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年下の上司  作者: 石田累
183/202

Last story①「4月の約束」(2)

 4月――

 例年より静かな、しかしやはり慌ただしい4月がやってきた。

 人事異動が凍結されているとはいえ、退職補充に関わる異動はあるし、総務課では那賀局長と南原が抜けている。

 那賀は、数多の再就職の口を断って完全退職。局の嫌われ者のはずが、最後の数日は選別を持って訪ねてくる元部下がひっきりなしだった。

 最後に那賀が登庁した先週の金曜日、果歩は自分でミルクを温めて、局長室にもっていった。

 那賀は目を真っ赤にして喜んでくれて、これまでのことを思い出した果歩は、胸が一杯になって泣いてしまった。

 那賀は、8年前、果歩が一番辛かったときに助けてくれた人だ。

 スキャンダルにさらされ、全庁中から好奇の目で見られていた果歩を、庇うようにして都市計画局の秘書役に抜擢してくれた。

 当時、局の女性は果歩一人。どちらかといえば同性からの風当たりが強かった果歩には、いくら封建的とはいえ、この局は本当に居心地のいい場所だった。

 ミルクを飲み終えた那賀は、最後に、慈愛のこもった声でこういった。

(的場君、君ならもう、どこに行っても大丈夫だ。これからしっかり頑張りたまえ)

 その時も果歩は、涙を必死に堪えたのだが――

 那賀も、もしかすると、知っていたのかもしれない。

 その翌日の土曜日に、真鍋雄一郎が市長選に立候補することを。

 そう思うと、あの日の涙すら引くんじゃないかと思うくらい、4月1日以降、果歩は心を完全に閉ざしていた。

「的場さん、ちょっといいですか」

 上席から藤堂に呼ばれたので、果歩は「はい」と愛想良く答えて立ち上がった。

「なんでしょうか、係長」

 傍目には、自分の態度は完璧だ。微笑みを絶やさないし、目でもちゃんと笑っている。これまでと違い、誰も自分と藤堂が修復不能なくらい壊れているとは思わないだろう。

 藤堂は、一瞬だけ果歩を見上げたが、すぐに目を逸らして事務的な説明を始めた。

 係では大河内主査が、南原の後任――区の保険年金課からやってきた笹岡信司に仕事の説明をしている。27歳、奇しくも藤堂同い年。自己紹介でラグビーをやっていたと言っていたように、見た目はいかにも体育会系だが、南原とは真逆の、素直できさくな青年である。

 藤堂との相性もいいようで、これなら今年はやりやすいだろうなと、そこは少しだけ安堵した。

 後は果歩の後任との相性だが、それも問題ないだろう。こと藤堂の女性受けのよさといったら――唯一彼に牙を剥いたのは入江耀子くらいだが、去年異動したばかりの彼女がこの局に戻ってくる可能性は殆どない。

 自分がそんな風に、局を離れた後のことを冷静に考えられているのが、不思議だった。

 果歩は、淡々と説明を続ける藤堂の横顔を窺い見た。髪……伸びたな、とちらっと思ったが、すぐに視線を逸らし、話の内容に頭を集中させる。

 これまでの喧嘩や仲違いと、今回は全然違う。

 4月1日――正確には翌日曜日の3月31日から、2人の間には重たい鉄の壁ができて、それをどちらも黙殺している状況だ。

 正確には、その日の午前中まで、藤堂から何度か「話をしませんか」と持ちかけられたが。それを果歩は完全に無視した。

 午後には、藤堂は何も言わなくなり、気持ちを切り替えたのか、翌4月1日には憎らしいほど平常モードになってしまった。

 そして4月半ばの今に至る。

 ――私……今度こそ本当に、藤堂さんと離れようとしているのかな。

 藤堂にもそれが伝わったのか、帰宅時に家まで送ってくれていた習慣もなくなった。4月に入ると藤堂は自転車通勤に戻し、どれだけ遅くなっても、送ろうとも言われなくなった。

 果歩も当然平常モードだが、藤堂の冷静さと割り切りは果歩以上で、それが、多少腹立たしくはある。

「わかりました、ではそのように修正しますね」

 笑顔で答え、果歩は自席に戻ってパソコンに向き直った。

 そこに、4月から新しくついた臨時職員がやってくる。

「的場さん、すみません。ちょっと教えていただきたいことがあるんですが」

 那賀が退職の置き土産に買ってくれたカートリッジ式コーヒーマシンと、春日新局長が湯茶接待の禁止を徹底してくれたおかげで、そういった雑事は一気に減った。

 つまり、今後臨時職員に任せるメイン業務は、職員の事務の補助ということになる。

 新しい臨時職員は30代後半の独身女性で、まだ性格までは掴み切れていないが、大人しくて感じのいい人だ。

 今後はその人に庶務業務の半分を任せ、果歩は――というか、果歩の後任は、別の業務を持たされることになるのだろう。

「的場さん、悪いんだけど、こっち、ちょっといいかな」

 臨時職員に仕事を教えていると、今度は住宅政策課の主査が駆け込んできた。

 4月の第2週から、住宅政策課の乃々子が体調を崩して休んでいる。多分、乃々子がやっていた庶務業務のことだ。

 やはり果歩は「すぐに行きますね」と笑顔で立ち上がった。

 その後には、都市政策部にも顔を出さないといけない。流奈が退職してしまった分の仕事が、まだ完全にさばききれていないからだ。果歩だけのことを言えば、むしろ例年の4月より忙しいが、それが逆にありがたくもあった。

 余計なことを、何も考えなくて済むからだ。

「でもびっくりした、真鍋市長の息子さんがあんなにイケメンだったなんて」

 午後――会計に出す資料を持って1階に降りた果歩は、そこで前を歩く女性職員らの会話に、びくっと肩を震わせた。

「昔、市長秘書だった子とつきあってたって噂、聞いた?」

「聞いた聞いた。市長に無理矢理別れさせられたって。可哀想、奥様も早く亡くされたそうだし、いかにも薄幸そうだもんね」

 その本人がまさか背後にいるとも知らず、彼女たちは勝手な推測を囁きあいながら歩き去って行った。

 果歩はなんともいえない気持ちで、書類を抱え直して歩き出した。

 選挙戦が本格的に始まった4月、覚悟はしていたが、真鍋の顔を見ない日はないほど、彼の姿は新聞やテレビに、連日取り上げられるようになっていた。

 真鍋の経歴も当然詳らかになり、そこで果歩は、先月彼と再会した時には想像もしていなかった事実を知ることになる。

 真鍋の妻は亡くなっていた。

 しかも、彼と結婚して1年も経たずに。

 元々病弱だった彼の妻は結婚前から入退院を繰り返していて、それを真鍋が献身的に介護して看取ったらしい。

 それに義父の芹沢陽一が深く感謝し、今も真鍋に頭があがらないと言っていることなどが、新聞の記者コメントなどで紹介されていた。

(どなた?) 

 自分は――そんな辛い運命を抱えた人の元に、あの日、図々しくも押しかけてしまったのだ。

 悔やんでも悔やみきれないし、あの日の軽率な行動を思い返しただけで、身体が硬直して動かなくなる。その姉が、対面の初っ端に嫌味の一言でも言いたくなるはずだ。

 その姉――芹沢花織の元で仕事をしていたという藤堂は、間違いなく真鍋の妻の死を知っていたはずだ。いや、彼は最初から何もかも知っていたのだ。

 果歩と真鍋の過去も。真鍋が翌年度市長選に出てくることも。何もかも。

 その上で、4月まで待ってくれと言った。

 それが、雄一郎が再び灰谷市に戻ってくる時期を指していたことを、もう果歩は疑っていない。あのホテル――絶対に偶然ではなかった真鍋との再会――そして今、藤堂が沈黙していることが、その何よりの証だ。

 彼の妻が亡くなっているから、私にもう一度チャンスをくれようとでもいうのだろうか。

 私が未練がましく、いつまでもめそめそしているから、気持ちの整理をつけるチャンスを与えようとしてくれたのだろうか。

 どう想像しても、心臓が震えるほどの怒りを覚える。

 なんて下世話で、手前勝手なお節介だろう。

 いずれにしても、真鍋雄一郎の出馬は、灰谷市に予想以上のインパクトを引き起こした。

 彼の俳優のような美貌や、前妻の息子だったゆえに会社を追われたという不遇な生い立ち。死の運命を抱えた妻を娶り、最期まで看取った上で7年も独身を貫いていたことなど、全てが美談として喧伝され、また、現職・新人の父子対決ということが全国ニュースでも大きく取り上げられた。

 その中で――市役所の中だけの話ではあるが――当然果歩との過去も蒸し返された。

 しかし当時は「不倫」だの「略奪」だの囁かれた噂は何故か影をひそめ、むしろ今耳にしたような「市長に無理矢理引き裂かれた」「可哀想」という声が大きい。

 うがった見方かもしれないが、おそらく真鍋のスポークスマンが役所の中にいて、彼にとって有利な情報をあえて流しているのだろう。そうでなければ、この手のひら返しは考えられない。

 そういったことが奏功したのか、それまで真鍋正義一色だった灰谷市に、まさに風が吹いたといっても過言ではなかった。

 選挙まであと一週間だったが、すでに全庁が新体制に向けて準備を進めていることを、体温として果歩は感じていた。

 

 *************************


 思わぬ人から携帯に電話があったのは、5時まであと少しという時間だった。

 ――三宅さん?

 4月前半の地獄のような忙しさも一段落つき、今日は久々に早く帰れるかなと思っていた時だった。とはいえ、乃々子の結婚式以来、家族から再び腫れ物扱いされている果歩には、ある意味自宅は、職場より居心地の悪い場所である。

 いっそのこと一人暮らしでもしようかしら。そう思いながら、廊下に出て携帯を耳に当てた。

「あ、もしもし、的場さん?」

 1月以来、久しぶりに聞く声が耳に心地よく響いてくる。

 県警本部組織犯罪対策課の三宅――申し訳ないが、下の名前は全く知らない。

 果歩より2歳年上の体育会系のイケメンで、昨年成り行きで参加した合コンで知り合った。

 期待を持たせないよう、彼氏がいると断ってはいるが、「いつでもDVで逮捕するから」と冗談だか本気だか分からない口説かれ方をされている。

 電話番号を交換したのは、今年の1月、偶然葬儀の帰りに出会った時だ。その頃果歩は、たまたま乗車したタクシーの運転手に「誰かがあなたの後を尾けている」と言われて、怖い思いをしたことがあり、そのことを三宅に相談したのだ。

「すみません、公務員さんはまだ仕事の時間ですよね。今夜、よかったら食事でもどうかと思いまして」

「三宅さんも公務員じゃないですか」

 呆れながら、果歩は思わず苦笑した。相変わらず、ストレートに誘ってくる人だなぁと思いながら。

「今日は午後から非番なんですよ。明日も休みで……。無理っすか、やっぱ」

 相手の声が笑っているから、果歩も笑いながら「仕事中なので」と断った。

「多分、遅くなるから難しいと思います。申し訳ないんですけど」

「そうですか。いや、ダメ元だったんで、断られるだろうとは思ってたんですけど」

 ――ん?

 と果歩は眉を寄せた。

 てか、私、別に断らなくてもいいんじゃない?

 1月と違って(その時もそうだったのかもしれないが)、彼氏がいるわけではない。完全なるフリー。いや、むしろ恋人募集中といっても過言ではない。

 そう考えている時に、三宅の声がした。

「あ、でも的場さん、デートとかじゃないんで、今度時間がある時に会ってもらえますか」

「何かあるんですか?」

 その時、春日が険悪な顔で執務室から出てきたので、果歩はぎょっとして身をすくめた。

「あ、あの、三宅さん、後でかけ直していいですか。ちょっと今、取り込み中で」

「分かりました。俺は何時でもいいんで、待ってます」

 あー。いい人だわ、マジで。

 捨てる神あれば拾う神ありというか、砂漠のオアシスというか。

 それでも、不思議に沈んだ気持ちのまま、果歩は執務室に戻って自席についた。

 ――ま……やっばり、断るべきよね。

 当てつけみたいに三宅さんに会っても逆に失礼だし、自分が余計に惨めになるだけだ。

 もういいわ、当分恋愛は。

 いっそのこと、ずっと独身でもいいような気がする。

 今夜、久々にりょうに電話してみようかな。どうせ説教されるのは目に見えているから、気持ちが落ち着くまではしないつもりだったけど、そろそろ前向きに気持ちを切り替えなきゃ。

 そんなことをつらつら考えながら卓上を片付けていたら、隣の係から声がした。

「的場さん、今夜って暇です?」

 この4月で入庁2年目に突入した水原真琴である。都市計画局にも、この春、新卒採用が2人配属されたせいか、なにやらさっそく先輩の風格がついた感がある。

「暇ってほどでもないけど、何かあるの?」

「今日は、全員早く帰れそうなんで、中津川補佐の提案で、笹岡さんの歓迎会をやらないかって話になったんですよ。近くの居酒屋で、いける面子だけですけど」

「……そうなんだ」

 顔を上げた果歩の隣では、笹岡が「すみません、僕のために」と恐縮しきりである。

 どうしよう。行けるといえば行けるけど――

「藤堂係長は参加で大丈夫でしたよね」

 果歩が返事をする前に、藤堂の方に向き直った水原が言ったので、果歩は即座に我に返った。

「ごめん、水原さん。今日はちょっと先約があって」

「え、そうなんですか」

 と、訝しげに水原。そしてその顔のままで、余計なことを言ってくれた。

「係長も行くんですけど、それでもですか」

「本当にごめんなさい。笹岡さん、またの機会に必ずご一緒しますから」

 あえてその言葉はスルー。藤堂の存在もスルー。

 もちろん事情を一切知らない笹岡はこだわることなく、「いや、こちらこそすみません」と、頭を掻く。

 そこで5時のチャイムが鳴ったので、果歩は携帯を持ち直して席を立った。

 なんとなく、執務室内に微妙な空気が流れているのが分かる。

 4月が始まってからそろそろ2週間、いくら完璧な笑顔を作っていても、藤堂と果歩の間のよそよそしい空気はさすがに伝わっていたのだろう。

 ――もしかして、別れたんじゃないか……。

 と、各々が漠然と思っていたであろう疑惑が、多分、今の果歩の態度で明確になったのだ。

 かけ直した電話で、三宅と待ち合わせの場所を決めると、果歩はひどくとげとげしい気分で席に戻った。

 別に気にしているわけではないが、藤堂が何も発言しようとしないのが余計に腹立たしい。

 ――何? 今回悪いのは私ですか? 今回に関しては、絶対に違いますよね?

 と、手にした書類を思いっきり彼の机に叩き付けてやりたい衝動にかられる。

「もしかして、デートですか」

 と、隣の笹岡が不意に言った。

「あ、すみません。水原さんから、的場さんには課内公認の彼氏がいるって聞いてたんで、さっきの電話、その人からかなぁって」

 シーン……。

 その『課内公認の彼氏』が、まさか自分の係の係長とは知らない笹岡は、その瞬間、課内の空気が凍り付いたことさえ気がつかない。

 隣の島からは、こちらを向いた水原が顔を青くさせて、そんなつもりで言ったんじゃないです的なジェスチャーを送ってくる。

 どうせ先輩風を吹かせて、的場さんには彼氏がいるから的な忠告をしたに違いない。

 何に対して怒っていいか分からない果歩が、返す言葉に迷っていると、丁度良く卓上の電話が鳴った。

「的場さん、悪い。今日作ってくれた決算額調べ、ちょっと間違いがあったんだ」

 都市政策部の主査である。流奈に代わって果歩が作成した書類のことだ。

 果歩は慌てて、パソコンで作成済みの文書を開いた。

「すみません、どこが違ってました?」

 主査の説明を聞くと、どうやら自分のミスのようだ。

「……分かりました。すぐに修正します。いつまでですか?」

「ほんっと悪い。こっちで直せばいいんだけど、的場さんがどの数字を拾ったのか分からなくて。今日中になんとか直してもらえないか」

「大丈夫です。ただ、急いでも7時くらいにはなると思いますけど」

 通話を切った果歩は、ため息をついて携帯を取り上げた。どうしよう、やっぱり安易に約束なんかするんじゃなかったな。待ち合わせの時間をずらしてもらうか、――それとも今夜はキャンセルしようか。

 元々気乗りしていなかったのに、結局藤堂へのあてつけの気持ちで会うことにしてしまった。馬鹿みたいだ。もう、当てつける必要さえないっていうのに。

 キャンセルしようと思って立ち上がると、上席から藤堂の声がした。

「的場さん、それ、僕がやっておきますよ」

「え?」脊髄反射的に作った自分の笑顔が強張っている。

「いいですよ、そんな。せっかくの笹岡さんの歓迎会なんだし」

 藤堂が立ち上がった。

「簿がやった方が早いですから」

 信じられないくらい、平然とした表情で微笑している。

「なんの数字かは分かります。実は僕の方でチェックした時、少しおかしいなとは思ったんです。その時指摘すればよかったんですが、うっかり失念していまして」

 それは多分、果歩が話し掛けないでオーラを出していたからだ。しかも都市政策部の決裁権限は藤堂にはない。本来なら、彼がチェックする必要さえない書類である。

 それでも藤堂が、果歩が作った書類全てに目を通し、時に直してくれているのは知っている。さすがに乃々子と流奈2人の代役はきつく、自分でもミスが多くなったと自覚していたから、それは素直に――素直にありがとうございますと言うべきなのだが。……

「僕なら、20分もあれば終わります」

 それには少しカチンときた。私が2時間と見積もったところを20分?

「笹岡さんの歓迎会は6時からだし、この近くなので十分間に合います。的場さんは、約束があるならそちらを優先して下さい」

「…………」

 この人って。

 本当に宇宙人だわ。

 私には全く理解できない。

「そうですか、じゃあそうします」

 果歩は手早くパソコンを終了――もとい電源をぶち切った。隣席では笹岡が、えっという顔をしている。 

「助かります。デートなんです」

「そうですか」

「お待たせすると失礼な相手なので」

「そうですか」

 込み上げた憤りをのみ込んだ果歩は、手早く卓上を片付けると、携帯とハンカチをバッグに収めて立ち上がった。

「じゃ、お先に失礼します」



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