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年下の上司  作者: 石田累
174/202

story19 March マリアージュ(7)

「じゃあ、局長の店に行きますか!」

「今夜はもう、とことん最後まで行くからな!」

 そんな声を聞きながら店の外に出た果歩は、携帯に着信が入っていることに気がついた。

 ――りょう……。

 少し驚いて、かかってきた時間を確認する。今からほんの数分前だ。

「的場さんはどうするね」

 背後から那賀局長の声がした。

「あ、すみません。私はいつものように門限が」

 それは嘘ではないし、実際父と微妙な状態になっている今、二次会に行くなんて自殺行為だ。それでもりょうがもし呼んでくれたら、果歩は何を置いても行くつもりでいた。

 店の前で、二次会の行き先を決めている都市計画局の輪から離れ、果歩は携帯を耳に当てた。

「りょう? どうしたの?」

「ああ、果歩? ごめん、まさか今夜が飲みだなんて知らなかったから」

 聞こえてきたりょうの声は、普段通りだ。

 最近ずっと耳にしていなかった親友の声を聞くだけで、果歩は理由もなく安心していた。

 ――ん? ていうか、今日が飲みだって誰に聞いた?

「今どこ?」

「いつもの店」

「えっ、この時期に飲んでも大丈夫なの」

「今夜は特別。っても土日は全部仕事で潰れるけど」

 果歩は背後を振り返った。藤堂は人の輪の中で、南原に支えられて立っているようだ。今でもまだ信じられない。まさか藤堂さんがここまで酔ってしまうとは――

 私がお持ち帰りしちゃおうかしら。

 と、よこしまなことを考えながら、果歩は携帯を耳に当て直した。

「行こうか、今から」

「……うん、そのつもりだったけど、やっぱ今夜はいいかな、果歩は」

「……? どういうこと?」

 誰かと一緒かな、とふと思った。

「月曜日、一緒にお昼食べない、屋上で」

「い、いいけどまだ少し寒くない?」

「だったらしっかり着込んできて。またね、果歩」

 そこで電話が切られたので、果歩は拍子抜けした気分で携帯を収めた。

 なんだったんだろう、今の電話。りょうがこんな中途半端な電話をしてきたことなんてあったっけ。

 でも似たようなことなら、確か1月に一度あった。

 理由も言わず、旅館に泊まりにきてと言われた時。

 あの時りょうは、その理由を確かこう言ったのだ。

(今日は、本当は怖いから傍にいて欲しかったの。私が私でなくなっても、果歩が傍にいてくれれば、なんとかなるような気がしたから)


 *************************


「……的場さんは?」

 藤堂がそう聞くと、タクシーの運転手に行き先を告げた南原は、疲れたようにシートに背を預けた。 

「声を掛けようと思ったら、さっさとタクシー拾って帰っちまったよ。ふられたな、お前」

「すみません、百瀬さんを送らなくてもよかったんですか」

「いいよ。あいつもお前のこと心配してたから」

 藤堂は黙って窓の外に視線を向けた。窓ガラスに小さな水滴が散っている。傘――持っていたかな、あの人は。

「何、やけくそになってんの?」

「え?」

「俺からみたら、そんな風に見えたから。今夜のお前」

「…………」

「俺も、この前酔っ払ったよ。2月にお前が東京行ってた時、てっきり百瀬さんとお前の間にそういう関係があったんじゃないかと思ってさ」

 さすがに酔いも覚める思いで顔を上げると、南原はどこか優しい目で外を見ていた。

「お前になんて、正直、何をどうやっても敵わねぇじゃん。もう飲むしかねぇなと思って、生まれて初めて潰れるまで飲んだ」

「…………」

 敵わない。

 ――何を、どうやっても敵わない、か……。

 南原は少し首を傾げて、ドアによりかかる藤堂を見た。 

「こないだ役所に来た奇妙な奴、どうせ親戚でもコメディアンでもないんだろ」

「……前者は合っていますが、後者は違います」

「家が複雑だっていうのは百瀬から聞いたよ。的場さんとのこと、反対でもされてんの、もしかして」

「……どうかな」

 藤堂に答える気がないのを察したのか、南原は軽く肩をすくめて視線を逸らした。

「ま、いっけどさ。四の五の言わずに、一回寝てみたらいいんじゃねぇの。うだうだ悩んでたのが、馬鹿みたいに思えるから」

「…………」

「俺が言うと説得力あるだろ。的場さんも、そうなるのを待ってるような気がするけどな」

 数を増した雨粒が、窓ガラスを叩き始める。

 ――実は、何度もそうしようとしたんです。

 何度も何度も、僕自身が決めた戒めを解こうとした。

 何度も何度も。

「あーあ、まさかお前にこんなセリフを言う日がくるとは思わなかった。俺がいなくなっても大丈夫かよ」

 藤堂は顔を上げ、隣の南原を振り返った。

「知ってたんですか」

「そりゃ、分かるよ。いくらなんでも夫婦で同じ局にはいられない。百瀬は妊娠中だから異動させられないし、出されるなら俺しかないだろ」

 4月1日? と重ねて南原が聞いたので、少しためらってから藤堂は頷いた。

「週明けの月曜日に、異動内示が出る予定です」

「……へぇ」

 南原は、他人事のように相づちを打つと、少し笑ってシートにもたれた。

「水原が聞いたらまた泣くかな」

「……そうですね」

 それきり南原が黙ってしまったので、藤堂もまた、シートに背を預けて雨で滲んでいく3月の夜を見つめていた。

 ――月曜日は、的場さんにとっても、ショックな1日になるだろうな。

 宮沢りょうと前園晃司。彼女が精神的な拠り所にしていた2人が、揃って灰谷市からいなくなるのだから。

 閉じた瞼の裏に、今日の6時過ぎ、約束通りの場所にやってきた人の姿が蘇る。

 市役所から2ブロック離れた小料理屋で、その人は、先日の非礼を律儀なくらい丁寧に詫びると、その理由をこう切り出した。

「――藤堂さん、俺が果歩に役所を辞めろといったのは、何もあんたの煮え切らない態度に腹を立てたからじゃない。……あんたは若いから知らないだろうが、果歩は昔、役所でいろいろあったんだ」

 2人の前には、的場憲介が頼んだグラスビールが手つかずのまま置かれている。

「あんたには関係のない話だし、8年も前の出来事にこだわる俺が、むしろ自意識過剰のように思えるだろう。しかしそれは……、あの時、真鍋市長が果歩にした仕打ちを知らないから言えるんだ」

 藤堂は黙って聞いていた。

 その件について憲介は多くを語らなかったが、絞り出すような声と苦渋の表情から、父親としての、当時の深い苦悩が窺い知れた。

 知っている話もあれば、初めて耳にした話もある。改めて藤堂は、果歩の思いも寄らない芯の強さを思い知らされた気持ちだった。

 あれだけの仕打ちに耐えたその強さは、なんのためのものだったのか。

「――もちろん果歩は俺たちには何も言わない。役所の知り合いから、俺に話が入ってきたんだ。聞いた時は、当然役所を辞めさせようとしたし、労働関係の弁護士に相談にも行った。でも上司に余計な波風は立てるなと釘を刺された。――情けない話だが、光彩建設はうちのお得意様なんだ。それだけじゃない、うちの社長は、真鍋市長の後援会役員をやっている」

 多分一番言いにくかったことを一気に言うと、憲介はグラスのビールを一気にあおった。

 そして、本題はそこからだった。

「……今回、後援会筋から妙な噂が耳に入ってきた。来月の市長選、真鍋市長の対抗馬として、息子の雄一郎が担ぎ出されるという話だ。息子が、いずれ父親の後を継いで出馬するのではないかという噂は昔からあった。しかしそれはまだ4年も8年も先の話だ。――まさか現職の父親と戦う形で、息子が出馬するとは……」

 藤堂は答えず、自分も初めてぬるくなったグラスに口をつけた。

「今回俺が耳にしたのは、この1月から2月にかけて、真鍋さんの地盤の大半を息子が奪ったという話だ。実際、いくつかの支援団体が息子側に寝返ったという噂がある。――これが本当なら、8年前、果歩を地獄に落とした男が、4月から灰谷市のトップになることになる」

 机の上で、憲介は拳を握りしめた。

「……俺は、その前に果歩は役所をやめるべきだと思ったんだ」

「…………」

「果歩には余計な話をするなと怒られるだろうな。でも、俺はあんたを男として信用している。いや、正確に言えば、先日うちにきた時のあんたの態度で、信頼できると思うようになった。だから、包み隠さず話すことに決めたんだ」

 許されることなら、自分も今、何もかも目の前の男に打ち明けてしまいたいと、藤堂は思った。自分は――あなたの信頼に足る男ではないのだと。

「これは果歩には絶対に言わないでくれ。実はな、俺は一度、あの男に会っているんだ」

 その話になったのは、憲介が3杯目のグラスを空にした時だった。

「果歩が役所であんな目にあって、俺が弁護士に相談していた頃……、まだあの男が政治家の娘と結婚する前の話だ。話がしたいと連絡があってうちに来た。てっきり謝罪にきたんだとばかり思ったよ。でも違った。奴が俺になんて言ったか分かるか」

 一時黙り込んだ憲介の奥歯から、歯軋りが聞こえてくるようだった。  

「娘につきまとわれて迷惑している。こちらとしては今後何かあれば訴訟も辞さないつもりなので、二度と当方には関わらないでほしい」

「…………」

「まるで女のように綺麗な、取り澄ました顔をして、そんなことを言いやがったんだ」

 ――雄一郎さん。

「俺が殴る前に、家内がお茶をそいつの顔にぶちまけた。眉筋ひとつ動かさなかったよ。そういう意味じゃ政治家向きだ」

 藤堂は思わず額を押さえ、そのまま動けなくなっていた。

 あなたはその時、――どういう気持ちだったんだ。

「あれから8年経つが、俺も家内も、果歩があの男を悪く言うのを一度も聞いたことがない。あんたにこんなことを言ったら気を悪くするだろうが、当時あの男に買ってもらったものを、果歩はまだ大切に持っている。果歩にとってあの男は、今もいい思い出なんだろう。俺は……できれば、果歩の思い出をそのままにしてやりたいんだ――」

  

 *************************


「ごめん、店に来てくれたんだ。うん、5分前くらいに店を出たかな。――大丈夫、果歩こそ気をつけて帰りなさいよ」

 通話を切った携帯をバッグに収めると、りょうは隣で固まっている男を振り返った。

「いつものことだけど、何、二股がばれたみたいな顔になってんの」

「……なっ、なってねぇよ。じょ、条件反射で緊張はするけど」

 むっとしたように、前園晃司が反論する。

 ――条件反射か。

 りょうは軽く息を吐いて、欄干に肘を預けた。

 そこに本気で腹を立てることができていたら、結論はまた違っていたのかな。

 欄干に寄りかかる2人の前では、市内の一級河川が夜のきらめきを水面に映して流れている。それを見つめながら、りょうは不思議な気分で思っていた。

 こんな綺麗なとこだったっけ、灰谷市って。 

「準備は済んだ?」

「……荷物は明日空輸する。宮沢さんは?」

「私も明日、現地で引っ越しの手配かな」

 含むように笑ったりょうは、自分の指できらめく銀色のリングを闇にかざした。

 それを、少し眩しそうな目で見てから、晃司は視線を川の水面に移す。

「つけてくれるとは思わなかった」

「ふふ、少しくらいはプロポーズされた女の幸せってやつを体験しとこうと思って」

 川面を見つめたままの晃司の横顔が、苦い笑いを浮かべている。

「でも捨てるんだろ?」

「捨てられるために買ったって言ったじゃない。今、捨て場所を考えているところよ」

 どちらも互いの道を譲るつもりはない。りょうにも、そしてこの男にも。

 もっとも譲ってもらおうなんて夢にも考えてなかったけど。

 仕事を辞めるか辞めないかでこの男が悩んでいたなんて、今夜聞いて目を丸くしたくらいだ。

 可愛いやつ。

 可愛い、私の――

「いくらしたの?」

「……、ん、まぁ、……給料の2ヶ月分くらい」

「おおっ、強気。捨てられるって分かっててその値段?」

「そんくらい散財したら、逆にふっきれるような気がしたんだよ」

「質屋に持って行こうかしら」

「好きにしろよ」

 引き延ばしたところで、どうせ続かないことは分かっている。

 どちらも優先順位の一番は仕事。

 ずるずる関係を引きずって、どこかで諦めて終わりにするくらいなら、今、潔く別れておきたい。

 それまで殆ど気の合わなかった2人が、それだけは気持ちがいいくらい一致した。

「ま、バツイチじゃなかったしね」

「……なんだよ、それ」

「絶倫にもほど遠かったし」

 ぶっと、前を見たままの晃司が噴き出した。

「な、何言ってんだよ、さっきから。言うに事欠いて絶倫って」

「でも当たってるでしょ?」

 晃司は閉口したように何か言いかけたが、諦めたように口をつぐんだ。

「……俺しか知らないくせに」

「これから沢山知るわよ、きっとね」

 隣の男が黙り込む。

 遠く離れた港の方から、微かな汽笛の音がする。

「悔しいな」

「でも行くんでしょ」

 黙ってしまった男を見上げ、りょうは微笑んで、手を振った。

「じゃ、バイバイ。見送りにはいかないから、ここでお別れ」

「……うん」

 迷うようにりょうを見下ろした目が、やがて納得したように逸らされる。

「元気で」

「前園君も」

 背を向けた後ろ姿が、ゆっくりと遠ざかり、夜の街に消えていく。

 その姿が完全に見えなくなるまで見送ってから、りょうは左手の薬指からリングを抜き取った。

「……可愛いやつ」

 あの気の利かない男が、一体どんな顔をしてこんなものを買いに行ったのかしら。

 町灯りにリングをかざし、少しの間見つめてから、りょうは、それを川に向かって放り投げた。

 小さな銀色の欠片は、未練のように美しくきらめいてから、闇の中に消えていく。

「…………」

 すこしだけ視界が滲むのは、多分疲れ目のせいだろう。

 さよなら、私の可愛い人。

 さよなら、私の、初めての恋人――


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