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年下の上司  作者: 石田累
195/202

Last story② 過去への扉(2)

「的場さん、ちょっといいか」

 尾ノ上から声を掛けられたのは、その日の5時を過ぎてからだった。

 今日一日、機能の大半を失った秘書課で、一番することのないのが尾ノ上だった。

 それを気の毒に思いはしたが、正直、市長へのアクセス方法がこれまでと全く違ってしまったことの整理の方が大変だった。新たな連絡体制を全庁に通知したり、その詳細を真鍋の私設秘書と詰めたりと、気を回す間もないほど忙しかったのである。

 市長公室の隣にある市長応接室に、尾ノ上は果歩を誘った。真鍋は3時前には経済連会長との会合のために役所を出て、今日はもう帰庁しない予定である。

 扉を閉めるやいなや、尾ノ上は深々と頭を下げた。

「――的場さん、8年前は本当に申し訳なかった!」

 果歩はびっくりして、ただ立ちすくんでいた。

「本当は、君に罪がないことは分かっていたんだ。御藤君からも、君が真鍋ジュニアに言い寄られて、随分困っているようだと説明された。――でも分かるだろう? あの真鍋市長に、当時の私が逆らえるはずもない」

「あの……課長」

「……それでも私の立場では、やはり君を守るべきだったのかもしれない。申し訳なかった」

 再度謝罪し、尾ノ上はもう一度頭を下げた。

 正直言えば、どう対応していいか分からなかった。8年前の件で尾ノ上をことさら恨んだことはなかったし、それが真鍋元市長の強い意向だったことも分かっている。

 ただ、色んな意味でお互い後味の悪い出来事だったし、この先尾ノ上と笑って酒を酌み交わすなど、とてもできないだろうという気はした。それは――今謝罪することに気持ちを切り替えた尾ノ上もまた同じだろう。

「もう、そのことは本当にいいですから。課長の立場も分かっていたつもりですし」

「そう言ってもらえると、助かるよ」

 尾ノ上は悄然と顔を上げた。

「それで的場さん、その上で申し訳ないんだが、君の口から、真鍋市長に話をしてみてもらえないだろうか」

 さすがに果歩は眉を寄せていた。

「何をでしょうか。ただ市長が私の言うことを聞いて下さるとは……」

「それも分かった上での話だよ。いくらなんでも、部外者に市長の情報全てを掌握されている状態が正常だとは思えない。これから様々な出張や会合、懇親会や懇談会が予定されているが、今のままではその日程調整ができないんだ。私設秘書がどれだけのものかは知らないが、これまでの慣習ややり方までは分からないだろう」

「……そうですね、確かに」

 ただ、今日果歩が応対した印象では、真鍋の雇った私設秘書はおそろしく優秀で、その内1人は確実に民間企業で秘書経験があると推測された。

 最初こそ混乱するだろうが、数日経てば、おそらく庶務係すら不要になるのではないか――ただそれが、組織としてどうかと言えば、尾ノ上の言うとおり正常ではない。

「君が真鍋市長と、私が思っているような関係性でないこともよく分かったよ。その上で、こんなことを頼むのは本当に心苦しいんだが……」

 尾ノ上がプライドを捨ててまで果歩に謝罪することを決めたのは、やはり組織の長としての責任感からだろう。

 今日一日、秘書課は通夜のようだった。特に安田沙穂の怯えぶりはひどく、昼過ぎに、とうとう清水から帰宅するよう促されたくらいだ。

 このままでは、本当に病気になってしまうかもしれない。

「……分かりました。難しいとは思いますが、できる範囲でやってみます」

 果歩は気乗りしないままに頷いた。

 話を聞いてくれるどころか、今の真鍋は昔とは別人だ。

 昔というより、ほんの数日前、車で自宅まで送ってくれた時の彼ですらない。 

 ――真鍋さん……、一体何を考えているの?

 憂鬱な気持ちで執務室に戻った果歩は、そこに立っている人に目を見張った。

「おう、的場さん」

 元市長秘書で。先月まで秘書課の課長補佐だった御藤――果歩が昔ペアを組んでいた男性秘書である。



 *************************



「しかしびっくりしたよ。市長選に真鍋ジュニアが出てきたことも驚きだったが、こんな劇的な展開になるとはね」

 役所の近くの喫茶店に入ると、御藤はリラックスしたよう上着を脱いだ。

「なんでも奢るから頼んでいいよ。いや、これもひとつの罪滅ぼしなんだけど」

「もう、御藤さんまで、やめてくださいよ」

 果歩は本気で閉口して、楽しそうに笑う御藤を睨んだ。

「まぁ、素直にご馳走になります」

 年より随分若く見える御藤だが、年でいえば50手前だ。そして今年、道路局道路管理課の課長になった。その有能さを前市長に買われ、市長在任中の12年、ずっと秘書課にいた男である。

「いや、結構本気で言ってるんだけどね。なんだかんだいって、君にこうしてコーヒーを奢るのも、前の市長が辞めたからできることだし」

 ――そっか。そこまで私、真鍋前市長に嫌われていたのか……。

 改めてそう思うと、なんだかげんなりしてしまいそうだった。今日の真鍋さんにもそう思ったけど、男って――案外女より執念深くない?

 しかしそんなことを言う御藤は、ある意味、8年前、果歩の唯一の心の支えでもあった。 

 1人、地下で文書整理をしている果歩のところに来てくれて、「また一緒に仕事をしよう」「的場さんと一緒でやりやすかった」そう言ってもらえたのだ。

 その直前まで仕事を辞めようと思っていた果歩に、初めて仕事を続けることの意味を教えてくれた人でもある。    

「そういや尾ノ上さんに聞いたよ。今日、大変だったそうだね」

 やがてコーヒーが運ばれてきて、御藤がおもむろに口を開いた。

 今日御藤は、尾ノ上への引き継ぎのために秘書課に来てくれたのである。

「秘書課の新メンバーを見た時に、あの人……真鍋新市長のことだけど、あの人何を考えてるんだと思ったけど、もともとあれだね。あの人は秘書課そのものを置かないつもりだったのかもしれないね」

「どういうことですか?」

「本人も言ってたように、自分の動きを、敵だか味方だか分からない市の連中に知られたくなかったんじゃないの? でも人事は秘書課をなくすことまではできなかった。――それで、あの人にとって飼い殺しにしてもいいと思った面子を集めたんじゃないのかな」

「…………」

「その中に俺がいなかったのはなんでかな? あと、的場さんだけは何の目的で呼ばれたのか分からないけど」

「私も、似たようなものなんじゃないですか」

 少し自棄な気持ちで果歩は言った。どちらにしたって、まともに仕事はできないし、困った立場に追いやられたのは間違いない。 

「正直、今日の真鍋さんにはびっくりしたし呆れましたよ。私がとうに忘れていることを、なんであんな風に蒸し返したりするんですかね。その時真鍋さんが、私に何をしてくれたわけでもないのに」

「…………」

 御藤は、少しの間黙ってコーヒーを飲んでいた。

「まぁ、よほど悔しかったんじゃないかな」

「……誰の話です?」

「真鍋市長――ややこしいから雄一郎さんにしとくけど、雄一郎さん。結果的に自分のせいで君が酷い目に合っているのに、多分、何もできなかったから」

「何もできないどころか、結婚しちゃいましたよ」

 御藤は黙り、コーヒーを一口飲んだ。

「公表されていないから、まぁ、俺が言っちゃいけないことなんだろうけど、……あまり幸福な結婚ではなかったようだよ」

「……奥様がご病気だったってことですか?」

「病気どころか、実際は結婚前に余命宣告をされてたらしい。結婚してから1ヶ月も経たずに亡くなったっていうからね」

「…………」

 ――え……?

「それでも雄一郎さんは、彼女に随分よくしてあげたそうだよ。無理を承知で海外に連れて行ってあげたりとかね。帰国後にすぐ入院してそれきりになったそうだが、亡くなるまでずっと傍についていたという話も聞いたな」

「…………」

「ちらっと聞いた話だと、元々奥様とは幼馴染みだったそうだ。まぁ、そこはいろいろあったんじゃないか。推測するしかないけどさ」

 ――どういうこと……?

 黙って置いたままのコーヒーを見つめながら、果歩はただ混乱していた。

 結婚してから1ヶ月で亡くなった? じゃあ私が見たあの人は一体誰?

(どなた?)

(雄一郎さんなら、今奥で着替えていますけど)

 玄関に飾ってあった写真とそっくりな顔をしていたから。だから――でも――

 ようやく果歩は、雷に打たれたように理解していた。

 ――あれは奥様じゃない、奥様のお姉さんだったんだ……。

 先日初めて会った芹沢花織。

 にわかに心臓か、重苦しく音を立て始める。

 玄関にあの人が出てきたのは、いや、意図的に妹のふりをしたのは彼女自身の意思だったのだろうか。それとも……、それも真鍋さんの? 

「正直言えば、喪が明けて1年か2年もしたら、雄一郎さんは君と結婚するものだとばかり思っていたよ」

 御藤の言葉に、果歩ははっとして顔をあげた。

「まさか……、私は、そんな風には全く」

 それどころか、奥様が亡くなったということすら、8年間知らないままだった。もちろん彼に、再婚の意思はさらさらなかったのだろう。

 知らせようと思ったら、いくらでも手段はあったはずだ。でも、あえてそうしなかった。

 それはむしろ、今さら知りたくもなかった彼の冷酷さのように果歩には思えた。

「どっちにしても、この8年、真鍋さんとは一度も連絡をとっていませんから。というか、私からは取りようがなかったんです」

「そうみたいだね」

 御藤は感傷的に過ぎた自分を笑うように苦笑し、果歩も笑って話題を変えようとした。それでも思考は。真鍋のことに戻ってしまっていた。

「……あの、真鍋さんは、どうして市長選に出ることにしたんでしょうか。しかもお父さんと争うような形で」

「公約をそのまま信じれば、父親の長期政権によって内部から腐っている灰谷市を立て直す――つまり義憤にかられて、ということだろうね」

 含んだような言い方だったが、御藤はそれきり口をつぐむ。果歩は思わず身を乗り出していた。

「それで、どうなったんですか。御藤さんがいる道路局も、幹部が軒並み変わったって聞きました。大変なんですか、今」

「まぁ……」

 御藤は苦笑し、コーヒーを飲み干した。

「確かに色々大変だよ。市長秘書をしていた頃から、この市がそれほどクリーンな構造ではないことは薄々分かってはいたけどね。――これまで利権や既得権を牛耳ってた連中を。軒並み排除しようというんだ。反発もすごいし、多分、このままスムーズにはいかないよ」

「……というと?」

「追い出された幹部連中も、入札から閉め出された企業も、むろん反撃を考えているだろう。雄一郎さんの最大にして唯一の強みはなんだと思う? 現政権も無視できないほどの支持率だ」

 果歩はこくりと唾を飲んだ。手元では、コーヒーがすっかり冷めてしまっている。

「それがあるから、義理のお父さんである芹沢陽一と公新党もバックについた。次の総選挙で、芹沢議員は与党と連立を組むという思惑があるからね。――つまり、今の雄一郎さんは国政も味方につけたまさに無双状態だ。そりゃ尾ノ上さんも、土下座でもして謝ろうって気になるさ」

 言葉を切り、御藤は少し深刻な目になった。

「でも、それがいつまで続くかだ。雄一郎さんもそれなりに汚いことをしてここまできた。――それをマスコミにすっぱ抜かれたら、どこかでそのバブルも終わる。あの人にとって苦しいのはその後だよ」

    


 *************************



 翌日、翌々日と安田沙穂は休みだった。

 真鍋の横暴な態度は相変わらずで、6月の臨時会に向けての調整も、秘書課抜きに担当課と日程調整を済ませてしまった。

 今日は朝から一度も市長室から出てこず、各局の市長決裁の列が、秘書課が管理できないままに市長室前で列を作るという混乱ぶりだ。

 真鍋は自身で購入したコーヒーサーバーを市長室に置き、湯茶接待の一切を禁じたから、果歩が部屋に入っていく口実もない。

 今や、秘書課と新市長の対立は全庁の知るところになり、面会を求めて議員に詰め寄られた尾ノ上は、青ざめた顔で頭を抱えている。

 真鍋は、ある特定会派の議員とは一切面会しないというのである。

「……的場さん、時間外に申し訳ないんだが、もしよかったら安田さんの様子、見てきてくれないか」

 清水主幹に言われたのは、6時過ぎに、もう何もすることがなくなった果歩が片付けをしていた時だった。

「一応僕も電話してみたんだけど、彼女、的場さんに対して、すごく負い目を持ってるみたいで……。まぁ、もちろん無理だったらいいんだけど」

「いえ、大丈夫です」

 もちろん気が進むはずもない。しかし果歩は即答し、急いで身支度をしてから役所を出た。沙穂はこの近くのマンションに住んでいて、寄り道してもそう遅くはならないだろう。

 ――安田さんかぁ……。

 ただただ気が重い訪問ではあるし、正直言って、なんで私が? という思いもある。

 それでも訪問を即決したのは、一言で言えば尻拭いだ。むろんその相手は真鍋である。

 真鍋が安田沙穂にされた仕打ちを根に持っているのは理解できる。真鍋自身、父親から凄まじい叱責を受けたのだろうし、吉永の話を鵜呑みにすれば、持ち株さえ手放したという。

 ただ、それが本当だとしても、自分より遙かに立場が下の、女性職員にあんなこと言っていいはずがない。しかも人前で――あれだけ冷酷で皮肉な口調で。

 ――ほんっとに大人げない人なんだから……。

 市長にあれだけ痛烈な嫌味を言われたら、安田さんだって職場に行きづらくなるだろう。

 その噂が庁内に広まれば、逆に困った立場になるのは真鍋なのだ。

(雄一郎さんもそれなりに汚いことをしてここまできた。それをマスコミにすっぱ抜かれたら、どこかでそのバブルも終わる。あの人にとって苦しいのはその後だよ)

「…………」

 御藤に言われたことを、気にしているわけではないけれど。ないけれど――まぁ、これも道義的責任というやつだ。

 商店街まで徒歩で向かった果歩は、有名洋菓子店で土産のお菓子を買って店を出た。

 ここから徒歩で15分――バスを使えば5分足らずのところに沙穂の住むマンションはある。

 どっちにしようかなと思った時だった。

「的場さん」

 斜め前から男の声がして、顔をあげた果歩は、驚きを隠せないままに困惑交じりの微笑を浮かべた。もちろん、偶然ではないだろう。

「よかったら、目的の場所まで私がお送りしましょうか」

 そこには、真鍋の私設秘書になった片倉が立っている。



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