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年下の上司  作者: 石田累
14/202

story3 June「雨が降っても地固まらず」(2)

「的場さん、庁内メールきてっけど」

 南原の、どこか嫌味な声がした。

「早くしろよ。重要な文書が届いてたらどうすんだよ」

「すみません」

 むかーっとしながら、それでも笑顔で立ち上がる。

 ずっしり重い郵便袋を引き寄せながら、果歩ははぁっとため息をついた。

 今日も、妙見は休みだった。

(すみません、まだ子供の風邪が治りきらなくて)

 電話を受けたのはよりにもよって南原で、果歩は朝から、同僚の嫌味を聞かされるはめになる。

 その南原は、今日は暇なのか、のんびりコーヒーをすすっている。彼の仕事である全国政令指定都市会議は再来月に迫っているが、ようやくその準備もひと段落したのだろう。

 今、とにかく忙しいのは、議会対応をしている藤堂と、予算担当の大河内主査。2人は最近、ずっと席空き状態が続いている。

 藤堂は、庶務係長という立場上、予算についても目を通さねばならないから、その忙しさは半端ではないのだろう。

「ミルクはまだかね」

 ひょい、と局長室から顔をのぞかせた局長――この都市計画局のトップ、那賀康弘がにこやかに声をかけてくる。

「はい、ただいま」

 やはり笑顔で返しながら、果歩は半分泣きたい気持ちで給湯室に向かった。

 この場合、誰にどう思われようが、ミルクの温めが果歩の最優先事項となる。それは、もう自分の仕事として決めたことだ。

「またミルクですか」

「どこの課も、メールが早く届くの待ってるってのに」

 そんな皮肉が、給湯室に入る直前の果歩の耳に飛び込んできた。

 1人は南原で、もう1人は計画係の男性職員。今年新規採用で総務計画係に配属になった――水原真琴(みずはらまこと)

 年もそうだが、背さえ果歩よりいくらか低い。いつも覇気がなく、愛想笑いだけは妙に上手い、典型的に長いものに巻かれるタイプである。

「だったら、あんたらがしろっつーの」

 そのセリフは頭の中だけで呟き、果歩は手早くミルクの温め作業に入る。

「あのー、メール、まだですか」

 どこか間が抜けた声が、出入り口の辺りから聞こえた。

 果歩が顔をあげると、都市デザイン室のバイト職員が立っている。間違いなく配偶者探しのためだけにここにきている、綺麗系の若い女の子。

「ごめん。もしよかったら、仕分けをお願いしてもいいかしら」

 ダメ元で果歩がそう言うと、

「……あー、それは、うちの課長さん通してもらわないと」

 と、判をついたような返事が返ってきた。

 これはもう、絶対に、総務以外の課で口裏をあわせているのだろう。もしくは、流奈がアルバイトを煽動しているのかもしれない。

 果歩に都市計画史編纂の仕事が舞い込んでから、果歩が何を頼んでも、他課のバイト職員は口を揃えてこう言うのである。

「うちの課長さんを、通してください」

 と。

 無論、こんなことを言わせる以上、その課長に頼んでもダメなことは目に見えている。

 そもそも他課の課長にそんな頼みごとが出来るのは、課長級以上――。

 つまり、志摩課長か春日次長、立場で言えばあとは那賀局長に限られている。

 果歩や、あるいは藤堂の立場では、絶対に頼めないのである。

 ――やっぱ……私が、間違ってたのかなぁ……。

 局長にミルクを出し終わった後、果歩は心もとない気持ちで、空席のままの藤堂の席を見た。

 後で考えて――というか、その時も分かっていたのだが、藤堂は、果歩の立場や仕事の量を見て、あんなことを言ってくれたに違いないのだ。

 それなのに、へんに感情的になってしまって。

 ――なんにしても、謝らなきゃ。

 どう考えても大人げのない態度をとった。

 昨夜の自分を思い出すと、恥ずかしくて顔から火が出そうになる。

 ――もしかしなくても、欲求不満も……あったのかも。

「…………」

 メールの仕分けを大急ぎで終え、サニタリーで手を洗いながら、果歩は疲れのたまった自分の顔を見た。

 あの夜から、――最後のキスを交わした夜から。

 藤堂は一度も、自分の心を見せてくれない。

 あの夜、確かに彼の気持ちを痛いほど感じたのに、そんなことは、もう忘れてしまったかのような態度を取られ続けている。

 ――あのキスって……なんだったんだろう。

 心を溶かされ、奪われるようなキスだったのに。

 彼は、私の精神状態が普通ではなかったと言ったけれど、本当に普通でなかったのは、もしかして、藤堂さん……?

 だとしたら、あれは、一時の気の迷いか単なる衝動だったのだろうか。

 ふっと息を吐いて、廊下に出ようとした時だった。

「昨日はごちそうさまでしたっ」

 流奈の声。

 果歩は足を止めてしまっていた。

 まさかと思った。この甘えきったロリっぽい声を、流奈が出す相手は一人しかいない。

「いや、それは別に」

 藤堂の――声?

「もうっ、藤堂さんったら、そんな顔しなくても大丈夫ですよ」

 果歩は、心臓が嫌な風に高鳴るのを感じていた。そんな、まさか。

「昨日のことは、2人だけの秘密って約束でしたもんねっ」

「はぁ」

 そのまま、二つの足音が遠ざかる。

 果歩は、身体ごと床に串刺しにされたように動けないままだった。

 なにこれ。

 どういうこと?

 どういうことなのよ――。



************************



「いや、そりゃ、あんたが悪いわよ、果歩」

 雨の匂いを含んだ6月の空。

 煙草をふかす友人の目は、どこか楽しそうだった。

「いや……それは、まぁ」

 そうなんだけど。

 風向き加減で流れてくる白煙に辟易しつつ、果歩は言葉を濁していた。

「つか、何じれったいことやってんのよ」

 同期。役所に入って間もなくして親友になった宮沢りょうは、ぴしっと果歩の額を指で弾いた。

「とっととやることやっちゃいなさいよ。初心な高校生じゃないんだから」

「なっ、なんてこというのよ」

 片手の紙パックのジュースを持っていた果歩は、あやうくそれを握りつぶすところだった。

「職場に、中途半端な恋愛持ちこんでるから、ぎくしゃくすんのよ。一回寝ちゃって、お互い落ち着いたら楽になると思うけどな」

「あのねぇ」

 果歩は言いよどんで、友人の横顔を睨んだ。

「そんなんじゃないのよ」

「あれ? だったら、八方美人でいい子の果歩が、なんだって彼の前だと素になるのよ」

 同期では、一番の出世頭と言われているりょうは、嫌になるほど頭の回転が速い。今も、特段、恋愛絡みの話をしたわけではないのに、即座に本質に切り込んでくるのがすごいところだ。

「……まぁ、いろいろ、あるにはあるんだけど」

「キス……」

「えっ」

 果歩はぎょっとして、整いすぎた友人の顔を見た。はっきり言えばかなりの美形、が、すっぴんで眼鏡、ひっつめ髪のりょうは、今日も完全に女を捨てている。

「くらいはしたって目してるわね」

 沈黙のあと、りょうはそう言って、唇に煙草を挟んだ。

「し、してないし」

「へぇ」

「してないわよ、マジで」

「へぇ」

 楽しそうなりょうの横顔は、全てを見抜いているようだった。

「てゆっか、藤堂さんは」

 言い訳しようとして、果歩はそこで、先ほど耳にした、胸が軋むほど嫌な会話を思い返していた。

 昨夜。

 遅くに戻ってきた藤堂は、明らかに夜の匂いを、その衣服に染み付かせていた。

 あの時、流奈と食事でもした帰りだったのだろうか。それとも、その後。

 悲しいというより、今は、怒りの方が勝っている。

「……好きになるような人じゃないもん、なんていうか」

 そう。

「子供よ!」

 ぐしゃっと手元の紙パックが潰れていた。

「きゃーっ」

「バカ、何やってんのよ」

 あきれた顔のりょうが、即座にティッシュを取り出してくれる。

「でも今回は」

 果歩のスカートに零れたリンゴジュースを拭いながら、りょうが言った。

「子供なのは果歩の方だと思うな、私」

「なんで」

「ほら、すぐムキになる」

 くすっと笑って立ち上がると、りょうは、金網に背を預けた。

「アルバイトのことは確かに難しい問題。待遇改善は組合からも出てるし、うちでも時々議論になるけど」

 日給にして6千円程度。交通費は出ない。むろん福利厚生も保障されない。

 拘束される時間は職員と同じ。職場によっては、職員と同等の仕事を強いられることもある。

 なのに―― 1ヶ月フルで働いても、家族どころか自分1人の生計さえ立てられないほど、その月給は安いのである。

「役所のバイトって、何故か女子ばっかじゃない? 男子のバイトはまずこないし、来られても困るのがホンネの話」

 りょうは、今にも振り出しそうな空を見上げながら続けた。

「だって、しょせんは使い捨て、福利厚生まで面倒みる気はないからね。マジで生活かかってる子を雇うわけにはいかないの。ぶっちゃけ、組合でも作られたらやっかいじゃない」

「…………」

(市役所の臨時職員が、きちんとした職業でしょうか)

(……職員と臨時職員は、同じ立場で働いていると思いますか)

 昨夜の藤堂の言葉が、何故かふいに蘇った。

「それなりの仕事をやらせろってこと?」

「そうもいかないのが、辛いトコよね」

 りょうは、はぁっと、白い煙を吐き出した。

「ようは、人減らしの穴埋めが臨時なのよ。つまり、職員が足りない部署の補充が臨時。職場によっては、かなりハードな仕事させるとこもあるからね」

「給料を上げるとか、嘱託として正式に雇用するとか」

 りょうは、即座に首を横に振った。

 ありえない、と、その目が冷ややかに言っている。

「ベースアップを含め、待遇改善は絶対に無理。職員の給料でさえ減らされようっていう昨今で、今以上の条件で雇えるわけないじゃない」

「……………」

「根本は、職員の絶対数が足りないってこと。それから、市の財政がかなりやばいことになってるってこと」

 その目に、初めて難しげな色が浮かんだ。

「人事にいると、色んな情報が入ってくるからね。役所の収支を、会社の経営を図るバランスシートにあてはめたら、実はとっくに破綻してるのよ。灰谷市は」

「えっ」

「借入金で持ってるの。その意味判る? 民間と違って返済期間に猶予があるから持ってるだけ。うちの市を健全経営に戻すには、かなりの大手術が必要なのよ」

「………………」

 考えてもみなかった展開に、果歩は、暗く滲んだ自分の影を見つめた。

 たまに新聞やニュースで、地方自治体破綻の話を聞くが、それは、うちの市には無関係だと思っていたのに――。

「臨時の使い方や配置を含め、色んな意味で考え直した方がいい時期にきてることは確かだわね。ただの雑用臨時なら、思い切って切る勇気も必要よ、これからは」

りょうの言葉の重みを、果歩は黙って噛み締めていた。



************************* 

 

  

「このへんかな」

 ノートにメモした住所を片手に、果歩は足を止めていた。

 ここは、10年前に再開発事業が終わったばかりの地区だった。

 表通りを奥入った裏通り。きちんと区画整理されていて、どの家もまだ新しい。

 その地区にある「再開発事務所」に、果歩はあいさつに赴いた帰りだった。

 市の出張所でもあるその事務所の、所長――階級で言えば、部長級になるのだが、再開発事業に20年近く携わっているその所長に、都市計画編纂史の記事を依頼する予定だからである。

 本庁舎からバスに乗って15分足らずの場所だった。

 そしてこの地区に、妙見静子の自宅がある。

 ――とにかく、自分で一度、事情を聞いてみよう。

 それから、藤堂さんに。

「……………」

 そりゃ、私が大人げなかった。

 果歩は、半分むっとしつつ、大股で人気のない真昼の住宅街を歩き続けた。

 でも、藤堂さんだって――

 なんていうか、ひどい。

 あんな真似までしといて、他の女の子と食事に行くなんて。

 てゆうか、もしかして、あの人は。

 ――誰にも、あんな真似でできる人……なのかもしれない。

 果歩は自然に眉を寄せていた。

 キスも、そういえば、かなり慣れていて余裕だった。

 あんな生真面目そうな顔して、実はかなり――。

「あれ?」

 いつの間にか、住宅街を抜けている。

 表に面した通りの裏。飲食店やパチンコ屋の裏口が、果歩の前に延々と続いている。

「おっかしいな」

 もう一度メモを見ようとした時だった。

 パチンコ屋の裏口から、髪をかきあげながら出てくる女が視界をよぎった。すっぴんにジャージ、ぼさぼさの髪。けだるそうな目で、アスファルトに唾を吐いている。

 最初、それは見知らぬ、年老いた女に見えた。

 視線があって、それをいったんは逸らした果歩は、少し考えてから顔を上げた。

「………あ」

 同じように果歩を見ていた女は、さっと顔色を変えて口元に手をあてる。

 その手に抱えられた紙袋から、ぬいぐるみの人形がのぞいていた。

「みょ、」

 果歩は言葉を失っていた。というより、愕然としていた。

 今日、子供の具合が悪いといって休んでいるバイト職員が、まさかパチンコ屋から出てくるなんて――。

 

 

 *************************

             

  

「……病気なんです、もう」

 喫茶店。

 果歩の前でうなだれた妙見瑞江は、見かけは別人だが、中身はやはり、どこか気弱で頼りなかった。

「……自分でも分かってるんです。依存症だって……わかってるんですけど、勝った感覚が忘れられなくて」

「それで……仕事を」

 果歩は、眩暈がするような気持ちで呟いた。

 こくん、と瑞江は力なく頷く。

「子供さんが病気っていうのも、嘘なんですか」

「子供は……、実家で面倒みてもらってるんで」

 瑞江は、悪びれもせずにぼそぼそと言った。

 嘘。

 ああ――信じられない。

 果歩は、ほとんど味のしないコーヒーを一口飲む。

「私なんかに子育ては無理だって。まぁ、当たり前なんですけど、時間あったらパチンコ行ってるし、給料安くて子供の養育費も払えないし」

「最初の話も嘘だったんですか」

 感情をかろうじて堪えて、果歩は続けた。

 1年前の面接の時、

「子供の親権を持ち続けるためにも、ちゃんとした仕事につきたい」と言った言葉は。

「嘘じゃないです」

 うつむいた女の痩せ枯れた目に、涙が浮かんでぽつっと零れた。

「家にいるとパチンコ行っちゃうんで、どうしても行っちゃうんで、朝から夜まで拘束されてる仕事がよかったんです。役所だと近所のイメージもいいし、別れたダンナから仕送りももらってたし」

「……………」

「私なんて、ずっと専業主婦で………ほかに……仕事なんて、できないですし」

「……………」

 果歩は黙って、こみあげる感情と戦っていた。

 騙されていた。

 ずっと、守って庇い続けてきた。

 みんなに皮肉られ、陰口を言われ続けても、ずっと。

 それは――最初の面接時からずっと感じつづけていたこの女への同情であり、そして仕事をしていく上で培われた共同意識からだった。

 色んな局面で助けてもらった。同じ課でたった1人の同性。愚痴も、唯一気楽に零せた相手だった。それが仕事とはいえ――その刹那刹那で信頼が生まれ、友情めいた感情も生まれていたから。

 だから。

「びっくりしました……的場さんが、まさかこんな場所にいるとは思わなかったから」

 覚悟を決めたのか、ようやく顔をあげた女は、わずかに表情を緩めてそう言った。

「やっぱり係長さんから聞いたんですか、私のこと」

「……係長?」

 藤堂さん?

 果歩が眉をひそめると、再び瑞江は気まずそうにうつむいた。

「先日……お会いしたんです、やっぱり偶然」

 ストローの紙くずを所在無くいじる。

「ここでですか」

「いえ、ここじゃなくて、……市役所の傍に、新しい店が出来てて」

「…………」

「何もおっしゃいませんでしたけど、ああ、これでクビだなって、だから怖くて、休んでたんですけど」

 黙って唇を噛んだ果歩には、それでようやく、全てが分かったような気がしていた。

「………妙見さん」

 しばらくの沈黙の後、果歩は意を決して顔をあげた。

 何を信じればいいんだろう。迷っていたのはそれだったが、やはり――

「やり直すチャンスは、誰にだってあると思います」

「…………」

「嘘をついて休まれてたことは、ショックでした。でも、私、妙見さんの仕事の仕方は信頼してるし、今までのことは感謝してます」

 瑞江は、眉を寄せたままうつむいた。

 何かの感情と戦っているような表情だった。

「……私が言いたいのはそれだけです。あとは、妙見さんの気持ち次第だと思ってます。……待ってますから、私」

 信じるのは。

 今まで私が、直接感じてきた気持ち。

 そこまで失ってしまったら、これから、何も、誰も信じられなくなる気がする。

 瑞江はただうなだれていた。

 果歩は静かに一礼し、レシートを持って立ち上がった。

 ふいに雨音が、ぽつぽつと聞こえてきた。

※かなり昔に書いた小説です。今の時代といろいろ合ってないですが、当時のままで掲載しています。

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