story2 May「人はそれを嫉妬と呼ぶ」(4)
「まだ、残るのかね、的場君」
「あ、はい」
そんな声を最後に聞いたのが、もう30分も前のことだった。
局の役付き会で、殆んどの管理職が早々に帰ったせいか、この日、残業している職員は数えるほどしかいない。
おそらく、春日次長がやったのだろう。赤ペンで修正まみれの起案文。
それをようやくパソコンで打ちなおした果歩は、レイアウト画面で最終的な調整をして、息を吐いた。
明日やる予定だった自分の仕事をとにかく終わらせ、次に取り掛かった南原の仕事――これが終われば、ようやくダンボールの中味に手をつけることができる。
が、もう時計は8時を大きく回っている。今からコピーして、封筒用の宛名シールを印刷して……。
封入して糊付けし、切手代わりの印を押していたら、10時近くになるだろう。
――疲れた……。
果歩は重たいため息を吐いた。
ヒールを履いた足が、本当に棒のようだった。
目が痛い、コンタクトがごろごろして、眼の際に涙が滲む。
プリンターの電源を入れて、ぼんやりと紙をセットした時だった。
「的場さん」
はっとして、振り返っていた。
いぶかしげな表情で、執務室の出入り口に立っているのは、藤堂だった。
黒のスーツ、鞄を片手に抱えている。
「……あ、……役付き会……だったんじゃ」
化粧を夕方から直していない。多分、ひどい顔になっている、果歩は藤堂から目をそらしながら、パソコンの印刷をクリックした。
「……ええ、用事ができまして、早めに抜けさせてもらったんです」
藤堂は、微笑してそう言ったが、やはり、どこか不思議そうな目をしたままだった。
ようやく果歩は気がついた。藤堂の目は、果歩の机の上、そこにうずたかく積まれた封筒とラベルに向けられている。
――あ、南原さんの仕事……。
多分、藤堂は気づいたのだろう。
パソコンデスクに座る果歩とは反対側――果歩の執務机の方に歩み寄り、その机の上から、封書を1枚持ち上げている。
「あ、あの……それくらい、私一人でできますから」
藤堂の横顔は影になって見えなかったが、また彼は、4月のコピーの時のように、黙って手伝ってくれるような気がした。
むろん、一人でするつもりではあったが、正直、ここで助けてもらえれば、ありがたいと思ってしまったのも事実である。
「そうですか」
が、藤堂の横顔からかえって来た返事はそれだけだった。
「すみません。僕は用事がありますので、これで」
そして、いったん自席に戻り、机を開けて何かを取り出した藤堂は、それだけ言って、素っ気無く目礼すると、きびすを返した。
「……失礼します、お疲れ様でした」
平静を装ってそう答えながら、果歩は、胸にぽっかり穴が空いたような失望を感じていた。
――なに、今の……。
あなたを故意に避けていた、と言った先日の飲みの時とは比べ物にならないほど、冷たい態度。
藤堂は一度も振り返らずに執務室を出て、やがて暗い廊下に、その足音さえも吸い込まれていった。
――私……よく、分からない……。
果歩は苦い思いを噛み締めつつ、印刷をはじめたプリンターの音を聞いていた。
――何を考えてるんだろ……藤堂さん……。
*************************
寝不足のまま、翌朝、果歩は出勤した。
起きぬけ、予定より3日早い生理になったことに気がついた。胃も痛く体調は最悪だった。
が、ようやくダンボールを開いてファイルを取り出した時、
「的場君、悪いが会議室にコーヒー15、セッティングして」
「的場さん、悪いね、ちょっとコピー機が動かなくなってねぇ」
「的場さぁん、悪いんですけど、消耗品がどこにあるかわかんなくて」
と、次々来客が押し寄せる。
挙句、
「的場君、ミルクはまだかな」
と、那賀局長の甘えた声。
「……はい、すぐに」
と、立ち上がりつつ、正直、笑顔が強張っているのを自覚していた。
的場さんの仕事は僕が出来るだけ手伝います、と言った藤堂は、朝からずっと空席だし、南原は、「おい、まだかよ、午前のメールに間に合わないだろ」
と、当然のように嫌味と催促を繰り返す。
苛々しながら、冷蔵庫から牛乳の紙パックを取り出して、湯沸かし器の熱湯で湯煎した。
まだ十分に温まってないのは分かっていたが、いいや、とそのまま取り出して、局長のカップに注いでいた。
「お待たせしました」
正直、歩くのも辛かった。朝から続く生理痛は、一日目からマックスかと思うほどひどくなっている。
「うん」
ソファで新聞を読んでいた那賀は、上機嫌でカップをつかむ。そして唇をあて、おや、という目色になった。
多分――ぬるいのだ、それもひどく。
それは分かっていたが、「失礼します」と、果歩は気付かないふりで局長室を出た。
疲労と腹痛で、もう、どうでもいい気持ちになりかけていた。
ようやく席につき、ファイルを開く。
――と、電話。
「会計課です。計算ミスのある支出命令書を取りに来てください」
冷たい声がした。
市の予算を歳出するには、すべからく会計課の決裁がいる。歳出の起案文書は細かなルールが色々定められており、それが少しでも誤まっていれば、会計課から突き返される。
「……すぐに、行きます」
果歩はうつろな気持ちで答えた。
こういったことは、普段ならアルバイトがしてくれる。が、ずっと総務で雇用しているバイト職員の妙見瑞江は、ある事情から週に2日は休みを取っているのである。
そんな日は、バイトがしている雑用全てが、果歩の仕事だ。お茶汲み、コピー取り、新聞の切り抜き……全てが、である。
立ち上がった途端、貧血のような立ちくらみがした。
「的場君」
優しい声がしたのは、その時だった。
「ミルク、ありがとう。ついでだから、カップは給湯室に返しておくよ」
「…………」
那賀だった。
果歩は、その刹那、気分の悪さも忘れて立ち尽くしていた。
カップを給湯室に置いた那賀が、そのまま、何事もなかったようにすたすたと局長室に戻っていく。
「なにが、ミルクだ。いい気なもんだよ、役職だけの暇なおえらいさんは」
と、南原が皮肉に満ちた声で呟く。
果歩はかっとして、思わず南原をにらみつけていた。
「……なんだよ」
「…………いえ」
睨みながら、自己嫌悪で泣き出してしまいそうだった。
自分に、南原を責める資格はない。那賀の優しさが、今はいっそう惨めな気持ちをかきたてる。
「……会計、行ってきます」
果歩は力なくそう言い、上着を掴んで、歩き出した。
*************************
局分の修正書類をまとめて渡されたから、会計課の帰り、果歩は籠いっぱいの文書を抱えて帰る羽目になった。
――痛……。
下腹部が痛い。内側で、なにかが暴れているようでもある。
会計課のある1階のエレベーターは、来客でこみあっており、結局2回、やりすごさざるを得なかった。
立っているだけで辛いのに――手には、相当重みのある大荷物を抱えているのだから、たまらない。
地下から上がってきたエレベーターが、ようやく止まる。
1階でのエレベーター待ちは、もう果歩だけだった。ほっとして開いたそれに乗り込む。
「……あ……」
そして、はっと目を逸らしていた。
乗っていたのは、藤堂と春日次長である。
――ああ、そっか……藤堂さん、次長の運転手で外に……。
庁舎の地下には業務用の駐車スペースしかない。
局次長のスケジュールを失念していた果歩は、情けないような気持ちで2人に向かって会釈した。
じろっと、春日がねめつけるような眼差しをぶつけてくる。
果歩は居心地の悪さを感じつつ、エレベーターの、ぎりぎり端に身体を寄せた。
「13階ですか」
藤堂が、都市計画局のある階を言う。はい、と、ただ、果歩は答える。
エレベーターが急上昇して、その刹那、くらっと目の前が暗くなるような感覚がした。
――あ……。
気がつくと、手に持っていた籠が落ちて、足元に書類が散らばっている。
「なんだ、どうした」
春日の声。
「ああ、いいですよ、僕が」
藤堂の声。
「……すみま、せん」
なにやってんだろ、私……謝らなきゃ、もっと、しゃんとして……自分で……。
視界がゆらゆらと揺れている。
「これは、他課の支出命令書のようだが」
とことん冷たい春日の声。
「なんだって、局総の君が、こんな子供の使いのような真似をしてるのかね、的場君、いいか、君は」
――すみません……。
――もうしわけ、ありません……。
気がつくと、暖かな腕に抱かれているような気がした。
「すみません、次長」
藤堂の声が、驚くほど近くでした。
「彼女、気分が悪いようです。このまま、医務室につれていってよろしいでしょうか」
いいんです。
離して。
構わないで。
それは言葉には出来なくて、そのまま果歩は、大きな腕の中で意識を失っていた。
*************************
「……病院へは……」
「月経痛だと思いますよ。生理、あと軽い貧血でしょう」
その声で、果歩はようやく意識を取り戻した。
――誰の声……?
「じゃ、時間なんで、あとは適当にお願いします」
「はい」
ぎょっとしていた。
はい、と答えたそれは明らかに藤堂の声である。
最初に、抑揚のない声で喋っていたのは、市役所の非常勤勤務医のものだろう。
――な、なんだって、生理のことまで。
ようやく、今置かれた状況が理解できた。
ここは、医務室に隣接した医療用のベッドが置いてあるスペースである。
倒れたのはエレベーターの中だ。つまり、意識を失っている間に、誰かがここまで運んでくれたことになる。
その、誰かとは――。
薄いカーテン越しに、大きな影が近づいてくるのが分かる。
果歩は慌てて布団をひっぱりあげ、近づく影に背を向けた。
――サイテー……。
もう、本当に最低だ。穴があったら入りたいというのはこのことだ。
わずかに、カーテンの開かれる音がする。
「……的場さん」
「は、はい」
しまった――。
と、思ったが、それでも馬鹿正直に返事をしてしまったから、後の祭りである。
「……年休の届を出しました。午後から、3時間」
「……はい……」
消え入りそうな声で答えながら、今、何時だろう、とふと思っていた。
時計を確認したくても、妙な格好のまま固まっているから、それができない。
けっこう――熟睡していたような気がする。信じられないことだけど。
ぎっと、椅子を引く音がした。
藤堂の気配が、すぐ傍にあるのが判る。
椅子の軋む音。
そのまましばらく沈黙があって、果歩はただ息をつめたまま、この気まずい、でも――妙な昂揚感を感じる時間をやりすごしていた。
「……無理だと思いますか」
頭上から響く声は、優しかった。
「僕は、的場さんのような仕事のやり方は好きですよ。みんなを暖かな気持ちにさせてくれる。それがあなたの魅力だと思います」
ドキっとするような言葉なのに、不思議に静かな気持ちで聞けるのは、藤堂の口調が事務的だからかもしれない。
「でも、あなたも、あなた自身の仕事をしてはどうかと思います」
「……秘書は、……今してることは、私の仕事ではないですか」
つい、反論が口を衝いていた。
「いえ、そうは言いません」
藤堂の声が、少しだけ戸惑っている。
「……僕が言うのは……後に残る仕事、という意味です」
「私の仕事は、残らないものばかりですか」
ああ――。
と、思う。
何を子どものようなことを言ってるんだろう、私ったら!
「残りますよ」
が、それに帰ってくる言葉は早かった。
「心に残ります。それは、素晴らしいことだと思う」
「…………」
「……あなたは、もうそれを知っている。だから、別の仕事をしてみてはどうかと思いました」
――別の……仕事。
「ひとつの仕事をやり遂げようとする時」
「…………」
「人間関係は、決して円滑にはすすまないものです。ぶつかりあい、議論しあい、でも、そこからしか見えてこないものもある」
こんなに……長く藤堂と話すのは、初めてだと思っていた。
優しい声だった。こうして背を向けて、彼の声だけ聞いていると、何歳も年上の大人に話し掛けられているような気がする。
「あなたは、今まで、その外で潤滑油のような役割をされてきた。でも、一度中に入って、もまれてみるのも経験だと思います」
不思議なほど素直な気持ちで、ああ、そうか……、と果歩は思っていた。
自分は、心のどこかでつまらない仕事ばかりしていると――そう思ってはいなかったろうか。
誰かの補佐か、雑用ばかり。
が、それは、無意識に、楽な方に自分から逃げていたのかもしれない。
「……それは」
分かるのに、藤堂の言葉が、今は心から理解できるのに。
それでも、最後のぎりぎりのところで、果歩は素直になりきれないでいた。
どうしても拘ってしまう。そんな分かったようなことを言う藤堂が、まだ、26の若さだということに。そして――。
「……そんな風に、特別に扱われるのは、困ります。……私」
「…………」
「わ、私が……藤堂さんに、頼んだわけじゃないのに」
「係の人に、妙な詮索をされていますからね」
それには、藤堂の声も、少しだけトーンが下がった。
「ただ、僕は的場さんを特別扱いしているわけではありません。他の誰があなたのポジションにいたとしても、僕はそうしていたでしょう」
「…………」
それは、そうだろう。
馬鹿なことを言ってしまった自分を、果歩はひそかに悔やんでいた。
それはそうだ。最初から分かっている。
なのに、聞いてしまった。
多分、あのキスの理由を、こんな口実で探ろうとしている浅ましい自分がいる。
藤堂さんは――今は係長として、真面目な話をしているのに。
26歳の男の前で、30歳の自分が、わがままで聞き分けのない女から抜け出せないままでいる。
「……もう、いいです」
果歩は布団をにぎりしめ、口調を抑えてそう言った。
「わかりました、……仕事はできるだけやりますから」
だから今は、できれば一人にして欲しい。
この刹那、果歩ははっきりと自覚していた。
私、好きなんだ。
私……この人のこと、好きになってしまったんだ。
「……僕は平気ですが、あなたの迷惑になってもいけない」
「…………」
嘆息まじりの声がして、再び、椅子がぎっと軋んだ。藤堂が立ち上がったのだと、すぐに判る。
「これからは、2人だけでいるのは、極力避けるようにした方がいいかもしれないですね」
果歩には何も言えなかった。
仕事とは別の所で、今、自分はひどく傷ついている――それも、自分の年齢や立場を考えたら、決して傷ついてはいけないところで。
「じゃ、しばらくここで休んでいてください」
声が、少しだけ遠ざかる。
「荷物は、アルバイトさんに持ってきてもらいます。今日はもう、お帰りになって結構ですよ」
果歩は背を向けたまま、最後まで振り返ることが出来なかった。
遠ざかる足音だけを、不思議なほど意識を研ぎ澄ませたまま、聞いていた。