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年下の上司  作者: 石田累
173/202

story19 March マリアージュ(6)

 その週の終わりの金曜日。

 南原と乃々子の結婚を祝う会は、役所近くの居酒屋の2階を貸し切って行われた。

 忙しい年度末、有志だけで集まろうというのがそもそもの発端だったが、結局局長以下、南原が所属する総務課と、乃々子が所属する住宅政策課のほぼ全員、他課からもかなりの人員が集まった。長机が並んだ座敷はすし詰め状態で、席と席の間を移動するのも苦労するほどだ。

「えーではここで、那賀局長から一言ご挨拶をお願いします」

 幹事代表は水原である。

 果歩が藤堂から聞いたのは、南原自ら、水原に幹事役を頼んだということだった。

「いやぁ、しかしまさか、百瀬君と南原君がねぇ。全く気があいそうもない2人がくっつくなんて、人生とは何が起こるか分からんものだよ」

 局長の、やや無神経な祝辞を受けながら、南原は居心地の悪そうな笑顔を浮かべている。

 で、その隣に座る乃々子は……。

 ――幸せなんだな、乃々子。

 と、果歩は思わずにはいられなかった。

 薔薇色の頬、明るい笑顔。時折隣の南原を見上げる時の、恋を隠そうともしない眼差し。多分人生で、一番綺麗で幸せな時。

 ――……私にも、そんな時があったかな。

 ふと目の前によぎった過去の一場面を、果歩は少し驚きながら大急ぎで押しやった。

 もうっ、なんなの、この前からちょいちょい出てくるこの無駄なノスタルジーは。

 その時はまだこれからよ! 来年の今頃は――いや、それじゃ32になってるから、来年の秋頃には、私がああやって祝福されていると信じたい。

 もちろん隣には藤堂さんがいて。私の左手の薬指には……。

 うんうん、と幸せを再確認するように、果歩は胸の指輪を服の上からそっと押さえる。

 それにしても、当の新郎――もとい藤堂さんは一体何してるんだろう。

 この祝いの席に、発起人の1人である藤堂が、まだ姿を現さない。

 仕事があるから少し遅れて参加するとは言っていたが、ちょっと遅すぎやしないかしら。松平帝の襲来以来、あまり元気がなさそうなのも気になるし。

 まぁ、そのことについては、彼が口を開くまで待つしかない。

 気を取り直した果歩は、人がごったがえす座敷内を見回した。

 ――春日次長……、やっぱり今夜も不参加なんだな。

 藤堂の他にあと1人、いつものことだが春日の姿がない。

 こういった会には、1万か2万の心付けを払って、春日はいつも不参加だ。

 普段厳しい春日がいないことで、若い職員はむしろ喜んでいるし、果歩も昔はそうだった。昔――というより、今年の1月までは。

 春日の厳しさが、この局を支えていると気付いたのはいつだったのだろう。春日が影の嫌われ者に徹してくれたおかげで、今年1年、様々なトラブルに見舞われた局内の調和はぎりぎりのところで保たれていた。

 那賀局長は、そのことにとうに気付いていて春日を慰労しようとしていたのだ。1月の親睦旅行の際、那賀の気持ちに気付けなかったことが、今でも果歩の遺恨になっている。

 思えばこの3年、春日には叱られ通しだった。残業中にコーヒーを煎れていた時など、八つ当たりとしか言いようがないほど理不尽な理由で怒られたこともあるし、悔しくて泣いてしまったこともある。

 でも、春日は基本誰に対しても同じなのだ。果歩にだけ特別厳しいわけでもなく、逆に甘いわけでもない。

 自分の信念に従って怒り、叱られた理由を相手に考えさせることで、誤りを正していく。理解されなければ、誤解を解くこともない。

 そのやり方が正しいかどうかはともかく、要するに春日は、果歩を一切特別扱いしてこなかったのだ。

 春日が来るまでの4年間、果歩はずっと甘やかされていた。

 男が8割を越え、女はその補助的な仕事しかさせてもらえない超保守的な都市計画局で、市長秘書の延長のような雑事と庶務だけをして、ぬくぬくと仕事をしてきた。

 今は違う。春日に厳しくされたのもあるが、この1年、様々な軋轢と戦ってきたおかげで、来年度、どこに異動してもやっていけるという自信も生まれた。

 もしかして春日は、最初から果歩に、そうなって欲しかったのではないだろうか。

「聞いたか、今年は局の歓送迎会がないって話」

「ああ、今年は市長選で、人事異動は4月終わりになるらしいからな。すぐにゴールデンウイークで、それが明ければ決算時期だ。無理だろ、うちの局で歓送迎会を開くのは」

 近くに座る住宅計画の職員が、そんな会話を交わしている。

 例年4月1日に行われる異動内示が、今年どうなるのかは、まだ正式に公表されていない。が、おそらく噂通りの展開になるだろう。

 ――……そうなったら、藤堂さんとの約束はどうなるのかな。

 4月1日から人事異動がある日まで延期されるのだろうか。

 少なくとも果歩より人事異動の内情に詳しい藤堂が沈黙しているのだから、それは考えなくてもいいのだろう。

 だったら、そもそも「4月まで」と言い出した藤堂の真意はなんだろう。

 香夜さんの件はきれいさっぱり片がついたから、そっちは常々藤堂が言っていたように無関係だったのだろう。

 残るは上司部下の関係だろうと思っていたけど、もしかして、もっと別の意味があるとか……?

 藤堂のことを考えながら、それでも果歩の思考は、いつしか春日のことに流れてしまっていた。

 ――次長には、一度きちんとお礼言いたいな。

 歓送迎会がないということは、その機会がなくなってしまうということだ。

 どうしよう。どのタイミングでお礼を言おうか。仮に休憩時間であっても、用もないのに次長室に入ろうものなら――それこそ、雷のごとき叱責が待っている。

 そこに水原が、青ざめた顔でやってきた。

「的場さん、住計課長が、刺身の舟盛りを追加注文したいっていうんですけど、どうしましょう!」

「予算は?」

「の、飲み放題プランなのでぎりぎりです」

「次長と局長からの心付けがあるから、その範囲内で計算して。それ以上の不足は、両方の課費で後日徴収すればいいから、いったんは自分で立て替えられる?」

「わ、分かりました。カードがあるんで、大丈夫だと思います」

 と、わたわたと仲居に向かって駆けていく。頼りないなぁと思ったが、それでもこの1年で随分成長したと思う。次に同じ課になる時は……本人が密かに抱く野望通り、果歩が部下になっているかもしれない。

 ――親切にしとこ、その時のために。

 果歩はちろっと舌を出し、隣に座る住宅計画の補佐のグラスにビールを注いだ。

「すまんなぁ、的場さん」

「こうやって的場さんと同じ席につくのもあとわずかだと思ったら、本当に寂しいよ」

「またどこかでご一緒しますよ。何も退職するわけじゃないんですから」

 2、3年は、島に行ってるかもしれませんが。

 とにもかくにも、本当にお世話になりました――

「すみません、遅くなりました」

 その時、ガラッと障子が開いて、遅れてきた人が現れた。

 その優しい声を聞いただけで、果歩の胸はトクンと音を立てている。

「なんだ、水も滴るいい男かぁ?」

 那賀が陽気な声をあげた。

「急に、降り出してきたので」

 座敷に上がった藤堂は、上着についた水滴を払った。額にかかる前髪にも、雨の滴がついている。

 果歩は――できることなら立ち上がって、それを指で拭ってあげたい衝動に駆られた。

 こんなことが、前にもあった。

 宴会に遅れてきた彼から、雨の匂いを感じた夜。

 何故だろう、その時すごく、懐かしい気持ちがしたような気がする。まるで何年も前から、その優しい匂いを知っていたように。

「あっ」

 不意に誰かが素っ頓狂な声をあげた。果歩もその時には、半分腰を浮かせかけている。

 ――春日次長……。

 藤堂の背後に、黒い死神が仏頂面で立っていた。


 *************************


 シーン……。

 静まりかえった宴会場。

 誰が何を口にしていいか分からない雰囲気の中、おそらく幹事という義務感からか、決死の表情で水原が立ち上がった。

「でっ、では、お2人がおいでになったので、改めて乾杯したいと思います!」

 それが呼び水となって、それまでポカンとしていた男たちが立ち上がった。

「誰か次長にグラス!」

「早く席を準備せんかぁぁっ」

 たちまち奥に引っ張られていく春日次長。そして素早く手渡されるグラス、注がれるビール。そう、実質局のナンバー1の春日次長、次の異動で局長に昇格するのはほぼ確実と言われている男。その機嫌をとらないで、一体誰の機嫌をとれというのか。

 一気に主賓の座を追われた感のある那賀だったが、しかし何故か楽しそうににこにこしている。果歩は、その気持ちが分かるような気がしていた。

「わしが挨拶などしてどうする」

 周囲に乾杯の挨拶を促されても、春日は席を立とうとしない。その代わり、那賀が日本酒のお猪口を持って立ち上がった。

「都市計画局に乾杯!」

 いや、局長、今日は南原君のお祝いですから。そんなつっこみがどこかで聞こえる。しかし笑い声とともに、全員が手にしたグラスを持ち上げた。

「――外、結構、降ってますよ」

 藤堂が、果歩の隣に腰を下ろした。

 他にも空いた席は沢山あるのに、わざわざ――まるでそうしたかったみたいに。

「今夜の藤堂君は大胆だな」

「もしかして、次長とどこかで飲んできたんじゃないですか」

 そんなひやかしにも一切動じず、ビール瓶を取り上げて、半分ほど空いた果歩のグラスに注ぐ。果歩は耳を少しだけ熱くしながら、お返しに彼のグラスにビールを注いだ。

「ありがとう」

「い、いえ……」

 なんだろう、こんな落ち着いた雰囲気で彼とお酒を酌み交わすのは初めてだ。

 そうか、今夜は流奈も晃司もいない。宇佐美君もいなければ真央ちゃんもいない。乃々子も、今は別の人の隣にいる。

 これまでと同じようで、2人を取り巻く状況は全く違うのだ。

 それが嬉しいような寂しいような……不思議な気持ちだ。

 藤堂の肩から雨の匂いがする。それを心地よく思いながら、果歩は彼をそっと見上げた。

「もしかして、藤堂さんが次長を説得して連れてきて下さったんですか」

「ええ、思ったより大変でした」

 グラスに唇をつけ、藤堂は笑った。久しぶりに目の当たりにする無防備な笑顔に、果歩はドキっとして目を逸らしている。

「い、一体どんな手を使われたんですか? 以前、那賀局長がいろいろやって、全くだめだったって話をされてたのに」

 あれは1月の旅行の時だ。幹事だった果歩は、端から春日を頭数に入れていなかった。実際春日に参加する気はゼロだったのだが、それを那賀局長が裏でいろいろ手を回して、なんとか参加させようとしていたらしい。

「最後は、多少卑怯な手を使ったかな」

「なんですか、それ」

「男同士の秘密です」

「えーっ、なにそれ、意味深すぎです」

 その春日の隣には那賀が陣取って、何か嬉しそうに話しかけている。

 そうか。今年局の歓送迎会はおそらくない。那賀局長のお別れ会も、課の旅行で済ませてしまった。だから局長は、南原さんのお祝いを、急きょこの時期やろうと言い出したのだ。

 これが、多分、今のメンバーで集まる最後になると分かっていたから。

「……那賀局長のためですか」

「いいえ」

 半分ほど飲んだグラスを置いた藤堂は、正座していた足を崩した。

 片膝だけ立てて果歩を見下ろし、そして微笑する。

「的場さんのためです」

「……、……」

 ――は……はい?

 みるみる自分の顔が熱くなっていくのが分かった。

「お、おい、藤堂係長が、的場さんを完全にロックオンしてるぞ」

「一体どうしちゃったんだ? 今日の藤堂さんは」

 周囲の囁きは、完全に果歩の心の声である。

 ど、どうしちゃったの、藤堂さん。

 あなたの心の鍵だかネジだかしらないけど、今夜はとうとう外しちゃったのですか。

 いやいやいや、外すのはできれば2人きりの時にしてほしい。

 なんだっていつも、次長室だの藤堂家のリビングだの宴会場だの――先に進みようもないタイミングなのよ。

「春日次長のところに、行ってこられたらどうですか」

 固まる果歩を、藤堂は優しい目で見下ろした。

「きっと次長も、それを待っておられると思いますよ」

「……は、はい」

 まるで憧れの先生に指導された生徒みたいに、果歩はふわふわと歩き出した。

 いや、なんだか本当に夢の世界に迷い込んだみたいだ。こんなこと、今まで一度だってあっただろうか。

 この謎すぎる展開は何? 一体藤堂さんに何があったの?

 

 *************************

 

「春日次長」

 隣に座った果歩がビール瓶を差し出すと、春日は肩眉だけをわずかに上げて、空になったグラスを差し出した。

 藤堂の異変に動揺したのも束の間、この役所でもっとも苦手な人とのマンツーマンの会話に、さすがに緊張が戻ってくる。

「あの、今日は……来て下さって、ありがとうございます」

「いや」

 それきり、当然のように途絶える会話。

「……えー、……雨、ひどかったですか」

「いや」

 うわぁぁ、どうしよう、全く間が持ちそうもない。

 これまでお世話になりましたって、まだ異動が正式に決まったわけでもないのに、厳粛な春日次長相手にとても言えない。

 春日は無言でビールを舐めるように飲むだけで、果歩が去るのを待っているようでもある。

 ――ま、そうだよね。こっちが一方的に感謝しても、次長はやっぱり……

 私のこと、だめな職員だと思ってるんだろうな。

「あの、次長」

 それでも果歩は、勇気を振り絞って言っていた。

「次の異動……どうなるか分かりませんし、本庁に戻ってこられるかどうかも分かりませんが」

「まだ出るとも決まっておらんぞ」

 厳しく返され、果歩は縮み上がっている。

「……そ、そうですね。でも、またいつか次長と一緒に仕事ができるよう、頑張ります」

「…………」

「今まで、ありがとうございました」

 席を立とうとすると、不意に腕を伸ばした春日が、空いたグラスを取って果歩に手渡した。

 果歩は固まったまま、初めて春日から返杯を受けていた。

「的場君」

「……は、はい」

「私は、言い訳が嫌いだ」

「……? はい」

 黙り込んだ春日が、言葉に逡巡しているのが果歩にも分かった。

「それでも君に……かつて不快な思いをさせたことを、何年も弁解せずにいたのは、申し訳なかった」

 ――え……?

「以上だ」

 まさか今、春日次長が謝った?

 ――え、え? 今のってもしかして幻聴?

 その時他の職員がビール瓶を抱えてやってきたので、果歩は慌てて席を譲った。

 なんだろう。もしかして次長は弁明したかったんだろうか、あの時のことを。

 当時はセクハラだと頭から信じ込んでいたし、昨年までその疑惑はくすぶっていたが、次長を知れば知るほど、それだけはないような気もしていた。

 多分、違った。じゃあなんなのかと言われればよく分からないけど。

 今にして思えば、腕を握られたくらいで、セクハラだと思いこんでいたことすら大げさだったような気がするし、仮にセクハラだったとして、あんな風に恐ろしく険しい目で、人の腕を鷲づかみにするものだろうか?

 ――……きっと何かあったんだろうな。次長にしてみればああするしかなかった何かが。

 でも、もういいか。

 果歩は温かな気持ちを抱いたまま、立ち上がった。

 春日次長と話せてよかった。最後に自分の気持ちを伝えられてよかった。

 次長の年齢を考えると、この先同じ職場になる可能性はほぼないけれど、それでも――それでも私、もう一度次長に叱ってもらえるよう、頑張ります。


 *************************


「水原、今日は本当にありがとな」

 末席の幹事席に、飲まされすぎて多少足がおぼつかなくなった南原がやってきたのは、宴会が始まって1時間も経った頃だった。

 その頃には、自席についているものは誰もおらず、皆、思い思いに動き回って喋っている。

「……別に、幹事として、当たり前のことをしたまでですよ」

 水原は、まだわだかまりがあるのかツンっとしている。

 藤堂と一緒に近くに座っていた果歩は口を挟もうとしたが、そっと藤堂に止められた。「悪かったな」

 水原の隣に腰を下ろした南原は、水原の髪をぐしゃっとかき回した。

「ちょっと、やめてくだいよ、酔っ払い」

「いいじゃねぇか。俺はお前が可愛いんだから」

 果歩は飲んでいたお茶を噴きそうになっていた。

 ――な、南原さん? なに、その使いどころを思いっきり間違えた甘いセリフは。

「……ごめんな」

 顔を背けたままの水原に、南原は優しい口調で続けた。

「正直言うと、多分お前の方が先に好きだったんだと思うわ。でもまぁ、そういうのって順番でもないような気がするから」

 せっかく飲み下したお茶に、果歩はむせそうになっていた。

 ――な、南原さん、お願いだから主語をきちんと言ってください。

 多分お前の方が先に好きだったんだと思うわって、多分お前の方が先に乃々子をって意味ですよね? その肝心な名詞を抜かしたら、全く別の意味になるじゃないですか!

「南原さん、……僕……」

 しかし水原の目は、みるみる水の底に沈んでいく。

「僕……、何も、失恋したから怒ってたんじゃないんです。僕……、僕は、南原さんと一番仲がいいと思ってたから」

 泣きじゃくる水原の背中を優しく撫でる南原。果歩はもう、視線をどこに定めていいのか分からない。

「係長でさえ知ってたことを、僕に話してくれてなかったことが悔しくて……、すみません、子供みたいな真似をして」

「いや、いいよ。泣くなよ、俺が泣かせてるみたいだろ」

 ひとつ分かったことは、南原が思いの外、キラーワードを連発するということだった。以前合コンで一人勝ちみたいな話を聞いた時は冗談かと思ったが、いかにも脇役キャラの顔をして、ナチュラルに女を落としていくタイプなのかもしれない。

 あの乃々子がメロメロになるわけだ。今度2人きりの時、どんな会話をするのか聞いてみようっと。

 咳払いをして姿勢を正すと、隣に座る藤堂が、笑いを帯びた目で自分を見つめているのが分かった。

「な、なんですか」

「いや、赤くなったり青くなったり、面白いなと思って」

「は、はい? 酔ってるんですか、もしかして」

「そうかもしれません」

 いやもう、だからって、そんなぶしつけに甘い目で見つめられても――右は禁断カップル、左は藤堂さんじゃ、もう目のやりどころがないじゃないですか。

「やれやれ、原原コンビがようやく仲直りか」

「なんだか恋人同士の痴話げんかみたいでしたね」

 そこに、ビール瓶を持った大河内と中津川がやってくる。

「さ、的場君も、藤堂君も」

 それぞれグラスを手渡され、大河内がまず注いでくれた。泣き止んだ水原と南原も、その輪の中に自然に加わる。

「そういや補佐、せっかく係長と海釣りに行く日にすみません」

 中津川にビールを注ぎながら、南原が言った。

「まぁ、その日が結婚式なら致し方あるまい。しかし親族だけで式を挙げるのに、我々が顔を出してもいいのかね」

「あの、無理にとは……。チャペルに来てもらうだけですし、だいたい週明けが4月1日だから、みなさん、お忙しいですよね」

 おそらく内心では絶対に来て欲しくないのだろう。南原の顔は引きつっている。

「いやぁ、絶対に行きますよ! 最近じゃ、結婚式を挙げるカップルの方が珍しいですからね」

 と悪気なくとどめを刺す大河内。

「あ、でも来週の土曜っていったら、市長選の告示日じゃないですか」

 口を挟んだのは、対面に座っていた谷本主幹だった。

 市長選――条件反射で、果歩はドキっとして視線を伏せている。

「なんか噂じゃ、今回、強力な対抗馬が立つんでしょ? うちは長らく長期政権が続いてましたけど、それもいよいよ終わりなんですかね」

「だろうな。人事異動が市長選後ってことは、人事もある意味、市長の交代を見越しているってことだろうし」

「でも、強力な対抗馬って誰なんですか。そんなタマ、うちの市にいたっけなぁ」

「……あ、それ、こないだちらっと耳にしたんですけどね」

「的場君、何をしとる、こっちにも顔を見せんかね」

 その時、少し離れた席から那賀局長の呼ぶ声がした。

「行かれたらどうですか」

 続く藤堂の声で、居心地悪く座っていた果歩は、ほっとして顔を上げた。

 あー、よかった。正直言えばこの席で、真鍋のまの字も聞きたくない。

「でも、今夜はあまり飲まないように」

 立ち上がろうとした時、藤堂が再び口を開く。たちまち南原がからかうような目で藤堂を見た。

「今夜の係長、まるで的場さんの恋人みたいですね」

 果歩は条件反射で咳き込んだが、藤堂は平然と微笑して南原に視線を向ける。

「ええ、今夜くらいはそう思っていようかと思いまして」

 しーん……。

 果歩は唖然として、信じられないセリフを平然と言い放った藤堂を見た。

「……か、係長、酔ってますね。完全に」

「そうでもないですよ」

 藤堂が穏やかに答えた途端、中津川が喉に痰がひっかかったような咳払いをして、大河内が「ほうほうほう」と妙な相づちをうってくれる。

 果歩は顔を熱くしながら、そそくさと席を立った。

 ――と、藤堂さんったら、何を言ってくれるんだろう。幸い今の会話は、このグループにしか聞こえなかったようだけど。

 てゆっか、今夜の藤堂さんは間違いなく酔っている。さっきから随分飲んでるみたいだし、一体どうしちゃったんだろう。こういった席では、だいたいいつもお酒は控え目にして、むしろ執務室以上に真面目に振る舞う人なのに。

 果歩は中身の入ったビール瓶を持つと、那賀局長を始め、周囲に座る人たち一人一人に注いで回った。

「おお、的場さん、どこにいたのかと思ったら」

「今夜はずっと藤堂君が独り占めか。まさか、次は君たちの番とかいうんじゃないだろうな」

「いえ、本当にそれは……。係長が酔っていらして、話し相手をしていただけですから」

「まぁいいじゃないか。いまさらいわずもがなだよ、2人のことは。はっはっはっ」

 果歩の必死の抗弁も、那賀局長の大笑いでかき消される。

「で、結婚はいつなのかい? 仲人はわしかね、それとも春日君かね」

「い、……いえ、本当に、そういうのはまだ」

 そうかねそうかねと言いながら、那賀は楽しそうに日本酒を口に運んでいる。こっちも輪をかけた酔っ払いだ。まともな会話ができそうもない。

「待場君、以前君に言ったことを覚えているかね」

「……え?」

「過ぎてしまえば、二度と戻らないというだけのことだ。何が起きても、それだけの意味でしかない」

 酔っているとばかり思っていた那賀の口調が真面目だったので、果歩は思わず酌をする手を止めている。

「だからどーんと構えていなさい。もう昔とは違うんだ。君も……、も、昔とは、何もかも違うんだからね」

 ろれつが回っていないせいか、聞き取れないところもあったが、果歩は黙って頷いた。

「……ありがとうございます。私ならどこにいっても、もう大丈夫だと思います」

 この8年、親代わりのようにずっと見守ってくれた人だった。

 この人がいてくれなかったら、あの日からの8年は、もっと惨めなものになっていただろう。

 局長級ともなると、退職後は外郭団体への再就職がほぼ決まっている。が、那賀はその全てを断り、定年後は田舎で農業をするらしい。

 それもまた、那賀らしい身の処し方だ。

「最後の日には、私にミルクを入れさせてくださいね」

「はっはっはっ、そりゃ嬉しい。定年冥利に尽きるねぇ、はっはっはっ」

 

 *************************


 一通り挨拶を終えて席に戻ると、その場は南原と藤堂を中心に、市内のプロサッカーチームの話題で盛り上がっていた。南原が楽しそうに話し、藤堂も、時々声をあげて笑っている。

 なんだかそれが、すごく不思議で幸せな光景のような気がした。

 大河内が空いたグラスを果歩に渡してくれて、中津川がビールを注いでくれる。

「的場君も、今度一緒に釣りに来るといい。ああ、そうか、君は釣りは駄目だったな」

 だめなのは、釣りというより船ですけど。

「ありがとうございます。せっかくの補佐のお誘いですので、いずれ行けるように努力します」

「ま、どうせ係長と一緒にいたいのが動機だろ」

「駄目ですよ、南原さん。みんなが知ってて黙ってることを」

 ――最低コンビも復活か……。 

 楽しいな。こんなに楽しいとこだったっけ。うちの職場。

 去年の4月はもう最悪で、毎日胃が痛くて、精神的にもギリギリで……。

 そこに、藤堂さんがやってきた。

 果歩は少し離れて座る藤堂をそっと見上げ、胸の指輪に手を当てた。

 少し野暮ったくて、不器用そうで、でも優しい男の人。

 彼と本当の恋人になる4月まで、あとほんの1週間と少し。

 そうだ、今日の帰りに聞いてみよう。乃々子と南原さんが結婚する3月最後の土曜。その日にちょっとだけ時間をつくって、指輪を直しに行きませんかって。

 いつもみたいに動揺するだろうか、それとも喜んでくれるだろうか。

 私の可愛い藤堂さん。

 私の、初めての年下の上司。


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