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年下の上司  作者: 石田累
26/202

story5 august 恋と友情の板ばさみ(5)


 月曜日。

 局内の話題は、ふいにストレートヘアになった住宅計画課の女性のことでもちきりだった。

「いやぁ、一体、どこのお嬢さんがきたのかと思ったら」

 感嘆したようにそう言ったのは、中津川補佐だった。

「女性というのは、あれだね、髪型ひとつで随分印象が違うものだねぇ」

 驚きは、乃々子を美容院に連れて行った果歩もまた同じだった。

 ストレートパーマは絶対無理なんです。

 何年か前、それで大失敗したという乃々子は、最後まで疑心的だった。

 が、仕上がりは、乃々子どころか果歩の予想さえ裏切るものだった。

「的場さん」

 昼休憩。

 花のように明るい声に、果歩もそうだが、課内の全員が思わず顔を上げている。

「あ……、ご、ごめんなさい、大声で」

 カウンターの外で、立ちすくんで赤くなっている乃々子。

 見違えるほど綺麗になっても、中身は元のままである。

 さらさらのミディアムは、わずかに地色より明るめにしてもらった。

 化粧品も買い揃え、スキンケアの方法も教えてあげた。ついでに言うと、美容院で顔剃りもしてもらった。印象の劇的な変化は、多分、眉の形にもあるのだろう。

 その後、二人で、果歩が以前通っていたエステティックサロンに行って――果歩も久々につるつるになったが、やや荒れ気味ではあるものの、乃々子の肌はみずみずしいほど綺麗になった。

 ただし服だけは、まだねずみ色のロングスカートだが。

「今日、何時でしたっけ」

「7時、大丈夫?」

 その服を、今夜、2人で買いに行く約束をしている。

「この雑誌で、いい感じの服みつけたんですけと」

 もともと勤勉な性格が幸いしたのか、乃々子は実に熱心な、そして素直な生徒だった。

 最初こそ、「私には無理です」「絶対に似合わないです」「前も失敗したんです」の連続だったが、その壁を乗り越えれば、むしろ果歩より覚えが早い。

「このスカート、的場さんに似合いそうですよ」

「いやー、膝丈は痛くない?」

「いけます、絶対可愛いです!」

 ひとしきり服の話をした後、乃々子は、「あのぅ」と、そっと囁くような声になった。

 昼休憩も終りに近く、係内で席についているのは、たまたま果歩だけになっている。

「藤堂さんって、お昼は屋上で食べてらっしゃるんですね」

「……あ、そうなんだ」

 少しどきまぎしながら、果歩は自然に視線を泳がした。

 実の所、今日の乃々子を見て、藤堂がどんな感想を持ったのか――それが朝から気になって仕方がない果歩なのである。

 今のところ、藤堂の口からも表情からも、何の感情も読み取れないのだが。

 ――お昼……か。

 果歩はふと、寂しくなる。

 もう、藤堂とは、屋上で一緒に食事をすることもなくなった。

 それは課内で、藤堂が果歩をひいきにしている――と、思われないようにするためである。

 プライベートでも会えない上に、職場では他人行儀。

 こんなことじゃ、とても恋人とは言えないし、そもそも藤堂の意識に、恋人だという認識があるのかどうか。

「あの………」

 気づけば乃々子に、少し潤みを帯びた目で、じっと下から見上げられていた。

「藤堂さん、本当に、須藤さんとは……?」

「あ、それは、本当にないと思うから」

 乃々子の接近に反比例するように、最近、流奈の姿も声も聞こえない。

「………私、ちょっと勇気だしてみようと、思ってます」

「…………」

「的場さんに魔法かけてもらったから、消えない内に」

 ぐっと両手を握り締め、気合を自分に入れるように乃々子は頷く。

 うん……。

 曖昧に微笑し、果歩もまた、頷いた。

 屋上に、行くんだろうな。

 藤堂さん、この子にもお弁当分けてあげるんだろうか。

 でも多分、会話は結構弾むんだろう。

 私といた時よりは、多分、ずっと――。

 

 

*************************

             

 

「的場さん」

 午後9時。

 今夜は全員が早めに切り上げて、総務の執務室に残っているのは果歩一人である。

 仕事のきりは悪かったが、いいかげんに帰ろうと思っていた時だった。

 背後から聞こえた微妙な棘を含んだ声に、果歩は、眉をひそめて振り返る。

「前からバカな人だとは思ってましたけどぉ」

 久々に見るモーニング娘、こと須藤流奈は、カウンターに肘をあずけ、心底あきれた声でそう続けた。

 都市政策部も、今日は殆ど全員が残業していた。流奈は帰宅間際なのか、すでに上着を羽織り、バッグを肩にかけている。

「ここまでバカだとは思ってませんで、し、た」

「何が言いたいのよ」

 肩をすくめた流奈は、形のいい鼻を鳴らす。

「今日、ラブラブの2人が仲良く階段から降りてきましたよ、お昼時間」

「…………」

「一体何やってんですか。まだ仲人やる年じゃないでしょ、自分が嫁き遅れてるってのに」

「………あのね」

「ちなみに私も、何度かお昼に屋上、上がりましたけど」

 頬杖をつき、流奈は、どこか投げやりな目になった。

「藤堂さん、5分で食べて、さっさと下に降りちゃうんです。でも今日は、最後まで2人で話してたみたい」

 それは、言われるまでもなく果歩も知っていた。

 藤堂がぎりぎりになって戻ってきたのと、給湯室で会った時に見た嬉しそうな乃々子の表情から。

「あの子、意外にクセモノですよ」

 流奈は、冷めた目のままで続けた。

「純情そうにみえて、たらしっていうか、強かっていうか。住計の男連中も、なんだかんだいってあの子に骨抜きにされてるみたいだし」

「…………」

「あのキャラだって計算して作ってんじゃないかな。けっこういやらしい女だと思いますけどね」

「それは、違うんじゃない」

 微妙な不愉快を感じ、果歩はそっけなく話を切りあげようとした。

 乃々子は違う。

 少なくとも果歩の目には、そんなタイプの女には見えないし、どんな態度も自然体に見える。

 他人の讒言よりも、自分の目で感じたことを信じたい。

 が、そう思う反面で、あまりに上手く藤堂の心に入り込んだ乃々子に、わずかな嫉妬も感じている。

「あーあ、的場さんって、本当にお人よし」

 流奈は、おかしそうに、くすくすと笑った。

「あんなブス、ほっとけば論外だったのに」

「須藤さん」

 さすがにその言葉には、むっとして声を荒げる。が、流奈は、あきれたように鼻で笑った。

「せっかく、諦めようとしてるのに、私の立場がないじゃないですか」

「…………」

 ――え?

 立ち上がろうとした果歩は、そのまま動きをとめていた。

 今……なんて?

 諦める?

 流奈が、藤堂さんを?

「最初は、興味本位っていうか、殆どゲームみたいな感覚だったけど」

 果歩が言葉をなくしたままでいると、流奈は、綺麗な目をすがめて唇を噛んだ。

「ばかみたい」

 それは初めて見る様な、どこか、辛そうな横顔だった。

 この恋が、目の前の女にとって、かなり切羽詰ったものなのだと、果歩はようやく、重苦しい気持ちと共に理解する。

「やめちゃおうと思うたびに、マジ、辛くなるんですよね。これって、どうしたらいいと思います?」

「…………」

「的場さん、本気じゃないなら、私、本気で彼のこと落としますから」

 流奈の真っ直ぐな目が、果歩を正面から強く見据えた。

 果歩は――何も言えなかった。

「私、的場さんと違って余裕もないし、プライドも全然ないから」

 そして流奈は、かすかに笑った。

「私の本気は、ちょっと怖いですよ」



*************************

 

 

「……あ」

 早朝の執務室。

 いつも通り出勤した果歩は、係長席で、机につっぷして眠っている人を見て驚いていた。

 この夏の総務課一大イベント、全国大都市会議は翌日だ。

 昨夜は、最終チェックと資料作りで、南原をはじめ、ほとんど全員が10時まで残っていた。

 一昨日、東京都から送られた事前資料がふいに差し替えになったため、70部近い資料全ての修正作業も重なって、まるで戦場のような慌しさだった。

 全員が帰った後、藤堂一人が残っていたのは知っていたが――。

 かなり深く熟睡している。

 ネクタイは机の上においてあって、シャツは、胸元がわずかにはだけている。

「……藤堂さん?」

 近寄って、おそるおそる声をかけると、藤堂は、はっとしたように顔をあげた。

 逆に果歩は驚いて後ずさる。

 顎に、わずかに無精ひげが生えていた。

「………朝ですか」

「………朝です」

 どこか間の抜けた会話を交わす。

 やや呆けたような顔をしていた藤堂は、が、すぐに表情を変えて立ち上がった。

「まずい、今朝は9時から市長ヒアでした」

「そうですね」

「いったん帰ってきます。9時前には戻ります」

「はい」

 外したネクタイを掴み、藤堂が席を離れる。

 机の上に散乱している書類を見た果歩は、それが来年度の人事要求資料だと知って、少しばかり驚いていた。

 とすれば藤堂は、会議の準備をし終えた後、一人で別の仕事をしていたということになる。

「すみません、今日の朝のお茶は」

「いいですよ、そんなこと気になさらないでください」

 答えながら果歩は、藤堂とは別の意味で、散らかり放題の南原の机を見た。

 昨夜、大変なのは俺一人だ、みたいな顔で仕事をしていた南原に、今の藤堂の姿を見せてやりたい。

 実際、今回の会議に関しては、南原には一から十まで腹がたつ。

 要所要所では、藤堂の力を借りているくせに、で、それは自分でも分かっているくせに、「係長なんだから当たり前だろ」とえらそうに開き直っている。

 その上、仕事上の報告は一切しない。重要なことは、すべて果歩を通して伝わるという有様で――東京都の資料変更についても、昨日の朝まで藤堂は知らず、そのことで春日次長と住宅計画課長から、厳しい叱責を受ける羽目に陥っている。

 ――藤堂さんは……腹が立たないんだろうか。

 果歩はそっと、机の上を片付けはじめた藤堂の横顔を窺い見る。

 藤堂の、南原への態度は一貫して丁寧で腰が低い。

 係長として指示する時も、伝達する時も、自分が年下であるという態度を一度として崩さない。多分、それがますます南原を増長させているに違いない。

 あからさまに無視され、馬鹿にされていると、それは藤堂にもわかっているだろうに――。

 ――どんな誠意も、言葉も、絶対に伝わらない人がいる。

 果歩は思う。それが、南原や中津川のような、意固地でプライドばかり高い連中だろうと。

 藤堂は、それを分かって、ある意味切り捨てているのだろうか。それとも、争いを恐れて忍従しているのだろうか。

 藤堂ほどの実力があるなら、受身になるばかりではなく、いっそのこと反撃して欲しいとさえ思うのだが……。

 立ったまま、書類を手際よく揃える藤堂の手元から、紙が一枚抜け落ちた。

 それが、果歩の足元に滑り落ちてくる。

「あ、」

「いいです、私が拾いますから」

 明日の会議の、最終スケジュール表である。

 拾い上げた果歩は、そこに妙な落書きがしてあることに気がついた。

 絵書き歌の落書きで、へのへのもへじの絵。

「………百瀬さんですか」

 咄嗟に、そう呟いてしまっていた。

 数日前、偶然覗き見してしまったノートの落書きと、同じタッチ、同じ印象。

「?……ああ、そうですね」

 と、不思議そうな顔をして、藤堂。

 その目がふと、何かを思い出したように優しくなった。

「自分の名前が、昔は嫌いだと言っていたのかな。へのへのもへじの乃々子って、そういえば、歌いながら描いていましたね」

「…………」

 可愛らしい鉛筆の走り書き。

 果歩は、ふいに、胸が重苦しくなるような感情に包まれた。

 へのへのもへじの乃々子。

 その落書きを自席に置いて、昨日藤堂は、一人でずっと仕事をしていたのだろうか――。

「……あの」

 果歩は、拾いあげた紙を元通りに机において、思いきって口を開いていた。

「あの、」

「……はい?」

 ほとんど駆け足で更衣室に向かおうとしていた藤堂は、不思議そうに足を止める。

「あの、」

 何を言おうとしてるんだろう。私。

 もしかして、私って、かなり卑怯なことしてるんじゃないだろうか。

 表では、乃々子の気持ちを応援してるふりして。

 影では――こんな。

「お、お休みのことですけど」

「え?」

 藤堂は、時計を見ている。彼が時間を気にして、心がここにないのは、明らかだった。

「いえ、なんでもないです」

 果歩は、気が抜けたように、一瞬バッグの中で握り締めたチケットから手を離した。

「すみません、急いでいるので」

「気をつけて、次長と課長には私から言っておきますから」

「よろしくお願いします」

 慌しく去っていく藤堂の背中を見送りながら、果歩は、ため息をついて席に座る。

 何故か、昨夜の流奈の言葉が耳に蘇った。

(私、的場さんと違って、余裕もないし、プライドも全然ないから)

 私だって、余裕なんて、そもそもない。

 そもそも、私たち、つきあってるなんて、とても言えない――。


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