」

「前飼ってたことがあるんです。子猫の世話って、結構大変ですから」

 果歩は、藤堂の腕の中、ダンボールの中をのぞきこむ。

 新聞紙の擦れる音と、甘い野生の匂いがした。

 暗がりの中、つぶらな瞳が不安げに果歩を見上げている。

 ――可愛いな。

 指で、そっと頭を撫でてやる。果歩は思わず言っていた。

「やっぱり、今夜、私もついていこうかしら」

 見上げると、笑顔の余韻を残したまま、藤堂の表情が、わずかに翳ったような気がした。

「いや……お気持ちはありがたいんですが」

 妙な咳払いをして、藤堂は数歩、後ずさった。

「明日も仕事だし、本当に、僕一人で大丈夫です」

「…………」

 間違いなく、拒絶を婉曲に言い訳している。

「そう……ですか」

 別に、下心で言ってるわけじゃないのに――、藤堂のシャツのボタンのあたりを見ながら、果歩は気持ちが冷えていくのを感じていた。

 もう気のせいではない。

 何があったのかは分からない。が、間違いなく、藤堂は、自分と距離を開けたがっている。

「わかりました」

 果歩はあえてそっけなく言うと、顔をあげた。

「じゃ、私はこれで失礼しますね」

 目の前に立つ男と、目も合わせずにきびすを返した。

 さすがにこの辺りが、いい女仮面の限界だ。

 今日まで我慢してきたけど、もしかしなくても、私をからかってるんじゃないだろうか、この人って。

 先日の夜、急に約束がキャンセルされた時もそうだった。「すみません、今夜は……実家の母が来ていて」それもおかしいくらい不自然だった。

 その時感じたわずかな疑念、もしかして――来ているのは実家の母なんかじゃなくて。

 女――?

 と思ったことが、今は確信を持って断言できる。

 絶対に何かある。自分の家に、私を連れて行きたくない何かが。

「的場さん」

 やや、あわてた声が追いすがってくる。

「何か」

 扉の手前、冷ややかに振り返ると、藤堂の大きな体が、うっと固まるのが判った。

「……いえ、何も」

「そうですか」

 じゃ、悪いけど呼び止めないで。

「いや、ちょっと待ってください」

「…………」

 頑なな気持ちのまま、仕方なく足を止める。

 が、こうして間近で見下ろされると、果歩の中で、閉じ込めようとした気持ちが膨らんでいくのが判った。

 あの夜、あんなに近くにいて、唇を合わせた人。

 熱を帯びた眼差しも、その時感じた体温も、まだ鮮明に覚えている。

 藤堂が、手にしたダンボールを傍らのデスクに置いた。

「……先日の夜は、失礼しました」

「それは何度も聞きましたから」

 気持ちに反して、先ほどの憤りの延長からか、自分でも嫌になるほど冷たい声が口から出る。

「……少し」

 藤堂が、言葉にためらい、それから視線をそらすのが分かった。

「自分でも、焦りすぎていたような気がして」

「…………」

 焦る。

 藤堂の靴のあたりを見ていた果歩は、わずかに眉根を寄せていた。

 焦る……か。

 私はいつも焦ってるけど、そうですね、あなたはまだ20代半ばでした。

「まだ、知り合って間もないのに」

 って、もう半年ですが。

「……なんだか、性急すぎた気がしまして」

 じゃ、あの夜、行きますって、まるで犬みたいにがっついた私は、さぞかし、みっともなく見えたんでしょうよ。

「そうだったんですか~」

 果歩は、今はじめて気がつきました、という顔になって、にっこりと笑った。

「ごめんなさい、藤堂さんのそんな気持ちに、私、ぜんっぜん気がつかなくて」

 とにかく、笑った。

 対照的に、藤堂の顔は硬直している。

「デリケートなんですね。20代ってそんなだったかしら、ごめんなさいねー、鈍くて」

 じゃ。

 ひらっと片手をあげて、再度きびすを返した。

 扉を開けて、そして閉める。

 自覚している。ものすごい嫌味を言った。

 歩きながら、自己嫌悪で泣きたくなった。

 ――嫌われるよね、さすがに、今のは。

 でも、こんな生殺しみたいな状態で弄ばれるより、その方が何倍もましな気がした。

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