夏を知る序章
わたしは劣っていた。蔑んだ目にも慣れたし、言いたいことだってちゃんと分かる。対象が家庭内の誰かでなくて本当に良かった。
自分には絵があったし、何もない人から見たら妬みの対象であることも、とっくに知っている。絵だけが救いだったから、縋って縋って頑張って、運が良かったことに評価された。その瞬間だけ、わたしの価値が上がったと思った。労いの言葉はなかった。
もう何をやっても駄目だと、その瞬間に悟った。遅すぎた。もっと早くに気付けば良かった。でも、気付いていたら、こんなに頑張って絵を描かなかっただろう。自分で自分の存在意義を認められただけ、全然マシだ。何もない人はきっと、自分を認められないんだ。
でも思うのだ。何もせずにただただ比べられる人も辛いけれど、良い結果が出ても比べられ続ける人だって辛いんだ。比べられる対象が家庭外だとしても、彼らは自分の大好きな人なんだ。何かした先の輝きが何もなかったことにされる悲しみは大きいんだ。
わたしを助けてくれる少女漫画のヒーローみたいな人に恋して、彼と会うと幸せな気分になれた。でも彼の顔を見ると、無感情の両親の顔を思い出して、凄く辛くなった。
わたしを手伝ってくれるクールなヒロインみたいな人に憧れて、彼女と会うと思わず見惚れてた。でも彼女の顔を見ると、冷めた両親の瞳を思い出して、凄く虚しくなる。
「もういっそ捨ててくれませんか」
ある日、言ってみた。父親も母親も、1回ずつぶった。
馬鹿なことを言っている自覚はあったし、捨てられた子の結末だって分かっている。眩しすぎる2人から離れたかった。それだって辛くて悲しい事だけれど、その時のわたしが描く未来の幸せは、捨てられた先にか無かったから。
笑わない母親に話さない父親に、初めて憤った。わたしの設定なんて知ってる。比べられっ子だ。周りの誰かから見ると劣っていて、平均より少し下くらいを維持するような、何にもない子。でも神様は間違った。わたしに絵を与えてしまった。だからわたしは、丁寧に自分のキャラを追うなんて出来なくなっちゃった。
爆発した。
「お前は――」
「何⁉どうせ、何バカなこと言ってんだとか言うんでしょ⁉自分だって分かってる、とっくに知ってるよ!生きてる価値とかないよね!医者のアンタと看護師のアンタにはそりゃ劣るし、天才的な2人にだって劣るよ!わたしもわたしのこと嫌いだもん!碌なこと出来ないのに、何でもチャレンジしてすぐ失敗するの。アンタたちに沢山迷惑かけたよ!でも、それでも、生きてるんだよ!アンタたちが生んだ子供は、ちょっと下手くそなわたしだったんだよ!それくらい分かってるでしょ⁉分かってよ!わたしは分かってるよ!!」
威嚇するように顔を炎色に染めて、わたしは口を荒げて全力で叫んだ。わたしの気迫に押されている母親とは裏腹に、父親は冷静で、近所迷惑になるからとわたしの口を塞ごうとした。
絶対に伝えたかった。この人たちの信念を変えなくちゃ、自分はいつまでも比べられっ子だ。
「無理だよ!!無理に決まってんじゃん!知ってる、分かってる、だからもうほっといてよ!すぐに比べられる運命なら、最初っから教えてよ!!そんな苦労キャラ、全うできるとでも思ってんの⁉だってわたし、劣ってますから!みんなより出来ない子なんだよ!努力したって失敗して終わるって、もう分かったんだよ!わたしだって、これ以上、自分を嫌いになりたくないんだよ。図々しく生かせてもらってる自覚はあるよ?でも、どんな子だって愛す覚悟がない親の元には生まれたくなかったよっ!」
「瀬凛!」
「五月蠅い!」
報われない運命だってもう分かったの。諦めた。でも、今の言葉は、諦められないわたしのもの。諦めきれないんじゃない、本能的に諦められないわたしのもの。
比べられっ子は好きじゃなかった。それだけの話。それなら無理矢理、わたしを比べられっ子から引きずり出せばいい。レッテルを剥がせばいい。
良い感じの子とか、そんな微妙な子は嫌だ。わたしは、わたしを生きたいから。他の誰も基準に出来ないような人間になりたいから。
父親の大きな手から逃げ出して、風呂場で叫んだ。
「嫌いになっちゃった!アンタも、わたしも!無理だよっ!!アンタたちのせいで嫌いになっちゃったことくらい、責任取ってよね!比べることが正義じゃないんだよっ!比べるんじゃなくて、わたしを見るんだよっ!誰が基準でもないよ!わたしの基準はわたしだよ!アンタでも、アンタでも、南緒でも、瞬でもなくて……わたしでしょっ!!」
昔から知ってるよ。わたしの大好きなものも、頑張った結果も、誰も見てないってこと。南緒と瞬はわたしをよく見てくれたけど、比べられっ子ってことは知らない。頼るべき親が自分を比べたら、不安定すぎて崩れちゃうのも当たり前なんだよ。
血の気の引いた母親が、思わず包丁を持ち出して、風呂場に駆けだして来た。死ぬ覚悟を決めた。言いたいことは言ったし、わたしが死んでも何かが無くなることはない。心残りは、今書いてる絵、中心の人が描きかけ……。
「……!!」
ジャ――、と音がした。スースーする。風呂の鏡を見た。母親の手元が狂ったようで、美容室に行ったことがないわたしの長かった髪の毛が、ばっさりと落ちていた。
わたしが髪の毛をひたすらに見つめていると、母親が叫んだ。
「比べなくちゃ分からないでしょう!?」
「……は」
話にならないというか、伝わらなかった虚無感が大きすぎて、へたってしまった。が、母親はその後、一生心に残る言葉を放った。
ガチャンと包丁を落として、母親は膝に顔をうずめるように屈んで、泣き声で言った。
「大人になりきれなかった大人も、子供ではいられないのよ……」
ひっと息を呑んだ。後ろの方で父親が、眉間を押さえて口を引き結んでいた。手のせいで顔があまり見えないが、ところどころから見える表情が苦痛に見えた。
母親もそうだったんだ。わたしみたいな子で、成長できなかった類の人間なんだ。比べられてきたんだ。でも、比べなくちゃ分からない脳味噌に育ってしまったから、過去の辛い記憶をわたしに共有させることで、押し付けてしまうことで、苦しみながらも溜飲を下げていたんだ。
憎めなかった。その気持ちが分かってしまうから。これも仕組まれた母親の育て方だと分かっても、母親の頭と背中をゆっくり撫でたかった。それが自己満足でも、周りが見えなくなっても、この子供を立たせたかった。
そっか。わたしのお母さんは、そう言う人なんだ。
簡単に言えば、わたしも比べていたんだ。だから母親も、完璧には溜飲を下げられずに、永遠にわたしを比べていたんだ。
比べ合っていたんだ。
母親は、わたしと誰かを。わたしは、母親と普通のお母さんと。文面で見れば、わたしの方が高望みだ。いや、それは関係ないのかもしれない。普通っていう基準に、わたしも固執していた。わたしも母親も、それぞれの基準に甘えていたから。
わたしの方が高望みでも、それがわたしの最低限の望みだった。量の話じゃない、心の話だ。何もない人に比べればわたしは恵まれているかもしれない。それでもわたしは辛かった。心も劣っているから、「辛い」の大きさも他の人より大きめだったのかもしれない。
ううん、心の痛みを比べなくていい。嘆いていたのはわたしだけじゃない。それぞれの「痛い」も「辛い」も、比べられる対象がなかったんだ。
「……お母さんの比べられっ子。苦しみ、分かってるくせに」
励ましたいのに、やっぱり口から出てくるのは尖った言葉だ。彼女の心は傷つけられている。それでも彼女は、わたしの存在で必死に心を偽造していたんだ。でも言葉は、偽造の心では対応できずに、本当の心に響いてしまう。
わたしは、ゆっくり、母親の、わたしの、母親の頭に、手を置いて、撫でた。
「……お疲れ様でした」
母親が顔をあげた。涙で濡れそぼった瞳を撫でることは出来なくとも、心を撫でてあげることはできる。わたしは、この人の、娘なんだ。
「瀬凛も……お疲れ様」
母親から、初めてハグされた。体温って、こんなに温かいんだ。柔らかく包み込まれるのは、とても幸せだった。短くなった髪の毛を、母親は慣れない手つきで、ゆっくり、そっと撫でていく。くすぐったい感触に、わたしは思わず笑みを漏らす。
右側から、更に体温を感じた。不思議に思って見ると、当然のように父親が小さいわたしと小さい母親を抱いていた。慣れていなさを感じさせない「パパ」の手つきで、わたしと母親の背中を撫でてくれた。
正直、本当に嬉しかった。ほっといてとか捨てられたいとか、本当の思い。でもちゃんと、大好きだったんだって。
母さんに言ってるよ。母さん。実はちゃんと、家族が好きだったんでしょ。
父さんに言ってるよ。父さん。実はちゃんと、家族が好きだったんでしょ。
わたしに言ってるよ。わたし。実はちゃんと、家族が好きだったんでしょ。
家族の完成形がこれだ、なんて言えないし、もっと歪んだ家族だってあるのは分かってる。だって現に、さっきのさっきまで、わたしの家族には表情も色も何もなかった。でも、遠慮とかいらないと思うから、みんな辛いことも言うんだよ。きっとね。多分ね?
そしたら、表情も色も出来てくる。それが悲しい顔か楽しい色かは分からないけれど、その先にあるのは、自分を変えてくれると思う。
「父さんも比べられっ子?」
「……あの感情を瀬凛も知ったなら、瀬凛は父さんや母さんみたいにならないで欲しい。成長して欲しい」
押しつけでも、比べでもなかった。希望だった。良いよ、と言った。そんなこと言われちゃ、とんでもなく良い人間になるよ、わたし。
比べられるのには慣れたけど、心は慣れない。それも分かってる。大体知ってる。だから、自分より低い人より自分は報われてるんだ、なんて無理しないで。自分より高い人のことが嫌いになりそう、なら嫌いになっていいの。
比べられっ子は変われるよ。悔しい想いをしても悔しくなくても、人間なんだもん、変われるよ。わたしが証明します。辛くなったら頼っていいんだよ。辛くなくても頼っていいんだよ。良い頼り方なら、いつだって頼っていいんだよ。
「わたし、自分を認めるね。父さんも母さんも認めてあげるね。大丈夫、わたし、人間だから」
わたしは、人を信じることを、覚えてしまった。
〈あはは、面白いことを言ってくれるね。違うよ、違う。ぜぇんぶ、違う。〉