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年下の上司  作者: 石田累
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Last story② 過去への扉(7)

「お疲れ様。なかなか上手い演技だったよ」

 二宮夫妻が店を出た後、そう言った真鍋の頬を、果歩は思い切り叩いていた。

 鮮やかな打擲音が店内に鳴り響き、その場にいたスタッフ全員が息を飲んだように立ちすくむ。

「……ここをどこだと思っている」

 叩かれた勢いで顔を背けたまま、真鍋は、表情ひとつ変えずに呟いた。

「せめて店を出るまで待てないのか。よほど君は、俺に恥をかかせるのが好きなんだな」

「どうとでも」

 言い捨てて、果歩は真鍋を振り切るように歩き出した。スタッフが持ってきたショールとハンドバッグは「私のじゃありませんから」と受け取らなかった。

 悔しさと、情けなさと惨めさと――あらゆる感情が胸の中でごちゃまぜになっていた。

 藤堂と真鍋が、自分の全く知らないところでそんな攻防を繰り広げていたとは知らなかった。それを藤堂が一言も打ち明けてくれなかったことや、彼がそれでもなお、勝負に出なかったこともショックだった。

 彼は何に負けたんだろうと思った。負けたというより、何と勝負したくなかったんだろう。真鍋さんと? ――それとも、真鍋さんを通して見ている脩哉さんと?

 いずれにしても、彼の優先順位の中から、果歩は知らない間に外されていたのだ。相談ひとつされないままに。

 悔しいのはそれだけではなかった。

 ――どうして私は、二宮さんの前ではっきり言わなかったんだろう。こんな人と結婚しないって。どうして真っ先に、その誤解を解かなかったんだろう。

 二宮喜彦の口から、今夜の顛末は確実に藤堂に伝わるだろう。それが分かっていたのに、どうして。

「もう話はいいのか」

「なんのことですか」

 追いついた真鍋に、果歩は歩幅を緩めずに答えた。

「俺に話があると君が言った。五つか、六つか知らないが」

「いいですもう。あなたとは二度と口を聞きたくありませんから」

 店の前には、片倉が待機している。言い争いながら出てきた2人を見て、さすがに驚いたのか、眉をわずかに上げている。 

 果歩はその片倉の傍らも、ものも言わずに通り過ぎた。

 エレベーターホールの前で、叩くようにエレベーターのスイッチを押す。食事中からずっと痛み続けていた胃が、今はもう破れそうに痛かった。あまりの気分の悪さに吐き気すら込み上げてくる。

「ついてこないでください」

「そうは言っても、部屋の鍵は片倉が持っている」

「じゃあ、鍵だけ渡して下さい!」

 背後の男2人を振り返った時、エレベーターの扉が開いた。

 はぁっと真鍋がため息をつく。

「客室会の警備は」

「部屋の外とホールに1人」

「じゃあ、鍵を渡してやれ」

「よろしいのですか」

 真鍋が頷き、片倉が内ポケットからルームキーを取り出す。果歩はそれを奪うようにして受け取った。

 エレベーターに足を踏み入れた途端、胃に激しい痛みが走った。

「――っ」

 ――痛……。

 同時に、頭の芯が暗く翳っていくような、貧血が起きた時のような感覚に見舞われる。

 エレベーターの壁に手をついて、果歩はくずおれそうな自分を支えた。

 ――……まずい、吐きそう……。立ってられない……。

 扉が閉まり、たまらず果歩は膝をついた。地に落ちていきそうな身体が、その刹那、傍らから支えられる。

 果歩はうつろに顔を上げた。目の前に真鍋の顔があった。

「大丈夫か」

「……離して」

 弱々しく言って、胸を押し戻そうとした。広い肩――腕は果歩の肩と腰に回され、互いの首すじが触れ合っている。

「誰も見ていない」耳元で、彼の声がした。「今の間だけでも、すがっていたらいい」

「いいです、離して」

「そうしたいが、顔色が真っ青だ」 

 こんなことが、8年前にもあった。

 2人で初めて飲みに行った帰り、エレベーターの中で今と同じように真鍋に支えられたことがあった。

 その夜、下降するエレベーターの中で、2人は初めてキスを交わした。真鍋は知らないだろうが、果歩にとっては、人生で初めて経験するキスだった。

 決して結ばれるはずのない人と、最初で最後になるはずのキス。あの刹那の、幸福と哀しさがない交ぜになった切ない記憶は、今でも苦しいほど色鮮やかに残っている。

「……いや……」

 果歩は唇を震わせて首を横に振った。

 首に触れる彼の肌が怖かった。耳にかかる息が怖かった。胸の温かさも、ほのかに感じる彼の香りも、肩の広さも何もかもが怖かった。同時にそれは、全て8年前の、まるでデジャブのような真鍋との思い出に重なっていく。

 怖い。こうやって、過去の思い出にのみ込まれていくのが怖い。ようやく真鍋を忘れることができた今の自分が、また過去に塗りつぶされてしまうのが怖い。

 8年前もそうだった。真鍋に惹かれていくのが怖くて、無意識に彼から逃げ回っていた。それが、もし今もそうだとしたら?

 そうだったとしたら――

 私はそもそも最初から、藤堂さんと恋愛する資格なんてなかったことになる。

 あたかも過去に抗うように、力一杯真鍋を押し戻そうとしたが、意思に反して身体から力が抜けていく。

 身体ごと夜に吸い込まれていくような感覚の中で、果歩は意識を失っていた。



 *************************



 視界一面に、風にあおられたシロツメクサの葉が舞い上がっている。

(――果歩……) 

 夢を見ているのだとすぐに分かった。

 何年か前まで、繰り返し見ていた夢。

 目が覚める度に、胸をかきむしるようにして泣いた夢。

 雪のように舞い上がる花と葉の向こうに、あの日の雄一郎が立っている。

 白のかぎ編みニットと麻のパンツ。8年前、最後に見た姿のままで。

 いつもの夢と同じで、追いかければ、彼はその分だけ遠ざかる。寂しそうに微笑むだけで、決して果歩に話し掛けてはくれない。

(――果歩)

(君を失ったら、……俺は、どうしていいか分からない)

 けれどその夢の中では、真鍋は果歩に囁きかけてくれた。

 なのにいつものように、その姿は舞い上がる葉の向こうに遠ざかり、やがてどこにも見えなくなる。

 待って。

 行かないで。

 ずっと私の傍にいて。 

 お願い、私をおいていかないで――

 

 

「そうだ、今すぐきてくれ。呼びかけても意識がない。重症なんだ」

 ――え……? 何?

 そんな不安をかきたてる声で目覚めた果歩は、目の前にある背中を見て息をのんだ。

 腰に手を当てて立っている真鍋が、果歩に背を向けてどこかに電話をかけている。

「今すぐだ。5分? いや、3分で来い。それ以上待たせるようなら」

「――、ちょっ」

 ようやく現状を理解した果歩は、大急ぎで身を起こした。

 同時に、真鍋が弾かれたように振り返る。

 まだ何が起きたか分からない顔をしている彼に、果歩は急いで声をかけた。

「お、大げさなことにしないでください。大丈夫ですよ、ただの貧血ですから」

「貧血? ――ちょっと待ってくれ」

 携帯を下ろして、真鍋はベッドに片膝をついた。

「貧血ってどうなんだ。病院に行かなくても大丈夫なのか」

「大丈夫です。たまにこうなりますけど、健康診断でもなんの問題もありません。ちょっと休んでいれば元に戻りますから」

「本当だな?」

「本当です」

「本当なんだな?」

「…………」

 なんてくどい人なんだろう。そう思いながら、果歩は念押しするように頷いた。

 夢ではドラマのワンシーンのようにかっこいいのに、なんなの、このかっこ悪さは。

「ああ、すまない。医者はいい。今、目が覚めて、……そう、特に問題はないようだ。いや、……え? 呼吸が止まっているなんて俺は言ったか?」

 真鍋が電話でみっともなく言い訳している間に、果歩は急いで、ベッドの下に置いていたはずの、自分のハンドバッグをたぐり寄せた。

 ここは最初に着替えをしたホテルの部屋だ。急いで着替えたため、ベッドの上に包装紙や箱を置いたままにしていたはずだが、今はそれが全て、床に乱雑に転がっている。

 一瞬、自分が散らかしたのではないかと思って驚いたが、すぐにそれは、この部屋まで自分を運んでくれた真鍋がしたのだろうと思い直した。

 ベッドの上に置いてあったものを乱暴に払いのけ、そこに果歩を下ろしてくれたに違いない。部屋の端まで転がっているネックレスのケースを見たとき、一体この人はどれだけ慌てていたんだろうとふと思った。

 よく分からないけど、真鍋さんってそういう――そこまで粗忽な慌て者だったかしら。

「水を持ってこようか」

 いつも飲んでいる胃薬を取り出した時、上から真鍋の声がした。

 顔を上げると、電話を終えた真鍋が、やや腹立たしげな表情で果歩を見下ろしている。

 果歩もまた、彼が腹を立てている理由が分からず、むっとして真鍋を見上げた。

「大丈夫です。自分で取りに行きますから」

「そうか、――だったらご自由に」

 それでも果歩が立ち上がろうとすると、真鍋は苛立ったように、冷蔵庫に向かって大股で歩いて行く。そして冷蔵庫からペットボトルの水を取り出して戻ってきた。

 果歩は黙ってペットボトルを受け取った。ありがとうございますの一言が、上顎にひっかかったように出てこない。その代わり、言い訳のようになんでこの人が怒っているの?と思った。今日のこの展開で、怒っていいのは間違いなく私なのに。

「本当に薬漬けなんだな」

 明らかな皮肉をこめた声がして、薬を飲み終えた果歩は、立ったままの真鍋を見た。

 彼は上着を脱ぎ、ネクタイを心持ち緩めている。

「たまに胃薬を飲むだけです」

 眉をひそめながら果歩は答えた。

「今日みたいに極度にストレスが溜まると、胃も痛くなりますよ」

「料理も、あまり食べていなかった」

「逆に食べられると思います?」

 今夜は、食欲が全くないままに、食べられそうなものだけを無理に口に押し込んだ。それも、胃が痛くなった原因のひとつだろう。

「本当に、体調は悪くないのか」

「……? 悪くないですよ」

 真鍋があまりにしつこいので、さすがに果歩は訝しく眉を寄せた。

「薬のことは、真鍋さんがあんな嘘をつくから、仕方なく大げさに言ったんです。頭がどうかしてるんじゃないですか?、言うに事欠いてあんなとんでもないことを言うなんて」

「……、は?」

 物言いだけに唇を開いた真鍋が、心外だと言わんばかりの顔になる。 

「言っておくが――」そこで軽い舌打ちして、真鍋は諦めたように顔を背けた。

「なんですか」

「もういい」

「なんですか。そんな態度をとられると、かえって気になるじゃないですか」

「僕は君と違って、人の過ちをいちいちあげつらわない主義なんでね」

「……、」

 今度は果歩が絶句した。「しょっちゅうあげつらってますよね。しかも何年も前のことまで大人げなく」

 再び絶句した真鍋が、唖然としたように唇を開く。

「君がそういう――」

「私がそういう?」

「極めて強情で、ああいえばこういう人だとは、想像してもいなかった。この8年で人が変わったのでなければ、よほど猫を被っていたんだな」

「え? 逆に、被ってなかったとでも思ってるんですか」

「…………」

 眉を上げたまま数秒黙り、うつむいた真鍋は、やがて苛立ったように乱れた髪をかきあげた。

「じゃあ言うが、別に俺は――そういう意味で言ったんじゃない」

「……? どういうことですか?」

「君が妊娠しているかどうかなんて、俺が知るか。俺は本当に君が」

 そこで真鍋は言いにくそうに言葉を切り、果歩は自分の勘違いを悟ってさっと頬を赤らめた。

「食べないし、痩せているし、――今日はことさら顔色も悪いし、本当にどこか悪くしているんじゃないかと思ったんだ。それを二宮の叔父さんが誤解した。もっとも誤解されたと気づいたのは、君が薬だの花粉症だの、言い訳みたいにまくしたてた時だったが」

「す、すみません、私――」

「いいよ、もう。ただあの時、いきなり足を蹴られた俺がどれだけ驚いたか、少しは心中を察してもらいたいものだね」

 ――しまった……。

「……私、すごく、思いっきり……」

「そうだろうね」

「でも、真鍋さんも」

「確かに蹴ったよ。ただし靴の踵をね」

 果歩はうろたえながら、ぎこちなく視線をさまよわせた。

 どうしよう。これは確かに私が全面的に悪かった。でも――でもよ? 私が責められている流れだけど、根源的なことを言えば、悪いのはやっぱり真鍋さんじゃない?

「悪いが、僕は謝らない」

 果歩の内心を読んだように言い、真鍋は室内にちらばった包装紙や箱を片付け始めた。「瑛士には、君の口から真実を話せばいいし、それでこじれるようならそれは僕の責任じゃない。冷たい言い方をするようだが」

「…………」

「それに、僕は何も、瑛士の裏をかく形で物事を進めたわけじゃない。考える時間も反撃する時間も十分にあったはずだ。――もちろん、これからだってある」

 果歩は表情を硬くして唇を引き結んだ。

 ここで藤堂の名前を出して欲しくないし、真鍋の口からそんな正論を聞かされても腹が立つだけだ。だいたいこの人に、人にえらそうなことを言う資格があるのだろうか。

 顔を背ける果歩を見ないままに、真鍋は続けた。

「そもそも君に最初に言ったように、これはただの口約束だ。何も、僕らが本当に結婚するわけじゃない」

「当たり前です。――何も私は、そんなことで怒ってるんじゃありません」

 耐えきれず、果歩は真鍋を振り仰いだ。

「相手が私の知っている人だったら、私、絶対に引き受けたりしなかった。真鍋さんだって、それが分かっていたから、今夜会う相手を意図的に黙っていたんでしょ?」

 言葉を切り、果歩は唇を震わせた。

「……それが、藤堂さんのご両親だなんて、あんまりじゃないですか」

「君が責任を感じることじゃない」

 真鍋の口調はそっけなかった。

「僕は黙っていろといっただけで、嘘をつけとは言ってない」

「同じことじゃないですか!」

 声を荒げた果歩は泣きそうになっていた。「あの人たちからしたら、私も真鍋さん以上の嘘つきですよ」

 真鍋にとってはどうでもいい人たちなのかもしれないが、果歩には違う。あの人たちは――今となっては、どうそれを自分と紐付けていいか分からないが、自分にとって、今も一番大切な人の養親なのだ。

 いってみれば8年前、吉永冬馬に欺されて、真鍋の養親を欺いてしまったようなものだ。

 それと同じことを、運命の皮肉のように、真鍋の罠に掛けられる形で再現させられてしまった。それが悔しくて仕方ない。

「もう、出て行ってくれませんか」

 にじみ始めた涙を指で拭ってから、果歩は言った。

「着替えて一人で帰ります。私が心配なら、タクシーの後を片倉さんにつけさせて下さい」

 箱を片付けていた真鍋が、手を止めてため息をつくのが分かった。

「じゃあこう思っていればいい。二宮夫妻同様に、君も僕に欺されたんだ」

 つっと顔を背けて、果歩は立ち上がった。

「着替えるので、出て行ってください」

「嘘じゃない、よく考えてみろ」

 壁に背を預けて立ったまま、辛抱強く真鍋は続けた。

「僕は一度だって君に本当の話はしていない。この件では実際に、君を欺すつもりでいるからだ」

 ――どういうこと?

「その時がくれば二宮夫婦にも分かるはずだ。――誓ってもいいが、君が恐れているようなことにはならないよ」

 謎しか残らない彼の言葉に、さすがに果歩は眉をひそめた。

 どういうこと? 私を欺すってどういう意味? 一体真鍋さんは、これから何をするつもりなの?

 今日は、そもそもそういった話をこの人とするつもりだったのに……。

 しばらく沈思した後、果歩は敗北を認めるような気持ちで口を開いた。

「……真鍋さん」

「何だ」

「……今日は、私の質問に答えていただく約束でしたけど」

「その件なら、君が一方的にもういいと言ったな? それが?」

「…………」

 本当に、なんて心の狭い人なんだろう。さっきは人の過ちはあげつらわない主義だとかなんとか言ったくせに――。

「体調はもういいのか」

 ややあって、真鍋の声がした。今度は彼が、妥協してくれたのが口調で分かった。

「もう大丈夫です。……でも」

 多少の後ろめたさを覚えながら、果歩は露出の多い自分のドレスと、室内を見回した。

 迂闊にも全く意識していなかったが、ベッドしかないようなホテルの密室で、真鍋と2人でいることに、いまさらながら緊張と後ろめたさを覚える。

 しかもこの部屋は――もちろん番号こそ違うが、先日藤堂と2人で入った部屋と全く同じ構造である。不意に藤堂への申し訳なさが、気まずささともにこみあげてくる。  

「すぐに着替えるので、場所を変えてもらえませんか。……ここじゃ、ちょっと」

「場所については同感だが、服はそのままにしてもらえないか」

 振り返った真鍋は、もう背を向けて扉に手をかけていた。

「君と話すつもりで、もう店に予約を入れている。外で待っているから、メイクだけ直して、出てきてくれ」


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