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年下の上司  作者: 石田累
182/202

Last story① 4月の約束(1)

雨が、途切れることなく降り続いている。

 その雨は、僕の心に降り続いて、決して降り止むことはない。

 

「なんだぁ? このガキ」

「それが、昨夜からこの辺りをうろうろしてたんですよ。背が高くて目立つから、さっき柄の悪い連中に絡まれて、身ぐるみ剥がされてたみたいです」

 雨音の向こうから、遠い声が聞こえてくる。

「……可哀想に、怪我してるんじゃないか」

「放っておけよ、どうせ警察がなんとかするさ」

「しかし叔父さん、まだ子供のようですよ」

 どうしてこの町に来てしまったんだろう。

 ここに来れば、消えてしまった人に会えるとでも思っていたのだろうか。

 そんなはずはないのに。

 この世界をどれだけ駆け回って探しても、もう、彼はどこにもいないのに。

 どこまでも行っても、雨が降り続けているだけなのに。――

「大丈夫か、君」

 間近で聞こえた声に、瑛士は薄く目を開けた。

 初めて聞くのに、ひどく懐かしい声のような気がした。

「ひどい怪我だな。俺と一緒に病院に行くか」

 かざされた傘の下から、ここ数ヶ月、ずっと探し続けていた人が優しい目で見下ろしている。

「しゅ……」

 瑛士はうわずった声をあげ。その人の腕を掴んだ。

「脩哉、――脩哉、今までいったいどこにいたんだ!」

 やっぱり死んだなんて嘘だった。そうだ、あの脩哉が死ぬはずがない。だってあれだけ楽しそうだったじゃないか。

 もう憎み合ったり競い合ったりする関係じゃなく、これからは本当の兄弟として、一緒にいるはずだったじゃないか。

「…………」

 その人は、呆気にとられたような目で瑛士を見下ろしている。その綺麗な目を覆う薄い眼鏡に気がついた時、瑛士はその人が、脩哉ではないことを理解した。

「……脩哉とは、俺の従兄弟の名前だよ」

 力なく手を離した瑛士をしばらく見つめてから、その人は柔らかな口調で言った。

「もっとも顔を見たのは、葬式の日が最初だったけどね。君はもしかして、脩哉の弟か?」

 ――誰だ……?

「そうか、遠目から見た時、どこかで見たような気がしたはずだ。――思い出したよ。葬儀の席では君の方が、むしろ死人のようだった」

 少し強くなった雨がその人の眼鏡を濡らした。傘をかざしたままで立ち上がったその人は、眼鏡を外して藤堂を見下ろした。

 脩哉と同じ――けれど、生前の脩哉が決して見せることのなかった優しい目で。

「おいで、ひとまず俺と一緒に行こう」

 


 的場さん。

 僕には、この世で、何より大切な人が3人いるんです。

 その人を裏切ってしまうくらいなら、僕はどんなみっともない真似でもするでしょう。

 1人はあなたで、1人は母です。

 そしてもう1人は――


 *************************

 

「やぁ、的場さん」

 声を掛けられても、果歩は反応することができなかった。

 真鍋雄一郎は、少し不思議そうな目になって微笑すると、穏やかな足取りで果歩の方に歩み寄ってくる。

 百合の花を純白のリボンでくるんだ、小さなブーケが差し出された。

「君のでは?」

「…………」

 果歩は、強張った目で真鍋を見上げた。

 この人と最後に会ったのはいつだったっけ。

 鳶色の双眸、少し口角の上がった、優しい――でも男らしい唇。

 チャコールグレイのスーツに身を包み、髪だけは、8年前より心持ち短くなっている。

 眼鏡がない――テレビで顔を見たときと同じ違和感を覚えながら、果歩はぎこちなく手を差し出した。

「……ありがとう、ございます」

 指の長さ、爪の形――ブーケを受け取りながら、果歩は微かな目眩を感じた。

 どうしてそんなどうでもいいことまで、8年たってもまだ覚えているんだろう。 

 真鍋は、微笑を帯びた目で果歩を見ていたが、その視線を、ふっと果歩の背後に移した。

「瑛士」

 どこかで予想していたにもかかわらず、果歩は心臓が止まりそうになっていた。

「予定より少し早く着いたんだ。お互い、丁度よかったな」

 答えずに、果歩の隣に歩み寄ってきた藤堂の、果歩は顔を見ることができなかった。

 ひとつだけ分かったのは、藤堂と真鍋が知り合いで――しかも、かなり親しい間柄だということだ。

 8年前、真鍋は、他人をそんな風に優しい声音で呼ぶ人ではなかった。

 自分を頑なにガードして、容易に素の顔を見せないようなところがあった。そんな真鍋の寂しさに、果歩は寄り添ってあげたいと思ったのだ。

「どうした、瑛士」

 重苦しい沈黙を最初に破ったのは、真鍋だった。

「彼女を紹介してくれないのか? それとも俺が紹介すべきなのか?」

 誰も何も答えない中、真鍋は苦笑して、その視線を背後に向ける。

「どちらでもないな」

 そこで果歩はようやく、彼が一人ではないことに気がついた。

 彼の背後に、すらっとしたスーツ姿の女性が立っている。

「こっちも2人で来ている。瑛士がそのつもりなら、食事の席に的場さんに同席いただいて構わないよ」

 その刹那、果歩は自分の足下がなくなり、暗い水底に落ちていくような感覚になった。

 真鍋さんの……奥さん。

 8年前、愚かにも果歩は真鍋のマンションに赴き、彼の妻と玄関で鉢合わせになった。

(どなた?)

(雄一郎さんなら、今奥で着替えているの。よろしければ、呼んでまいりましょうか)

 玄関に寄り添うように置かれていた2つの靴や、結婚式で撮ったと思しき写真――幸福な家庭の片鱗が、まるで昨日のできごとのように色鮮やかに頭の中を埋め尽くす。

「私のことを、まず紹介してもらわなくては困るわ、雄一郎さん」

 柔らかな女性の声が、うつろだった果歩を残酷な現実に引き戻した。パール色のヒールがうつむく視界に飛び込んでくる。

「はじめまして、私、芹沢花織かおりと申します」

 ――芹沢……?

 名字が違うことに、少しうろたえながら顔を上げると、ライトグレーのスーツを着こなした細面の女性が、いかにもビジネス的な笑顔を浮かべて果歩に微笑みかけていた。

 年は、果歩より少し上くらいだろうか。きりっとした理知的な容貌で、記憶にある彼の妻の印象とは随分かけ離れている。

 しかし、古風で優しい顔立ちには、やはりどこかで見たような記憶があった。

「僕の義理の姉さんだ」

 真鍋がそう言い添えた。

「瑛士の元上司でもある。彼女は以前、都英建設の常務取締役をやっていてね。こう見えて、とてもやり手の女性だよ」

 果歩は肩で息をして、ぎこちなく頷いた。

 もう、どこに驚いていいかさえ分からなかった。

 藤堂さんの元上司。そして、真鍋さんの義理の姉。

 芹沢という名前に、ようやく忘れかけていた記憶の一部が喚起される。真鍋は、当時与党の幹事長で、現在は別の政党を立ち上げた芹沢議員の娘と結婚したのだ。

 つまり、奥様のお姉様だ。

 そんな人と藤堂が昔からの知り合いだった。――

 今、藤堂さんは、隣でどんな顔をしているのだろう。

 今夜彼は、一体何を考えて私をこんな場所まで連れてきたんだろう。

 一瞬込み上げた激しい怒りを、果歩は拳を握りしめてやり過ごした。

 しっかりして、果歩。ここは冷静にならなければ。

 真鍋さんの家族の前ならなおさら、ここで私一人が、過去に囚われていてはいけない。

「はじめまして。的場と申します。真鍋さんとは、随分以前仕事でお会いしたことがありまして」

「ええ、よく存じております」

 遮るように真鍋の義姉が口を開いた。

「真鍋市長の元秘書でいらっしゃいますよね。妹もあなたのことは、とても気にかけていましたから」

「…………」

 ――どういう意味……?

 強張った笑顔をはりつけたまま、果歩はかすかに喉を鳴らした。

 柔らかいが、明らかな毒がこもった言葉は、ようやく立ち直りかけていた果歩の気持ちを再び息もできないほどにかき乱した。

 バッグを持つ指が震え、言いつくろおうにも、言葉が何も出てこなくなる。

「雄一郎さん、的場さんは明日も仕事なので」

 その時、初めて藤堂が口を開いた。

 口調は普段と変わらなかったが、彼が、感情を懸命に押し殺しているのが果歩には分かった。

「せっかく時間をつくってもらったのに申し訳ありませんが、いったん彼女を家まで送ってきてもいいですか」

「瑛士、悪いが俺の方にも時間がないんだ」

 真鍋は冷めた目を別の方角に向けながら言った。

「でも、確かに的場さんはお疲れのようだ。俺の秘書に送らせるよ。彼女とも顔見知りのようだし、お前もそれなら安心だろう」

 一瞬、それが芹沢花織のことだと思った果歩は表情を硬くしたが、真鍋の視線の先から思わぬ人物が現れた。

 黒服をまとった長身の男。

 引き締まった端正な容貌で、油気のない髪を短くカットしている。

 山の天辺にある治外法権区で、二宮家の執事をしていた男だ。

「……片倉、さん?」

 思わず呟いた果歩に、片倉は慇懃な態度で一礼すると、黙って真鍋の背後に立つ。

 果歩はただ、混乱していた。

 ――どういうこと? 藤堂さんの実家にいた人が、どうして真鍋さんの秘書に?

 藤堂は最初からその人物の存在に気がついていたのか、眉根を険しくして黙っている。そして、苦しそうに口を開いた。

「――いえ、やはり僕が送ります。すみませんが、今夜の約束はキャンセルさせて下さい」

「私、一人で大丈夫ですから」

 果歩は咄嗟に言っていた。

 今、誰と一番いたくないかと言われれば、それは間違いなく藤堂だった。

「どうぞ、お食事を楽しんで。父には私からよく話しておきますから」

 よく笑えるな、私。

 すごい心臓。自分でもほとほと感心する。

 もっと感心するのは藤堂さんの心臓の方だけど。   

 一礼してきびすを返すと、すぐに藤堂が追いかけてきた。

「送ります」

「いえ、本当に大丈夫ですから」

「少し話をさせてもらえませんか」

 今さら? 

 なんの?

 話だったら、もっと早くすべきでしょ。私をどれだけ驚かせたかったのか知らないけど。

「一人で帰れますから」

 足を止め、果歩はにっこりと微笑んだ。

「もしかして、真鍋さんとはご友人だったんですか。それなら、最初からそう仰って頂ければ良かったのに」

「……的場さん」

「……先月」

 果歩は言葉を震わせた。

「色々あって、あなたのことを理解したつもりでいましたけど、全部私の独りよがりだったんですね」

 欺されていた。

 4月からずっと。

 真鍋さんのことも、その奥様のことも、この人は何もかも、最初から知っていたんだ。

 その上で、多分、私を試そうとした。

 こんな卑怯な方法で、私の心をズタズタにして。

 自分と真鍋さんを、私に比べさせようとした。――

 何かを言いかけた藤堂が言葉を飲む。

 果歩は、鼻筋を濡らした涙を手でぬぐった。

「……もう、私に、……二度と構わないで」


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