Last story①「4月の約束」(11)
車内のどこかで携帯電話が鳴っている。
びくっと肩を震わせた果歩は、反射的に自分のバッグを見たが、音は別の方角から聞こえてくるようだった。
「出てくれないか」
初めて真鍋が口を開いた。
殆ど窓際に身を寄せていた果歩は、戸惑いながら前を見たままの真鍋を見上げる。
「後部シートにある。音声はスピーカーにしてくれ」
「…………」
この異常な事態がまだ飲み込めない果歩は、他に選択肢もないままに後部座席を振り返った。数冊のファイルとブリーフケース。その上に携帯電話が無造作に投げられている。 なるべく真鍋に近寄らないように気をつけながら、果歩は腕を伸ばして携帯電話を取り上げた。彼の言う通り操作すると、たちまち勘の強い声が流れ出す。
「雄一郎さん、あなた一体、どこにいるの?」
その声が、先日会った芹沢花織のものだと分かった時には、被さるように真鍋がそれに答えていた。
「すまない。急用を思い出したんだ。すぐに戻る、少しの間だけ時間を稼いでもらえないか」
「正気で言っているの? あなたね、今がどういう時だか――」
花織の背後で誰かが怒鳴っている声がする。
「もういいわ。こっちは私がなんとかする。6時の公開討論会までには戻ってこられるんでしょうね」
真鍋は腕時計をちらっと見た。「5時半には戻れるよ」
そして果歩を見て、口の動きだけで「切って」と言った。
通話が切れた車内に、再び気詰まりな沈黙が満ちる。
手にした携帯をどこに置いていいか分からず、果歩は指先まで硬くしたまま、ひどく不自然な姿勢で携帯を持ち続けていた。
信号で車が停まり、真鍋が今気がついたように両手を覆っていた手袋を外す。
ステアリングに添え直された彼の指、そこに指輪がないことをひどく不思議に思いながら、果歩はぎこちなく顔を背けた。
信じられないけど、今、真鍋さんの車に乗っている。
ホテルで、ひどく気まずい再会をして、もう二度と会うはずがないと思っていた人と。
果歩は眉根に力を入れて、唇を引き結んだ。
でも、これは一体なんの真似?
理由も分からなければ、やり方も横暴だ。まさかと思うけど、私をまだ自分の所有物か何かだと思っているのだろうか。
私も私だ。呆気にとられていたとはいえ、なんでこの人の車に乗っちゃったんだろう。
「……あの」
「君は」
声が重なり、果歩はびっくりして言葉をのんだ。
「何?」
「……い、いえ、別に」
いやいや、あるでしょ、ちゃんと言いたいことが。
なんで私、この人の前だと、こんなに怯えて気持ちが萎縮してしまうんだろう。
「君は31にもなって、まるで成長していないんだな」
「…………」
ひどく冷たい声だった。
意味が分からず、果歩は驚いて瞬きする。
「瑛士に警告されなかったのか。昨日あんな目にあったのに無警戒にもほどがある。一体一人で、誰の車に乗ろうとしていたんだ」
――は……?
果歩はうつむいたまま、自分の拳を握りしめた。
動揺で心臓が高鳴り、腹立たしさとやるせなさが同時に広がっていく。
ああそうか、そういうことか。
この人は、なんの目的があってか知らないけど、ずっと私を監視させていたんだ。
それだけでも腹立たしいのに、なに、今の?
なんでいちいち歳まで言う?
なんで私が、何の関係もない人にこんな言われ方をしなければならないの?
「誰って」果歩は震える声で反論した。
「今、誰の車に乗っているのか、いちいち言わないと分からないんですか」
「なんだと?」
「そういう意味では無警戒でした。31にもなってすみません」
「…………」
真鍋がもの言いたげな目でこちらを見たが、彼はすぐに道路に視線を戻した。互いの怒りが伝わるような数秒間だった。
「下ろしてもらえませんか」
うつむいたままで果歩は言った。
「タクシーを拾って帰ります。ご心配いただかなくても、今度人と会う時は、公の場所にするようにしますから」
「そうしてもらうと助かるよ」
果歩以上に、乾いた冷淡な声だった。
「どういった理由かしらないが、未だ君と僕に関わりがあると思っている輩がいる。迷惑しているんだ。しかし、放っておくわけにもいかないからね」
「お互いさまですね」果歩も言った。「私も、迷惑してますから」
喉が何度も鳴り、目の奥が鈍く痛んだ。自分が泣きそうになっていることに、果歩はますます動揺して、唇をいっそう強く引き結んだ。
思い出した。真鍋さんって昔からこういう人だった。すごく冷たくて皮肉屋で、そういう意味での心の狭さは、7歳年上とは思えないほどだった。
「下ろしてください」
果歩は再度強い口調で言った。
丁度国道から交通量の少ない市道に向かって右折した車は、歩道沿いにハザードランプをつけて停止する。
果歩はすぐに車を降りようとしたが、その前に真鍋の手が手首を掴んだ。
「シートベルトをつけてくれないか」
「…………」
「そのために停めたんだ。今、交通違反で切符を切られたら、僕には致命的な醜聞だ」
果歩は急いで顔を背け、掴まれた手を振りほどいた。
動揺で言葉が出てこなかった。肌に、何年かぶりに触れた彼の体温が残っている。
「……送らせてくれ」
息を吐くような声がした。
「ついでがあるからそうするだけで他意はない。喋りたくないなら、ずっと黙っていても構わない。君を――」
少しの間、彼が言葉に迷っているのが分かった。
「傷つけるつもりはなかったし、正直、傷つくとも思っていなかった」
別に、傷ついてなんかいませんけど。
強がってそう言おうとしたが、果歩はその言葉をのみこみ、しばらく迷ってからシートベルトをつけた。
真鍋は黙って、車を再び発進させる。
たった一度来ただけのはずなのに、彼が迷わず果歩の家に向かって車を進めていることが不思議だった。
そうだった。真鍋さんはこういう人だった。
すごく冷たくて意地悪なのに、時々人が変わったみたいに素直になって、びっくりするくらい優しくなる。
逆にこういうところは、思い出したくなかったな。
果歩は、少し滲んだ夕方の空に視線を向けた。
だって私、そういう真鍋さんの不器用さが、すごく、すごく大好きだったから――
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「僕が真っ先に取り組みたいのは、灰谷市の財政再建であり、それを支える構造的な問題の、抜本的な改革です」
「果歩」
背後から声を掛けられ、リビングでテレビを見ていた果歩はびっくりして振り返った。
寝室に行ったはずの母が、パジャマ姿のままで扉の向こうに立っている。
「どうしたの、あんたが……ニュースなんて珍しい」
少しその声が戸惑っている。
そこまで驚くこと? ――と不思議に思いながら、果歩は再びテレビに視線を戻した。
「だって、もしかしたら、この人が来週から市長になるもしれないから」
「……今の市長の息子さん?」
「そうみたい」
母は何も言わず、台所に入ってから、冷たいお茶を持って戻ってきた。
立候補者同士の公開討論会。テレビ画面には、真鍋と、そしてその父親である前市長が2人並んで映っている。夕方のニュースの再放送だ。
「灰谷市の財政は安定していますし、持続可能な仕組みになっています。もちろん税収が落ちているのは事実ですが、それは何もうちの市に限った話ではない」
真鍋前市長が、穏やかな口調で反論を始めた。全く似ても似つかない人たちだと思っていたが、こうして見ると、隙のない笑顔といい柔らかな語り口といい――マスコミの前で見せる顔はそっくりだ。
「一体何を、どう改革するつもりでいるのか、今日はぜひ真鍋候補にお聞きしたい。耳あたりのいいことばかりを言って若年層の人気を得ているようですが、私には全く具体的な筋道が見えてこない」
「では逆にお聞きしますが」
真鍋は微笑して、父親の方を見た。
「本当に何も、問題はないとお思いですか」
「と、言いますと?」
父親もまた、微笑して息子を見つめている。果歩は息をのんでいた。
彼らの間に激しい火花が散っているのが見えるような気がした。
「僕はこの数年、投資銀行の仕事に携わり、多くの企業再生――売却、買収に関わってきました。だめになる企業にはある共通の問題点がある、それが何か分かりますか?」
「――何だとおっしゃりたい?」
「内部の組織が腐っているんですよ」
柔らかな口調で、真鍋はばっさりと斬り捨てた。
「さまざまな利権や忖度、なにより既得権を守るために、経営陣がまず機能不全に陥っている。上に登るのはイエスマンか利権絡み。入社試験すら公平ではなく、むろん昇級も同じです。当然いい人材は流出し、その企業は根元から根腐れしていく。それが今の灰谷市です」
「話にならない」元市長が呆れたように首を振った。「とんでもない思い込みだ」
「そうでしょうか」真鍋は動じずに笑っている。「もちろん細かいことはここでは言いませんが、僕も反訴できる程度の証拠なら持っています。その上で、あくまでプロの目から見た意見ですよ」
それで一番割を食っているのは市民の皆さんです。真鍋は続けた。
「今、改革を断行しないと、数年後、灰谷市は必ず財政再建団体に転落する。まず僕は、徹底的に無駄な仕事を排除します。無駄な人員は削減し、現在進行している事業の全てを、一切の聖域なしに精査する」
画面には、もう真鍋しか映っていない。
「その上で、必要ないと思ったものは、ためらうことなく廃止します」
「……この人、随分人気があるみたいだけど」
それまで黙って隣でお茶を飲んでいた母が口を開いた。
「お父さんが話していたけど、やっぱり敵も多いんですって。こんな風に大胆なことばかり言ってるから……」
うん、と果歩はテレビを見つめたままで頷いた。
これまで、あまり政治には興味がなかったし、意図的に見ないようにしていた真鍋の公約を耳にしたのも今日が初めてだった。
今日、結局家に着くまで、2人は一言も口をきかなかったが、果歩の気持ちは随分楽になっていた。
それまで過去と空想の人でしかなかった真鍋のことを、ようやく現実の人として受け入れられたのかもしれない。それで初めて、公開討論を見てみようという気になったのだ。
でも、まさか真鍋が、こんな過激なことを言っているとは知らなかった。それは確かに、擁立を面白くないと思う人たちも出てくるはずだ。
昨日の恐ろしい出来事がより現実的に思えてきて、果歩はぎゅっと自分の腕を抱いていた。
「今までの体制で既得権を得ていた人からすれば、間違ってもこんな人に当選なんかして欲しくないでしょうねぇ」
母もその気持ちは同じなのか、どこか物憂げに口を開いた。
「灰谷市は、昔はほら、土建屋が多くて色々物騒だったから。今もそういう輩が幅を利かせているとは思わないけど、やっぱり少しは残ってるって聞いたこともあるし」
「……残ってるって?」
「まぁ、いってみればヤクザみたいな。今はそういう言い方をしないのかもしれないけど」
母は言いにくそうに言葉を濁し、果歩は昨日のことを思い出していた。
「お父さんの話だと、この真鍋さんって人、――相当、身の回りの警備を固めているって話よ」
「……そうなんだ」
あんな失礼なすっぽかし方をしたというのに、緒方からの連絡はない。
もう真鍋の当選が動くことはないだろうが、5月からの新体制と彼の立場に、果歩は不安を覚えずにはいられなかった。




