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年下の上司  作者: 石田累
181/202

story19 March マリアージュ(最終話)

 それはもちろん、駄目とかじゃないけど。 

 ――もしかして、市長選の告示のせい……?

 彼の変化の原因に思い至り、果歩はドキっとして胸に手を当てた。

 朝から一度もテレビを見ていないから判らないが、すでには灰谷市長選の立候補者は、メディアで公になっているはずだ。

 藤堂さんはそれを見た? じゃあ私と同じで今日まで彼も知らなかった?

 やたら過去の情景が頭に浮かぶ自分の異変も、藤堂の態度が急変したのも、そう考えれば全て納得がいく。

 そして、急に泊まろうと言い出した彼の気持ちも理解できる。

 そうだ、どうせ明日から灰谷市は真鍋雄一郎一色になるのだ。気持ちが乱れて落ち着かなくなる前に、今夜――

 今夜、結ばれるのが一番いいのかもしれない。

 それでも藤堂が振り返ったとき、果歩はびっくりして一歩引いていた。

 一番いいタイミング――それは判っていても、疑問に思うことはまだまだある。   

「う、うちの親が了解してるっていうのは、どういうジョークなんですか?」

 あたかもムードを台無しにするように、わざとおどけて果歩は聞いた。

「この間父と喧嘩したばかりだし、許されるはずがないですよ。それは、もちろん冗談ですよね? りょうがいないと、泊まる言い訳もできないんですけど」

「あの後、一度、お父さんと話をしたと言いませんでしたか」

 果歩を見ないままで言って、藤堂は自分のネクタイを外した。

 果歩はこくっと喉を鳴らし、もう少しだけ後ずさっている。

「……い、言いましたけど」

「その時、お父さんの方から宿泊許可をいただいたので、そういう機会があれば必ず電話しますとお伝えしました」

「まさか、電話したんですか」

 何もかも信じられなかったが、藤堂はためらうことなく頷いた。

「ホテルを予約する前にしました。それほど驚いてはおられなかったな。ただ着物のことを心配しておられましたけど」

 それ、間違いなく電話してるじゃん!

 うわー、うわー。まさかと思うけど、今朝の両親の不自然な態度はこれが原因? きっと最初から、今日は泊まりになると予想して――。

 これは、乃々子に花束を渡されるより恥ずかしい。明日、一体どういう顔して家に帰ればいいんだろう。まさかこの年になって、赤飯炊いて待ってたりはしないわよね。

「そ、それを最初に聞いてたら、着物なんて着てこなかったのに」

「まぁ、僕が着付けができるので、そこは問題ないと申し上げました」

 ――も……

 果歩はもう、ショックで声も出なかった。

 問題ありありでしょ、藤堂さん。

 それ、親に向かって、娘さんの着物を脱がせると公言したようなものですけど!

「あの……いや、もちろんこうなることは私も……その、私も望んでいたことですけど、なんだかあまりに急すぎて、心の準備が何もできていないと言いますか」

 頭がついていかないというか、夢でも見ている気分というか。

「……リ、リアルな話をすれば、メイク道具もそうですけど、下着とか。やっぱりホテルで買ったんじゃ間に合わないし、不足するものもあるし。こ、こういうことは、計画立てて進めてもらわないと」

 何言ってんだろ、私、と思った。何を今になって逃げようとしているんだろう。

 こんなに待ち望んでいた時なのに。ずっとそうなりたくて、これまで彼をあの手この手で誘惑してきたのに。

「あ、そうだ。ひとつだけ、これだけ教えてもらえます? 4月まで待つってどういうことだったんですか? もうその辺りの整理は全部ついたってことでいいんですよね?」

 藤堂が黙って歩み寄ってきたので、果歩はドキッとして言葉をのんだ。

「もう、おしゃべりはいいですか」

「…………」

 本気――? 

 それとも、いつもみたいに、からかって落とすオチ?

 ボタンを2つほど外したシャツから、彼の喉仏と鎖骨が見えている。これだけ体格がいい人なのに、そこは女の人みたいに綺麗だな――そんなことを考えている間に、壁と彼の間に挟まれて、逃げ場がないままに唇が重なった。

「……ん」

 キスはあっという間に深くなり、荒々しいほど情熱的に果歩の中に入ってきた。もう藤堂を遮るものが何もないことが、その息づかいの荒さや抱きすくめる腕の強さから伝わってくる。

 胸が締め付けられるように苦しくなった。唇を離した藤堂が、果歩の顎に、喉に、熱を帯びたキスを落としていく。

「……あ、……」

 果歩は微かにあえぎ、藤堂の肩に手を添えた。衣服越しの熱い体温に、ぞくっと身体の奥にあるものが疼くのが分かった。 

 彼の手が、着物の襟を押し開き、鎖骨に唇を押し当てる。よろめいた果歩の背中が壁に当たり、自分の吐息も熱くなった。

 ――あ……、もう……、最後までいくんだ、私たち……。

 いつもみたいに、邪魔が入ることは絶対にない。ホテルが火事にでもなれば別だけど、そんなことはまず起こらないだろう。

 荒い息を吐いた藤堂が、果歩の肩を押して壁に向かって立たせた。背中から抱きすくめられ、耳やうなじにキスされる。そうしながら、彼は帯の組紐を解き、自分で結い上げた帯を解いていった。

 重たい帯が足下に落ち、肩から訪問着が滑り落ちる。

 白の長襦袢だけになった果歩を、藤堂はもどかしげに抱き上げると、傍のベッドに下ろした。すぐに覆い被さろうとして、ふと気がついたように身を屈めると、片足に引っかかっていた草履を脱がせてくれる。

 その優しさに、ただ彼の情熱に翻弄されるだけだった果歩も、ようやく一息ついていた。

 藤堂は自分も靴を脱ぎ、ベッドに横たわる果歩を跨ぐような形で膝をついた。

 室内は、もう黄昏色に染まっている。

「…………」

「…………」

 肌を薄桃色に上気させて、果歩は自分を見下ろす人の目を見つめた。

 シャツからのぞく胸が呼吸に合わせて上下している。暗い情欲に翳った男の目。それが少しだけ迷っているのが判る。

 果歩はぎこちなく手を伸ばし、藤堂の頬にそっと指を当てた。

 大丈夫――もう、私たちは、そうなっても大丈夫。

 自分に言い聞かせるように、彼に言い聞かせるように、眼差しでそう伝える。

 その気持ちが伝わったのか、一度目を閉じた藤堂が、ゆっくりと果歩の唇に口づけた。

 それまでとは打って変わった優しいキスに、果歩もまた、とろけそうなほどの幸せを感じている。

「的場さん……」

 掠れた声、熱い息、身体を辿る大きな手。

「……、ん、藤堂さん……」

 ――好き……。 

 それでも目をつむった果歩の脳裏に響いたのは、この場所にいるはずのない人の声だった。

(果歩……、好きだよ)

 はっと身体を硬くした果歩の変化に気づいたのか、藤堂がキスをやめて果歩を見下ろす。

 果歩は――目をつむったまま、彼の視線から逃げようとした。

 心臓が重苦しく高鳴っている。

 どうしたの? 私。

 どうして今日に限って、忘れていたことばかり思い出すの?

 真鍋さんが市長選に出ることを知ったから? 

 それともこの場所が、忘れていたはずの過去を呼び起こすから?

 こんな――こんな大切な日に、どうして。……

 しばらく動かなかった藤堂の手が、長襦袢の帯を解き始める。果歩は目を閉じ、彼のするままに任せていた。

 首筋に触れる吐息――ウエストを撫でる優しい指――その指が大切に守っている場所にそっと入っていく。でもそれは――その指は……藤堂さんのものじゃなくて……

 気づけば帯を解くのをやめた藤堂が、黙って果歩を見下ろしていた。

 果歩は、唇を震わせるようにして両手で口を覆った。

 自分が何故泣いているのか分からなかった。でも、こんな涙を流したのが、今日が初めてでないことも分かっていた。

「……起きますか」

 ややあって、聞こえてきた藤堂の声は優しかった。

 それでも動けない果歩を抱き起こすと、その身体を引き寄せるようにして、藤堂は肩を優しく抱いた。

「すみません。やっぱり僕の方が、無理でした」

「…………」

 その刹那、胸がいっぱいになって、果歩は声を殺すようにして泣いていた。

 そうじゃない。今日は、藤堂さんのせいじゃない。

 どうしてこんな時まで優しいの? 私――私が今日の全部を、台無しにしてしまったのに。

「……藤堂さん、私……」

 りょうの言うとおりだった。ずっと曖昧にしていたつけが、こんな大切な時に回ってきた。

 もっと早い段階できちんと話しておくべきだった。晃司と3年つきあって、すっかり過去だと思っていたことは、まだこんなにも生々しく自分の中に残っていたのだ。

 そのことを――真鍋さんのことを、ちゃんと藤堂さんに話さないと。

「あの、藤堂さん」

「的場さん」

 遮るように藤堂は言い、果歩の背を抱いて自分の方に引き寄せた。

「……今日、あなたを抱いたら、僕は一生自分を許せなかった」

 苦しそうな彼の口調に、果歩は息をのんでいた。

「……どういう、ことですか」

「それでも構わないと思ったし、いっそのこと、とことん嫌われたいと思ったのかもしれない。いずれにしても、……完全に自分を見失っていました」

「…………」

「あなたの気持ちを考える余裕がなかった。――本当にすみませんでした」

 どういうこと? どうしてそこで、藤堂さんが謝るの?

 そこで謝られたら、なんだか私たち、もう本当に駄目みたいじゃない。

「着物を元に戻しましょうか」

 果歩の髪を指でかきわけると、藤堂は、いつもの優しい口調で言った。

「髪はどうしても、元通りとはいかないですけど」

 涙で潤んだ目で藤堂を見上げ、しばらく迷ってから果歩は頷いた。

 このまま離れたくないし、離れたらもうおしまいかもしれないという不安がある。でも、どう頑張っても、今日の仕切り直しはもうできない。

 果歩自身が気持ちの整理がついていないし、藤堂もまた、再び鉄の鎧をまとってしまったからだ。

 ベッドを降りた藤堂は、靴を履いて、ネクタイを元通りに締め直した。

 果歩もまた、どこか心細いような気持ちでベッドを降り、鏡の前で乱れた髪を整える。 ――ひどい顔……。

 目は充血して、涙でアイメイクが滲んでいる。こんな顔だったから藤堂さんも引いたのかしらと、いつものように自分を茶化そうとしたが、気持ちは沈んだままだった。

「じゃあ、先に髪を直しますか」

 その時には、藤堂は床に落ちていた訪問着や帯をきちんと畳んでベッドに置き、洗面台から備え付けのブラシを持ってきていた。

「本当に髪まで直せるんですか?」

「ある程度は。ただセンスがないので、仕上がりがどうなるかは分からないですが」

 その藤堂の言い方が楽しげだったので、果歩も自然に笑っていた。

「じゃ、期待せずに見守ってます」

「的場さんは、その間にメイクを直されたらどうですか」

 ん? とその言い方には、果歩は今の状況も忘れてむっとする。

「そんなにひどい顔だって言いたいんですか」

「いえ、そうでは……。ただ、あまり時間がないので」

 時間がない。

 その言葉で、彼が宿泊をやめて帰るつもりだということが分かり、果歩は内心ショックを受けていた。

 馬鹿だな、私。そんなの、今日私がしたことを考えたら当たり前なのに――

 そう思うと、ますます身勝手な自分が許せない気持ちになる。

 そんな内心を悟られたくなくて、果歩はあえて明るく言った。

「いくらなんでも、男性の前でメイクを直すなんてできませんよ。これは私に限った話ではなく、女性共通のルールです」

「そういうものですか」

「そうです。女性は秘密がいっぱいなんです」

(女性は守秘義務がいっぱいなんです)

 果歩はあっと思って目を閉じた。

 ――……、私、何を自分で自分の地雷を踏んでるんだろう。

 というより、一体今夜の私の記憶回路はどうなってしまったんだろう。何かおかしなスイッチが入ってしまったとしか思えない。

 よりにもよって、市長選に真鍋が出ると判った日にこのホテル。

 もとろん藤堂は、このホテルと果歩の因縁など何も知らなかったのだろうが。

 ――落ち着いたら、その辺もちゃんと話さないといけないんだろうな。

 ただ、今さら言い訳したところで、今日の――お互いにとって最悪の思い出が、ハッピーな形で上書きされるとはとても思えない。

 そういう意味では、こうなる前に、りょうの警告通り、藤堂と話をしておくべきだったのだ。  

 藤堂が直してくれた髪は、最初より多少地味ではあったが、どうしてなかなかの仕上がりだった。やっぱり藤堂さんってすごすぎる――と思いながら、果歩は急いでサニタリーでメイクを直し、部屋に戻った。

 ――あ、テレビ……。

 藤堂が付けたのか、備え付けのテレビがニュース映像を流している。灰谷市のローカルニュース番組だ。

 ドキッとしたが、内容は天気予報だったので、どこか拍子抜けした気持ちで藤堂の方に視線を向けた。

 藤堂は、ベッドの傍らで着物を広げて待ってくれている。

 彼の表情がどこか硬いような気もしたから、もしかすると今まで市長選のニュースでもやっていたのかもしれないと思い、また気持ちが重くなった。

 ――やっぱり話そう。時間はあんまりないかもしれないけど。

 果歩は覚悟を決めて、同時に精一杯明るく振る舞うことにした。過去は過去。私が今好きなのは藤堂さんなんだから、やましいことは何もない。

「せっかくだから、この機会に藤堂さんに教えてもらおうかな、着付け」

「僕のは、見よう見まねだから、人に教えられるものではないですよ」

「そんなことないでしょ。正直、今朝のカリスマ着付師より手早いです」

 果歩は笑いながら、テレビの方に視線をやった。

『それでは、本日立候補を表明した灰谷市長選の候補者を改めて紹介します』

 はっとした。あまりに突然だったから、目を背ける暇もなかった。

 真鍋正義 無所属 現職

 そんなテロップとともに、今より少し若い真鍋市長の顔が映し出される。

 テロップが切り替わり、新しい文字が画面下部に浮かび上がった。

 真鍋雄一郎 無所属 新人

 ついで画面に写し出された人の顔が、しばらく果歩の頭に入ってこなかった。

『灰谷市長選は、全国的にも珍しい親子対決となりましたね』

『普通は地盤を譲るものですが、そのあたり、何か現市長にお考えのようなものがあるのでしょうか』

 気づけばテレビは別の番組に変わっていて、着付けを終えた藤堂が、果歩の隣に立っていた。

 彼は黙ってテレビを消すと、椅子の上に置いてあった果歩のハンドバッグとブーケを取り上げた。

「じゃ、出ましょうか」

 

 *************************

 

 藤堂と一緒にエレベーターに乗り込んでも、まだ果歩はぼんやりとしたままだった。

 頭の中では、8年ぶりに見た雄一郎が微笑んでいる。彼自身が最後に宣言したように、もう眼鏡はかけていない。どうして眼鏡をやめたのだろう。薄い目の色が嫌だとよく言っていた。眼鏡はそれを隠すためだと言っていたのに――

 いつ撮影した写真かは知らないが、容貌は8年前とほぼ変わっていない。少し痩せたかなとは思った。目元も険しくなっている。でもそれは、多分果歩にしか判らない変化だ。

 彼がとても優しい笑顔をしていると知っているから――

 いつの間にか真鍋のことで胸が埋め尽くされていることに気付いた果歩は、おののくような気持ちで首を横に振った。

 ――何を考えているの、私。

 今は藤堂さんと一緒なのに、今だけは、藤堂さんのことを考えないといけないのに。

 だいたい、仮に真鍋さんが市長になったとして、それがどうだというのだろう。もう自分には関わりのない人だし、この先顔を合わせることもないはずだ。

 市長なんて、一般職員がそうそうお目にかかれる存在ではない。しかも果歩は、4月に本庁を出て行くことがほぼ確定なのだ。そう――だから大丈夫。

 果歩は、何か怖いものでも見るような気持ちで、前に立つ藤堂の背中を見た。

 部屋を出て以来、藤堂は一言も口をきかない。

 彼はなんで、あのタイミングでテレビをつけて、なのにそのことについて、私に何も言おうとしないのだろう。

 偶然……? 本当にそれは、ただの偶然? 

 胸に押し寄せる不安を打ち消すように、果歩は手にしたブーケをぎゅっと握りしめた。

 あれほど綺麗だった花は、今、心なしかしおれているようにも見える。

 雄一郎について何も聞こうとしない藤堂が、果歩と雄一郎の過去を知っていることは分かっている。それは役所では、ある種公然の秘密だからだ。

 でも、さすがにこのホテルで、かつて果歩が雄一郎と会っていたことまでは知るはずがない。だから偶然選んだのだろうと思っていたが、今はそれが、分からなくなりかけている。

 ――数多のホテルの中から、どうしてここを?

 ――あの倹約家の彼が、一泊三万もするホテルを選ぶもの?

 もしかして、りょうが私の過去を話した? 話すかもしれない。りょうは時々、そういう爆弾を好んで落とすからだ。

 でも、そうであっても藤堂が、今日の、2人の大切な思い出になる場所に、このホテルを選んだ理由にはならない。

(果歩さ、一回藤堂君ときちんと話した方がいいと思うよ)

(彼が4月まで待てっていう理由、彼が頑なに果歩に手を出さない理由)

 彼が、4月まで待てといった理由。

 思えば藤堂は最初からずっと言っていた。それは自分ではない、私の気持ちの問題だと。

 4月になって、改めて自分を選んで欲しいと。

 もしかして――

 藤堂さんは……、最初から市長選のことを知っていた?

「的場さん」

 不意に藤堂の背中が言った。

 果歩は我に返ったように藤堂を見上げている。

「は、はい」

「すみませんが、今日は、1人で帰ってもらえますか」

「あ……、はい。大丈夫です」

 内心のショックを隠しきれず、果歩はぎこちない声で答えた。

「僕は今から、ここで人と会う約束があるので」

 人と会う約束。

 それは、――私と一緒に過ごす予定がなくなったから決めたこと?

 それとも、最初からその予定だった?

 ――なんだろう。もう藤堂さんの言うことが素直に信じられない。

 どうしたらいいの、りょう。このままじゃ、藤堂さんと私、なんだか駄目になっちゃいそうな気がするよ。

 もう打ち明けるのには遅すぎるの?

 それとも、今から話したら、お互い笑って許せること……?

 エレベーターを降りた藤堂は、リザーブした部屋をチェックアウトするためにフロントに向かう。

 どうしていいか分からないまま、果歩はその少し手前に立っていた。

 このまま別れたくないという気持ちが、胸を重苦しく塞いでいる。今別れてしまったら、本当に彼を見失ってしまいそうな気がする、もう二度と、今まで通りの2人には戻れないような気がする。

 果歩は、幾重にも重ねた着物の下の、彼からもらったリングがかかっている辺りに手を当てた。

 分かっている。悪いのは何もかも私だ。

 好きなのに……こんなに藤堂さんのことが好きなのに――どうして今日は、あんなことになってしまったんだろう。

 その時、バッグの携帯がメールの着信を告げた。自宅からかと思った果歩は、急いで携帯をバッグから出した。

 しかしメールを送ってきたのは、予想もしていない人だった。

 ――入江さん……。

『ようやく、脩哉様の写真が手に入ったから送ります。藤堂係長によろしくお伝えくださいね』

 果歩は無意識に、フロントに立つ藤堂の背中を窺い、そしてごくりと唾を飲み込んでから指で画面をスクロールした。

 添付された写真が、少しずつ全容を現し始める。

 二宮脩哉。

 海の泡になった人魚姫。

 一体この人がなんだというのだろう。この人のことで、藤堂さんが何を私に隠しているというのだろう。

 女性のように艶やかな黒髪と、切れ長の黒い瞳、彫刻のように整った鼻筋と口角の切れ上がった形のいい唇。

 果歩は胸で息をした。

 この人から――濃すぎる目や髪の色素を抜いて、淡くしたらどうなるだろう。

 もう少し輪郭を面長にして、その目から野心的な色味を消してしまったら。

(つい最近ですけど、すごく脩哉様に似た人を見たんですよ、私)

 誰が見ても、その顔は――

 その顔は――

「これは真鍋様、ようこそおいで下さいました!」

 びくっと果歩は肩を上げた。

 驚きで、持っていたブーケが手から落ち、緋色の床を転がっていく。

「今夜はどうなさいました。ご連絡いただきましたら、一番いい部屋をお取りいたしましたのに」

「大丈夫、今夜はここで友人と食事をするだけだ」

 低くて、優しくて、穏やかな声。

 嘘でしょ――

 果歩は雷に打たれたように、その場に棒立ちになっていた。

 誰か、……誰かこれは夢だと言って。

 夢なら、早く私の目を覚まさせて。

 その人が果歩の前で足を止める。屈み込んで、転がったブーケを拾い上げる。

「やぁ、的場さん」

 果歩は息もできなかった。

 8年ぶりに再会した、真鍋雄一郎が目の前に立っている。


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