〈6〉刺繍と宝石とシルク
今は主のいない玉座の間にて、紫色の長い絨毯の両脇に並ぶいくつかの椅子に貴族たちが鎮座している。場には不自然な影が落ちており、彼らの顔ははっきりとは見えない。
「――連中の様子はどうだ?」
「先日、ヴォクス卿がファルギール伯爵家に何か運び入れたきり大きな動きはないようだ」
「一体何を?」
「運んだ物は不明だが、巨大な鍋を使っていた、とか」
「鍋? まさか我々の目を盗んで王太子を移したのではなかろうな?」
「それはありえない。王太子は今も村で農家の真似事をしていらっしゃる」
「逆に考えよう。空の鍋を持っていって食料を無心したのだよ」
「ふむ、たしかにこの頃はまるでリスにでもなったかのように地面に這いつくばって食料を探していたからな」
「鶏はまだ減っていないが畑は食べ尽くしたのだ、仕方なかろう」
「しかし、そこまで追い詰められていながらなぜあの女を引き入れたのだ? 食い扶持が増えるだけではないか」
貴族たちはその問に軽率には答えなかった。
「女の素性を調べなければなるまい」
「すぐに調べるのだ。年齢、髪の色、身長。人相書きを一枚作ればよい。手がかりさえあれば、あのお方のお力を借りられる」
一同は不気味な沈黙によって同意を示した。
*
村での暮らしは快適で健康的だ。
朝は鶏の声で起き、時間に追われることなく身支度をし、爽やで気持ちのいい陽の光を浴びるために外に出て軽く体操をする。
朝食の準備は一瞬だ。三人でのんびり食べた後、鶏の世話や洗濯などの家事に付き合う。手回し洗濯機みたいな道具をつくったので作業は楽だ。
午前中のうちに家事を終えたら、昼は林の散策に出かける。マリュスが植物や小動物の知識を披露してくれるのを聞くのは楽しい。
でもアラインさんには散策の時間に仕事があった。村の周囲の見回りだ。
林をひととおり見終えて村へ出てきた時、アラインさんがわたしたちを後ろから呼び止めた。
「今、向こうから見ている者がいました」
真似して池の対岸を見てもわたしには何も見つけられなかった。
和やかだった雰囲気が一瞬にして緊張してしまう。ちょっと懐かしいほどの空気だ。
「どんな人だった?」
「使用人の格好をしていました。こちらが見つけると離宮の方に逃げました」
「……やっぱりあそこを使っているのは僕たち側の人じゃないんだね。でなきゃ僕たちから姿を隠したりしないもの」
マリュスが小さな両拳を握る。
「もう閉じこもってるわけにはいかないみたいだ。ミチルのこともあるし」
「え、わたし?」
話が意外にもこっちに向かったので驚いたが、二人はもう覚悟を決めた表情をしていた。
どうやらのんびりする日々はおしまいみたいだ。
家に戻って居間のテーブルに着くと二人は自分たちのことを話し始めた。
「大体の事情はもう察してくれていると思うが、実はマリュス様は王太子だ。だが王子はもうひとりいて、そちらに有力な支持者が複数ついているせいで宮廷で継承権を巡る対立が起こっている。殿下がここへ逃れたのはその争いを落ち着かせるためだった。だが、結果はこの状況だ」
「……誰も助けに来なかったんだよね」
アラインさんは頷いた。
王太子は未来の王様だ。なのに宮殿の人たちはマリュスを擁護しない。もうひとりの王子の方が王にふさわしいと思っているのだ。
「ならどうしてマリュスは王太子になれたの?」
「王太子になれるのは王の長男と決められている。マリュス様は王家の長男で正妃の子だったから立太子なさった。だが……」
少し詰まった隙を突くようにマリュスが口を開く。
「もうひとりの王子は母違いの弟なんだ。今の王妃様は僕の母上が亡くなられた後に来られた方だ」
「そうなの……マリュス」
複雑な話だ。どんな言葉をかけるべきか分からない。
マリュスはしっかりした態度で首を横に振った。
「二歳の時のことだからほとんど覚えてないんだ。だから大丈夫」
「……」
本当に大丈夫だったらそんな痛々しいほど寂しい顔はしないよ。
アラインさんが話を引き継ぐ。
「なぜ王子を巡って派閥が二分したかと言うと、発端は現王妃のブランシュ様にある。ブランシュ様の生家は権威ある大司教家だ。大司教家は国内の教会を使って情報を集めるのが得意な家で、その能力のために陛下はブランシュ様と再婚なさったと言っても過言ではない。情報は国の面舵を左右する重要なものだから再婚の理由としては妥当だった。当時……八年前は、周辺の国々がきな臭かったから、アストレアは何よりも情報を欲していたのだ」
「戦争が起こりそうだったってこと?」
「そうだ。それに飢饉も迫っていた。冷夏が何年も続いたせいでどの国も作物に深刻な被害を被っていた。アストレアもあのままでは他の国々と同じ運命を辿っていただろう」
「でも王妃陛下がそれを救ってくれたんだよ。教会でアストレアの作物を改良して、その種を配ってくれたから農家も僕たちも助かったんだ」
そう聞くと不穏なところはないようだけれど。
「陛下の再婚から一年後、もうひとりの王子セドリック様がお生まれになった。宮殿が割れたのはそれからだ。ブランシュ様は修道へお戻りになる代わりにセドリック様の後ろ盾となって陛下をお助けし続けた。セドリック様を通して国内のあらゆる情報を奏上したのだ。その結果、陛下はセドリック様を誰よりも重んじるようになってしまった。陛下に追従する貴族たちも同様だ。セドリック様は自分が喋らされている内容を理解すらしていないはずなのに」
と、そこまで言ってアラインさんは顔を上げる。
「マリュス様は勉学も剣術においても優秀な王子だ。家柄一つで差をつけられていいお方では決して」
「違うよ」
マリュスは俯いていた。
「僕は王の息子としては平凡で、役にも立たないから駄目だったんだ」
「殿下……なんてことを! 自分のことを悪く言うのは私が許しませんよ!」
「悪くなんて言ってない。本当のことを言ったんだ」
まさに子どもの屁理屈だ。
でも歯がゆさと無力感がひしひしと伝わってくる。身に覚えのある感情が。
わたしは怖い顔をして子どものために怒っているアラインさんを止めた。
「マリュス。人の価値は役に立つかどうかじゃないよ。そもそも自分の価値なんて他人が決めることじゃないし、そのことで自分を責めたり責められたりする筋合いもないよ」
「……そんなことを言われても。それこそ他人は他人の悩みなんて分からないのに……」
「分かるよ。他人は意外と自分と同じことを感じてるものなんだよ。同じ経験をしてなくても、同じものを感じ取ってるんだよ。だからわたしも分かるよ」
「世界が違うじゃない」
「わたしは前は価値をはかられながら生きてたんだよ。だから結局こうなったの」
わたしは笑ってみせた。アラインさんがまたマリュスへ向く。
「殿下はご自分にできることをすればよいのです。貴方のご帰還を信じている者はまだいます」
マリュスは長い間黙っていたが、とうとう顔を上げる。
「……うん。じゃあ、僕についてきてくれる?」
「勿論です」
二人がこっちを見る。
「え、わたしも?」
要するに、神子が現れたということは国に危機が迫っているという意味だ。マリュスはそれを知らせるという口実で宮殿に行くつもりらしい。
なのでアラインさんはもちろん侍従として、そしてわたしは当事者の神子としてついていくことになった。
で、今は宮殿に上がるための衣装を用意しているところだ。
「できましたー?」
「うん」
ドアが開いて二人が姿を現した。
「わ……」
宮殿に上がるためには相応の衣装が必要だ。特に王太子とその侍従なら特別美しいものを着なきゃいけない。服の格が高くないと話を聞いてくれない人もいるしね。
服をつくるのはもちろんわたし、だけどこの国の貴族や王族の衣装がどんなものか知らないから、二人の服や話を参考にした。
マリュスは柔らかいシャツにジャボをつけて、ズボンとおそろいの豪華なコートを着ている。シルクでできていて、至るところで小粒の宝石が輝く。コートは襟や背中に刺繍が施されており背面も飽きないデザインだ。ブーツは膝下まであってちょっと踵が高い。
アラインさんは剣を提げるからそれに見合う衣装にした。参考にしたのは騎士の礼服だ。裾が太ももを隠すくらい長い立襟のコートと拍車がついたブーツの組み合わせは近代的な軍服に親しいものがある。その上からケープを羽織って片肩だけ覆うのはわたしのアイデアだ。色は緊張感のある黒、ケープの裏地は暗めの青にした。
衣装のデザインには二人の意見をたくさん取り入れた。こういう衣装は国の様式に沿ってなきゃいけないから。わたしは袖やブーツの縁の角度など細かいところをちょっと工夫したくらいだ。でも、二人とも我ながら息を呑む美しさだと思う。
「威圧感がありすぎないだろうか」
「マリュスが可愛い分、アラインさんがバランス取るんですよ」
「そうか……?」
貸し出した姿見の前で黒い騎士がちょっと不安そうに全身を見回す。その背後でお人形みたいな王太子がぷっと膨れた。
「可愛いんじゃだめだ。説得力がなくなっちゃう」
「あぁ大丈夫。アラインさんと並んだら可愛いってだけで、絶対評価は立派な王太子そのものだから!」
「……よく分からないけど大丈夫ならいいや」
金髪金目の美少年の大人びた姿は目に優しい。やっぱり女装よりこっちの方が似合ってるね。
それにしても……。
「アラインさんの髪、地毛だったんですね」
「ああ。長い方がまとめやすいからな」
背中までさらさら流れている髪を手で一つにまとめてみながら言う。美形だからちょっと鋭さが強調されるだけでむしろ綺麗だ。まとめきれなかった長い前髪が横顔に垂れるのが色っぽい。
「ミチルはどんなドレスを着るんだ?」
「……あ、全然考えてなかった」
二人の衣装に夢中だったので何もアイデアがない。アラインさんはふっと笑った。
「何を着ても似合うだろうから、好きなように作ったらいい。国の様式はあまり気にするな」
「は、はい」
今は動きやすいように普通のブラウスとスカートという格好だ。自分でいうのも何だけど、銀髪美少女だから本当になんでも似合う。
でも他人に言われ慣れてないから照れるんだよね。
気を紛らわせるつもりでドレスについて考えているとマリュスが横からちょいちょいと袖を引っ張ってきた。
「多分宮殿に行ったらミチルが一番注目されると思う。苦手じゃない?」
「苦手ではないけど、得意でもないよ」
「話は僕がするから横にいてくれればいいよ。神子様だから礼とかも僕と同じようにすればいいし」
「分かった」
宮殿へ乗り込むのは明日に決めている。それまでに気持ちを整えて、着るものも決めておかなきゃ。
何もかもがうまくいくといいんだけど。